「──うぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
雄叫びが響く。
海の外から現れた黒船を退け、互いを良く知る同期とぶつかり合い、ようやく勝ち取ったGⅠの栄光。皆はその光景を、喜びからくるものだと思うだろう。
でも、少し違うように感じる。
これはきっとジャングルポケットなりの、この場に立てなかった、走れなかった戦友へ送る存在証明なのだ。
タガノテイオーに向けて『お前の走りを忘れない』と、アグネスタキオンに向けて『俺はまだ走っている』と。
「うぉぉぉぉぉッ!!!」
何度も何度も、繰り返し嘶くその姿はどこか寂しげに見えて、つい体に力が入った。握りしめていた手のひらを開いて口元を緩ませ、パチパチと叩く手からは祝福の音色が奏でられる。
新たな最強を祝福する時。
そして──
「俺は自分の夢を持てないお前が、嫌いだ」
俺のじゃない俺の夢を叶えてくれてありがとう。
「おめでとう、ジャングルポケット」
消えいるようなその声は人の波にかき消され、きっと誰にも届かない。
それでもこの祝福だけは、俺の2年間で1番誠実な言葉だ。
──日本ダービー、東京優駿。
多くの敗れた夢の上に立つ者だけが、ただ1人目を開けながら夢を見ることが出来る、一生に一度の舞台。
その舞台の幕が閉じ、興奮冷めやらぬアグネスタキオンは観客席の階段を早足に上がっていく。
やはり自分の見立ては間違っていなかった、と。
「素晴らしい......! やはり彼らは優秀なモルモットだ!
このまま行けば、
最高潮に達しようとしていた興奮が、急激に冷やされた温度計の様に下がっていく。
自分は今なんと言ったのか、理解しながらも認めたくない視線がくるりとターフの方を向き、唇を震わせながらもう一度。
「私の、代わりに......」
ああいけない、そう思考して逸らそうとした目は動かない。
望んだことだ、そう嘯いた口は疑問のように吐いた言葉を飲み込めない。
意味が無いと断じただろう、ウマ娘としての死を受け入れたはずだろう。それでもあの場に立ちたいと本能が語りかけるのならば、執着が求めるものを遠ざけてしまうのならば── その道を閉ざすしかない。
「......トレーナー君、話があるんだが」
──ダービーが終わって数週間。
トレセンへの最寄駅で電車を降り、改札を抜ければ、見えてきたのは巨大スクリーンにデカデカと映し出されるポッケの姿。
街のどこでも目につくのはダービー王者という称号故か、テレビを見ても雑誌を見ても、ビルを見上げてもポッケポッケポッケ...... とまあ、そんな様子。
スマホで彼女の名前を検索すれば、前まではホープフルステークス、皐月賞など必ずと言っていいほどタキオンが絡んできていた検索結果も、今では単独の写真ばっかり。
ナベさんもフジキセキも嬉しそうに練習を見ているし、ルーシマメイも負けじと頑張っていて──
「前を向けてないのは、俺だけか」
あの日から足を引き摺っているのは俺だけ。
俺の夢は俺の夢ではなかった。そして、兄さんの物でもない。
勝手に解釈して勝手に受け継いで、最終的に否定されて、そこで終わり。思い上がりを戒めて『次』を見ようとしても、目の前には何もない。
振り返っても── 進む道は無く、戻る道も無い。
文字通りの宙ぶらりんで、何に対して打ち込めば良いのかすらわからないのが今の俺。
「おはようございます......」
トレセンを経由してタナベトレーナーの家に上がれば、すでに先客が1人。室内だというのにサングラスをつけている姿を見るについさっき来たのだろう、友人である隆二がちゃぶ台名前で胡座を描いて座っていた。
その手元にあるのはレース資料の入ったタブレット。何のレースを見ようというのか、覗き込めば彼はそれを小脇に隠す。
「見せてよ」
「やーだよ、今日はタナベさんに聞きに来たんだからな」
まあ、そうは言っても見せてくれるわけだが。
3人肩を寄せ合って見始めたのは、少し前に行われた宝塚記念。
──言わずと知れた、覇王が陥落した日のレース。
GⅠに於いて他を圧倒し続けてきたテイエムオペラオーが遂にメイショウドトウに先着されたそのレースは、息を呑むほどにハイレベルな戦いだ。
ジャングルポケットがやたらと取り上げられるのは、このレースがあったからかもしれないと邪推する。絶対的な強者のイスが空いた今、皆が求めるのは新しい王者。
新時代の王者としてのポッケを皆が求めた結果が今、なのかもしれないと。
「......」
レースを見終え、つい閉口する。
思い出したのは前年の有馬記念、包囲網と称された徹底的なマークを神懸かりなステップで躱し、一着をもぎ取ったあのレース。
この宝塚も囲まれた。囲まれて──抜け出せなかった。
出来たはずのことが出来なくなる。
少しづつ衰えが覇王にも来ていた、と思わずにはいられない。
「......まあ、見て貰えばわかる通り、すね」
「うむ。下り坂か......」
それは皆理解していた。
その上で隆二はタブレットを鞄にしまい、見たことの無いような鬼気迫る表情を...... オペラオーとクラシックに挑んでいた頃の、全てを刺す様な表情で低い声を響かせた。
「今のクラシック走ってる世代、なんて呼ばれてるか知ってますよね?」
「......
幻の天才アグネスタキオン、ダービーウマ娘ジャングルポケット、掲示板から外れた事のないクロフネ、そしてそれらウマ娘と勝負し渡り合うダンツフレーム。
代表的な彼女たち以外にもタガノテイオー、テイエムオーシャン、ボーンキングなど優秀なウマ娘が揃うからこそ呼ばれた名が『最強世代』。
ここにマンハッタンカフェも参戦してくると考えれば、層はさらに厚くなる。
隆二はそんな世代の中心にいるポッケに対し、かかってこいと手をこまねいている。
「ここだけの話だけど、オペラオーは今年で引退する」
「!」
「だから俺は、オペラオーを勝たせなきゃならない。
覇王は最後まで覇王であると、アイツに胸を張って引退してもらう為に...... 俺はタナベトレーナーとお前に勝つ。
だから次の目標に入れとけよ? ジャパンカップでオペラオーと戦う、ってな」
その言葉に臨むところだと返せれば、どれほど良かっただろうか。
言いたいことだけ言って帰っていく隆二の背中を見送れば、タナベトレーナーとの2人きりの時間。特に話す事もなくぼうっとしていると、目についたのはダービーのトロフィーが放つ輝き。
立ち上がって、指紋をつけないようにハンカチを間に噛ませて持ったそれは重く、努力と積み重ねた歴史をこの手に理解させる。
これが夢か、そう思いながら隅々まで見る自分の背中に優しい視線が刺さっていることに気づいたのは、数分経った頃。
そうだ、そういえばこれはタナベトレーナーの所有物だった。
気恥ずかしさと共に急いで並べ直すと、タナベトレーナーは湯呑みに冷たい麦茶を注いで自分の湯呑みの隣に置き、畳を2度、優しく叩く。
こちらに来い、というサインだろう。お言葉に甘えて隣に座り、麦茶で喉を潤した。
「のう、春樹よ。ここ一年半でお前はトレーナーとして、大きく成長した。
ワシが居ない時はあの荒ウマ3人をまとめ上げ、それぞれに合わせたメニューを思考し、理論を形にする力がある。お前が見抜いたシマのダート適性は、あやつにとって新たな道を作り出した」
「そんな...... まだまだ未熟ですよ。だって、ダービー前のポッケを説得できませんでしたから」
「そうか、未熟か。
......だがその未熟さがあるからこそ、ウマ娘達と並び立つ事ができる。
実は理事長からチームの話が来た」
チーム、という言葉に、心の中の尻尾がピンと天を刺す。
チームとは功績を認められたトレーナーが認可を得て作ることのできるグループ。チームトレーナーには皆をまとめる力や幅広い距離の指導能力が必要であり、数多くのウマ娘を担当し、ダービーウマ娘を育て上げたタナベさんに白羽の矢が立つのは当然だろう。
嬉しい気分だ、自分の師匠が認められた。
おめでとうございます、と心からの祝福を送れば、タナベさんは少し言葉に澱み、そのまっすぐな目をこちらに向ける。
「そこで、じゃ。
──その権利を、お前に譲りたい」
「......はっ?」
疑問符と気の抜けた声が畳に吸い込まれ、少しの間広間を静寂が包む。
静けさや、岩に染み入る蝉の音ならぬ、静けさや、畳染み入る俺の声。
俺は未熟で、まだまだ教えてもらいたいことがあって、それなのに何故タナベさんはチームを譲ろうというのか? それだけの信頼をしてくれているという事なのだろうが、その信頼が今は痛い。
「......保留させてください」
明確な
故の保留。
タナベさんはその答えに対して驚くそぶりも見せず、薄い湯気がまだ見える茶を啜り、今朝のニュースを網羅する新聞を開いた。
「──道を見失ったか?」
「はい。俺はずっと夢を見れていません。
他人の夢を掠め取るようにして...... ずっと目の前のことに対して、不誠実に生きてきました」
「ならば一度、自分を振り返れ。
辛く苦しい時、ワシも広もそうして来た。歩んできた過去はきっとお前に何かを見せる筈じゃろう」
「過去......」
麦茶を飲み干し、換気ついでに開けられた玄関を見る。外の空は雲一つない快晴で、聞こえてくるのは夏合宿に向かわなかったウマ娘たちの声。
タナベさんにも振り返りたくない過去がある。だからこそ振り返れと俺に言った。ならば、俺は自分をもう一度見つめ直さなきゃならない。
「考えとけよ、新しい夢!」