二日かかる、というのが矢翠の見立てだった。
こちらの支度にではない。送り出す側の猿の一族に、あれこれと準備が要るのだ。うんざりとしたが、行くと決まれば一日で送り出した祖父が本当は身軽すぎるのだろう。
まだいくつか顔を繋いでおいた方が良い相手がいる、という猿の当主の申し出は丁重に断った。あくまで果島の地が団結していることさえ示せればいいのだ。猿の人脈作りにいつまでも付き合う義理はない。
それでも、馬鹿げた壮行会までは断りきれなかった。その段取りや招待客の選別で、猿の屋敷は上から下まで走り回っている。出入りの絶えない門を見下ろして呆れ返る桃の横で、矢翠がいつものように笑った。
「お疲れですね、桃様」
「鬼の領地へ向かい、斬る。それだけでいいと思っていた」
「人の世はそう単純でもありませんよ」
「そのようだ。面倒だな」
矢翠はもう一度笑ってから、行李の整頓を再開した。手伝おうかと思ったが、桃が下手な手出しをするより矢翠一人の方がずっと速く作業が進む。軽く延寿国村の手入れをしただけで桃のやることはなくなった。
断りの声とともに女中が一人部屋に入ってきて、無遠慮に室内を見回した。
「こちらに柴様のお女中がいらっしゃるとか」
「私ですが」
「あら、あなたが」
女中が矢翠の手元に目をやった。視線にはやはり無遠慮という感じがある。あるいは、不躾というべきか。その目はそのまま矢翠へと向けられている。
「ちょうどよかった。ある大店に使いを出したいんだけど、ほら、この忙しさでしょう?手が足りなくて」
「それで?」
問い返したのは桃だった。女中が、ちょっと目を瞬かせた。桃は寝転んで、努めて天井を見上げた。
「それでって」
「それで、どういうご要件なのです?」
視界の隅に苦笑いする矢翠が見えた。
口が回る方ではない。女中が困惑したまま立ち往生しているのはわかったが、かける言葉は思いつかなかった。矢翠を安く使おうとしていることが不快というのも、やはりある。
「面倒な場に出会したか、これは」
戸の向こうから顔を覗かせた申が、呆れたように呟いた。後ろには公浜もいるようだ。桃は躰を起こして、再び窓の外へ目を向けた。朝の肌寒さも薄らいで、心地の良い日和になっている。人の出入りはさらに増えているようだ。
「若様、私は」
「お前は自分の仕事に戻れ。俺と公浜はちょっと散歩に出てくる。大店への使いとやらもついでに済ましてこよう」
「若様にそのようなことをお願いする訳には」
「客人だ、矢翠殿は」
女中は一度だけ部屋の中へ振り向いて、それから申に頭を下げ足早に去っていった。
「すまん、不快な思いをさせたな」
「いや」
「俺にはよくわからんが、女中の世界にも序列のようなものがあるらしい。何を基準に上とか下とか言っているのかすら判然としないがな」
「あの女中はお前付きなのか?」
「いや、父さ。だから偉い、ということはないのだが。矢翠殿も、申し訳ない」
頭を下げる申に矢翠は控え目に小さく頷いて、それからまた荷物を動かし始めた。桃は首を傾げた。矢翠らしからぬ、ずいぶんと余所余所しい態度だ。
申は特に気にした風もなく、公浜の頭に手を置いた。
「出立前に二人で散策でもしようと思ってな。兄弟水入らずというやつだ。目的地ができたのは、好都合だった」
「兄上に街を案内していただけるのです。今まで舟が行き交うのは何度も見てきましたが、兄上が仰るには船頭以外にも舟に携わっている人間は大勢いるそうで。その方々とも話をしてみろと」
「良いことなのではないかと思う、公浜殿。申は、きっと色々なことを知っているだろう」
「はい。兄上は屋敷で一番の博識だと思います」
「こいつ、口が回るようになった」
申は快活に笑って、桃に一度頷くと公浜を連れて去っていった。
その後ろ姿には、跡目を争うことになる悲哀は微塵もなかった。市井にいくらでもいる仲の良い兄弟のようだ。
「あんなものなのか」
「何がですか?」
「相争う兄弟というやつも、子供の頃はあんな仲なのか。それとも、あの二人が変わっているだけかな」
「両方ではないでしょうか。公浜様はまだ幼いからでしょうが、申様は変わった方だと思いますよ」
「随分と申に厳しいな、矢翠」
「私は桃様の女中ですから」
「どういう意味だ?」
「主に近付く殿方はよく見ておくようにと、ご当主様から言い使っていますので。桃様はその辺りに不用心ですから」
「馬鹿馬鹿しいことを。そもそもお前は柴の家の女中だろう」
「あら、そうでした」
にこにこと笑みを浮かべたままの矢翠を相手にするのが面倒になり、桃は立ち上がった。
「どちらへ?」
「少し出歩いてくる。ここにいては余計な用件を頼まれそうだしな」
「でしたら、私は調理場のお手伝いにでも行ってきましょうか」
「あまり気を遣うことはない。客人扱いで良いという、申のお墨付きもある」
「人の世はそう単純でもないと言ったばかりではありませんか。仕える立場の人間にも色々とあるのですよ。それに、働くというのは都合が良いこともありますから」
今までの人生で、誰かに傅いた経験などもちろんない。無知のまま自分の意見を押し通そうという気もなかった。それに、矢翠はこれで強情なところがある。
「わかった。任せる」
「お気をつけて」
「ああ」
立ち上がり、帯を一度締め直した。延寿国村を差し込む。
窓から見える河が、柔らかな日を受けながら水面を揺らしていた。
◇
街は活気づいていた。
鬼の一族との戦については半公然の秘密といった感じで、世情に敏感な立場の者はそれとなく勘付いてはいるが、一般の庶民は何も知らない。猿の当主がなにか盛大な宴を催すらしいという話題が活気の中心だが、それがなんの宴かについては的外れな推測が飛び交っているようだ。柴と猿の婚姻だ、という根も葉もない噂も何度か耳に入った。
訂正はしなかった。いたずらに不安を煽るよりは、平和な勘違いの方が幾分かましだろう。
桃が足を止めたのは、見知らぬ老翁が目の前で倒れたからだった。背負子から、一人で抱えるには多すぎる薪が道に散らばる。足元に転がってきた一本を桃は咄嗟に拾い上げた。
「これは失礼をいたしました」
「いえ」
「すぐに集めますので」
老翁はそう言ったが、座り込んで肩で息をしたままなかなか立ち上がろうとしなかった。指先を確かめるように曲げ伸ばししている。上手く力が入らないようだ。
乾燥した良い薪に思えた。二本、三本と拾い上げて抱える。老翁がぼんやりと桃を見上げた。
「薪はどちらまで運ばれるのです?」
「それは、川向こうまでですが」
「手伝いましょう。その指では無理だ」
「お武家様にそのようなことは」
「そんな立派なものではありません。刀は、自分の意志で差しているだけですから」
老翁は曖昧に頷いた。桃は刀の下緒を解いて、一抱えにまとめた薪を軽く縛った。湿った土や木屑が袖を汚す。口を開こうとした老翁を制してそのまま持ち上げた。固定は甘いが、俵担ぎにする分には問題ないだろう。老翁もようやく立ち上がり、一つ二つと薪を背負い直している。顔に跳ねた泥を、桃は指で拭った。
「お優しいのですね」
「暇を持て余していただけです」
「余暇が人を優しくしたりはしません。優しい人間が、余暇を善く使うのです」
「どうでもいい話です、私には。それよりこの薪は何に?」
「炭ですよ。橋の向こうにそのための小屋があります」
老翁の指差す先に小川と小さな橋が見えた。その向こうで、道から僅かに逸れた林の側にひっそりと建っているのが炭焼きの小屋だろう。
「行きましょうか」
先導して歩き始めると老翁は無言のまま後を追ってきた。足音と木々の戦ぎ、それから横を流れる川の水音だけが辺りを包み込む。
「何故、刀を差されます?」
零すように、老翁が呟いた。
「さあ、何故でしょう」
「所詮は争闘の道具です。差せば、斬らずにはいられないでしょう」
「そうかもしれません」
「貴女はお優しい方です」
「そんなことはない。刀を振っているのが似合いの人間ですよ、私は」
「似合いすぎる。哀しいほどに」
噛み締めるようにそう口にして、老翁は俯いた。
老翁の足取りが思ったよりずっと力強いことも、押し黙ったまま何を考えているのかも、何一つ桃は訊かなかった。
小屋に近付くにつれ老翁が遅れ始める。気にせずに扉の側まで行き、桃は薪を降ろして振り向いた。老翁は足を止めている。その周囲から男たちが姿を現した。小屋の中にも数人隠れているようだ。全員、野盗のような風体をしている。
「柄の悪い友人が多いようですね、ご老人」
「こうするより他になかったのです。貴女はここで死なねばならない。言い訳はしませぬ。どうか、この老体だけを恨まれよ」
「さっぱりわかりませんね。どういうことなのでしょう」
「わからぬままでよい。いや、わからぬ方がよいのだ。おさらばです、桃様」
「名も知らぬままでは恨むに恨めません」
「逸葛」
そう言って、逸葛と名乗った老翁は走り去った。入れ替わるように男たちが距離を詰めてくる。一番前にいた男がにやりと笑った。
「あのじじい、お前を誘き出せなけりゃ適当に甚振ってやるところだったんだがな。のこのことやってきやがって、年寄りの悪知恵に引っかかったか」
「お前たちがあの老人を使っていたのか?」
「おうよ。俺たちが猩々一家と知って滑稽なほど震え上がっていたぞ」
「猩々一家というとあの破落戸か」
「軽く言ってくれるぜ。てめえのせいで俺たちゃ笑いもんだ。覚悟しろ、女に生まれたことを後悔させてやる」
「つまり、私を恨んで狙っていた訳だ」
桃は口元を抑えた。失笑がこみ上げてきたのだ。
「年寄りの悪知恵に引っかかったのも滑稽さを晒したのも、どちらもお前たちのようだな」
「なに?」
「まあいい。十四、五人といったところか」
「おっと待て。刀を捨てろ。仲間を助けたけりゃな」
「仲間?」
「
「申をか。この前の連中はまだ牢屋の中と聞くが、それほど手勢がいるのかな」
「青瓢箪なお坊ちゃんなど五人もいれば十分さ。さあ、大人しくしろ」
失笑を隠すのも馬鹿馬鹿しくなり、桃は口元にやっていた手を腰に回して鯉口を切った。鍔が硬質な光を照り返す。男たちが狼狽えた。
「申も随分と舐められたな」
「おい、聞こえないのか。刀を捨てろ」
「十五人は向こうにやるべきだったな。今の申ならば破落戸の五、六人ぐらいは軽く捻るだろう」
「そんな筈はない。刀を捨てろ。捨てるんだ」
「聞き飽きた」
延寿国村。抜いてからちょっと考え、刃を返した。
ここで斬れば川まで血で汚すかもしれない。理由はそれだけだった。
◇
街を駆け回った。万が一ということもある、と思ったのだ。
それが杞憂だとわかったのは、通りの外れから悠々と歩いてくる桃を見つけたからだった。申は足を緩め、呼吸を整えた。
「無事か?」
「それは私に言っているのか?それともあの猩々一家とやらにか」
「なぜ俺があんな連中の心配をするんだ」
言ったが、よく考えると確かに不安はあった。戌童の話などを聞いていると桃は容赦のないところがある。ろくでなしどもとはいえ、全員死体となれば外聞は悪いに違いない。
「全員、斬ったのか?」
「一人も斬ってはいない。どこかしらの骨は砕いたからまともに動けんだろうが。それより、お前もやはり襲われたんだな?」
「ああ。俺を人質にしてお前を襲うつもりだったらしい。お前の方にも手勢を送ったというから全員死んだろうと思っていた」
「斬れば、川を血で汚しそうだった」
本気か冗談かいまいち判別のつかないことを言ってから、桃は何か考え込み始めた。
襲われたのは大店への使いを済ました帰りだった。とにかく公浜を逃がし、それから破落戸と向き合った。相手の匕首に対してこちらは無手である。多少手傷を負ってでも得物を奪うしかない、と思っていた。
逃がした筈の公浜が、槍に近い形状の棒を抱えて駆け戻ってきた。六尺ほどの木棹。破落戸の匕首を相手取るには十分すぎる武器だった。
「足手まといにならずに済んだ。公浜がいなければ危なかったが」
「念の為言っておくが、お前が人質にされても私は刀を抜くぞ」
「ああ、それでいい。そうしてくれ。俺もそのくらいの覚悟はある」
「だろうな。つまりお前は人質足り得ない訳だ」
「それはまあ、そうだ。そういうことになるな」
「どこで襲われたんだ、申?」
「どこって、大店からの帰りだが」
「やはりそうか。本来なら、矢翠が行っていた筈の使いだ」
言われて、背中に冷たいものが走った。
「まさか」
「私に対しての人質なら矢翠がうってつけだろう。猩々一家などは、無防備なお前を見て喜んだかもしれんが」
「ちょっと待て。矢翠殿に頼もうとしたのはうちの女中だ。まさかそんな」
「屋敷に戻るか」
足を速めた桃を、申は慌てて追った。
「裏切りか?」
「さあな。大店の旦那に頼まれれば女中は否とは言えまい」
「しかし、うちとの付き合いも長い相手だ。今さら猩々一家などと」
「絵図を描いたのは逸葛とかいう老人だ。猩々一家もいいように使われただけだろう」
屋敷が見えてきた。朝よりは落ち着いたのか、周辺を掃き掃除している姿が何人か見える。
一人が申に気付いて頭を下げた。朝の女中だった。
前に出た桃が自然な動作で女中を手首を握った。あっ、という声とともに女中が後ろによろけ、姿勢を崩す寸前で屋敷の壁に背をついた。押しつけられた格好だ。大した力が籠もっているようにも見えないが、逃げるように身を捩っても振り払えないようだった。手首だけが縫い止められたように空中で固着している。延寿国村の鐺が軽く女中の腹を突いた。
「今朝、矢翠に使いを頼みに来ましたね」
「私、私はただ手の空いている人を」
「荷造りをしていることは見て取れたと思いますが、それでも矢翠に行かせるべきと考えたと」
「それは」
女中が顔色を失っていた。桃の身長で迫ると女中は真上から見下される形になる。それに、後ろから見ているだけの申にさえ、本当に刀を抜くかもしれないと思わせるような気を桃は放っていた。
「事情があるなら話してくれないか。帰りの途で、俺と公浜が襲われた」
「若様たちが、そんな。あれはただ」
「ただ?」
申の問いに女中は一度視線を漂わせた。手首は掴んだままだが、桃は少しずつ気を収めていた。目が合う。頷いてから、申は努めて穏やかな声を出した。
「何があったのか、知りたいだけなんだ」
「その、見初めた女中がいるから使いに寄越してほしいと先方に頼まれて」
「そう言われて、おめおめと矢翠殿を差し出したのか?」
「今までも何度かあったことなんです。強引な真似はなさらない方なので、嫌ならば戻ってくるだろうと。まさか、襲撃など」
突然全ての興味を失ってしまったかのように、桃が手を離した。女中が壁に背を擦りながらしゃがみ込む。腰が抜けてしまっているようだ。
「今の話は誰にもするな。俺と公浜が襲われたこともだ」
それだけを口止めして、申は桃の後を追った。
「これからどうする?」
「どうしようもない。その大店とやらも誰かに頼まれただけかもしれん。調べるだけ無駄だろうな」
「では」
「できるだけ早めに立つ。それしかないだろう。野山に入れば搦手も限られる」
「わかった。屋敷の者に言って戌童殿を探させよう」
「よせ。あの方は鼻が利く。為すべきことはご自分で見定めるだろう」
戸を開け、部屋の中へ桃が入っていく。申が躊躇していると茵が二つ、投げ捨てるように敷かれた。延寿国村が帯から引き抜かれ、無造作に立てかけられるのを見ながら、申は腰を下ろした。桃は立ったまま外の景色に目をやっている。日差しの盛りも過ぎ、風景はどこか微睡んで見えた。
「なんとなく、嫌いではなかった」
「何がだ」
「逸葛という老人だ」
「奸計を施したのはその老人ではないのか?」
「たぶんな」
「ならば悪党だろう」
「そうだな。だから、なんとなくだ」
「なんとなく嫌いではない、か」
「私は、哀しいほどに剣が似合うそうだ」
「わからんな。桃に刀が似合うというのは同意だが、哀しいとは」
「次があったら、斬る前に訊いてみるさ」
ちょっと笑って、桃が茵に腰を下ろした。その横顔に束の間申は見惚れた。
調理場の方がようよう騒がしくなり始め、裏手の道からは豆腐を売り歩く物売りの威勢の良い文句が耳に届いた。
嫌いでない相手も斬るのか、とは訊けなかった。