切っ先が、月光を照り返していた。
構えてから一刻になる。夕焼けはとうに失せ、月は高く昇っていた。
相手はいない。ただ一人で構えているだけだ。幾人かの家人や下男達が、
二年前、巷を騒がせていた辻斬りを斬った。女子供を四人斬り殺し、追ってきた捕方十人と立ち合って二人を斬り三人に深傷を負わせ逃れたという、手練れである。
桃に斬らせよう。頭を悩ませた役人達にそう提案したのは祖父だった。
なぜ辻斬りなど、と思ってしまうぐらいの遣い手だった。辛うじて斬れたのは桃が最後まで刀を構えていられたからだ。相手は捕方から逃れる時に手負い、対峙を続けるだけの体力を残していなかった。
ただ刀を構え続けるだけの修行を、その時から始めた。一刻続けられるようになったのは一年を過ぎた辺りだったか。
今では、二刻だろうと構えていられる。そして、剣の先に何かが見えそうになる。
「桃様、湯の用意ができておりますよ」
屋敷の方から
刀を鞘に納める。振り向くと、縁側から矢翠が手拭いを差し出していた。桃は軒下の瓶から柄杓で水を掬い上げ、自分の顔に叩きつけてから手拭いを受け取った。
「桃様の剣はいつ見ても怖い。最後のなんて、庭を斬ってしまうかと思いました」
「なにも斬ってはいない」
「立派な庭木を斬り倒したじゃありませんか」
「昔の話だろう」
「はい。桃様がまだ私より小さかった時の話です」
頷きながら、矢翠はころころと笑った。
四つ歳上の女中である。桃がまだ幼かった頃に屋敷へやって来て以来、あれこれと世話を焼いてくれている姉代わりの存在だった。
その背を追い抜いたのは辻斬りを討った頃だ。今では頭一つ以上の差がある。矢翠に限らず、芝の屋敷に出入りする女で桃より背の高い者はいなかった。矢翠も女にしては上背のある方なのだ。
「お祖父様はまだ?」
「いつも通り、夕餉は桃様と共にと」
「わかった。湯浴みは手早く済ませる」
「あら、いけませんよそれでは。身を清めることは人としての嗜みです」
答えず、手拭いを押し付けて裏口へと回った。
烏の行水を済ませ居間へ向かうと、祖父が書簡から顔を上げた。膳は既に並べられている。
米が多く盛られた膳の前に桃は座った。祖父の食は年々細くなっていて、今では桃の半分も食べない。酒だけは達者で、桃が一合を空ける間に銚子を数本空にしていることもある。
「剣の修行は順調か」
先に食べ終えた祖父が酒を注ぎながら言った。桃は味噌汁の椀を降ろし、一度箸を置いた。剣について尋ねられるのは珍しい。
「わかりません」
「わからぬことはあるまい。自分のことだろう」
「刀を構えていられる時間は、多少伸びました」
「それは、強くなったということか?」
「さあ。それすらもよくわからぬのです」
「もっと、剣を振れば良いのではないか?動きの中でこそ見えてくるものもあるのだろう」
素振りは欠かしていなかった。ただ、屋敷からしばらく行った先にある林の中でだ。桃の剣は女中達から敬遠されていて、目に付くところで素振りなどすると穢れでも見るかのような視線を向けられる。気にせず声を掛けてくるのは矢翠ぐらいだった。
「なにか斬りたければ巻藁でも用意させるが良い」
祖父の言葉に曖昧に頷いて、桃はまた箸を取った。
祖父は元々ここ果島の地の名士で、朝廷に降ってからは実質的な統治を委任されている、事実上の領主である。吹けば飛ぶような小豪族だった柴の家をここまで大きくするために、若い頃から東奔西走したらしい。剣に打ち込む時間などなかっただろう。
巻藁を両断することは簡単ではない。しかし、一度できるようにさえなってしまえばそれほど難しくもないのだ。今の桃ならば、心気を研ぎ澄ますこともなく斬れる。
「まあよい。思う様続けるが良い。招いた武芸者などが、刀を構えたお主の姿を見て顔色を変えたりする。私にはわからぬが、いずれ尋常なものではないのだろう」
「未熟を嗤っているのかもしれません」
「ならば、やがて野に骸を晒すことになる。そうならぬと期待しているがな」
「それは」
桃は戸惑った。今日の祖父は、常ならぬことが多い。期待などと言われたのは初めてだった。
「邪を払い、滅する。桃とはそういうものであろう」
祖父はどこか愉快そうに笑ってから酒を呷った。ちょっと首を傾げたまま、桃も自分の盃に酒を注いだ。
◇
昔から、日の出よりもはやく目が覚める。
通いの者は勿論、住み込みの使用人もほとんど起きてはいない。ただ、外出しようとすると桃の履き物はいつの間にか用意されているのだった。矢翠が寝ているところを、桃は見たことがない。
寝間着を脱ぎ捨てて浅葱色の着物に袖を通し、二藍の帯を緩く締めた。着物も帯も男物である。道着などは持っておらず、いつも普段使いの着流しのままで剣を振るっていた。
当然袖は解れてぼろぼろになり、胴や肩は毳立っている。同じような着物があと三着ほどあった。正装も屋敷のどこかには用意してある筈だが、見た覚えすらない。
枕元に立て掛けていた刀を帯に差し込み、下緒で留めた。延寿国村。拵えの優美な一振りで、女中たちは刀掛けを使えと再三小言を垂れ流したが桃は無視していた。
裏口から外へと出る。履き物はやはり用意されていた。
林まで誰とも会わなかった。山に囲まれた地である。日の出と言っても太陽はまだ見えない。辺りは森閑としていて、幽かに揺れ動く沈丁花の芳香が風の流れを目に見えそうな程に伝えてきた。
刀を抜き、振った。爪先の下で土が抉れている。芳香が一瞬途切れた。
無心になるまで大して時間は掛からなかった。切っ先を持ち上げ、振り下ろす。反復の中に奇妙な快感がある。その余韻を斬り捨てるように、また刀を振り上げた。
何を斬っているのだ。掌の中で刀が囁いている。あるいはそれは、桃の囁きなのかもしれなかった。私は今、何を斬ろうとしているのだ。
気付くと太陽はほぼ真上まで昇っていた。延寿国村を鞘に納めて、持ち込んだ竹筒から少しずつ水を飲んだ。刀を振っている時には気付かないが、躰は絞り尽くされた布のように渇いている。水が躰に行き渡る感覚は、染みていくというのがぴったりだった。
裸で素振りをしようか、と考えたこともある。名案のような気がしたが、矢翠に強く反対されたので止めにした。言い争っても負かされるだけで、かといって矢翠を無視しようとも思えなかった。
屋敷へと歩く。人通りは朝よりずっと多くなっていた。以前は嘲るような視線を投げかけられたが、辻斬りを斬ってからはただ遠巻きに盗み見られるだけだ。
屋敷の門を潜ってから、桃は足を止めた。何か、浮足立つような気配が漂っている。
「帰ったか」
庭に回って井戸水を遣っていると、縁側から声が掛けられた。
「お祖父様。こんな時間から屋敷におられるとは珍しい」
「しばらくは、朝夕とも屋敷にいることになった。私のことは気にせず励むと良い」
「代官のお勤めはよろしいのですか?」
「事情がある」
その時、祖父の肩越しに男がやって来るのが見えた。歳は四十の半ばといったところだろうか。桃より縦にも横にも一回り以上大きく、腰元に太刀を佩いていた。
「紹介しておこう。
「ほう、これは。彼女が噂に聞く柴殿の孫娘ですな」
戌童はそう言うと、不躾にこちらを見やった。桃は小さく会釈をしてから、桶に汲んだ水を頭から被った。汗はこれで大体流れる。最近は天候も良く、躰や刀の手入れをしているうちに服も乾いてしまう。
ふと、気を感じた。桃は桶を片付けるようにしながら、さり気なく受け流した。剣気だが、切迫するものはない。
「なるほど。容貌麗しく剣に優れると聞いたが、聞きしに勝るものですなぁ」
戌童は祖父にちょっと頷いてから、こちらに向き直った。
「桃殿。しばらくこちらに身を置かせて頂く。お目障りかもしれませぬが、許されよ。どうにも、不穏な噂がありましてな」
桃はもう一度会釈をした。疲労がそろそろ足に来ている。
矢翠が布を持って駆け寄ってきた。
◇
日々はあまり変わらなかった。
一度だけ、剣を構える桃の鍛錬を戌童が見物に来たが、何も言わずに去っていった。
かなり剣が遣えるのだろう。立ち振舞いを見ていてそれはわかった。時折、桃を試すように剣気を発したりもしている。それはただ受け流すだけにしていた。
鍛錬以外では書見をしていることが多かった。屋敷の中の仕事はそれぞれ分担が決まっていて、下手に桃が手を出すと仕事を奪ってしまうことになるのだ。部外者の戌童の方が、あるいは屋敷に馴染んでいるのではないかと思うこともあった。米の買い出しなどを手伝っているのである。
戌童がなぜ屋敷に逗留するのか、桃は聞かなかった。漏れ聞こえる限りでは女中たちにも知らされていないようだ。
不穏な噂というのもよくわからなかった。市中を歩いている限り、町は平穏なように思える。
「あの方、一度屋敷を離れるようですよ」
そう教えてきたのは矢翠だった。逗留はもう十日になる。
「離れる?」
「犬の一族の方に呼び出されたようです。この十日間、一度も戻らなかったようですから」
「しかし、それなりの御歳に見えたが。不在を問い質されるような格ではないだろう」
「どうやら外様らしいです。つまり、一族の中心からはちょっと離れた立ち位置ということで」
「御家と折り合いが悪いのだろうか?」
「さあ。しかしこちらを離れるのは確かですよ」
そう言って、矢翠は声を潜めた。
「腕の立つお方なのですよね?」
「恐らくは」
「ということはやっぱり、用心棒として逗留していたのでしょうか?」
「お祖父様が狙われていると?」
「それが一番ありそうだという気がするのですが」
その時、屋敷の方から矢翠を呼ぶ女中の声がした。夕餉の仕度に入るようだ。矢翠は頭を下げ、ぱたぱたと小走りに廊下を厨房へと向かって行った。
祖父を狙う人間がいるのかあまり考えたことはなかった。果島の地においての権力者ではある。言われてみれば、命を狙われてもおかしくない気はする。しかしなぜ、犬の一族が護衛をするのか。
柴の家は元々そこまで大きくはなく、果島の地の有力氏族といえば犬、
そして、それらを超える武力を保持していたのが、三族から遠く離れた西に棲む鬼の一族である。それぞれの力関係や思想は、ぎりぎりのところで均衡していたらしい。
すべて桃が生まれる前の話である。そこからなにがどうなって、祖父が果島の地を代表する形で朝廷に降伏したのか、桃は知らなかった。
襖から夕日が透けてきた。
庭へ出て、延寿国村を構えた。微かに息を吸い、刀身に気を込める。その気をどこかへ発することもなく、ただただ真っ直ぐ正眼に刀を向けた。後ろには屋敷の営みが喧騒としてあり、前には木々の静けさがある。端座した庭石があり、塀の壁があり、目に見えない小さな生き物たちがいる。それらの調和の中に、桃は自分がするりと入り込んでいくのを感じた。気を込めた剣すらも溶け込んでいく。そして、ただ構え続ける。
男の影が入り込んできたのは半刻ほど過ぎた頃だった。
「肌が粟立つような鍛錬をなさいますな、桃殿」
戌童はそう言うと、桃の対面に周りながら太刀の鞘を払った。向かい合う。
「私も、御一緒させて頂いても?」
「御随意に」
戌童は頷いて、太刀を正眼に構えた。相正眼の格好である。そして、戌童が静かに気を放ち始めた。
初めて、桃はその気を正面から受け止めた。受け流すのとは訳が違う。空気が沈み、剣先は何倍にも重くなったように感じた。
こちらも気を発して拮抗する、という手段を桃は採らなかった。立合である。刀が重くて当然だった。しかし、まだ切っ先は微動だにしていない。内に籠められた気も逃散してはいなかった。
このまま一刻は構えていられる。そして、一刻も気を発し続けてはいられないだろう。それに、戌童の気にはどこか虚実が混じっている。
「相討ち、という訳ではありませんな」
戌童が息を吸いながら言った。桃も汗が頬を伝っている。
戌童が刀を上げた。上段。圧力は一層強くなった。それでも桃は正眼で受けた。剣先だけを僅かに上向け、戌童の胸へと向けた。いつでも突ける、という構えだ。
対峙は半刻続いた。桃の全身は汗に塗れ、戌童が肩で息をした。
「もし今、このまま立合えばどうなりますかな」
「十中八九、私が勝ちます」
「ほう」
「戌童殿の発する気にはまやかしがあります。本来は居合でしょう」
「見抜いておられたか」
居合は鞘内に気を籠め、抜刀するその瞬間まで剣筋を悟らせない。上段に構え気を発し続けるのとは根底から違う剣だ。戌童の構えにはどこか無理があった。
戌童が笑って太刀を納めた。
「桃殿は他流試合の経験が豊富であられるのかな?」
「しばらく前までは、そういうこともありました」
辻斬りを斬った頃から、それまでなんとなく桃を受け入れていた町道場なども中に上げてくれなくなった。実際に人を斬った剣を門下に向ける訳にはいかんのだ。そう言われては、押し通ることもできなかった。
「左様か。それでこの剣とは、筋が良いでは済まないな。天稟と言う他ない」
「居合というのは理屈で考えたまでです。剣を見極めた訳ではなく」
「最後までわからないから居合なのですよ。私はそれだけの気を発したつもりだった。それでも居合と見抜かれたなら、即ち私の負けということです。居合を相手に間合いに踏み込むことはされるまい」
確かにそうだった。戌童の剣が居合と思った時から、桃は最後まで構えて待つつもりだったのだ。自ら動けば居合は必ず崩れる。もっとも、崩れた居合ならば必ずしも躱せるかといえば、そうではない。
「やはり天稟だな。安心しました」
「安心?」
「数日ほど、犬の屋敷に戻らねばなりませんでな。若い頃から武者修行に出ていたもので、果島の地には数年前に帰ってきたばかり。お恥ずかしながら、家では新参者のような扱いです」
「そうでしたか」
「物騒なご時世です。腕の立つ方がいるというのは、柴殿の御屋敷にとっても何よりでしょう。まして、孫娘とあらば」
「祖父は狙われているのでしょうか?」
「力ある者は誰でも狙われる。そういう時代でしょう」
戌童はそう言って空を見上げた。月はほとんど見えない。明日が新月だった。いつの間にか降りてきた闇の中で、屋敷から漏れ出る光が辛うじて延寿国村に反射していた。それも鞘に納めると消え、辺りは不意に暗闇へ沈んだように思われた。
「なに、領地まで戻りはしませぬ。近場に一族の屋敷がありますのでな。そちらに顔を出せば済むでしょう。ニ、三日もあれば戻ってきます」
戌童が言った。笑っているような声音だったが、表情は見えなかった。