ショッピングモールの袋を片手に階段を登り、無機質なフォントで書かれた部屋番号が目につくドアを開けば、なんだかこじんまりとした玄関が出迎えてくれる。飾りと呼べるものがないからだろうか、どこか寂しさと、家主に対する納得がするりと喉元を過ぎていく。
家主── この場合はトレーナーが先んじて部屋に上がり、狭い部屋だけど、と柔らかい笑みを見せながらこちらに上がるよう促し、俺もまたその言葉に甘えて靴を脱ぎ、フローリングに足裏の熱を移す。
「ゲームとかは無いけど...... まあ、適当にくつろいでてよ」
おう、と返事を返してソファへ腰を落とした。
周りを見回せば本棚、テレビ、カレンダー...... 必要最低限の物が目に映る一方で趣味の何かはどこにも見えず、同じ成人男性である兄の部屋と頭の中で比べても、まるで一致点が見つからない。
帰り際、ショッピングモールで買って来た着替え一式を袋ごと放り投げ、天を仰ぐと同時に入ってくる人工の光を手で遮った。
思い出すのはタキオンの言葉。
「君は私の走りを見て、どう思った?」
勝ち逃げ、なんて思わない。
怪我の状態やそれで今後をどうするかなんて、アイツ本人にしかわからないことだ。けれど、それでもまだ一緒に走りたかったと思うのは欲張りか?
高め合う相手として何度も何度も走りたいと思う事は──
悔しさが滲み、脳へ歯を食いしばる音が響く。
また苛立ちが心を包もうとした時、甘い匂いが鼻をくすぐった。指の間から目の前にある机を見ればレモネード入りのマグカップが置かれていて、隣にはもう一つのマグカップに口を付ける相棒が座っている。
本棚から取り出したであろう本のページを捲るその横顔は、こちらの感情を深掘りしようなどという意思はない。あれだけデッカく発表された会見だ、知らない筈はないが、相棒は頑なにその話題を出そうとはしない。
「ご飯何がいい?」
「......肉」
「オッケー!」
レモネードに口を付け、引き戻される感覚に背筋が緩む。
喪失という非日常から、ソファに座って晩飯の話をするという日常に戻っていく。荒波になっていた心が凪いでいって心音が落ち着き、相棒の体から感じる熱が尻尾の先から伝わってくる。
ウマ娘は尻尾の先まで骨が通ってるわけではない。故に感覚は無いが、それでも伝わってくる、と言えるのだ。
目を遮っていた手を退けて視界が広くなれば、テレビの前に置かれた写真立てに今度は意識が向く。
相当色褪せた古い写真。
木製のフレームに閉じ込められたソレには、大人2人と男子2人、そしてウマ娘が1人レンズに向けて笑顔を送っている。
立ち上がって他の写真も見てみるが、ウマ娘が写っているのはこの写真だけだ。首を傾げていれば、懐かしそうに目を細めた相棒がこちらからその写真を取り、その顔から笑顔を消した。
深い影。深淵とも言っていいその表情。
つい、覗こうとする。
「このウマ娘って?」
「妹。あんまり好きじゃないかな」
「はぁ?」
その答えに少しだけ納得が行かず、思わず疑問符の声を上げてしまう。
自分にも妹がいるが、この写真と同じように無邪気な笑顔を見せて背中を追ってくる姿なんて、それこそ犯罪級の可愛らしさだ。それこそ泣かせる奴がいたらぶっ潰したくなるほどに。
「妹っつったら可愛いだろー?」
「はは......」
うりうり、と肘で相棒の脇腹をいじってやると、冷たい微笑みが溢れる。
──そんなに?
「何があったんだよ......?」
「まあ── いろいろと」
それ以上は話してくれなかった。
風呂に入り、メシを食って、相棒とアイスを食いながらお笑い番組を見ている間もどこかに引っかかっで仕方がなかった。
相棒だなんて言ってても、知らないことばかりだと、彼の匂いが染みついたベッドの上で目を閉じながら明日を待つ。
タキオンも、相棒も、自分の常識では測れない。
少しだけ自信が無くなる感覚を振り切るように意識を落とした。
「皐月賞におけるジャングルポケットの走りは、次走の東京優駿に向けて希望を持たせるもので──」
ポッケが寝た深夜、音量を小さくしたテレビをラジオ代わりにつけながら、トレセンに提出するレポートを進める。
レポートといっても学生時代とおおよそは変わらない。担当が出走したレースに対する感想みたいなものと、今後のトレーニングや出走予定などの組み立てを報告するだけ。いつもなら1時間2時間あれば完成するものであるが、今日に限っては進みが遅い。
原因は写真── 妹のこと。
倒していた写真立てを左手に持ち、まだ無邪気に笑えていた頃を思い出す。
──よく後ろをついてくる子だった。
散歩に行った時も、トイレも、迷子になった時だって。
頼られるのは嬉しかったし、尊敬する兄さんのようになろうと意識して振る舞っていたつもりだ。それが良かったのかは分からないが、実際かなり好かれていたと思う。
ズレたのは何処だったか。
「わたしもバレーやるー!」
一度瞬きをして思い出した。
同級生に誘われて始めたバレーの練習をしていた時、妹が飛び入り参加してきて。
仕方ないな、と一緒に練習を始めて、心臓が止まってしまうほどにプライドにヒビが入ったことは今でも鮮明に思い出せて、胸の奥の方が苦しい。
ウマ娘の身体機能は人の数倍は強い。
だから── たとえ初心者であっても、経験者の人間を軽く飛び越すジャンプも、吹き飛ばす様なスパイクも標準装備だったのだ。
追い越される。
初心者に、経験者で、兄の自分が。
それからは努力の毎日だ。
勉強を疎かにする事なく毎日をバレーの練習に忙殺され、たとえ腕にアザが出来ても、レシーブをミスして鼻血を出しても努力をし続ける。
強いクラブチームに入って、貪欲にコーチから全てを吸収して、ただひたすら強くあろうと。
「一位になるのが俺の夢だから、お前に託す」
そして、キャプテンの位を手に入れた。
怪我をした先輩の代わりという形であったが、夢を託され、立場も任された以上は負ける事など許されない。チームメンバーも奮起していたのだろう、瞬く間に勝ち進み、リーグ戦の決勝──
「よろしくね! お兄ちゃん!」
アイツは居た。
敵チームにたった1人のウマ娘として。
理屈だけなら納得できた、ウマ娘専用のバレーチームがあるのは中学生からで、小学生までは男子との混合という形になるのは知っていたから。
でも納得できなかった理由は、何故地元のチームではなく、隣町のチームに入ったのか。
「同じチームじゃお兄ちゃんに勝てないもん!」
彼女は俺の努力とキャプテンの夢を砕いた後、余裕そうな笑顔でそう言った。
どこまでもついてくる。小学生の頃も、プロになってからも、俺の努力と託された夢を砕くためだけについてくる。
「だから俺は逃げたんだ」
テレビを見れば、やはりやっているのは来月に控えた東京優駿、日本ダービーの特集。
有名なお笑い芸人が『ダービーですねぇ!』と注目のウマ娘を紹介する。アグネスタキオンが無期限休止である中、注目はクロフネ、ダンツフレーム、そしてジャングルポケットだと。
レースの話もそこそこに画面が切り替わり、別のスポーツの話題になる。
画面に映ったのは妹── ウマ娘バレー2部リーグ、フライハイヤー。
1部リーグに行ける実力を持ちながら何故2部に固執するのかというインタビュアーの問いに、彼女は恥ずかしげもなく答える。
「ずっと待っていますから」
明確に向けられた言葉のナイフに痛みを感じれば、持っていた写真立てが握りつぶされていることに気づく。
くしゃくしゃになった写真ごとゴミ箱に投げ捨て、キッチンで手を洗い何事もなかったようにテレビを消した。手のひらは度重なるスパイクの結果鉄のようになり、ハイタッチしたポッケが痛がるほど。
最終直線で抜き去られて、どれだけのウマ娘が抜き返せるだろうか。少なくとも俺は無理だ。
もう2度とそこに立つ事はない。
翌日、朝練に向けて早めに出て行ったポッケから少し遅れ、家を出る。
完全な寝不足だ。
3時間程度しか寝れなかった目を擦りながら睡眠時間の対価として完成させたレポートを提出し、タナベトレーナーのところに向かおうとすれば、学園の廊下をふらふらと歩く見覚えのある姿。
隣に駆け寄って歩けば、タキオンのトレーナーであるまどかが少し遅れてこちらに反応する。
「あ...... おはよ〜」
「おはよう、レポート出した?」
「んー、まだ!」
話題として出したのは自分だが、正味レポートなどどうでも良かった。
今1番気を張るべきなのはまどかの状態。
目の下にはクッキリとした隈が見え、泣いたのだろうか、眼球は少し赤く充血している。当然寝ておらず、その足取りからは絶え間ない不安がこちらにも流れ込んでくる。
さっさと帰って寝て休め、と状態だけを見れば言いたい。しかし、それが本当に彼女の心を癒せる事なのかと言われれば、首を傾げざるを得ないのだ。
悲しい記憶を消せるのは忘却だけだから。
「あ、そうだ!」
本人を置いてけぼりにしてそんな事を考えていれば、何か思い出した様子の声が耳をつんざき、ピンと背筋が綺麗に伸びる。それはもう見事なまでの『気をつけ!』と言ったところだ。
その姿に対して悪いことをしたな、と思ったのか、ごめんごめんと軽く謝罪を口にしながら小さな何かを手渡される。
塩分チャージのタブレット。塩レモン味。
......よくもまあ、こんな物を大人の謝罪に渡そうと思うものだ。まあ俺は好きなので許すが。
「ダービー、あの子は出るでしょ? 見に行くよ」
あの子とは、まあポッケのことか。
応援してもらえるならそれ以上のことはない。タブレットを開けて口に含み、一回頷いて親指を立てる。
「それじゃあ、頑張ってね!」
理科準備室へ繋がる分かれ道で彼女は手を振り、元気そうな振る舞いを残したままの背中を見送る。彼女はタキオンとの契約を切らないのだろう。
優しい人だから── きっと、自分の手で引導を渡せない。
タガノテイオーと共にトレセンを辞めた松田さんみたく思い切りが良いわけではなく、フジキセキの怪我でトレーナー業から身を引いた昔のタナベトレーナーの様に、絶望しているわけでもない。
彼女も俺と同じ新人なのだ。
思わずその背中を呼び止める。
「まどか!」
不思議そうに振り返った彼女に小さく手を振り、まるで上手く出来ていない作り物の笑顔を送る。
「何か頼みたいことがあったら、遠慮なく言えよ!」
俺に出来るのは、これぐらいだ。
──朝が過ぎ、昼を超え、今日も4人の練習を見る。
並走を見て気づいたのはシマの成長だ。
以前は練習開始からさしたる時間も置かずにへばっていたというのに、今日は走り始めてから落ち着いたペースとそこそこのタイムで体力を持続させている。
周りに流されないこと、と言うだけなら楽だが、それを実現させるのはなかなか難しい。モノに出来ているシマは今まさに急成長の途中、と言っていいだろう。
「シマ、次で切り上げよう!」
「はーい!」
元気のいい返事と共に、彼女が最後の追い込みをかける。
力の伝え方、地面の蹴り方が上手いのか、渾身の力で踏み込みながらもターフを抉ることなく、しかししっかりと速度を乗せて直線を駆け抜けた。
ニコニコと笑顔で戻ってきたシマの顔をわしゃわしゃとタオルで拭き、お疲れ様と肩を叩いて椅子に座らせた。
足に異常がないか確認する中で、割と意外だったのは彼女の肉体だ。小さく華奢な印象の姿からは見えないがっしりとした筋肉が足だけではなく、体全体に詰まっている。
これまで彼女の見せた異様なスタミナの少なさは、おそらくこの筋肉に始まる肉体のコントロールが下手だった事が起因。ただ感覚で走るのではなく、多少教えた理論を彼女なりに理解して反映させた結果、今日のパフォーマンスがある、というわけか。
そして新たな気づきとして、彼女の足の薄さに意識が向く。
「どうしたんすか、トレーナーさん?」
「......そのうちダート走ってみようか、結構向いてると思うよ」
豆鉄砲をくらったような表情を見せるシマに対して足のチェックを切り上げ、屈んでいた身体を縦に伸ばしてコースの方を見る。
何もエビデンスがないわけじゃない、シマの足裏は広く薄くグリップを生みやすい。ダートにおいてはそのグリップ力と蹴り込む力強さが勝負の鍵になりうる訳で、そこから考えると彼女の適性はダートに偏重しているという結論。
まあ、本人が走りたいかどうかは別だが。
話を戻してコースの方を見れば、ジャングルポケットが最後まで残って走り続けている。
一月後に待ち構える大舞台があることを考えるとこの追い込みは理解できるが、その走りはまるで精細を欠いたモノになってしまっていた。ぜぇはぁと呼吸を整えられず、ペースなんて存在しないようなタイムのばらつきと足元の不安定さ。
タキオンによる実質的な引退宣言がそこに影響を与えていることは想像に難くないが、こんな状態で練習をする意味はないし、怪我のリスクだってある。
それはタナベトレーナーも理解していて、眉間に皺を寄せながらふらつくポッケを呼び止めた。
「ここまでじゃ、ポッケ。今日はもう休め」
「......こんなもんじゃ、ねぇ」
「何?」
膝に手をついて息を整える彼女に水を差し出すが、ポッケはそれを受け取ろうとはしない── 否、視界に入ってすらいない。
オーバーワークになる程彼女が追い込むその視線の先にあるのは、きっと皐月賞のタキオン。もう存在しないあの走りを幻に見て、自分で自分を追い詰めてしまっているその姿は見ているだけで苦しい。
取り巻きの3人に連れられてタナベトレーナーの家に着いた時には、すっかり夕方の陽が全てを照らしていた。
「......」
どうすればポッケを立ち直らせられるのか。
そればかりをずっと考えて、考えたその先に結論は存在しない。
当然だろう、俺はポッケのように置いて行かれた側ではなく、
記憶の中にある激痛、チームメイトの表情、そして
左肘の手術跡がその事実を残酷に突きつけてきて、何にも出来ない自分の無力が己の首を締め付けるような感覚がため息を誘発した。
ふと畳の軋む音に振り返れば、ポッケが玄関に座り、シューズに足を入れて靴紐を結んでいた。
──まだ走ろうというのか?
「......どけよ」
「無理だ」
考えるよりも先に玄関へ立ち塞がる。
これ以上やればケガの可能性はグンと上がる。背筋に走る悪寒がそれを強く示していて、俺はなんとしても彼女を止めなければならなかった。
こちらを押し除けようとする手が胸に触れるより先に左手で掴む。
「──君の足は、もう君1人だけのものじゃない。
タナベトレーナーの夢、シマ達の憧れ、タガノから託された思いが詰まってるだろ。それをただがむしゃらに痛めつけて壊すなんて俺は許さない」
「うるせぇ......」
そうだ、許せない。
思いを託されているのに、折れて消えていくなんてのは──
そんな
「一蓮托生だってポッケは言った。俺は相棒として、君にこれ以上無理をさせるわけにはいかない!」
「うるせぇ!!」
腕を振り払われ、バランスを崩して倒れながら夕焼けに消えていくその背中を見送る。
心配そうに駆け寄ってきたシマに大丈夫とだけ伝え、玄関に座って俯いた。結局俺は無力だ、無理をするウマ娘を止められなければ、誰の助けにもなれない。
悔しさと情けなさから唇を噛む。
「勝ち逃げされたのなんて初めてだから、ポッケのやつどうすればいいのかわかんねーんだよ......」
ルーの語ったその言葉は間違っていないだろう。
ポッケはたとえ負けたとしても、負けというマイナスな事実をバネにして更なる成長へ繋げられるウマ娘だ。しかし、その成長をぶつけるはずの相手がいなくなったら?
負けという事実を解消できず、それは鬱屈した感情に変質し、どこへ向かうべきかを見失う。
ああ、つらい。
下を向いていれば、また玄関で靴を履く人が1人。
タナベトレーナーだ。
「どこへ......?」
「少し、な。
お前も休め、目の下に隈が出来ておる。まずは自分の心配をしろ」
その言葉に甘えて背中を畳につける。
俺は未熟だ。
眩しい日差しの中、河川敷に降りる階段に腰かけて背中を地面につけた。
走ろうとした。
走り続けなければ追いつけない、もうすでに走らない相手に勝つにはどうしたらいいのかわからなくて、走り続けなければいけなくて──
「ただがむしゃらに痛めつけて壊すなんて許さない」
でもそれは、相棒が言うように思いを投げ捨てるのと同じで。
自分の事が嫌いになりそうになった時、上からこちらを見下ろす誰かがいた。ナベさんではない、かと言って相棒でもない。眼鏡をかけたその男はああ、なるほどと言ってしゃがみ込んだ。
「春樹と喧嘩でもしたのかな?」
「誰だ?」
「知り合いだよ、知り合い」
知り合い、と名乗る男は相棒の名前を出すと笑って、遠く向こう側の河川敷を見る。
その目は優しい...... というよりも、達観した印象を纏っていた。
「おおよそアグネスタキオンがどうたら、って話だろう? それは気が気じゃないよね、春樹が自分の事のように考えるのも無理はないし」
「それ、どういう......」
「春樹がバレーを引退したのは利き腕を怪我したからだけどさ。その怪我、腑抜けた味方を奮起させるために、
ギョッとして、目が丸くなる。
皐月賞に見たタキオンの走り。その後ろ姿からは自分に何があっても全力で走り切る、という意思が見えた。その上でケガをしようとも。
相棒もまた同じように、壊れると理解しながら。
「後悔してると思うよ。だからこそ、壊れると分かってて走らせたくなかった、ってところなんじゃない? 違う?」
勝手な推測、そう断ずることも出来る。
知り合いだなんて言ってもさっきの会話は聞いていないはずだし、人の心なんて深いところまで理解できるわけがないから。
でも納得せざるを得なかった。そして、後悔が体を包む。自分が通したわがままが、深く刺さる。
歯を食いしばって噛み締めていれば、今度は少し太った人影が1人。ナベさんだ。
メガネの男を見るや否やサングラスの奥で目を丸くして、俺の隣に腰を下ろす。
「久しぶりじゃのう、
「ええ、タナベさん」
2人はどこか悲しげな様子だ。
一瞬の静寂を挟み、ナベさんの手が固く握り込まれた。
「ポッケよ、お前はまだ走ることができる。
......フジキセキを走らせてやることが出来なかった時、ワシはレースから去った。そこにいる広も、ワシも、本来ならばあやつの無念を抱えて踏ん張るべきじゃったのに」
太陽光を遮る指の隙間から見えたナベさんの後ろ姿は、どこか小さく見える。ケガがもたらした一生消えない後悔と絶望、それらがまだ、その背中には突き刺さっていた。
「だが、お前は違う。
タキオンがおらずとも、競い高め合うライバルが消えようとも、形はどうあれ今もターフに向かおうとしておる。
──ありがとうな、ポッケ。無理矢理にでも引っ張り出してくれた春樹と、真っ直ぐなお前が、この老人にもう一度夢を見させてくれた」
その言葉にハッとさせられた。
後悔と絶望、それらを引き抜いて前を向かせてくれてありがとうと言ったナベさんの思いが、スッと胸に染み込んでくるようで、震える唇を噛み締めながら体を起こした。
「じゃが無理はよせ。ワシと広が苦しんだ思いを、春樹にまでさせたくはないからな」
「春樹は弱いからさ。次に折れたら立ち直れるかわからない。
......だから、お願いね」
「ごめん、ナベさん、それとおっさん。俺......」
「お前ならなれる」
お前なら。
その言葉がずっしりと胸の奥に入ってきて、宙に浮いていた自分が、また地面に引き戻される感覚で満たされた。
頭を撫でるナベさんの手は硬くて暖かくて、フジキセキの触れ方によく似ている。きっとフジさんも、何度もこの手に撫でられ、励まされてきたのだろう。
「最強のウマ娘── ダービーウマ娘に」
そうだ。
俺は最強のウマ娘を目指して、相棒と一緒にダービーを勝つ。
立ち上がり、ナベさんの家に戻って── 何よりも先に、相棒へ頭を下げた。
「悪かった、相棒。
お前の思いを無碍にするトコだった」
「......いいよ。無事でいてくれれば、それでいい。
勝つぞ」
「おう」
もう一度、お互いの拳がぶつかり合う。
絶望はいらない、後悔は残さない。
最強は俺だ。
ジャングルポケットを見送った河川敷、ついぞ身分を明かさなかった春樹の兄、広は何年振りかの対面に、なんとも言えない感覚を抱いていた。
単純に何を話せばいいのかわからない、というところもあったが──
「サングラス、変えたんですね?」
「ああ」
少なからず負目がある。
フジキセキの専属医師として付き添っていながら、足の異常に気づかなかった事。それが結果的にタナベをレースから遠ざけた事実が、いまだに残り続けている。
同時に、未練もあった。
もしフジキセキの足が回復しつつあるなら、その時は──
家の近くまで出張ついでに立ち寄ったのは、それを言えたら、と思ったからである。結局勇気が出ずに伝えられそうにないが。
「ところで、春樹はちゃんとトレーナーやれてます?
あれで結構おっちょこちょいだから、心配で」
「優秀じゃよ。
未熟な面が無いわけではないが、人を率いる力はある。ゆくゆくはチームを作ることになるやもしれん。
今はワシやお前の無念を晴らす、としてダービーを夢に頑張っているよ」
「──そう、ですか」
一瞬言葉に詰まり、当たり障りのない返答が口から溢れた。
「そうか、まだ
......嫌われる覚悟、かぁ」
兄として、弟に何ができるか。
それを考える広の表情には、悲しげなものが見える。