朝の素振りから帰ってきた時には、既に戌童はいなかった。
屋敷にそれほど変わったところは見られない。当たり前だが、戌童がいる方が特殊な状態ではあったのだ。屋敷の者たちもどこか肩の荷が下りたような表情をしていた。
汗を流し、ちょっと考えてから桃は服を替えた。お茶と握り飯だけを胃に流し込んで、それから自室で横になる。眠気はなかったが、しばらく目を閉じているといつの間にか微睡んだようだった。
矢翠が起こしにきた。夕暮れに入るかどうかという時間で、桃は延寿国村を手にとってそのまま庭へ出た。書見は抜いたが、剣の鍛錬を休もうとは思わなかった。
鞘を払い、真っ直ぐに構えた。
境目がある。それは敷地の境目であり、土と木の根の境目であり、夕暮れと夜闇の境目でもあった。そこに切っ先を向ける。斬れる訳はないし、斬ってどうにかなるものでもない。それは桃がそう思っているだけで、本当は断ち切ることもできれば斬った裂け目に何かが見えることもあるのかもしれなかった。
横薙ぎの機を測っている自分に、桃は気付いた。私はこの境目を斬ろうとしているのか。しかし、斬れるのか。
不意に、幻影の戌童が目の前に浮かんできた。正眼ではなく、刀を納めている。居合。踏み込もうとしたが、その度に戌童の太刀があるかなきかの動きを見せる。斬れるだろう。しかし、こちらも斬られる。
二刻近く経ってから、刀を納めた。斬れるが斬られる。その感覚は最後まで変わらなかった。恐らく、実際に立合うまで変わることはないだろう。
柄杓の水を頭から被って、桃は庭を見渡した。新月の庭は暗かった。屋敷から漏れ出る光でなんとか樹木の形が見て取れる程度だ。
風呂に入り、夕餉へ向かった。祖父は常と変わりなく、少ない夕餉を食べ終えると銚子を傾けた。
「戌童が褒めておった。天稟だそうだ」
桃が食べ終え、酒に手を伸ばした時に祖父が言った。
「お前が斬れぬと苦笑いしておったぞ」
「私もそう思いました。戌童殿が斬れません。あるいは、斬っても相討ちかと」
「剣客とはそういうものか。人を見て、まず斬れるかどうかを吟味する」
ちょっと皮肉気に祖父が笑った。いつ頃からか皺が増えて、表情は読みにくくなっている。髪にも白い物が増えた。
「戌童は若い頃から剣に打ち込んだという。修行の旅に出て類稀な腕前になり戻ってきた。そして、一回り歳下の親族にすら外様としていいように扱われている」
「剣は役に立ちませんか」
「役に立つ。しかし、人の命を奪うことでだ。だから剣客は、どんなに純粋だろうと血に塗れていく。血の中にしか道がないのだからな。戌童にしても、斬った人数は一人や二人ではあるまい」
自分も人を斬った、と思った。そうさせたのは祖父である。斬らなければ、捕方の役人にはもっと被害が出ていただろう。
誰かを斬り、誰かを救った。剣に生きるとはそういうことだと、祖父は桃に教えようとしたのかもしれない。
「私はもう休む」
祖父が腰を上げた。桃は頷いて、盃を干すと二人分の膳を厨房へと運んだ。酔っているという程ではなく、躰の芯が温まっている感じだ。酒は強かった。あと一升飲んでも状態はほとんど変わらないだろう。
自室へ戻り、延寿国村を抱くようにして柱に背を預けた。布団は敷いてあるが、横にはならず、寝間着にも着替えなかった。目を閉じる。屋敷で働いている者たちもそろそろ帰宅する頃合だ。気配は少しずつ減っていき、残った者も眠りに就いたようだった。人の気配が消え、虫たちのさざめきが無音を埋めるように立ち込めてきた。
時の流れは数えなかった。ある時自然に桃は立ち上がり、延寿国村を腰に差した。気配。近付いている。
自室を出て、庭に降りた。新月の夜である。全てが暗く、輪郭だけが辛うじて見て取れる程度だった。その中に、三つの気配が湧き上がるように忍び込んできた。
「止まれ」
三つの内の一人が言った。全員、かなり遣える。
「柴の召使いか?」
桃は答えなかった。暗すぎて相手の姿は見極められない。向こうも、桃がはっきりとは見えていないようだ。気配だけが濃厚にある。
「去ね。背を向ける者まで斬ろうとは思わん」
黙ったまま、桃は鞘を払った。人の目には捉えられない程度の光を集めて、延寿国村が闇夜に己を主張している。
「愚かな」
三人も抜刀したようだ。人の影よりもくっきりと、三本の刀身が庭に浮かび上がった。桃は静かに刃を持ち上げて正眼に構え、あるかなきかの気を剣先に込めた。それが、突き出た岩礁のように三人の放つ気を散らしている。
「気を付けろ。こいつ、只者ではないぞ」
互いに、容易には踏み込めなかった。固着した。三本の剣である。一人を斬っても、残りの二本を無傷で凌げるとは思えない。ただ、三人は襲撃者だ。時間の経過は桃にだけ有利になる。
一人が強く気を発した。桃は抗わず、ただ剣先だけをそちらに向けた。欺瞞だろう。そのことに気付かない振りをしながら、桃は数歩横へずれた。三人がほぼ同時に位置関係を修正してくる。連携に長けた、集団戦の剣だった。
三人がゆっくりと呼吸を整え、気を高めている。潮合が弾けそうになった。
右の男が強く気を発した瞬間に、桃は真ん中へ向けて跳躍していた。それから深く沈み込む。左右の剣を際どく躱して起き上がった時には、真ん中の男は倒れていた。肩口から胴まで、延寿国村は容易く断ち切っている。
男たちは素早く纏まり、前後で陣を組んでいた。仲間が斬られたという動揺は感じられない。
「剛剣だな。しかし、戌童ではあるまい。奴が屋敷を去ったのは確認している。何者だ?」
桃はちょっと笑いそうになった。他人の家に押し入って、何者だもないだろう。
「相討ちで動きを止める。俺ごと斬れ」
前に出た男が言った。これも欺瞞だという気がする。どちらでも良い、とも思った。三人が二人になったのだ。その時点で、男たちの剣には綻びが見えていた。
男たちが動いた。暗闇の中、それは腕が四本ある一匹の怪物のように見えた。何かが空を切るような音がして、桃は咄嗟に横に飛んだ。追うように振り下ろされた刀を弾き、もう一度飛ぶ。白刃が閃いた。三の太刀まで躱した時、ほぼ無意識に桃は下から上へ斬り上げた。男の躰を刀ごと両断していた。
向き直る。残った男も正眼に構えている。最後の一人になっても心気に乱れはないようだった。いや、むしろ研ぎ澄まされている気配すらある。
今度こそ相討ちでくるのか。そこにはもう、欺瞞はないだろう。相正眼。潮合はとうに満ちている。
不意に、祖父の居室に明かりが灯った。その光が障子をすり抜けて庭へも注ぎ、桃と男を照らした。互いの姿が初めて夜に浮かび上がった。
「女?」
呟いた男が、はっきりと気を乱した。跳躍した。男が刀を振ったのは、延寿国村が脇腹から抜けた後だった。何かに驚愕したように顔を歪ませたまま、男は死んでいた。
桃は周囲を見回した。男たちの屍体以外に、小柄が庭木の側に落ちていた。先程空を切って飛んできたのはこれだろう。剣だけでなく忍の技も持っていた、ということだろうか。ならば祖父を狙っているのは、野盗や野武士のような木端の連中ではない。
「斬ったか、桃」
障子が開き、中から祖父が庭を見下ろしていた。刻まれた皺と逆光で表情は読めない。目と鼻の先で剣戟があったとは思えない程、声色は平静のままだった。
「斬りました」
「討ち漏らしてはおるまいな」
「三人来て、三人を斬りました。他に仲間がいたかはわかりません」
「ならばよい。全員討ったということだ」
「お祖父様は相手の陣容を知っていたのですか?」
「全体はわからぬ。今回の刺客が三人というのは掴んでいたがな」
「つまりまだ襲撃はあると?」
「その話は明日にしよう。部屋で休むといい」
そう言って障子を閉じた祖父と入れ替わるように、矢翠が庭へ出てきた。その後ろを寝ぼけ眼でついてきた下男たちが庭の惨状を見て腰を抜かした。
「お見事でした、桃様」
矢翠はそう言って笑い、懐紙を差し出してきた。受け取って延寿国村の血を拭った。三人を斬っても刀身に曇はなく、むしろ底冷えするような冴えを見せている。鞘に納め、玄関へと足を向けた。矢翠が指図をしている声が背に聞こえた。
◇
いつものように目覚め、着替えた。
庭は何事もなかったかのように常の姿に戻っていた。屍体はもちろん、血の一滴も残されてはいない。
素振りを終えて戻ってきた時には女中たちが忙しなく働いていた。誰も庭を忌避する素振りすら見せていない。昨日のことは、極一部の人間以外には知らされていないようだ。検分の役人すら訪れてはいなかった。
その方が桃にとっても都合が良かった。斬り合いになった経緯などを一々説明したくはない。そもそも、桃自身にも事情は飲み込めていないのだ。
祖父は屋敷にいなかった。代官の仕事を再開したらしい。
ちょっと考えてから、矢翠を探した。
「私が命じられたのは後処理だけですよ」
桃の自室に誘われた時点で用件を察したのか、矢翠は開口一番にそう言った。
「それ以外のことはなにも。遺体の始末も、ご当主様が差配されていたようで私は引き渡しただけですから」
「なるほど」
「一応薬草と晒、それに針と糸も用意してありました。使わずに済んでほっとしましたが」
「今考えると、無傷で済んだのは運が良かったな。特に初太刀と小柄は躱せたのが奇跡という気がする」
「お気をつけくださいね。剣に生きる以上仕方ないとはいえ、顔に傷を受けた桃様を見たくはありませんよ、私は」
「首から下ならば良いのか?」
「それは、将来桃様と一緒になる殿方の気にすることです」
曖昧に笑ってから桃は腰を上げた。ちょっと鼻白むような気持ちもある。
剣に生きる、などと決めた訳ではなかった。ただ、幼い頃からなぜか剣に惹かれていたのだ。
初めは棒切れを振り、やがて脇差し程の丈をした木刀を見繕った。幼い桃にはそれでも重く、数十回も素振りをすれば腕が上げられなくなった。それでも辞めなかった。豆ができ、潰れ、その跡にまた豆ができるようになった頃ようやくまともな振り方を身に着けた。少しずつ木刀を大きな物に変えていって、それに見合った振り方ができるまで素振りを続けることを繰り返した。
いつまでも剣に打ち込んでいる桃を、屋敷の者たち、特に女中たちは遠ざけるようになった。元々、出生のせいで軽んじられてもいたのだ。気にせず、桃は剣の反復の中に浸かり続けた。
延寿国村を見たのはその頃だった。噂を聞いて見物に行き、どうしても欲しくなった。祖父に頼むしかなかった。服や家具に頓着しない桃が人生で唯一祖父にねだったのが、延寿国村である。
祖父は何も言わず、矢翠を呼んで金櫃を開けさせたのだった。
だから、祖父に剣腕を必要とされるのは桃にとっても丁度良かった。恩返しの一端にはなる。
庭へ出て、延寿国村を抜いた。祖父に購って貰ってから一度も手入れを欠かしたことはない。静かに陽を受ける刃は、どこか妖しい感じさえ漂っている。
構えた。血の一滴すら残っていない庭が、不意に血煙と死臭の撒き散らされた凄惨な空間に重なって見えた。剣に気を込めるとそれは一層顕著になった。
静かに目を閉じ、自身と延寿国村の気配にだけ桃は集中した。気が乱れている。自身だけでなく、延寿国村にも人を斬った猛りがあった。
日が沈みきるまでそうしていた。それから鞘に納め、柄杓で水を被ってから風呂へと向かった。
風呂を上がり居間へ行くと、膳が三つ並べてあった。
「後から戌童が来ることになっている。一つは奴の分だ」
「戌童殿が?」
「別に待つ必要はない。食べ始めよう」
祖父が箸を取った。それ以上問いただす訳にもいかず、桃も椀に手を付けた。
米に山菜と茸の味噌汁、漬物がいくつか。小魚の干物。献立はいつもそんなものだった。貧しくはないが、祖父の立場を考えれば質素といっていいだろう。
先に祖父が食べ終え、桃が膳の上を粗方片付けた頃に、戌童が頭を掻きながら入ってきた。
「やあ、お待たせしてしまったかな」
「構わぬ。冷めているが、それで良ければ食べながら聞くといい」
「長く旅をしますと冷たい食事にも慣れるものですよ。少なくとも、塩辛いだけの携行食よりは乙なものです」
祖父は頷いて、こちらを見た。桃は居住いを正した。
「結論からいえば、襲ってきたのは鬼の一族だ」
横を盗み見た。戌童に動揺した気配はなく、それどころか無関心のまま嬉々として魚の干物を口に運んでいる。既に知っていると見て良さそうだ。
「鬼の一族がなぜお祖父様を?」
「厳密にいえば私ではない。奴等が敵と定めているのは今も昔も朝廷だ。私はあくまで、朝廷の末端として命を狙われているにすぎん」
「しかし、果島の地はずっと昔に恭順したのでは?」
「犬、猿、雉と我が一族はそうだ。しかし、鬼の一族はそうではない。我等の恭順により朝廷の征服は一旦止まった。私が代官となったことで、朝廷の者が果島の地に入り込むということもなかった。だから、鬼の一族も動きを止めたに過ぎん」
祖父が酒を口に運んだ。
「しかし、いよいよ連中は私を朝廷の側だと見做したようだ。私を消し、果島の地から朝廷の勢力を一掃するつもりだろう」
「意味のあることとは思えません。お祖父様はあくまで代官で、何かあれば朝廷から替わりの人間が派遣されるだけでしょう」
「その誰かも、鬼の一族は殺すであろう。恐らく、朝廷が諦めるまで」
朝廷が諦めることなどある筈がなかった。次々と官が殺されれば、軍勢を率いて鎮圧しに来るだけだろう。そして、果島の地の戦力ではそれに抗いようもない。その先にあるのは滅びだけだった。それも、果島の地を巻き込んでの滅びである。
「我らの生きる道は、一つしかない」
表情を隠す皺の奥から、細められた目が俄に熱を帯びた。
「鬼の一族を討伐してまいれ、桃」
戌童はいつの間にか食べ終え、祖父に目を向けていた。
「犬と猿の一族が手勢を出す。そこの戌童も含めてな。雉は輜重を担当する。それで、果島の地は決して鬼の一族に賛同する訳でないと広く示すことができる」
「討伐に加わるのは構いませんが」
「お前が、大将になるのだ」
桃は思わず亥童を見た。年長であり、何より男である。若輩の
戌童は微笑むと、桃に向かって一つ頷いた。
「筋でいえば、柴殿の家中から大将を立てるのが常道でしょう。桃殿ほどの剣豪であれば私に否やはありませぬ」
「しかし」
「文句のある者がいれば斬り捨てられればよろしい。桃殿の立場と剣腕があれば造作もないことです」
戌童は本気で言っているようだった。
「補佐は戌童にさせると良い。それから、矢翠も連れていけ。細々とした差配はあれが片付けてくれるだろう」
「私で、良いのですね?」
「腰の刀に恥じぬ働きをしてみせるが良い」
頷いた。戌童が立ち上がり、祖父と桃の盃に波々と酒を注いで回った。それから座り、自分の盃も満たしている。三つの盃はほとんど溢れんばかりだった。
「この地の未来へ」
言って、戌童が盃を一気に呷った。桃もそれに倣い、一息で盃を干す。祖父だけが、ゆっくりと目を閉じたまま盃に口を付けた。