道が狭かった。そこを抜けると広い空き地に出て、また狭い路地に入る。
軍学に則った造りなのだろう。背の低い建物ばかりが並ぶ街並みで、犬の屋敷だけがその威容を誇っていた。絢爛とは程遠い、質実剛健の砦のような屋敷だ。
それが比喩ではなく砦の機能を持っていることに、しばらくしてから申は気付いた。さり気なくだが、軒下や材木の継ぎ目に隠すような形で狭間*1が見え隠れしている。尚武の気風というのは伊達ではなさそうだ。
屋敷に着くと部屋に案内された。戌童は自分の住居がある筈だが、こちらと寝起きを共にするつもりのようだ。
挨拶に来た当主は存外小柄な老齢の男だった。腕なども細く、戌童と並ぶとむしろ当主に仕える執事のように見える。去っていく背中は随分と小さく感じた。
「昔は恐ろしかったものだ。鉄芯を仕込んだ短い杖を遣う方でな。腕自慢の剣客達が愛刀を叩き折られる姿を何度も見た」
「今はもう、退いておられるのですか?」
「戦場に立つことはもうあるまいな。しかし判断の果断、苛烈さは変わっておらぬ」
戌童の物言いは誇るようなものではなく、むしろ憂いに沈んでいるようだった。
風呂を使い、夜には顔合わせを兼ねたささやかな歓待を受けた。といっても質素な食事と家人の挨拶があっただけで、桃と戌童が遠慮なく酒を過ごしていることを除けば猿の屋敷であったような宴会とは比べるべくもなかった。
久々に屋根の下で夜を越え、日が昇らぬうちから庭へ出た。
槍を振るう。三段突き。一息の間に三段の突きを繰り出す技だが、なかなか上手くはいかなかった。形を真似るだけなら容易い。しかしそうして繰り出した三段目は、虫も殺せぬような弱弱しい突きになってしまうのだ。三段目を生かそうと思うと今度は一、二段目が威力を殺してしまう。
一度は成功した技である。できぬ筈はない。朝餉までひたすら槍を振るい、食事を終えてからは街に出た。
治める人間がどうであれ、民の心の底から欲を消すことはできない。倹約や質素には限界があるのだ。市場には市場らしい活気があり、申が店を覗くと食料や衣類、家具など素朴ながら質の良い物が揃っていた。ただ、陳列には欠けが目立った。豪奢な品は恐らく、犬の一族の目を盗むように早くで売れてしまうのだ。それはつまり需要が過多ということでもあった。
船を持つにも元手が必要だが、それをどこで稼ぐのか。犬の領地で売れそうな品を集める自信が申にはあった。問題は、捌いてくれる問屋が現地にあるかだ。
「猿の一族の。へえ、これはこれは、お話を聞きとうございますな」
いくつかの店に目を付け、素性を明かして話をした。犬の一族に憚って質素な商いをしているが、根は商人である。儲け話には熱が入り、気付けば日が中天に昇っていた。確実な契約などなにもできなかったが、取り扱うことを匂わせる程度のことはどこもやってきた。申としても現状でそれより踏み込んだ話をすることはできない。恐らく公平に取り扱ってくれるだろう、という店に三つほど当たりを付けただけだ。しかしこういうか細い繋がりが意外と力を発揮することは、今までの経験でわかっている。
「旦那様、お出かけのご予定では?」
「おっとそうだった。もうそんな時間か。申様、ご一緒にいかがです?」
「何か、催しがあるのですか?」
「催しといえば催しか。あまり品が良いとはいえませんがね。川原の方で打ち首があるのですよ。それも、ご当主様のご子息が」
「まさか」
「暁犬様です。なにを考えたのやら、戌童様に襲い掛かったとか。まあ、申様はご存じでしょうが」
「確かにその現場は見ていましたが、自分の子を打ち首などと」
「ご当主様は果断なお方ですからなあ。それに、子といっても随分遅くできた子で五男だか六男だか、とにかく跡目にもならぬ存在です。ゆくゆくは小役人をまとめる程度の立場に収まるしかなかったでしょう。だからこそこのような愚行を犯したのでしょうが」
小物問屋の旦那は猿の一族の内情にまでは通じていないようだった。跡目を継げぬ暁犬のことを、あまり角が立たぬように貶している。申は礼を失さぬように同行を断り、そのまま川原へ足を向けた。
土地勘はなかったが人の流れを追えば楽に辿り着けた。川原にはすでに人が集まっていた。人垣をかき分けて前に出る。
小さな川で、水が少ない季節なのか川幅よりも州の方が広い。水が流れるすぐそばに茣蓙が敷かれ、その上で手足を縛られた暁犬が俯いていた。横には太刀を手にした男がいて、そのさらに向こうには犬の当主が涼し気な表情をしながら胡床に腰を下ろしていた。
暁犬は真っ白な死装束を着ていた。ただの罪人として扱われ、見世物としてその装束を血に染めるのだろう。
犬の当主が人垣を見渡して、処刑人に首を振った。見物人が多く集まるのを待っているのだということに気付いた時、申はこれ以上見ようという意思を失った。しかし完全に立ち去る気にもなれない。人垣を抜け、川原から離れぬ位置で木に背を凭せた。
これから始まることはただ自分を陰鬱にするだけだろう。わかっていても、やはり足は動かなかった。
「来ていたか、申」
「戌童殿」
「もう少し審議や、あるいは酌量がなされるかと思っていた。しかし当主殿は甘くなかったな」
「同族に斬りかかることはそれほど罪なのですか」
「というより、鬼の一族に味方したからであろうな。逸葛のいかなる甘言に惑わされたかわからぬが、暁犬は愚かしいことをした」
「だから死ぬと」
「長男であれば許されたかもしれんな」
申の胸中を見透かすように、戌童はそう言った。
「考えても仕方のないことですね」
「そうだな。理由も擁護も最早意味はなかろう。暁犬は今日、ここで死ぬ」
ふと、一人の女が申の目に入った。人の輪の外で、表情もなく川原を見つめている。
女がこちらを見た。ちょうど申の両親と同じぐらいの歳だろう。一瞬だけ目を大きく見開き、それから深々と頭を下げると背を向けて立ち去って行った。応じるように戌童は俯き、女が去るまで頭を上げなかった。
「戌童殿、あれは」
「狗捷の母君だ。狗捷は暁犬に仕えていた。そして、暁犬の命であんな無茶を行った」
申は思わず息を呑んだ。
「それはつまり」
「仇であろうな。もちろん、狗捷を斬った私も」
「彼の殺気は本物でした。斬らねば戌童殿が斬られていた」
「大人しく斬られていればよかったものを。母親なら、そう考える。これはもう理屈ではない」
「しかし、仇など」
「良いのだ。これは剣客の持つ宿命でもある。人を斬ることは、死に連なる因果を自分の定めに巻き付けていくことなのだ。そうしていつか、私も誰かの剣に斃れる」
「戌童殿」
言葉が続かなかった。無常、などと一言で言い表すにはあまりに重い宿命を戌童は、そして桃は負っているのか。それが剣客というものなのか。
「いつか、などと言っている場合ではないかもしれぬぞ。鬼の一族は手練れ揃いだろう。私もお主も生き抜けるかは難しいところだ」
「桃はどうなのでしょう」
「桃殿は死ぬまい。もとより類稀な遣い手であったが、魅志磨との死闘を乗り越えてからの桃殿の剣は怖気が走るほどだ。あの剣に死の因果が巻き付けるとは思えぬ」
「そうか。あいつは死にませんか」
「お主も死ぬには早いな。今のうちに、生きるための小細工をしてくると良い」
「なんです、それは?」
「自分で考えてみろ。生き抜くために必要なものをな。それがお主が今するべきことだ」
いつの間にか川原にはさらに人が集まっていた。そして、人垣の最前には狗捷の母親がいた。暁犬の首が落ちるのを目の前で見られる場所だ。見てはいけないものを見たような気がして、申は目を逸らした。
「もう行け、申。お主が見るべきものはここには何もない」
戌童が背中を押した。犬の当主が立ち上がるのを尻目に、申はその場を後にした。
狭い路地を抜ける。日はやや傾いてきたようだ。遠くから歓声が聞こえたが、申は気付かぬ振りをして街を歩いた。
生き抜くために必要なもの。戌童の言葉だけをただ繰り返す。
また路地に入った。切れ間を見上げれば砦のような犬の屋敷が遠くに見える。しかし、目に見えるそこへ向かおうとしても建物と道が複雑に入り混じり、瞬く間に現在地を消失するのだった。
行くべき場所は遠いのか。遮るものを無視できるだけの力があれば、あるいはあっさりと辿り着いてしまうのか。考え続けた。道が折れ曲がる。足だけは緩めなかった。ゆっくりと歩けば、暁犬の最期を見届けた人間達に追いつかれるだろう。
首が落ちる。暁犬の血はあの装束を赤く染めただろう。狗捷の母親がその色に見た何かは、彼女が生きるために必要なものになるのだろうか。
気分が悪くなった。別のことを考えようとしたがあまり上手くはいなかなった。
船。交易。荷の重み。川を切って進む風。陽。将来に夢見るものの数々は、しかし生き抜くために必要なものではないのだろう。
ふと思いついた。いや、あえて見ないようにしていたのかもしれない。自分に必要なもの。夢のような綺麗なものには程遠く、むしろ欲に塗れたものだ。足を止めて考えた。何に追いつかれようとどうでもよくなるほど申にとっては大切で、決して即断などできぬもの。
陽が沈み、夜になった。決めた。決めてしまえば、なんということはない。これ以上に欲するものなど現れることはないのだ。悩んでいた自分が馬鹿らしくなるほどに、当然のことだった。
月明りが影を落とす街を犬の屋敷に向かって歩いた。方角はわかっているのだ。知らない道だろうと、行き着くまで行けばいいだけの話だった。
犬の屋敷。既に夕餉は済ませてしまったようだ。軽食を用意しようとする女中達に断りを入れ、申は客間の一室に向かった。桃の部屋だ。
文書を読んでいた桃が顔を上げた。討伐に加わる兵の名簿のようだ。うんざりとした表情を浮かべながらも読み進めている姿が律儀で、今から自分が言うことがちぐはぐな気がした。
腰を下ろす。桃が訝し気にこちらを見た。
「随分と街を歩き回ったようだな。夕餉にも来ないとは」
「考え事をしていた。いつの間にか夜になったようだ」
「それはまた、相当深く考え込んだな。考えすぎるぐらいが似合っているとは言ったが、食事ぐらいはちゃんと食え」
「明日は食べるさ。それに、考えはひと段落ついた。だからここに来たんだが」
「ほう、私に用か?」
「夜這いにきた」
桃がぱちくりと目を瞬かせた。間が抜けた、と感じないのは惚れた弱みだろうか。どうでもいいことを申は考えた。言葉は口に出してしまったのだ。今更どうにもできないだろう。
行燈の光が桃の鼻梁を際立てている。その奥にあまり意思を主張しない、それでいて決して濁ることのない瞳がある。美しいな、と思った。初めて会った時にもそう思ったものだ。
「酔っているのか、申?」
「一滴も飲んでおらん。正気だ」
「なおのこと悪いが、一体何をとち狂ったんだ?」
「次の戦いを生き残るために何が必要か考えた。色々想像したがどれもしっくりこない。将来にかけて欲しいものはいくらか思いつくが、それが生死の際で俺を生かすほどとは思えないんだな。悩んでるうちに、こうするのが良いと思えたんだ」
「船や家よりも女体か。即物的にすぎる気がするが、男はそんなものかな」
「女とは言ってない。お前だ、桃。お前の顔を見たいと思った」
「見ればいいだろう」
「今だけじゃない。どこでも、これからも、すべて見たいと思ったのさ」
口説く言葉を考えている訳ではなかった。頭に浮かんだままに口から放り投げる。だから出てくる言葉は、自身でも驚くほどに嘘や虚飾がなく感情に満ちていた。
桃は口を閉ざしてなにかを考えているようだった。声をかけようとして、やめた。何を言われても仕方がない。一欠片の嘘もなく、言いたいことを言った。自ら丸腰になったようなものだった。
「夜這いを仕掛け、返り討ちにあって斬られる。大間抜けとして歴史に名が残るぞ」
「だろうな。だが、俺は剣客じゃないんだ。鮮やかな死に様など望まんさ。剣に斃れるとして、それが戦場ではなく痴情のもつれでも良いかと思っている。それが自分にとって必要なことであったならなおさらな」
「馬鹿馬鹿しいが、肚は据わっているようだな」
桃が延寿国村を手元に引き寄せた。
駄目だったか。不思議と後悔はなかった。するべき勝負をして負けた。それが商売でも武芸でもなく男と女の勝負になったのは想定外だったが、商人や武芸者の前に一人の男と思えば却って清々しいような気分だ。
目は閉じなかった。どうせ死ぬなら最期まで桃の顔を見ていたい。
桃が申の顔を見返し、小首を傾げた。延寿国村はすぐ側にある。しかし、それはいつまでも抜かれなかった。
「それで?」
「え?」
「夜這いにきたのだろう?朝までそうやって呆けている気か?」
「俺を斬らんのか?」
「斬りたいと思ったら斬る。あとはまあ、反射的に斬ることもあるかもしれん。その時は諦めろ。元々、お前が馬鹿なことを言い出したんだから」
そう言って桃は机の上の文書を退かし、それから申を見た。桃の方が背が高いからか、軽く腰を浮かした申と目線はまったく一緒だった。しばらく見つめ合っても、もう言葉は出てこなかった。
目の前の光景が信じられなかった。桃は平静と全く変わらぬ様子のまま、申の動きを待っている。傍らには延寿国村がある。桃ならば、どんな姿勢からでも申を一刀両断するだろう。しかし今その剣は抜かれる様子がなく、申は生きていた。
生きていたらやりたいことが、いくつもあった気がする。その全てが申の頭から消え、ただ一つのことだけが残っていた。
両手を桃の肩に伸ばした。華奢で、想像以上に柔らかかった。もちろん並々ならぬ修行の痕跡は硬さになってそこにあるが、男の肩のそれとは全く違った。この肩から、あの尋常ではない斬撃が飛び出すとは到底思えなかった。これが、桃の躰なのか。
割れ物でも触るように優しく、肩を押した。桃は抗わなかった。ゆっくりと畳に倒れ込み、肩口で斬った髪をそこに広がらせた。静かに、いつもの瞳のまま申を見上げている。
以前の自分ならば死ぬ間際になにを思い出しただろう。両親や弟の顔か、あるいは猿の領地に生きる人々の生活か。舟が流れる川ということもあったかもしれない。
今ならば、この桃の顔を思い出すだろうと断言できる。桃はそれほどに美しく、澄み切って、申の中のなにかにはっきりとそれを置くための場所を作った。
「死んでも、後悔しないな、俺は」
「生き抜くためという話だったろう」
「それはそうだが」
「斬られてもいいというのは今だけにしろ。私が斬る時だけに」
「そうだな。確かに戦場では死に切れんかもしれん。お前になら、斬られてもいいんだが」
「安心しろ。斬りたくなったら斬る」
「おう、任せた」
行燈の明かり。消したくなかった。桃も、消せとは言わなかった。互いの顔がはっきりと見える。申は桃の顔を見ていたかったし、桃はいつでも斬れるよう申の首を見ているだろう。
顔を近づけた。二人とも目を閉じなかった。閉じないまま、どこまでも近づいていった。