夏が行き、秋が来て、日差しと共に充満していた熱が消えた10月の頃。
アグネスタキオンはいつも通りにレースの動画を見つつ、キーボードへ指を乗せて事実と考察を混ぜ合わせたレポートを記入する。
いつ頃からか、キッチリと境界線を作って区分けしていたマンハッタンカフェのスペースにまで研究資料が侵食していて、ひとたび窓から強い日差しが差せば、舞い踊る埃がまるで雪のように煌めいた。
整理のつかない世界。
そこに差し込んだ光と共に聞こえてくるのは、ウマ娘が外のトレーニングコースでファイト、オー、と張り上げる声。
チラリと見てみるが、彼女たちは皆大きな成績を残さず、それでもまだ走り続けている生徒たちだ。
指が止まり、瞼も瞳も動かせない。
文字通り釘付けになった身体を動かさせたのは、物の置きすぎで開けづらくなった引き戸が、ガラガラと開かれた音。
「うわ、きったね」
言葉を選ばない、思考と直結した感想。
前にここに来た時とは違う、どこかスッキリとした表情を見せたウマ娘。ジャングルポケット。
苛烈さは無い。
「......どうしたんだい? ここに来るような理由は、君には無いはずだが?」
「あー、いや、な」
プリズムが日光を反射し、風を受けて緩やかな回転をしながらジャングルポケットを照らした。
「──俺は
世界中からその国の最強が集まって走るレース、勿論あの覇王、テイエムオペラオーも出てくる。
アイツらに勝つ。勝つために...... タキオン、俺と並走してくれねぇか?」
ばさり。
塔のように積み重なっていた研究資料が地面に落ちて、少しだけ、外からくる風が強まった。
何か揺らぐものがタキオンの瞳を揺らすが、その首が縦に振られることはない。
切り捨てたものが多すぎる。もう、走る事はないと。
「カフェやダンツくんがいるだろう。
それに、私はもう走らないと言ったはずだ」
「......そっか。そうだよな、悪い!
無理言って悪かった!」
胸ぐらを掴むことはない。
叫ぶような事もない。
もう一度扉を開けて廊下に出て行こうとするジャングルポケットは、たった一言だけ残していく。
「俺は、走るぜ」
その背中にいつの間にか伸ばしていた手を下ろし、窓を閉め、カーテンを閉じる。
暗くなった部屋。ぼうっ、と優しく光るのは、カフェの置いていたインテリア。
レポートの記入を適当なところでやめ、パソコンをシャットダウンすれば、ここ数ヶ月無かった2人目の訪問者が扉をノックし、いつになくラフな格好で現れた。
「やあ、今ヒマ?」
「ご想像にお任せするよ」
じゃあヒマか、と言った男は持っていた紙を机に置くと、ポケットから取り出した切符2枚のうち1枚をこちらに差し出し、弾むような声である提案をする。
前まではキッチリとしたスーツを着ていたのに、今はワインレッドの革ジャンを羽織る彼、秋野 春樹はジャングルポケット同様にどこか変わったようだが、それはタキオンの知るところではない。
「東京レース場でデビュー戦をやるんだ、招待を受けたわけだし、せっかくだからと思ってね。
行くだろう?」
「......」
有無を言わせない圧があった、と言うのは体のいい言い訳ではあるが、事実春樹の目からは、どんな理屈をこねてもノーとは言わせない意思が滲み出ている。
結果、タキオンは白衣も着ずにシンプルな制服姿で、東京レース場の最前列に立っていた。
なんて事はないデビュー戦。
皆模擬レースや日々の練習で緊張に対する耐性をつけようとしたのだろうが、それでも手を震わせる出走者は2、3人見える。
その中で一際異質な存在が1人。
「──
タキオンの思考を読んだように、春樹がその視線を手すりに肘をついて前傾姿勢の横顔に向ける。
肯定も否定もしないものの、事実、タキオンの思考はそのシンボリクリスエスというウマ娘に対して向けられていた。
初の公的なレースでありながら緊張のカケラもその表情からは読み取れず、トモや身体全体の仕上がりもこの時点から考えればかなりの高水準。
理論を捨て、勘で予想するならばこのレース、勝つのはクリスエスで間違い無いだろう。
──事実、クリスエスはクビ差でアサクサキニナルを差し切って1着。
しかしタキオンの中を支配する疑問符は消えない。
秋野春樹は何故このレースに自分を連れてきたのか?
ただ本当に招待されたから、とは考えづらい。
以前ズカズカと深い所に入り込み、捨てたはずのものを勝手に拾い上げて心の中に置いて行った男。その彼がただのレースに?
ウィナーズサークルでのファンサービスが終わり、客が次々と帰路に着こうという時、その疑問を貫くようにクリスエスがその瞳を、タキオンの目に向けた。
そして同時に飛び出してきた人影に、つい、瞬きを見せる。
「久しぶり、タキオン」
「......トレーナー君」
自分が切り捨てたはずのトレーナーが、そこにいた。
長浜 まどか。
彼女は優秀だった。熱意も技量も、寄り添う心も高水準に持っていて、そう考えればすぐに新しい契約相手が見つかることも、タキオンの中で不思議な事ではない。
シンボリクリスエスのトレーナーになったのだろう彼女は、いつか戦うことになる相手としてタキオンを見上げ、口を開く。
「私は、止まらないからね!」
帰りの電車、タキオンは春樹に問う。
振り返った過去に未練を抱いたことはあるのか、と。
「あるよ、勿論ある。
あそこで怪我をせず、限界を感じず、誰かに託す事をせず、自分の足で飛び続けていたらきっと楽しかっただろうなって思う事は大量に。
後輩の指導をしてればしょっちゅうさ」
「私は......」
何か言おうとしたタキオンの口を塞ぐように、ガタンと大きな振動を電車が放ち、ピリッとした感覚が左足に走る。
その衝撃がまた、タキオンの頭を螺旋へと引き戻した。
高架下では何も知らないウマ娘が無邪気な顔を見せて走っている。窓から見えたその姿を忘れるように、目を伏せる。
「ポッケもカフェも、ダンツもまどかも先に行ってしまうだろうけど。
俺は待つ、君を待つ。
もう一度走りたくなるまで...... だからそれまでは、言い逃した後悔を無くさないで」
トレセンに戻り、椅子に深々と腰を下ろした。
心の隅を見れば小さな箱がポツンと置いてあって、頑丈に止めたはずのガムテープは劣化して手でも千切れるほどに脆くなっている。
開いた箱の中では、ただ本能に任せて走っていた頃のタキオンが声を殺して泣いていた。
廊下に出て、ウマ娘用の大きな受話器を手に取ってある電話番号へかける。
2コール程で出た電話の向こう側からは聞き慣れた声がして、その声に、思わず昔の問いかけをしてしまった。
「──姉さんはどうして...... 自分を捨てても、前向きでいられたのですか?」
「懐かしい問いね?
ふふ、でもそうね。みんなの夢を叶えたいから。
タキオンの夢は理性で叶えられた? 夢の本質は自分のエゴで、誰かに託す事なんて出来ないのだから、理性で叶えられないなら......
ええ、
受話器を置き、春樹の置いた紙を手に取る。
それはトレーナー契約書。ウマ娘の欄は空欄になっていて、トレーナー側の書くべき欄は全て埋まっている。
好きなように使って、という付箋を外してゴミ箱に捨て── アグネスタキオンは、その部屋を後にした。