思えば、松田トレーナーと会えたのは自分にとって、大きなターニングポイントだったのだと思う。
「辛気臭い顔だな、そんなんじゃウマ娘たちも寄りつかないぞ?」
余計なお世話だ、と喉まで出かかったことを覚えている。今も変わらない少し面倒な絡み方は彼なりの優しさ。
正直、学校で生まれた関係性の殆どは松田トレーナーが居なければ成り立ってはいなかっただろう。そう思える程度には大きな先輩であり、同時に超えるべき壁でもあるのだ。
「いってて〜...... そんなに慎重じゃなくても大丈夫っスよ、トレーナーさん」
「ダメだよ、こういうのはちゃんと汚れを落としておかないと。平気へっちゃらで放っておいたら、足を切ることになっちゃうかもよー?」
「ぇええー?!」
派手にすっ転んで擦りむいたシマの膝を水道で洗いながら、松田トレーナーの卒業式に言われたことを思い出す。夢の話を聞いたのは、後にも先にもあれっきりだ。
「俺にも夢はあるよ。
春樹にも負けない立派な夢だ、聞きたい?」
「いや、そうでもない──」
「よーしなら聞かせてやろう。
俺はね、自分の担当したウマ娘と最後まで走り切って、その娘が現役を辞めると同時にトレーナーを辞めたいのさ。
本当にこれ以降この娘以上の子は担当できないだろうって、確信できるようなウマ娘── そんな娘に出会えたらいいなっていう願望も込みの夢さ」
タガノテイオーは、そんな彼の夢を叶えられるかもしれない。それだけの力、速さを兼ね備えているウマ娘で、1人のレースファンとしては、彼女が次に出走する予定の朝日杯に注目せざるを得ない。
「......よし、オッケー。痛みがあるようなら言ってね」
「アザーっす、トレーナーさん!」
絆創膏を貼って処置を終えると、シマはまたコースに戻ってポッケの背中を追い始める。今度は何周でヘトヘトになってしまうだろうか?
なんにせよ、怪我には気をつけて欲しいものだ──
中山レース場の控室。
タガノテイオーは水色と紫色のツートンカラーが目を引くシュシュを右耳に付け、メガネをかけて視線を上げる。
その先にあった鏡には、ジャングルポケットよりも早くに袖を通すことになった勝負服。そして、いつもより神妙な面持ちの松田トレーナーがいた。
小さく息を吐き、大舞台を前にして沸き上がる心を鎮め、微笑む。恐怖ではなく、その瞳の中には闘争心が揺らめいている。
「どっしり構えていけ、タガノ。このレース、速さも強さもお前の独壇場だ。
......いや、カルストンライトオの事を考えたら、速さは独壇場って訳にはいかないが......
「ふふッ」
唐突な笑い声に、キッチリと決めていたトレーナーの顔が緩む。少々不満げな目で笑い声の主を見るが、メガネ越しの瞳はそれすらもあっさりといなしてみせた。
「いや、すまない、トレーナー。
笑うつもりは無かったんだが、こんな舞台の前でも変わらない貴方を見るとつい笑みが溢れてしまってね」
「はー...... なんか気が抜けたな、まったく」
「違いない。 ......時に、トレーナー」
タガノテイオーは机の上にまとめていた手袋に指を通し、問いかける。
「トレーナーが得手としている距離は短距離からマイルだと聞いたよ。対して私は中、長距離...... 勝手のわからない距離を得意とする私に、どうして担当契約を持ちかけに来たのかな?」
「......この前ジャングルポケットと並走した時、春樹にでも聞いたか。
まあ簡単だよ、
その答えを聞き、タガノテイオーはもう一度笑う。
しかし1度目のように楽しむような笑いではなく、2人の間にある確かな絆を認識したような笑い。つられてトレーナーも口角を上げ、その腰を椅子から上げた。
「なら、貴方の得手であるこの距離で負けるわけにはいかないな」
「ああ、勝てよ」
地下バ道へ向かう担当を見つめる瞳は、誰よりも勝利を信じて疑わない。それはまた、視線を受ける方も同様。
「──おい相棒、タガノのレース始まんぞ!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
ポッケに急かされるままガラスのコップにレモネードを注ぎ、『ん』とだけ言って伸ばされたその手に上手く出来た方を渡した。
物を受け取るのに立ちあがろうとしないほどポッケが齧り付いているのは少し古いテレビで、少し色褪せている画面の向こうでは、カメラが1番人気のタガノテイオーを映している。
「2人とも目を悪くするぞ?」
「聞こえてないよ、ナベさん」
小言を言うタナベトレーナーの声も、半ば諦めたように言うフジキセキの声も聞こえてはいるが、それ以上にこのレースを焼き付けたい気持ちが強い。
関わりのある同期の中がGⅠに出るのはポッケにとっては初めてであり、それが競い合う相手のタガノテイオーともなれば尚更。
2人してレモネードを飲み、スタートを待つ。
「うまいな、このレモネード! 相棒店出せるんじゃね?」
「兄さんの方が作るの上手いよ、俺よりずっと」
「へー、いつか飲んでみてえなー」
各バゲートインを終え、少しの静寂の後、一斉に走り出した。
早速飛び出したのはカルストンライトオで、先行しながらレースを引っ張っていくような展開。何もおかしなところのないスタートのはずなのに、不思議とぞわりとした感触が背筋を走る。
虫でも這ったかと振り返ったが、何もいない。
視線をテレビに戻して少しすれば、タガノテイオーは馬群の中のまま第四コーナー、残り400を切ろうというところ。
周りの速さと少し前に行った並走の記憶が、このレースにおけるタガノテイオーの勝利を確信させる── が、同時に強くなってくるのはスタート直後と同じようなぞわりとした不快感。
その不快感が弾けて残り200メートル。
「タガノテイオー、ネイティヴハート、両者競り合って── あっと、ここでメジロベイリーだ!!」
タガノテイオーが、伸びない。
いけいけ、やれ、と騒がしく盛り上がるポッケを隣に置きながら、なんとも言えない不安感にかられて立ち上がった。
「ぐあーっ、惜しいぜタガノ!
......ん、どうしたんだよ?」
「いや......」
すぐさまちゃぶ台の上にレモネードを置き、代わりにスマホを手に取った。
結果だけで言えば1着はメジロベイリー、10番人気の下剋上という結果になり、続いていくのはタガノテイオーとネイティヴハート。
しばらくレース後のターフを移していたカメラが切り替わり、コメンテーターとゲストがレースの結果を語り始めた頃、手に取っていたスマホに通知が入る。
松田トレーナーからの通知欄に見える文章には、『タガノが怪我をした』と。
「ポッケ、病院に行こう!」
「はあ?! 何言ってんだお前?!」
「タガノテイオーが怪我をしたんだ!」
「──それを早く言えよ!!」
急いで靴を履き、玄関を2人で飛び出して病院に着いたのは少し後のこと。
松田トレーナーに連れられて入った病室の中、ポッケの背後から見たのは、痛々しく左足に包帯を巻かれた、憔悴した様子のタガノテイオーだった。
「ウソだろ......? レース直後まで、ピンピンしてたじゃねえか......」
「......診断は完治不能な骨折。状態から見てレース中── 恐らく、最終直線だろう。
......すまない、ジャングルポケット。今日を勝って、またお前に挑もうと考えていたのに......」
包帯の隙間からほんの少しだけ見えた足はまるで違う色に変色していて、見るも痛々しく、無惨なものに変わっている。たとえ歩くことができるようになっても、あの様子と表情から、彼女自身がもう走れないと1番わかっているだろう。
かける言葉も見つからずに口を閉じていれば、松田トレーナーから目配せを受ける。『少し出ているね』とだけポッケに伝えて廊下に出ると、松田トレーナーは壁に寄りかかった深く息を吐いた。
「......医者が言うには、無事にゴールできて、あの程度で済んだだけでも幸いだった、ってさ。
マイルを走ることを考えて鍛えてたとこが運良くいい方向に働いたらしい」
「じゃあ、先輩があの子の足をギリギリで繋いだんですね」
「やめろよ」
後悔と怒りのこもった一言。
しかしその怒りの矛先はこちらではなくて、松田トレーナー本人に向けたものだろう。
何故予想できなかったのか、どうにかしてやれなかったのか。『どうしようもなかった』という答えが出ているのに、ずっと探し続けなければならない。
怪我をする、させるとはそういう事だ。
松田トレーナーは少しだけ口をつぐむと、意を決して声を吐き出す。
「──俺、トレーナーを辞めようと思う。
電話口だけど理事長にも伝えさせてもらって、地方だけどレース場に再就職させてもらえるように掛け合ってくれるらしい」
「......夢を叶えないで終わらせて、本当にいいんですか?
それとも──」
「ああ、
泣いていた。
松田トレーナーは嗚咽を漏らさず、声も変わらず、ただ目から涙を流していた。
「何回か他の子を担当して、その中にはGⅠを取った娘もいて。でも多分、俺の中で1番強かった── 最強だと思えて、もう会えないと思えたのは、やっぱりタガノテイオーなんだよな」
「......俺も先輩と同じくらい、心を持って向き合えますかね?」
「行けるだろ。
俺よりもずっとお前の方がケガを知ってる。つまり、誰よりも立ち直り方を知ってるんだ。
......まあ、俺の分も頑張れよ」
「はい」
数日経って、タガノテイオーは実家に戻ることになった。
駅のホーム、白線の外側には新幹線が止まっていて、タガノはその前でポッケと向き合っていた。
「──実家の事業を手伝うことにしたんだ。
拡大中だから引く手数多だし、何もせずに療養に徹するというのも性に合わないからね」
「そっか、お前らしいな」
「ジャングルポケット...... いや、ポッケ。
私がどこに行っても忘れられないように、君は立ち止まらず、夢に走り続けてくれよ?」
「ああ、約束は破らねえ」
その言葉を聞き届け、タガノテイオーは新幹線の中へと消えていき、定刻通りにホームから何処かへと消えていく。
まるで彼女がケガをするのもそうであったかのように。
「クソが...... 言われるまでもねえ」
ボソッと小さく、しかし確かな声が吹き抜ける風を切り裂いた。
憤りが熱を持ち、こちらの肌に触れる。
「立ち止まるわけに行くかよ。
......まずはホープフルステークス。獲るぞ、相棒」
「ああ。君が獲るんだ」