日本ウマ娘トレーニングセンター学園。
通称トレセン学園の中に作られた練習用コースでは、今日も今日とてレースに向けて自身の足を磨こうと、ウマ娘達がウッドチップの敷き詰められたターフを蹴って前に進む。
そんな彼女らのトレーナーが声を上げて激励の言葉を投げる中で、1人のトレーナーがビデオカメラ片手に少し離れた場所からその様子を眺めていた。
「......よし」
トレーニングが終わる頃、そのトレーナーはビデオカメラの開いた部分を畳み、コースを後にする。向かう先はトレーナー室── ではなく、河川敷に建てられたトタンの家。
少し立て付けの悪い引き戸をガラガラと言わせて玄関を上がれば、そこに待っていたのは新聞を広げて茶を啜る初老の男性。
室内なのにサングラスをかけたその男性はちゃぶ台名前に座っていた体をずらし、戻ってきたトレーナーが座れる程度の隙間を開ける。
「撮って来ました、ナリタトップロードの練習風景。ちゃんと許可は取りましたよ、
「先生はやめんか、春樹」
先生と呼ばれた男性はトレーナーに就職した秋野春樹に向けて眉を顰めながら、呼び方を変えるように諌めた。
──フジキセキが怪我をしてから数年。
結果として、自分はトレーナーとしてトレセンに就職することができた。今はサブトレーナーとして、ベテランの下で教えを乞うているわけだ。
「わかりました、タナベ先生」
「変わっとらんじゃないか...... まあいい、お前はこの走りを見て、どう思った?」
タナベトレーナー。
フジキセキだけでなく、多くのウマ娘を担当したトレーナーで、その実力は高い。しかしフジキセキ以降はトレーナー業から離れていたところに、無理言って弟子入りさせてもらった形。
何度断られても頼み込んだ甲斐があったというもの。
はあ、と小さくため息を吐き、タナベ先生は本題に入ってビデオカメラの再生ボタンを押した。
画面に映るのはナリタトップロード。あの世紀末覇王、テイエムオペラオーを菊花賞で下した事のあるGⅠウマ娘で、新人である自分にも分かるほど洗練されたフォームには驚きを隠せない。
仕上がりはかなりのものだ。
「かなり仕上がっている、と思います。アドマイヤベガが一戦から退いたことを考えると、テイエムオペラオーと調子を上げてきているメイショウドトウとの三つ巴が展開されそうですね」
「ふむ、その見立てはおおよそ間違っておらんじゃろう」
「おおよそ、というと?」
地面を踏む音を掻き消すように、茶を啜る音が重なった。
「シニア級は見た目の仕上がりだけでは判断できん。経験上、大きく調子を崩さずとも勝ちきれない事もある」
「もしかしたら、があり得る年になるかもしれないと?」
タナベ先生は小さく頷いた。
確かに、勝負事は予想通りに行かないことが大半だ。トレーナーになる為の勉強の最中、何回もレースを見に行ったが...... 1番人気のウマが沈む姿は数えきれないほど。
バ場状態も運に左右される可能性がある以上、そこに対応できるようサポートするのもトレーナーの役目というわけか。またひとつ、学びを得た。
「まあ茶菓子でも食え」
「あ、いただきますね」
ひとまずビデオを止め、春の陽気を感じながら饅頭を手に取り、半分ほど齧る。濃い甘さが少し疲れた体に沁み、すぐにお茶で流し込みたくなる気分だ。
湯呑みを手に取ろうとしたその時──
「──ちわーっす!!!」
引き戸のガラスが割れんばかりの勢いで開けられ、耳を破裂させようかという声量が鼓膜を襲い、その一方で饅頭が喉に詰まりかける。
急いで茶を飲んで事なきを得たものの、危うく死にかけるところだった。
果たして誰がなんのためにこんな爆音を発したのかと思って玄関を見れば、そこにはどこかで見たようなウマ娘と、申し訳なさそうに苦笑いをしているフジキセキ。
制服を着ているあたり、トレセンから直にここまで来たのだろう。レース以外で彼女を見るのは初めてかもしれないと思いながら立ち上がり、タナベ先生と共に玄関へ出迎える。
「やあ、久しぶり、ナベさん」
「フジ...... どうしたんじゃ急に」
サングラス越しに見える目には焦りの色。
無理もない、元担当が引退したトレーナーのところに来るなど、想像つく方がおかしいだろう。
「急で申し訳ないんだけど、ナベさんに担当して欲しい子がいて──」
「ジャングルポケットっす!!」
キーン、と。
耳への大ダメージを受けながら、タナべ先生と向き合い、互いに目を丸くさせた。噂に聞いたことのある逆スカウトのようなものだろうか?
結局、あれよあれよという間にトレセンのコースまで移動し、唐突に現れたウマ娘── ジャングルポケットの走りを見ることになった。
「うぉぉぉぉぉお!!」
その走りは、一言で言うなら圧巻だ。
「フリーのチームにいたとはいえ、この末脚...... 何回か見てきた模擬レースでもいなかったですよ」
「確かにのう...... 加えて得意距離も中距離から長距離、その末脚を存分に活かせるわけじゃ」
荒削りではあるが素質は突出していて、強み弱みもハッキリとしている。良くも悪くもメリハリがある走りだが、順調に走れればGⅠどころか、世代最強バになることも夢では無いだろう。
トレーナーとして担当させて欲しい。そう思わせてくれるウマ娘だ。
「どうかなナベさん、と──」
「春樹。秋野春樹」
「......春樹トレーナー、無理して受けなくてもいいんだけれど」
「......わかった、契約しよう」
タナベ先生の目に光が宿る。
才能の原石を見てトレーナーとしての魂が蘇ったのか、それとも適正距離を見て夢の再演が頭をよぎったのか。どういう感情が渦巻いているのかはわからないが、ともかく前向きなことは確かだろう。
......さて、そうすると。
「そこの子達もこっち来なよー!」
「「「!!!」」」
──ジャングルポケットに感じていた既視感。
それは恐らく、数年前の弥生賞で見た最強宣言のウマ娘だ。そしてその周りには、3人のウマ娘がいて。
遠くから見ていたその3人に手招きをして、先生に提案する。
「どうですかね、彼女達とも契約を結ぶのは?」
「えっ、マジかよ! 良かったな、ルー、シマ、メイ!」
コースから戻ってきたジャングルポケットが既に確定したかのような喜びを見せる。しかし、先生は『待て待て』と少し焦りを含みながら喜ぼうとする4人を諌める。
「年寄りが復帰直後に4人はキツいわい」
「その為に自分がいるんでしょう?」
「しかしなぁ......」
「任せてください、これでもプロの時は教え上手でしたから」
正直、何か特別な理由があって3人を先生の担当にしようと思った、とかは無い。ルー、メイと呼ばれたウマ娘は足の引き締まり方が良いと思ったし、シマも中央トレセンに入れるくらいだから素質はあるだろう。
そして何より── と、考えたところでタナベ先生が結論を出した。
「わかった。だが、仕事が増える覚悟はしておけ?」
「望むところです、先生」
先生と微笑み合い、後ろを見てみれば嬉しそうな3人組とジャングルポケット。トレセンに来たウマ娘がつまづきがちなのは担当トレーナーをどうするのか、というところ。
ベテラントレーナーは基本埋まっていて、新人や中堅トレーナーでもその指導能力はピンキリだ。
その中でタナベ先生に担当してもらえたことはかなりの安心感だろう。
「やったっすポッケさ〜ん!」
「おう! フジさんが紹介してくれたトレーナーなんだ、顔潰すなよ!」
「はい!」
嬉しそうだな、なんて4人を見ながら思っていると、不意に背後から肩を叩かれる。
振り返る間もなく肩を叩いた本人は耳飾りを揺らしながら隣に来て、少し陰った顔で端的に言葉を紡いだ。
「
「地方のトレセンで働いてるけど、元気は無いかな、ずっと。やる気はあるみたいだけどね」
兄が地方に行ったのは、自分がトレーナーになると言った少し後。
ただ単純に転勤になっただけかもしれないし、もしかしたら自分にレースのこととかを聞かれるのが嫌だったのかもしれない。真相はわからないが。
フジキセキが表情を翳らせるのも無理はない。タナベ先生も、兄も、フジキセキも、みんな等しく夢破れたわけで。そこに加えて、彼女は掛けられていた期待を落としてしまったのだから。
「そういえば、春樹トレーナーは何でナベさんのところに?」
「......何がなんでも、ダービーを獲りたいから」
そう言われた時のフジキセキはほんの少しだけ、驚いた顔をしていた。しかしすぐに意図を理解したのだろう、クスクスと笑い、『がんばってね』とだけ言い残して寮の方角へと帰っていく。
「あの感じは見透かされてるな......」