「では、どうぞ」
差し出されたマグカップを受け取れば、ブルーマウンテンの芳醇な香りが鼻腔を刺激する。
まるでアロマのように心を安らがせるその香りは気高く、朝の眠気すら跪かせる様に凛とした佇まいを感じさせた。
理科準備室の一角、設置されたソファに2人で隣り合って座れば、湯気が絡み合いながら天井へと消えていく。芳醇なその香りを楽しんだ後にその熱を口の中へ流し込めば、舌先から伝わるのはじんわりとした苦味と、その中からチラリと顔を出す酸味。
モーニングブレンド、とパッケージに書かれていた通り、朝の眠気を吹き飛ばすのではなく優しく取り除くような刺激が体を走り、ほう、とため息にも、しみじみと感じ入るようにも聞こえる息が肺から押し出される。
少しずつカップの中身を喉に流すカフェの横顔も少し緩んでいて、ミステリアスな印象を与えるキリッとした目元も、優しく柔らかい印象の形に変わっていた。
「ねえ」
「あの」
カフェの趣味が光るスペースの中で感じる冷たい空気にも慣れてリラックスしてきた頃、世間話でもしようかと開いた口がシンクロする。もちろん『そちらが先に』と言うところまで。
流れる微妙な空気。
やってしまったな、と少しバツが悪い気分の中でカップを傾ければ、空気を切り裂くように耳へと届く言葉が一つ。
「......トレーナーさんは、少し変わりましたね」
「変わった? ......そう見える?」
「はい。
表情が軽くなった、と言いますか、何か少し吹っ切れた様子と言いますか」
カップを机に置いて、ソファの背もたれを軋ませる。視界は天井を映して、情報の処理能力が頭の方へ回された。
──まあ、そう。
兄さんからの厳しい言葉や、昔の仲間との会話で多少、考え方は変わった気がする。ある程度思考を簡単にできるようになったというか、紆余曲折を経て今まで辿り着いていた結論に直結出来るようになったと言うか。
こねくり回して正当化しなくなった。
多少なり、人の褌で相撲を取っている自覚があった所を兄さんに突かれたのは痛かったが、おかげで自分の夢は骨組みまで完成したところだ。
「みんなのおかげかな。むしろ、
もちろんカフェにもね?」
「──追いつけた、ですか。
それは...... 良かった。本当に良かったです」
糸のように目を細める。
マンハッタンカフェは自分の知る限りでは、常々追う側だ。
お友達を追い、同期の背中を追い。だからそんな優しい表情で、声で、笑顔を見せられるのかもしれない。なんだか力の無い蝉の声と一緒に心へ染み込んで、つい学生に見せる大人としての自分が緩んだ気がした。
良かった、と言えば──
「富良野特別、いいレースだったよ」
彼女の復帰戦1発目、それは富良野で行われた特別競走。
最初に出遅れこそあれ、終始盤石なレース展開のまま3バ身ほどの差をつけて勝利したのだ、やはり秋に向けて調子を上げてきていることは明白。
しかし、ありがとうございますと形式的な礼を口にする彼女の目は伏せられ、感情を見せる尻尾も萎びた様子だ。
言うべきか、言わぬべきか。
迷う視線を受けながら、湯気の立たなくなった優しい温度のマグカップを傾け、もしかしたらと思案する。
彼女のお友達が朝から深く干渉してきたのは、カフェにこの話をさせたかったからだろうか。少しでも時間がズレれば道端で会う事もなく、こうやってコーヒーを嗜む事も無かったわけだから。
少しだけ増えた肩の重み。それが答えと信じて、曇った横顔へゆっくりと言葉を紡ぐ。
「......最近、お友達と仲良くなれてる気がするんだ。
甘いものをお供えすると消し忘れた電気、消しておいてくれるし、近くにいると空気が冷たくなって涼しいし。あとたまに風呂上がりの背中をしばかれたりする」
「そう、なんですか?」
「ああ、気安い関係みたいな感じで。
だからカフェも、もっと気安く話してくれ。練習を見たり、怪我や体調をチェックしたりもしてるんだ、完全な他人じゃないんだから相談くらいは乗れるよ」
トレセン生徒には大人びているウマ娘が多くいる。
カフェもその1人ではあるが、それはそれとして彼女たちは全員学生なんだ。若く、悩む学生。
俺たちトレーナーはただレースの指導をするだけではなく、その心も見てあげなければならない。大人として助けられるのならば、極限まで協力して助けたいという思いがある。
その思いが通じたのか、多少の積み重ねがあったからなのか、彼女は一杯のコーヒーを大事そうに味わい、虚空へ視線を向ける。
そこにはきっと、見えない多くのお友達が存在しているのだろう。
「──お友達にも、イタズラが過ぎる子がいます。
ひどい驚かし方をしてしまった結果、怪我をさせてしまったりもして...... 私のトレーナーさんもその1人です」
「ああ......」
まあ、うん。
確かに一歩間違えれば大怪我、という事はされたりする。今朝やられた玄関から吹っ飛ばす行為だって、俺が頑丈だったから良かったものの、他のトレーナーだったら痛々しい怪我をしていたかもしれない。
「でもそれって、カフェが悪いわけじゃないだろう?
見えるから御する事ができるって、単純には行かないだろうし」
「それはトレーナーさんも言ってくれました。
でも、一度芽生えた恐怖心は消えない。私の契約は、菊花賞の後に無くなってしまう。
......あの子に、追いつけなくなってしまう」
これは誰が悪い、という話ではない。
カフェが悪いわけではもちろん無いし、イタズラをしたお友達だって、その怪我をさせようとしてイタズラをしたわけではない。契約解除を申し出た彼女のトレーナーも、悩み抜いて、クラシックレースを終えるまでは恐怖に耐えようと期間を決め、カフェに非は無いと伝えている。
悪気を持った人間、ウマ娘がいないからこそ、悩む。
「閉じこもっていた私を引っ張り出してくれたあの子の顔を、私は見たことが無いんです。ずっと私の前を走り続けていて......
だからこそ追いついて、隣で一緒に走りたい。
ありがとうって、あの子に伝えたい。」
「これから、カフェはどうしたい?」
「......まだ走り続けたい、です。あの子の背中を追うために、土足で入り込んできた
俺は彼女を、お友達に追いつけるようなウマ娘に出来るのか。未熟な自分が彼女たちの人生とも言える、レースの道筋を背負えるのか。
前までならこねくり回していたそんな思考を、ドリップパックと一緒に燃えるゴミへと放り、前にタナベトレーナーから伝えられたことを反芻する。
俺はトレーナーとして大きく成長した。
未熟だからこそ、彼女たちと同じ目線で物事を見ることができる。
己と、己を形作って来た全て、成長させてくれた人達に、自信を持て。
そしてその手を掴め。
「じゃあ教えて欲しい。
お友達がどんな走り方をするのか、もう一度──
今度はその背中を追い越すために!」
「......はい。
きっと、きっと── その背中を」
マグカップの底、暗黒は消えて、白が見える。
これからを照らすような白をこの手に掴んで、何か感情のようなものが、心に触れる。
『頼んだ』
マンハッタンカフェに、速い、とだけ教えられた日。その日に食らった痛みとはまるで違う、優しい衝撃が頭を叩いたような── そんな気がする。
心地のいい目覚めが、体を満たした。
ウマ娘3.5周年おめでとうございます
まあ私はポッケもカフェもダンツのSSRサポカもタキオンの勝負服も持っていない、ドリームジャーニー実装と共に始めた初心者ですが、楽しんでいます
......スティルインラブの育成実装待ってます