サンキャッチャーに傷が付いていたことに気づいたのは、札幌記念が終わった後だ。
アクセサリーとして身につける以上現れる使用感や擦れたような小さな物ではなく、そこを叩けば容易く割れてしまうような一筋の傷。
菊花賞の後には更に増えていて、比例するようにポッケの表情も暗く、どんよりと沈んで行ったように思う。
「──確かに、何か思い詰めた様子ではあったかな」
練習後、ジャングルポケットの忘れて行ったソレを握りしめながら、フジキセキの視線は窓の外、夕焼けを差した。
大雑把に言えば本人のメンタル問題、細かく言えばレース、もしくは走ることに対する不安や焦燥、ある種の諦めに近しいものが彼女の中を支配していることは、導く先達であらねばならない俺も、フジキセキも、タナベさんも理解していた。
どのような言葉をかけるべきなのか。
2人の視線がこちらを捉える。
「フジキセキに頼みたいことがあるんだけど、いい?」
「──ポッケ!」
「っ! ......んだよ、相棒か」
冬への入口、秋の涼しさ。
項垂れるススキの横を抜け、ベンチの上でその一部のように頭を下げていた彼女に声をかければ、尻尾と耳をピンと立てて目を丸くする。
さして大きい声ではなかった。
視野が狭く、情報の取捨選択に回す思考を限りなく減らしていたから驚き、今こちらになんとも言えない視線を送っているのだろう。
温かいお茶を手渡し、夜空の下で体を冷やさないよう、着ていた上着を彼女の背中にかける。
「ネックレス、忘れてたよ。
預かっておくから明日取りに来てって、フジキセキが」
「ワリィ、ありがとな」
一瞬だけ上がった口角が、抱え込んだものに引っ張られるようにしてすぐさま下がる。
「──まだ、タキオンが前を走ってるの?」
「......ああ。
アイツに追いつこうとしても、お前じゃ勝てねえって別のオレが言ってきて」
言い訳もなく、ただ噛み締めるように、肯定の2文字が揺れるススキの中へと消える。
1番になりたいという原動力は、レースの世界に生きるウマ娘達にとっては何より大きい燃料であり、その足を動かすための心的なエンジンでもあるだろうに。
その心にヒビが入っていたのなら、そりゃあ勝てるものも勝てやしない。
それだけの絶望が彼女の中には渦巻いている。
取り除けるかはわからない。でも。
「──よし、ちょっと付き合ってくれ」
「は? 付き合うったって、どこに......」
「体育館だよ」
立ち上がり、彼女の手を取ってある場所へ向かう。
バスに乗ってたどり着いたのは、ここ最近毎週来ている中学校の体育館。
外は暗くても時間は6時前。
まだ聞こえてくるボールが叩きつけられた音に惹かれて靴を履き替え、眩しく広い体育館のコートの中に入れば、後輩たちと旧友が今度の大会に向けて切磋琢磨していた。
こちらを見るや否や駆け寄ってきた後輩たちの目線は俺ではなく、有名人であるポッケの方へと向いている。
「んで、ここで何すんだよ?」
「2対2で試合するからコートに入ってくれ、俺とオポジットの後輩、ポッケとセッターの後輩でね」
「何言ってんだ! オレ、簡単なルールしか知らねえぞ?!」
「大丈夫、基礎は彼が教えてくれるから」
「えっ自分すか?」
半ば強引な話の進め方であるが、ポッケはどこか不満げな表情を見せながらも、文句自体を口にはせずおずおずとボールを受け取り、後輩とのウォーミングアップに入った。
少し経った頃だろうか。
持ち前の明るさが後輩との壁を壊したか、すっかり打ち解けた様子の2人は並んで動画に釘付けだ。
チラリと見えた画面には若かった頃の俺が跳んでいる。
「なんつーか、今の相棒よりも覇気があんな。
鬼気迫るじゃねえけどさ」
「全盛期だし、当時はトップオブトップだったわけだからな。
今も凄いけど...... やっぱり、この頃が1番
「......時代の終わり、か」
始まった試合は、終始ポッケのチームが優勢。
まあ不思議なことでは無い。
こちらは
中学生のスパイクなんて軽々しくレシーブ、セッターからのトスを受けて放たれる一撃は高く、強烈に重い。
一点、また一点。
事実として、普通に負けるだろう。
「よっしゃあっ!」
喜んでいるポッケと項垂れるオポジットの後輩を見て、ついつい自分の口を手で隠す。
ああ、懐かしいな。
あっちは喜んでこっちは絶望、いつだかのエキシビジョンと全く同じ状況ではあるが、唯一違う点は、手の下にある口。
口角が上がっている。
「次のサーブ、俺が受けるよ」
「マジ助かります、お願いしまぁ〜す......」
ヘニャヘニャの後輩の背中を叩き、ジャンプサーブの為にボールを高くトスしたポッケを見つめる。
──君はさっきの動画を見て、どう思った?
すごいと思ったのなら、ありがとう。
そんなでも無いと思ったのなら手厳しいなぁ。
でももし、終わってしまった時代として俺を見て、それをフジキセキやタガノテイオー、タキオンらと重ね合わせて次は自分だと思うのならば、それは違う。
「
「ウ、ウス!」
渾身のサーブが乾いた音と同時に高く上がり、セッターの位置に移動していた後輩の頭上にどんぴしゃり、落下していく。
確かに今のポッケは走る意義を見失っているかもしれない。
しょげた耳、元気のない尻尾、パフェにも目を輝かせず陰のある笑顔を見せる君は、全てを終わらせる権利を持っている。でも、それでも俺たちとは違う。
ジャングルポケットには立ち止まってしまった誰かをまた走らせる熱があり、夢を見させる輝きがあり、その姿は希望なんだ。
「──すげぇ......」
上げられた拙いトスを追いかけて地面を踏み、ドン、と体育館全体に響き渡る音を鳴らして宙に跳ねる。
最高到達点はあの頃に届かない。
ネット際の小技も、右手では大した技術では無い。
それでも熱は、君がくれた熱は今が1番熱く、この胸の中で煮えたぎっている。
右腕全体へ走る衝撃。
それと同時にボールが地面に叩きつけられ、バウンドしたそれは体育館の2階、落下防止の柵を超えて窓を開けるための通路を転がる。
階段を駆け上がってボールを取りに行った後輩たちを尻目に、あっけに取られた表情を見せたポッケの手に触れた。
「これは、君がくれた熱だ」
「......」
「この熱があるから俺は夢を、自分の夢を持てる。
トレーナーとして立てる。いつかまた、ポッケがこの熱を持ってターフに立てるよう、俺はトレーナーとしてサポートし続けるから......
諦めないでくれよ、
「──おう」
どれだけ届いただろうか。
ポッケの憂いや心の辛さを完全には取り除けなくても、ほんの少しでも良い方に向かっていける一助になれたのなら、それ以上の事は無い。
「「お疲れっしたー!」」
体育館の片付けを終え、トレセン方面への帰り道。
残り数百メートル辺りから走っていく、というポッケに対して、その辺の自販機で買ったあったかいお茶を投げ渡す。
「明日の朝、河川敷のレース場でフジキセキが待ってる。行ってあげてよ」
返事は声として帰って来ず、小さな頷きだけが届く。
あとはフジキセキに...... 頼れる先輩に任せるとしよう。
「......もしもし、兄さん?」
「──こんなところに呼び出して、何が始まるっていうんだ? もう少し寝ていたかったんだが......」
「まあそう文句も言わないで。
地獄に行ってもこんなに面白いレースは見れないよ」
呼び出した兄は、眠い目を擦りながら不満な顔を隠さない。
まあ、拒絶した相手がどこか自信満々に呼び出してきて、こんな早朝から河川敷に、なんて怒られても仕方のない事ではあるが。
それでも突っぱねたりしないあたり、彼は変わらない俺の兄だ。
まだ太陽の上りきらない朝。
川の上を渡るように作られた橋にある歩道から下を覗いてみれば、そこにはジャージに身を包んで少し不安そうに周りを見回しているジャングルポケット。
普通に見れば朝練でもしようか、というシーンだが、今回は少し毛色が違う。
「......なんで」
草をかき分けて現れたのは、黒い姿。
全4戦のうち1戦にしか使われなかった勝負服を纏って現れたその姿は、兄の瞳を潤ませ、声を振るわせるのには十分過ぎるほどの衝撃。
呼び起こされるものがあったのだろう。
橋の上から走って降りようとする彼の手を掴み、軽く引っ張ってその行為を止めた。
感情を露わにした手のひらふたつがシャツの襟を掴む。
「なんでフジがいて、走ろうとしてる?
彼女は1回怪我してるんだぞ、2回目のリスクだってあるんだぞ......!」
「リスクがあるから、2度と走らないの?」
「何だと?」
「彼女は全て承知した上で、ポッケの為に、自分の為に走ろうとしてる。弥生賞からずっと自分の足と向き合って、逃げず、考え続けてきたフジキセキの決断を── 見続ける事から逃げた兄さんが止めるの?」
逃げずに、今度こそ向き合えと。
揺れる瞳がこちらをその視界から外し、河川敷の方を見た。
フジキセキがサンキャッチャーを放り投げ、それをポッケが受け取ると同時に、彼女の復帰戦が始まりの音を鳴らす。
強く踏み込む蹄鉄と、それを受け止める地面の音。
静寂の朝に強く響く。
──逃げるな、とは、言えない。
俺も自分から逃げて、逃げ続けて今だ。
でもせめて自分を信じている人からは逃げないで、向き合って欲しい。
それがどんなに苦痛な過去を孕んでいたとしても、受け入れなければ前に進めないことを、知ったから。
レースは特筆して語ることのない、よくある一対一の模擬レースみたいなもの。
ポッケが前を譲る形で背後を走り、それをフジキセキが引っ張る形。
......やはり、と言うべきか、フジキセキの走りはフルスペックの弥生賞を走った時とはまるで違う、ところどころ荒削りさの見える走り。
どれだけ努力しても、見えないところで苦労していても、全盛期の影を踏むことすらできないというもどかしさは本人にも、それを見る兄にもあるだろう。
「......いけ、がんばれ......」
それでもその足を突き動かすものがある。
走りたいという本能、積み重ねてきた努力、そしてそれらが見せる夢。
向こう正面をすぎて直線、ここぞと力を込めなければいけない場面でポッケは失速し、フジキセキはさらに加速した。
つい口の中を噛み締めるが、次の瞬間には少しだけ、微笑んだ。
ポッケの表情の中に絶望が無かったから。
その目の中に、また熱が宿っていたから。
「行け、フジー!!」
「これは...... サプライズ、だね」
「ああ、とんだサプライズだ」
レースを終え、草の上で息を整えるフジキセキの頬に、兄さんが持ってきたスポーツドリンクが触れた。
両者共に縛っていたものが無くなったようなスッキリした表情を見せ、それはフジキセキが『もしもの3冠ウマ娘』ではなく『今を走るウマ娘』として復活した事を物語る。
「なあ、相棒」
「うん?」
「心配かけたな」
「ああ......ふふっ」
やけにかしこまって言葉を選んだのだろうポッケに、つい笑ってしまった。
となればやはり背中をしばかれてしまうわけで、痛みと共に背筋がピンと伸びる。その姿を見て笑う彼女の姿に、ああ戻ってきたのだな、と嬉しくなった。
寝転がっていた彼女を引っ張り上げると、まだ走り足りないという視線。無言で頷いた後、兄の方へと向き直った。
「俺、夢ができた。
他人の夢を俺が叶えるんじゃなくて、他人が夢を叶える手伝いを、トレーナーとしてやり続ける事。
3冠ウマ娘になりたい、トリプルティアラを取りたい、最強になりたい。その夢を否定しないで応援し続けられる、叶えさせてあげられるトレーナーが──
俺の夢だ!」
驚いたような表情が息を吐き、満面の笑みが出迎える。
──よかったぁ、と、前までの兄が帰ってきた。
「......なあ、フジ?」
「なんだい広さん、目が泳いでるけど?」
春樹とジャングルポケットが一走りしに行ったのち、2人は河川敷に座って顔を見合わせる。
言いたいことを言い出そうにも声が上擦ってしまう広に対し、フジキセキは余裕を持って、まるで言いたいことを見透かしているような態度を見せた。
すでに30分近く停滞した会話の道。
その道を切り開くように現れた老人は、キンキンに冷えた水を広の首筋に付ける。
「んぎゃあ!?」
「言うべき事は早く言え、お前は何回ワシにその相談をしにきたと思っておる!」
「あ、ナベさん」
タナベは煮え切らない様子の広に我慢の限界が来たのだろう。
あーうー、と言い淀んでいた言葉が形になり、ついに広の口から放たれたソレは、フジキセキの涙腺を緩ませる。
「フジがもう一度走るなら、その足をまた、自分に
今度こそ、もう目を離したりしない。
ずっとだ」
「──うん...... うん!
今度こそ、貴方たちを笑顔にして見せるよ!」