締め切り前になると慌ただしくなる編集部の一室。
残業に次ぐ残業で時間に追い詰められた人というのは、理性が程よく溶けるようで私の頭上で怒声の応酬が繰り広げられる。まるで動物園のように雄叫びが繰り広げられる空間で私は無感情に栄養ドリンクに差したストローを咥える。私は心に余裕がなくなるにつれて感情が死んでいくタイプのようで自分の業務に集中している間は、同じ人間が発したとは思えない奇声も気にならない。
業務用のノートパソコンで粛々と記事の執筆をする私の後頭部を、誰かが丸めた紙束で叩く。顰めた顔で背中を振り返る、すると同じく顔を顰めた髭面のおっさんが私を見下す。
「阿智、記事の作成はどうだ?」
私の名前を呼ぶ彼は、私の上司である。
咥えた細いストローをズズッと啜り、キーボードをワンタッチしてからノートパソコンの画面を見せる。今、作成中の記事が映し出されている。上司は顰めた面で徹夜明けの無精髭を撫でた後、独り言を呟きながら自分の机に戻って行った。彼も連日の残業に余裕をなくしているようだ。私は大きく溜息を零し、もう一度、キーボードをワンタッチして画面を切り替える。まだ半分程度の原稿から九割方、完成した原稿が映し出される。
私は阿智史織、しがない出版社でしがない記者をやってる青春の枯れ果てた女である。
今、書いている記事の内容は女子プロ野球に関する事であり、例年の球場集客数をグラフに纏めた図を参考に界隈の衰退を記している。女子プロ野球は今から31年前、バルセロナで開催されたオリンピックで優勝した事を皮切りに始まっており、今年で丁度、30年目の節目になる。しかし女子プロ野球を開催した4年後に発生した不祥事の数々から徐々に女子プロ野球の人気は低迷し、15年程前の時点で底を着いた。WBGC*1で良い結果を残しても客足は思うように戻らなかった。3年前に開催された東京オリンピックで予選敗退したのも痛かった。
そんな訳で今、女子プロ野球界隈は衰退している。
私はまだ高校生だった時、第3回WBGCで優勝した日本代表の勇姿を見て、女子スポーツ雑誌を出版する会社に入社したのだけど、此処には夢も希望もない理性を失った家畜共が解読不可能の言語を喚き散らすだけの動物園だった。入社した当初に感じていた異臭も今はもう何も感じなくなってしまった。
夢も希望も失った私を助けてくれるのは栄養ドリンクだけである。
程良い感じに残業した私は、出来るだけ疲れ切った顔で原稿を提出して帰路に着く。
スーツを着た姿のまま、何も食べず、風呂にも入らず、駄目だと分かっていながら泥のように眠りに就いた。
我ながら、ほんとクソみたいな人生を送っていると思わざる得ないのです。
翌朝、寝苦しさから少し早めに目覚めた私はまずシャワーを浴びる。
家は浴槽付きのワンルームなのだけど、入社してから風呂に入った記憶がほとんどない。シャツを洗濯籠に放り投げて、新しいものを衣装棚が引っ張り出す。床に埃の溜まった一室、掃除をしないといけないなって思うのだけど気合が入らない。休日は朝に寝て、昼に寝て、夜に起きて、深夜に寝るような生活を繰り返しているので女子プロ野球の出版を担当する記者でありながら現地に試合を観に行けていなかった。試合の取材は私の担当ではないので仕方ない、休日を返上してまで仕事をする気力はなかった。趣味を仕事にしたつもりなのに可笑しいね。徐々に心が死んでいく感覚を覚えながら締め切りを乗り越えた我が出版社は、次のネタを求めて現地に駆り出される。
女子プロ野球の人気は今は低迷している。
オリンピックとかWBGCの時期になると他者の記者が、不躾に選手達を取り囲むのに時期が過ぎるとがらんどうの有様になるのがほとんどである。女子プロ野球の公式戦の結果を乗せてくれる出版社が何処にもおらず、試合も放映されない事がほとんどだ。女子スポーツを題材に取り上げる我が出版社も女子プロ野球に対する扱いは悪いものであり、唯一、まともに女子プロ野球を取り扱っているというアイデンティティを確保する為に掲載を続けているようなものである。
おかげで記者の数が足りておらず、女子プロ野球を担当する記者は幾つものチームを梯子する羽目になっていた。
唯一、黒字経営を続けているCTCエンプレシスには専属記者が付いているにも関わらず、だ。
兎も角、今回の取材する対象は既に決めている。開幕戦も間近に近付いた今の季節、オフシーズンで獲得した新戦力がチームに馴染み始める頃合いだ。私は午前中の業務を手早く済ませた後、先日、懇意にしているチームの関係者と連絡を取り、アポイントを取っておいたプロ球団が活用している練習場に赴いた。
チームの名前は東京ヤタガラス、老朽化した川崎にある球場を改築した球場を本拠地に構える球団である。
昨年は6チームある女子プロ野球リーグの公式戦で3位に入った球団であり、クライマックスシリーズでは2位のペットライフワンダフルズを降して最終決戦に駒を進めている。特徴的な紫色のユニフォームに袖を通しており、女子プロ野球を代表するとてもユニークな投手が所属する。
まあ今回の目当てはドラフト候補生なので、その投手に取材する予定はない。
片道一時間の道のりを超えて、辿り着いた河川敷の球場では社会人チームである流石急便との試合が開催されている。
流石急便は社会人女子野球リーグの強豪だ。マウンドでは紫色のユニフォームを着た投手は少し苦しそうな表情をしている。今、登板する彼女は一昨年、高校生でドラフト4位指名されて入団した投手である。体格が良い素材型、という触れ込みで入団した事もあってかまだ公式戦での活躍は少ない。170cmを超える高身長から繰り出される低めの速球を、相手チームの四番が芯で捉えて引っ張った。ライナー性の鋭い打球が三遊間を抜けようかって時、小柄な遊撃手が横っ飛びでグラブの先に引っ掛ける。
完全に抜けた当たりを捕られてしまった四番打者は悔しそうに天を仰いだ。
実際、打った後に反応したのであれば抜けていた。
だけど遊撃手の子は打つ直前には走り出しており、反射神経だけでは届かない距離を埋めてのけた。身長は145cmと女子アスリートの中でも小柄な身体、地面に落とした帽子を拾って「ツーアウトぉ!」と快活な笑顔で周りに声を掛ける。
彼女が今回の取材の本命であり、名前は
去年、高校生でドラフト1位の単独指名で東京ヤタガラスに入団した期待の新人である。
ベンチで大きな欠伸をする中年男性に声を掛ける。
人気が低迷した女子プロ野球の練習試合を見に来るとなれば、結構な物好きで顔馴染みになってしまった男性はカメラを片手に今日の試合展開を簡単に教えてくれた。駒沢選手は既に1打席目を終えており、ボテボテの内野ゴロだったようだ。気になる2打席目は、初球セーフティバントを試みてファール、ストライクを取って追い込まれた後に2個のボールから振り遅れのファールボール。そして6球目で再びセーフティバントを試みて出塁する。3打席目は初球を引っ掛けて、三塁前の内野ゴロで終わる。
パッとしない打撃とは打って変わり、守備に回ると美技の連発だ。
打球を見る前から動き出しているのは勿論、内野の頭上を越える小フライに背中を向けたダッシュで飛び込んでノールックでボールを捕った時には、ほとんど居ない観客席にワッと歓声が沸く光景が目に浮かんだ。捕った後の対処も良く、余韻に浸る間もなく俯せになった姿勢から、すぐ近くまで走り込んでいた外野手にトスを投げる。受け取った外野手は若干、戸惑いを見せるも飛び出していた一塁走者を差す為に送球した。
ボールは一塁手のミットに収まり、まさかの6-8-3の併殺である。地上波で放映される公式戦の試合であれば、何度もリプレイが流されていた場面だ。打った本人は勿論、マウンドに立つ投手ですらも唖然とした顔をしていた。当の本人は俯せの姿勢から警戒に飛び上がり、満面の笑顔で先程、連携した外野手に駆け寄ってグラブタッチを交わす。
他にも頭上を越す痛烈な打球をジャンプ一番で捕る好プレイも見られた。
今日の先発投手は打ち込まれた割に5回まで投げて無失点の成績を収める。
その結果は誰の功績によるのかは明白だ。試合を見終えて、思わず笑みが零れる。女子プロ野球で守備だけで食える選手という選手に出会えたのは初めての経験だ。ドラフト開催した時の事前情報だと、小柄な身体というのがネックになり、他球団からの指名が見送られた選手でもある。ドラマ性は十分、人気になれる素質を彼女は持っている。
隣でカメラを構えていた中年男性が私を見て、告げる。
「動画込みで5千円」
「……最初は3千円だったのに?」
「最近、税金ばかりが嵩んでいるからな」
私は大きく深呼吸をして、パチンと財布の留め具を外す。
この中年男性と懇意にしているのには勿論、相応の事情があった。
◆
試合後すぐ私は東京ヤタガラスのベンチの裏に招かれる。
首脳陣とは、相応の仲でしてウチの記者から聞き出したアマチュア女子野球の情報を横流しにする事で懇意にさせて貰っている。東京ヤタガラスは去年のドラフトで4名の選手を取っている。女子プロ野球の一球団の定員は35名で二軍はなく、出場登録者数は25名と明確に定められている。大抵は野手が20名で、投手が15名。週に6度も試合が行われる男子プロ野球とは違って、女子プロ野球の試合は週に3度なので少ない人数で回す事も出来る。
ベンチの裏では、女性投手が椅子に座って酢昆布を頬張っていた。
彼女は、三十路を超えるベテラン投手で、背番号は18。去年までは中継ぎエースとしてチームに貢献した。
「近衛投手、おはようございます」
私は、上擦る声を抑えながら彼女に話しかける。近衛投手は気怠そうに顔を上げた後、ああうん、と気のない返事を返す。私は胸元から手帳を取り出すのをぐっと堪えて「今年の新人は如何ですか?」と問い掛ける。
「中継ぎに良い選手が入ったから御役御免だって」
「と、いうことは、もしかして先発復帰ですか!?」
ぐいっと鼻息を荒くする私に彼女は「今日の目的は私じゃないんでしょ?」と苦笑交じえる。
「3位の羽瀬は、少し時間が掛かりそうだけど素材は良いから化けるかも知れない。4位の丸山はキャッチングが優れてるかな、壁役としてなら今すぐ実戦に出しても良いくらい」
高卒の新人捕手、丸山選手の高い評価に「ほう」と私は息を零す。
「近衛選手がキャッチングを評価するなんて珍しいですね」
「そう?」と近衛選手が首を傾げる。
「そうですよ、捕手を褒めたのって今から十年以上も前の話ですよ」
「十年前ってあんたまだ記者になっちょらんじゃん」
近衛選手は笑みを浮かべて、楽しそうに肩を揺らす。
「印口とか良い捕手じゃん」
「他所のチームじゃないですか、それ。同じチームの捕手で居ないんですか?」
「喜多さん以外ってなると……まあ不満はなかったよ」
「名前を上げられていないじゃないですか~!」
「藤井は、よくなったよね。うん、よくなった」
難しい顔で腕を組んだ近衛選手は、自分に言い聞かせるように何度も頷いた。
藤井選手は東京ヤタガラスの正捕手だ。まだ新人だった時に近衛選手でバッテリーを組んで教育を受けた経歴を持っている。藤井選手に近衛選手の話を聞くとまるで壊れた機械のように「近衛先輩は優しくて素敵な人です」と繰り返す。教育の賜物である。実際、藤井選手が今も引退せずに女子プロ野球選手で居続けられるのは、近衛選手の教育があっての賜物で一生、素晴らしい先輩に頭が上がらない状態になってしまっていた。
そんな後輩の態度に「失敗しても責めたことないし、優しくしてきたはずなんだけどな」と近衛選手は首を傾げる。
何も言及してくれない事の恐怖を彼女は知らないようだ。
「近衛さ~ん! 私の事も褒めてくださいよ~!!」
素晴らしい先輩に背後から抱き着く小柄な女性、背中に1番を背負った彼女は試合中でも活躍を見せた駒沢選手だ。
「社会人チームの投手相手に力負けしちょったね」
「そこは見ないでください!」
「打てなきゃ試合には勝てないんだよねえ」
今のままだと守備代走要員、と小柄な後輩に辛辣な言葉を投げかける。
「いやでも実際、素晴らしい守備でしたよ」
「ですよね! ほら、私の守備は値千金なんですよ!」
「私、防御率よりも勝ち星の方が欲しいんだよね」
勝てない投手に価値はなんてないし、と近衛選手が呟いてみせる。
「駒沢選手、1年目の目標と意気込みを教えてください!」
私がマイクを握る振りをして、偉大なる先輩に戯れる駒沢選手に問い掛けた。駒沢選手は満面の笑顔で人差し指を立てる。
「先ずはレギュラー奪取! そしてチーム防御率を私の守備で1点下げること!」
胸を張り、堂々と告げる彼女の隣で近衛選手が小さな溜息を零す。
「その分、チームの1試合平均打点を1点分を減らしたとかやめてよ」
■駒沢沙耶(こまざわ さや)※翌年2024年時
▽基本情報
年齢:20歳 出身:関東 家族構成:兄が1人、姉が1人
身長:143cm
年俸:500万円
利腕:右投左打 ポジション:遊撃手
身体的特徴:
・快活な笑顔が似合うツンツンの短髪
・わんぱく娘、八重歯
・何時もゲラゲラ笑っているような子
・プライベートだと御嬢様
▽選手としての特徴
足は速いが非力なので、打撃が苦手という欠点を持っている。
その分、守備は異次元であり、身長の低さをセンスでカバーしている。
▽経歴
・黒椿女学院女子野球部所属
2020/41回女子野球全国高校生大会:地方大会準優勝
2021/42回女子野球全国高校生大会:全国大会ベスト4
2022/43回女子野球全国高校生大会:全国大会初戦敗退
・東京ヤタガラス所属
2022/入団:ドラフト1位(単独)
▽人間関係
尊敬する人:近衛鈴歌(先輩)
特に仲の良い人:近衛鈴歌(先輩)
嫌いな人:佐武穣里(高校2年目と高校3年目で負けた対戦校の先発、現CTCエンプレシス所属)
▽プライベート
特技:紅茶の銘柄を当てる事。裁縫。
趣味:漫画、アニメ
好きなもの:カラオケ、ファストフード
嫌いなもの:他者にマナーを強要する人
本作の時系列は2023年、本編開始は翌年2024年。