申は、立っていただけだった。
桃が逸葛という老人を追って駆け出した時は、代わりに槍を振るおうという気概を持っていた。しかしその気持ちは、戌童が狗捷と呼ばれる男と向き合った瞬間に霧散した。
手練れ同士の本気の殺意。動けるものではなかった。口先だけと思われた暁犬ですら、申より冷静に対峙を見つめていたような気がする。
ただただ圧倒され、時の経過すら曖昧になっていた頃に勝負はあっさりと決まった。狗捷が跳び戌童が追従した、という風に申には見えた。あるいは、逆だったかもしれない。
右の肩から股まで、狗捷が断ち切られていた。戌童は一呼吸だけ残身を構えると、何事もなかったかのように納刀した。いつ太刀が抜かれたのかさえ、申には見極めることができなかった。
暁犬が逃亡した時も、追うことさえできなかった。呆けたように突っ立っている様は案山子のようなものだったろう。
「これが死地だ、申」
「戌童殿、俺は」
「良い。初めての立合いでまともに武器を振るえるようでは長生きはできぬ。その恐れ、捨てるでないぞ」
「鍛錬はしたのです。桃にも、相手をしてもらって」
「次は、それが活きる。立合いの当事者になった時にな。桃殿の剣気を浴びて動けるならば、まず間違いなくお主の躰は動く」
戌童はそれだけ言って、狗捷の亡骸の横に膝を着いた。同族だったのだ、と申は今更に思った。それも、決して険悪ではない仲のように見えた。
桃が戻ってきたのは昼になろうかという時だった。着物の胸元が血に染まっている。慌てて駆け寄ろうとしたが、その血の赤や大小の傷よりも、表情に申は足を止めた。
「魅志磨を、斬りましたか」
「はい」
軽い返答に対し、戌童が重々しく頷いた。
「魅志磨は何か?」
「書状を託されました。後は、戌童殿に聞けと」
「内容は」
「読みました」
「全て、書いてあったのですな?」
「ここに書かれていることは事実なのですね?」
「わかりませぬ、私には。いくらか魅志磨から事情を聞いたというだけです。嘘ではない、と思いましたが」
「二年前、人を斬りました。祖父から、女子供を狙う辻斬りと聞かされていた男です」
戌童が息を飲んだ。何の話をしているのか、申にはさっぱりわからなかった。とても口を挟める雰囲気ではない。
「それは」
「一廉の剣客でしたよ。辻斬りなど、似合いそうもない男でした。あれは鬼の一族の使者だったのですね。私は、そうと知らずに手負いのあの男を斬った」
「魅志磨がそう言っていた、というだけです」
「逸葛は幸せそうに死んでいきましたよ。この世は地獄だと言いながら。今考えれば、私か魅志磨が相手に止めを刺す姿を見たくなかったのでしょうね」
「桃殿」
「狗捷という男は?」
「斬りました。奴らしい最期だったと思います」
「親しかったのですか?」
「何度か、剣を教えたこともありました」
桃が頷いて、それから矢翠に向き直った。矢翠はいつも通り薄く微笑みを浮かべている。何も事情を知らぬのは自分だけらしい、と申は思った。
それで癇癪を起すほど子供ではない。ただ、どこか不吉だった。早く桃の手当てをするべきだと思ったが、それを言い出せないほどの不吉さだ。
「お前、知っていたな。矢翠」
「どのことでしょう?」
「私の出自だ」
「はい。桃様のことですから」
「魅志磨のことは?」
「名前は存じていました。桃様の兄上様ですから、魅志磨様は」
聞こえた言葉が脳裏で意味を結ぶのに時間がかかり、それから愕然とした。
桃の兄。祖父以外家族を知らぬと言っていた桃の兄が魅志磨だというのか。いや、それはつまり。
口を開いたが言葉は出てこなかった。様々なことが一瞬で頭の中を過って、喉でつっかえてしまっている。
「ご当主様に、お怒りですか?」
「怒りか。どうだろうな。なにか、不条理なことがある、という気はするが」
「敵を作りすぎた朝廷はやがて破綻する、とご当主様や鬼の族長様はお考えになったそうです。果島の地はそれまで時を稼げば良いと。しかし、そうはなりませんでした」
「朝廷は敵対した諸国を平らげ、今や永世の国の礎を築こうとしております。仮に乱れることがあってもそれはあくまで朝廷の下での順位争いでしょうな」
「それで、鬼の一族という刃が邪魔になった訳か」
「朝廷と真の共存を目指すうえでは」
「魅志磨は、朝廷の者がこの書状を狙っていると言っていた。連中に共存などという気があるのかな」
「政治の話です、桃様。朝廷の中にも色々と派閥がある、と聞いています」
「その派閥とやらを納得させるために私は母方を斬るのか。いや、お祖父様のためなのかな」
「ひいては桃様のためになる、と私は信じていますよ」
「そうか。お前は、そうだろうな」
桃の頷くその姿からは、昂ぶりも落胆も感じられなかった。ただ事実を確認した、というだけに申には見えた。
何も知らされぬまま、実の兄を斬り殺した人間とは到底思えない。弟のことを想って身震いしながら、それでも申は自分の言うべきことを見定めた。桃の出血の程度は未だはっきりとしないのだ。
「止血は済んだのか?」
「胸の傷は止まっている。腕は怪しいが、そのうち止まるさ」
「はやく処置をしよう。本格的な治療は犬の領地へ入ってからだ。矢翠殿」
「はい。桃様、こちらへ」
桃は抗わず、導かれるままに木陰へと消えていった。戌童が申の横に立った。狗捷の屍体はそのままだが、もう目を向けてさえいない。
剣客の持つ死生観が、申にはわからなかった。
「教えておくことがある。愉快な話ではないだろうが」
「桃は鬼の一族の出なのですね?」
「柴殿の子でもあるのだ。そして恐らく、鬼の領地には桃殿の母がいる。桃殿はそれらのことを何も知らなかった」
「気が滅入りそうな話だな」
「望まぬのならば、知らぬでも構わんぞ」
「聞きましょう。それが桃のことならば、知りたいと思います」
「若いな、申」
「いけませんか?」
「いや。お主の良いところだ」
戌童が笑って、ゆっくりと腰を下ろした。
◇
犬の領地へはすぐに入れた。先遣の兵に狗捷の屍体の処理を任せて、申達は街を目指した。
桃の傷は肩口が一番深く、晒を何重にも巻いてようやく止血した。少なくない血を失っている筈だが、それでも桃の足は申よりずっと速かった。日が落ちる頃に足を止め野宿を準備したが、申と矢翠がいなければ一昼夜で街まで届いた筈だ。
桃に躰を休めるよう言いつけてから、申は我武者羅に薪となる枝を集め、それから槍の鍛錬をした。
何もせずにいると、色々な感情が込み上げてくるのだ。それは情けなさであり、切なさであり、憤りだった。それぞれがどの事象に対応した感情なのかさえ、申にははっきりとしなかった。
槍を振った。繰り出した突きは時に鋭く、時に無様だった。申の心そのままに、穂先はあらぬ方へと乱れている。躰捌きも見れたものではないだろう。
呼吸が激しく乱れるまで突き、休み、また突いた。二の腕が疲れてくると、上から敲く動きに変え、それもきつくなると横に薙いだ。動いてさえいればそれで良かったのだ。
不意に槍がすっぽ抜けた。崩れる姿勢に抗わず、申は大の字に寝転んだ。胸中に込み上げていたものは、疲労に覆い隠され薄ぼんやりとしている。いつの間にか日は完全に沈んでいた。閉ざされた空の下で、星が静かに散りばめられている。
「飽きないな、お前も」
頭の上から声がした。桃。何気なく顔を向けて、慌てて躰を起こした。裾が割れていて、艶めかしく光る脹脛が一瞬だけ目に映ったのだ。その辺りについて、桃はほとんど無頓着だった。
「何か用か?」
「飯だ。といっても、麦を練ったものを温めただけだが。お前以外はもう食べた」
「すまん、持ってきてくれたのか」
差し出されたものを申は口に突っ込んだ。うどんを丸くまとめたような食べ物で、味も塩が多少効いているぐらいだ。料理というのも憚られる食糧だが、手軽に持ち運べて腹にはよく溜まる。
不作の時などは、稗や粟など手に入る穀物をなんでも混ぜ込んで似たようなものを作ると聞いた。街から遠く離れた農村の話である。猿の屋敷では多少不作だろうと米が食べられたし、塩や味噌の蓄えなどもあった。飢えた記憶はないのだ。
跡目の問題など、些細なことではないのか。そういう気がした。この世には飢えている民がごまんとおり、兄妹で殺し合う定めに陥った者もいる。それに比べれば跡目などただの重石のようなものといえなくもない。
桃が笑った。
「また考えすぎているな、申」
「半分はお前のせいだぞ。俺は心配性なんだ」
「それは悪かった」
「怪我は良いのか?」
「浅傷だ。魅志磨は、やはり私より腕が上だった。何度も深く踏み込もうとしたができなかったのさ。だから浅い傷しか受けなかった」
「しかし勝ったのだろう?」
「そうだな」
「なぜだ?」
「わからん。ただ、あの男は死に場所を探していたように思う。族長の孫としてな」
「家のために死ぬのか。なにか虚しい気がする」
「お前がそれを言うのか」
猿の家の体面を保つために、捨て駒同然に鬼の討伐に加わっている。申の立場はそうだった。父がそう命じたのだ。
命を受けた時の悲壮感はもう無くなっている。父に対して思うことはあるが、桃や戌童、矢翠との旅はそれを意識の彼方へ押しやるほどに充足していた。楽な旅ではない。むしろ無力感に苛まれる日々だが、虚しさとは無縁だった。
家のために死ぬなどという心持には、到底なれそうもない。
「俺は、死ぬと思うか?」
「さあな。今のお前ならば雑兵にやられることはそうそうないだろうが、手練れと向き合えば助かるまい」
「生きてやってみたいことがあるんだが」
「家を継ぐのか?」
「継げるならばそれも悪くないが、恐らく無理だろう。俺がしたいことは、船さ。船に荷を積んであちこちへ運ぶ」
「商いか」
「果島の地だけでも、物というのは行き渡ってはいない。まして、この世というのは果島の地の外にも無限に続いているのだ。物は動かした方が良い。動く距離が遠ければ遠いほど、価値が出る」
「朝廷を相手に商売をするつもりか?」
「朝廷も客だ。朝廷と敵対する国も、もちろん果島の地も客だ。その全てを俺は、一艘の船に荷を積んで行き来したい」
「果てしないことを聞いている、という気がする」
「そうさ。商いに果てなどない。犬だの猿だの雉だのも関係ない。北に物を余らせている奴がいれば北へ行き、南に物が足りない奴がいれば南へ行く。どれほど遠かろうと、それで利が出るならば俺は行くぞ。そうやって世は富んでいくんだ。同時に港湾の改修もせねばならん。船が昼夜問わず行き来できる仕組みをうちの領地に整えれば、猿の一族は果島の地で一番の氏族にだってなれる。猿の一族が玄関口となって果島の地の民達が飢えないような政治だって」
そこまで言って申は我に返った。絵空事のような話ばかりを勢い込んで口にしていた。しかも、朝廷の代官である柴の一族を蔑ろにするような内容だ。
口を閉ざすと不意に夜の静けさが周囲に落ちてきたような気がした。もうすっかり暗くなり、木々も土も岩も影だけがその存在を主張している。桃の表情を確かめることすらできず、申は前を向いたまま弁明した。
「すまん。愚にもつかないようなことばかり口走った」
「なにがだ。飢えずに済むというなら、良いことだろう」
「しかし」
「いらん気を遣うな。どのみち柴の一族が政治だなんだと言うのはお祖父様で終わりだろう。もともとは木っ端の豪族なんだ」
「お前がいる」
「私が口を出したら果島の地は終わりさ。自滅するか、朝廷に食い物にされるかだ。何より、私自身がそんなものに興味がない」
強がりも何もなく、桃は自然体のままにそう口にしているようだった。
剣客に将来などない。以前桃はそう言っていた。今は運よく生き延びていてもいずれは剣に斃れる。それが桃の考える自分の生き方であり、死に方なのだろう。
生の果てまで一直線に進むような、眩しいほどに強く、泡沫のように淡い畢生だった。
「お祖父様にその気があれば、朝廷から養子でも貰って家を繋いでいくだろう」
「お前は家を出ることになるな。いいのか、それで」
「そうなってくれねば私が困る」
「俺の」
船に乗るか。そう問いそうになって、口を噤んだ。愚にもつかない夢。自分一人ですら糊口を凌げるのかわからないのだ。他人の命を乗せる覚悟などできる筈もなかった。しかし、一度描いた考えは消し難かった。
初めて会った時のことを思い出した。猩々一家を打倒したあと、それぞれに舟を漕いで屋敷に向かったのだ。あの時、申の舟に桃を乗せていたらどんな気分だったのだろう。
空想を描いているうちに桃が踵を返した。ただ、その爪先は寝床とはまったく別の方向へ向いている。
「おい、どこへ行くんだ?」
「客だ。来るとは思っていた」
「客?」
犬の伝令、という訳ではなさそうだった。もう夜も更けている。申は慌てて立ち上がって、槍を握ると桃の背を追った。
「あまり気を抜くなよ。犬の一族の哨戒線を抜けてきたのなら、腕は立つ。夜の闇も向こうの味方だろう」
「どういうことなんだ?」
答えないまま桃は進んでいった。左手が延寿国村の柄に添えられている。敵が来ているということなのか。
ふと桃が足を止めた。周りは闇だけで、人の姿は見えない。申は木々の隙間の闇一つ一つに槍を向けた。何も反応はない。しかし桃が確信をもって足を止めた以上、そこになんらかの存在が居る筈だ。
「朝廷の方々ですね」
桃が問いを投げた。それは独り言のようだったが、どこからか声が返ってきた。
「違う」
「そうですか。とりあえず、用件を聞きましょう」
「魅志磨から奪った物を渡せ。そして我々のことを忘れるのだ。そうすれば、命は助けてやっても良い」
「話になりませんね。朝廷の方というのは随分と都合の良いことを仰る」
魅志磨が桃に渡した書状を朝廷が狙っていることは、戌童から聞いていた。朝廷の派閥の一つがその書状を根拠に果島の地を攻めようとしているのだと。
しかし桃、ひいては柴の家は朝廷に直接恭順して代官を許されている。にも関わらず書状を無理矢理に奪おうというのか。
「我々は朝廷の者ではない」
「ただの追い剥ぎならば、斬られても文句はありませんね」
「斬るだと。田舎武者風情が」
「その田舎武者の魅志磨から奪えぬから、こそこそと機を待っていたのでしょう」
「後悔するなよ、女」
「申、後ろだけ頼む。あとは私が斬る」
桃が前に出た。
不意に、前方の闇が人の形を持って飛び出した。後ろにも何がしかの気配がある。囲まれていた。
決死の覚悟で後ろを切り開くべきか。申は槍の穂先に気迫を込めた。桃の肩はまだ癒えていないのだ。気配の中に突っ込む覚悟を申は決めようとした。
背後で、桃が刀を抜いた。はっきりと空気が凍り付いた。自分なりに桃の腕前を理解したつもりでいたが、今までとはなにもかもが違っている。振り向くことすらできぬまま、申は目の前の気配と向き合った。闇の中の気配も、硬直している。
桃が動く気配がした。音。風。束の間入り乱れ、一つずつ消えていった。やはり振り向けない。血飛沫が地面を叩く音がした。刀の鍔鳴り。それから何かが落ちる音。息遣い。
相対していた気配が、突如影になって飛び込んできた。斬撃。際どく躱した。短い剣を低く遣っている。再びの跳躍を、申は石突を振り回して凌いだ。無様だと考える余裕もなかった。
後方で、また一つ音が消えた。桃は尋常ではない剣を振るっている。朝廷の隠密達は、ほとんど据え物斬りのように斬り伏せられているようだった。
肩の血は止まっていない筈だ。また考えた。無様に逃げ回っているだけでも、やがて桃がすべてを片付けてはくれるだろう。血を流しながらだ。
それを待つのは男のやることではない、と思った。
突く。躱された。しかし相手は短刀だ。まだ遠い。
二段目の突き。躱しながら、間合いに踏み込んできた。退こうとする足を、申は歯を食いしばって止めた。腕だけ退き、次の瞬間上体ごと前に押し出した。三段目。鈍い手応えとともに、槍がずしりと重くなった。我武者羅に押した。呼吸が乱れる。それでもひたすらに押し続け、なにか固いものにぶつかった。木だった。その木に縫い付けられるような形で、隠密は死んでいた。
「時間を稼いでくれ、と言ったつもりだったんだが。いつの間に三段突きなど会得したんだ、申」
「三段突き?」
「その隠密は二段目まで上手く躱した。しかし、三段目が鮮やかすぎたな」
「無我夢中だった」
「そんなものさ。戻ろう。明日には、街まで行き着かなければならない」
桃が横を通り過ぎる。初めて会った時と同じ、男物の藍の着物に延寿国村。返り血すら浴びていないように見える。
隠密の腹の辺りに足をかけ、槍を引き抜いた。糸の切れた人形のように、骸は人間らしくない動きで崩折れた。
申はふと後ろを見て、すぐに逸らした。一本の刀でなされたとは到底信じられないほどに、そこには死が散乱していた。手練れと言っていい男達が、人ではなくただの物になって積み重なっている。
戌童は桃のことを剣の怪物だと言っていた。もしかしたら、正鵠を射た評価なのかもしれない。しかし、あくまで剣の話だ。
「おい、肩は大丈夫なのか」
桃の背が遠ざかっていく、申は駆け出し、桃の横に並んだ。