目覚めた時、申は既にいなかった。
夜中に出ていく気配はあったので、そのまま自分の部屋へ戻ったのだろう。桃は寝床を片付け、何とはなしに机の前に座った。
躰が多少重い。不調と呼べそうなものはそれぐらいだった。恐らく、昼頃には回復しているだろう。楽だとは言えないが、伝え聞くほどの負担でもない、と思った。体質の問題か、それとも申が気を遣ったのかはわからない。
延寿国村を掴み、壁に立てかけた。結局抜かなかったが、それが愛だの恋だのとは思わなかった。気が向けば本当に斬るつもりでいたし、太刀筋を思い浮かべることもあった。抜かなかったことこそ気まぐれのようなものだ。
戸の外に人の気配があった。
「桃様」
「矢翠か。昨日はどこで寝た?」
「女中達が休憩に使う部屋で休ませていただきました。もちろん理由などは説明していませんよ。勝手に忍び込みましたから」
矢翠は普段とまったく変わらぬまま、くすくすと口を隠しながら笑った。微笑ましい幼子のやんちゃでも見守っていた、という仕草だ。
「気を遣わせたな。悪いのは申だが」
「無理矢理という訳ではないでしょう。申様の力量では、桃様相手に無茶はできません。何故、受け入れられました?」
「顔に傷跡を残すな、とお前に言われたことがあったな。躰の傷は、将来の相手が気にするかどうかだと」
「確かに言いました。でないと、桃様はいくらでも傷を増やしてしまいそうでしたから」
「多分、これからも増えると思う。だからその前に、誰かに見せてみるのも良いかと思った」
「躰を許すには乱暴な理由です」
「刀を振り回して生きてきたんだぞ。乱暴なぐらいで良いだろう」
「全く、桃様は」
矢翠はどこからか濡れた布を取り出し、桃の躰を拭き始めた。香料の薫りがする油も持ってきたようだ。自分なりに後始末はしたが、矢翠からすればまだ足りないのかもしれない。桃は抗わず、されるがままになった。
身の回りの世話は普段からされているが、こうやって気まぐれな行いの後始末をされると幼い頃に戻ったような気分になった。その頃の矢翠は今の桃よりずっと年下の筈だが、当時から今と同じような口調で、同じように窘められた記憶がある。人の関係性とはそんなものなのかもしれない。
気付けば、ぽつりぽつりと言葉を口にしていた。重要なことはなにも言わない。どうでもいいようなことばかり、口をついて出た。
「そうですか。申様は船を買って商いをしようと」
「生きて帰ることができればな。ただ、槍よりもずっと才がある、と思う。私は商売のことなどわからないが」
「そうでしょうね。柴のご当主様も、申様の振る舞いを伝え聞いて才覚があると評価していました」
「ほう、お祖父様にも知られているのか。ならあいつの商才は本物だろうな。ふむ」
「何を考えておられるのですか?」
「行商の船旅なら、用心棒ぐらいしてみてもいいかと思ってな」
柴の家に留まることは考えられなかったが、家を出て一人糊口を凌ぐ方法もそれほど多くは思いつかなかった。剣以外にはなにもしてこなかったといっていい。用心棒で飯が食えるなら悪くはないだろう。それが申の船ならば申し分ない。あの男の誠実さなら安く使われることなどないだろうし、まして使い捨てられることもあるまいと思えた。
「考えてもあまり意味のないことです、桃様。申様が行商の旅に出ることはありません」
「そうなのか?本人はその気だったが」
「申様がこの戦いを生き残った場合、猿の長男が見事課せられた軍役を果たして帰還したということになります。これを後継から外せば猿の一族は周辺豪族からの信頼を一気に失うでしょう。命を懸けた奉公すら切り捨てる家に、誰も従おうとは思いません」
「では、申は」
「生き残れば、まず間違いなく猿の一族の棟梁となります。商いはなされるでしょうが、自ら船に乗って旅というのは許されないかと」
「なんだ、そうなのか。申のやつめ、心配性が高じてまともな判断もできてないじゃないか」
「夢を見ておられます。虚しい夢を」
そう言って、矢翠は桃の着物を閉じた。香油もさらりと付けられたことで、昨夜の気配はすべて消え去っている。躰がかすかに重いだけだ。
矢翠が小さな紙の包を机に置いた。中身は粉末のようだ。
「これは?」
「毒です。躰が落ち着いたら水とともにお飲みください」
「ほう。人を殺すような毒か?」
「生まれる前の赤子を人とするのならば」
「私が飲めばどうなる?」
「しばらくは子ができなくなります。それ以外大きな害はありません」
「なるほどな」
桃はしばらくその包を眺め、それから袂に落とし込んだ。矢翠が立ち上がり、一礼してから部屋を出ていった。見知らぬ屋敷でもいつもなにかしら仕事を見つけてくる。それも、桃のためになるような仕事をだ。
なんとなく袖を揺らした。包の微かな重さがそこに乗っている。
矢翠は、申が死ぬと思っているのだろう。旅の間、申に対しては不自然な冷淡さをずっと持っていた。矢翠らしからぬと思っていたが、いずれ死ぬ人間に情を残したくないというのはわからないでもなかった。
子を残すなど、論外だろう。
障子を開け、しばらくの間風を受けた。朝方はまだ冷えるが、芯に響くほどではない。むしろ、躰を浅く斬られるような奇妙な快感がある。
書状を手に取り、開いた。託された書状だ。鬼の族長から祖父へ宛てたものだと、魅志磨は言っていた。身内の未練を厭ったのか、開いた痕跡すらなかった。
ゆっくりと文字を追った。以前読んだ時は魅志磨の亡骸のそばで、深く内容を読もうとは思わなかったのだ。
祖父と鬼の族長の友誼。共に朝廷への対応を練ったこと。生まれた子を祖父が秘密裏に引き取ったこと。祖父の様子がおかしくなり、表向きの対立が本物になっていく過程。咎める声すらも届かなかったこと。そして、一つの関係の終わり。
「裏切りか」
祖父は斬るべき悪だろうか。読みながら考えた。ここに書かれている祖父の所業は人道に悖るといっていい。鬼の一族を裏切り、切り捨て、朝廷に阿ろうとしている。そのために、桃を騙す形で惨たらしい殺し合いをさせようとしているのだ。鬼の一族討伐を急ぐのも、二者の繋がりが朝廷に露見するのを恐れてのことだろう。
糾弾されて当然だが、その一方で果島の地を守るうえで必要な手を打っているともいえた。もはや朝廷の権勢は揺るがず、遅かれ早かれ降伏染みた恭順が必要になる。それが本当の降伏になるかそれとも恭順の体を残せるかは、祖父と朝廷の繋がり次第だろう。鬼の一族への裏切りは、しかし果島の地を守るという最初の誓いまでを犯してはいない筈だ。
もう一度書状を読む。内容は考えず、ただ字だけを見た。今までは祖父以外にいないと思っていた、親族の字だ。なにか不思議なものを見ているような気分になり、桃は戸惑った。ただの字。しかしどこか、自分の字と似ているような気もする。いや、間違いなく似ている。
微睡んだ。夢の中で魅志磨が笑っていた。面白がるようにも、憐れむようにも聞こえた。
◇
兵は揃っていた。街を出てすぐの原野である。流石に、人が集まると相応の威容があった。
犬の一族に連なる者が八人いて、それに付き従う者がそれぞれ五人以上。合わせて大体五十人といったところか。そこに、桃達の一行が加わる。
「なんとか、形は整いましたな」
戌童が辺りを見回しながら言った。名簿を何度か読み返したが、桃は結局覚えきれなかった。最初の八人はともかく、その従者はそれぞれの主に従っているだけで横の繋がりは弱く、細かな連携などは期待できないらしい。その辺りは戌童が全て把握しているようだ。
元より桃に軍学の知識などない。部隊を鮮やかに指揮するなど土台無理な話だ。
「乱戦に持ち込むしかない、と思うのですが」
「それでよろしいでしょう。一族に連なる八人はなかなかの遣い手です。それに、上下の関係は強い。全体を見ずに局地戦をさせればそう易々とは敗れません。もちろん多数に包み込まれれば危ないでしょうが」
「鬼の一族は人数という意味で大きな氏族ではない、と聞いています。それに柴の屋敷を襲撃した三人と、魅志磨を失っている」
「逸葛も一廉の人物だったと思います。旅に出たばかりの頃に襲ってきたのは逸葛の配下の隠密でしょう。それも、斬りました」
手練れはまだいるだろうが、それは桃と戌童で相手をすればいい。闘争に長けた一族とはいえ、戦の最中に足を止めればやりようはある筈だ。犬の一族とて訓練を積んだ兵は揃っている。集団戦でそれは活きるだろう。
桃の提案を聞いていた戌童が、一つだけ異議を唱えた。
「桃殿はこの集団で一番の遣い手ですが、同時に総大将でもあります」
「まさか後ろで見ていろ、などと言う気ではないでしょうね?」
「そんな余裕はありませんな。ただ役割の違いを言っているのです。桃殿の剣は相応の相手に振るわれるべきでしょう」
相応の相手が誰なのか、戌童は言わなかった。桃も訊ねはしない。鬼の一族の族長は桃の祖父にあたる人物で、そこには母もいる筈だ。
「しかし、戌童殿お一人では」
「申を、当たらせてみるべきかと」
「死にますよ」
「死なぬことに私は賭けましょう。まあこれは、一人の男としての勘というやつですがな。
戌童の物言いに微妙なものを感じて、桃は息を吐いた。
「申も、口が堅いようで意外とお喋りだな」
「何も聞いてはいませぬ。あれで中々、男気を持っていますのでな。口を閉ざすべき事柄ではしっかりと閉ざしていますよ。しかし、言葉以上に態度に出る男です」
「私は、軽率なことをしたでしょうか?」
「生の鶏肉を食べる者達の話を、いつだったかしましたな。あれと同じようなものでしょう」
「浅ましい、と感じたことを覚えています」
「男と女のことです。浅ましいと言われればそれは否定できない。しかし、人の世にはありふれた浅ましさですよ。そして、自然なことでもある」
「深い考えや想いがあった訳ではないのですよ」
「良いのです、それで」
戌童が微笑んだ。桃は目を閉じ、しばらく考えた。
「申に任せるべき、なのでしょうね。そうして私は、必要な相手のために力を温存する」
「何が正しいことなのかはその時までわかりません。ですから今考えるべきことは、任せても良いと思えるかどうかです」
いそうもない遣い手が、この世にはいるものだ。申を一刀両断できる者もまだ鬼の一族には残っているだろう。でなければ、魅志磨程の手練れが領地を後にするのは難しい筈だ。
それが一人二人なのか、あるいは四、五人といるのか。多ければ、どの道申は立合わなければならないのだ。それならば最初から覚悟を決めておいたほうが良い。
戌童は参陣する一族や兵の者らに声をかけに行った。桃は申を探した。集団の外で手持ち無沙汰にしていた。近くには矢翠の姿もある。
「桃か」
こちらに気付いた申を見て、桃はちょっと笑った。頬が強張り、ぎこちない表情をしている。それは戦場への緊張や畏怖というより、桃との距離感を図りあぐねているように見えた。滑稽ではあるが、我が物顔をされるよりはずっとましだ。
「お前の心配性はいつも的を外すな、申」
「なんだ、緊張したら悪いか」
「緊張してないから言っているのさ。まあ、悪くはないだろうが」
「緊張している。いくつか斬り合いの場に立ち会ったが、戦場などは知らんのだ」
「私も知らん。ただ、やることは変わらないだろうと思っている。斬るべき相手を斬るだけだとな」
「俺はそこまで肚を据えられん」
「据えろ。お前には、手練れを相手してもらうことになる」
「俺が?」
「戌童殿と少し話してそう決めた。無理なら無理と言え。どうせ人手は足りんから他にも役割はある」
「お前は、無理じゃないと判断したのか」
「正直なところ、わからん。任せてもいい、とだけ思った」
「わかった。俺がやる」
「死ぬかもしれん。わかっているな?」
「ああ」
申は穏やかに頷いた。それは自信とも諦念とも違う、自然な頷きに見えた。
自分が言ったからやるのだろう、と桃は思った。あるいは桃が一番危険な相手と立合うことを見越してか。少なくとも、家のため云々というような悲壮な決意は今の申からは感じられない。
女子のために死線を越える。何か高尚な理由を並べ立てるよりは、その浅ましさの方がずっと純粋なのかもしれない。
「桃様、私もお供いたしますね」
「お前は街で待っているべきだと思うがな、矢翠」
「あら、つれないことを。桃様の大一番、私がお支えしない訳にはいきません。他の皆様方も小者ぐらいはお連れでしょう?」
「女の小者を連れてはいない」
「女性がそもそも桃様だけではありませんか。勿論、桃様には戦いに赴くだけの能力がありますが」
矢翠が口元だけで笑った。自分にも能力がある、と言いたいのだろう。だから連れていくべきなのだと。
実際、矢翠に支えられている部分は多かった。魅志磨の剣で受けた傷を手際良く処置したのは矢翠だったのだ。機転も並みの人間よりずっと効く。戦場に連れて行けば、役に立つ可能性は高い。
嫌な役目を負わされたものだ、と思った。一軍の大将なのだ。有効だと思った手段は採用せざるを得ない。申を死地に放り込み、矢翠を戦場に連れていくことが戦いのためになるのならば、そうするのが大将の責任だった。
「前には出るなよ。そういう役割を期待してお前を連れていく訳じゃない」
「はい。後方で、桃様のために役目を果たすこととします」
「お前に何も役目がなければいい、と思っているよ」
「私もです、桃様」
こんな場でも、矢翠はいつも通りに頷いた。
戦場で役目がない筈がなかった。わかっていながら何か言葉を紡ごうとしすぎて、空々しいことを言っている。
剣を振るうしかないのだろう、と思った。下手に勘案してあれこれと口で語るよりずっと役に立つ。矢翠に危害が及ばぬようにすることもできる。
戌童が戻ってきた。
「どうやら、万事整ったようです。後は桃殿の意思一つで出立できます」
桃が頷くと、戌童は控えるように後ろへ回った。申と矢翠も続いている。
延寿国村の柄頭に触れ、軽く揺すった。静かな重みだけが手のひらに返ってきた。戌童が合図を送った。
先頭の兵が、まず一歩を踏み出した。