戦勝に浮かれる中で、沈んだ人の輪があった。一つの可能性に思い至りながらも、桃はそちらへ足を向けた。戦場では避けえないことだ。
申が俯せに倒れていた。いや、違う。もう、申ではないものになっている。死んでしまえば、それは肉の塊でしかない。少し離れたところには隗洪の亡骸があった。相討ちだったのだろう。
何かがおかしいと思ったのは、申の傷を見た時だった。いくつか手傷を受けているが、致命傷は背中から胸へ抜ける小さな傷だろう。刀や槍ではこうはならない。暗器の類。戦場には似つかない武器だ。
兵の一人が戸惑いがちに声をかけてきた。
「桃様。桃様の女中を捕らえております。いかがいたしますか?」
「矢翠を捕らえた?」
「申様を刺すところを見た者がいます。隗洪とかいう敵将に打ち勝ったところを、後ろから襲ったと」
馬鹿な。口に出かけた言葉を桃は飲み込んだ。兵に囲まれながら歩み出てきた矢翠はいつもどおりの薄い笑みを浮かべていた。そこには嫌疑への反発や否定はなく、日常の延長のような穏やかさがあった。
「矢翠?」
「まあ、桃様。随分と傷を受けられました。お待ちください、すぐに処置を」
「申を、殺したのか?」
「ええ、まあ。元より決まっていたことでしたから。それよりも手当てを」
「どういうことだ。誰が、それを決めた」
「決めたのはご当主様です。ああ、心配なさらずとも猿のご当主様も承諾していることですよ」
矢翠が何を言っているのかよくわからなかった。申に死ななければならない理由はない。申はただ、自分の船で海に出ようとしていただけだ。そして、商いをする。その商いで果島の地を始めとした様々な土地に富を運ぶ筈だった。
「お祖父様と猿のご当主が、なぜ」
「申様は常々、事業斡旋や港湾整備などに様々な提案をなされていたそうです。それらを全て容れれば猿の家は柴の家を軽く凌ぐとご当主様はお考えでした。もっとも、猿のご当主様にとっては小うるさい提案だったようですが」
「私にはわからない。何を言っているんだ、矢翠」
「申様は誰からも必要とされなかった。そういうことです」
なにか、悍ましいことが起こっている。そんな気がした。桃は何も思いつかず、ふらふらと申の屍体に近づいた。
二の腕と肩口に浅い傷がある。脇腹の傷は深い。だが、命を繋げる寸前を際どく見切っている。生き抜く意思が、そこには見て取れた。そして隗洪を打倒し、この戦場を生き残る道へ踏み込んだ筈だった。
死ぬ覚悟も持ってはいただろう。しかしそれは敵の手にかかってだ。背中の傷は、悲しいほどに無防備だった。
申の手が何かを握っていることに気付いた。小柄。強く握りすぎたのか、刃が骨に当たるほど食い込んでいる。桃の小柄だった。隗洪の斬撃から申を救うために咄嗟に投げたものだ。一本ずつ指を開いて、小柄を抜き取った。
「申様は、死ぬ間際まで地を這ってその小柄を握られました」
兵の一人が沈痛な面持ちで言った。若い兵だ。決戦の前夜、申とともに夜食を囲んでいた一人だった。
「申は、何か言い残したか」
「何も。しかし、微笑んで死んでいかれました」
「お前、申は好きか?」
「はい。ほんのひと時でしたが、私のような若輩の話を聞いてくれました」
「そうか。申の遺体を運ぶ。お前が指揮を執れ」
「わかりました。必ず、申様を連れ帰ります」
「私も申も若輩だ。お前の話を、申は心から聞いたと思う」
「桃様」
「矢翠のことは私が預かる。行け」
「はい」
数人の兵が集まってきた。皆若い。荷車に藁を敷き詰め、申の遺体を乗せている。丁寧すぎるほど、丁寧な手つきだった。
誰からも必要とされなかったなど、妄言でしかない、と思った。
小柄を軽く拭って延寿国村に納める。荷車が通り過ぎてから、矢翠が一歩前に出た。
「桃様、治療を」
「いらん。浅くはないが、最低限のことはやった。後は死ぬこともない傷だ」
「左様ですか。でしたら、あちらに向かわれた方が良いかと。時間もあまりありません」
矢翠が東を指した。戦場からは僅かに外れた場所だ。
「戌童様がいらっしゃいます。伝え聞く限り、恐らく助からないでしょう」
◇
「戌童殿」
日差しを避け、木陰で一休みしている。見た目から連想するのはそんな一場面だった。しかし、戌童の躰の下では夥しい血が黒々と地面を埋めている。
俯き気味だった戌童が顔を上げた。だが、桃の場所からはいくらかずれた見当違いな方向を向いている。
「桃殿か。ということは、我々の勝ちですな」
「戌童殿、目が」
「血を失いすぎました。いやはや、あの魏蒙という男、大した手練れでしたな」
魏蒙は少し離れたところに倒れていた。傷はほとんどないが、死んでいた。戌童の躰は血に染まっていない箇所を探すのが困難なほど、傷に塗れている。
「剣の腕だけなら、魅志磨よりも上だったのではないかと思います。しかし、死への嗅覚は薄れていましたな。魅志磨はあれを躱しましたから」
「体術ですね。米神と首」
「お笑いくだされ。剣客として死に物狂いで修行してなお、剣に殉じることができませんでした。これまでに二度、剣では勝てぬと思った相手を、不意打ちの体術で殺めました。生き残りたい一心でです」
「当然のことではないかと思います。人が、生きようとすることは」
「桃殿だけは口にできぬ言葉ですな。貴女は、剣に殉じることができる。いや、そもそも剣では死なないのか」
「死にます、私も。いつか、剣で」
戌童が口元だけで笑った。死ねないと言われたような気がした。
「お身体は」
「助かりませぬ。自分でも、それがはっきりとわかります。最後に一突きもらいましてな。相討ちのように、首を折って米神を打ちました」
「何か、私にできることはありますか?」
「では介錯を。そろそろ苦しくなってまいりました」
「私でよければ」
「当代随一の剣客の手で死ねる。いち剣客として、これ以上ない誉れです。彼岸で自慢になります」
戌童の口ぶりはどこまでも飄々として、天気の話でもしているかのように軽かった。それでも、少しずつ弱っていくのが桃にははっきりとわかった。呼吸は浅く、間隔が長い。生者でいられる時間を、惜しみながら吸っているかのようだ。
延寿国村を抜いた。流石に血が巻いている。懐紙を探したが見つからず、着物の袖で刃を拭った。戌童の最期を、鈍った刃で送りたくはない。
「何か言葉を遺しますか」
「では、ひとつお節介を。申を、お側に置いてくだされ」
「申を」
「未熟ですが、良い男です、あれは。いつか必ず、桃殿の助けになります。あるいは、寄り添って生きることもできるでしょう」
桃は空を見上げた。雲も晴れ、海のような青が広がっている。色が深かった。ほんの先のような気もするし、山より遥かに高いという気もする。
申とともに船に乗れば、たぶん色々な出来事があっただろう。助けることも、助けられることもあった筈だ。
すべては遠かった。
「わかっています、申は必要だと。これから先も、縁は切れません」
自分がどんな表情をしているのかわからなかった。どんな表情でも、今の戌童に見えはしない。見られたくもなかった。
「そうですか。いやはや、歳を取ると余計な気ばかり回していけませぬ」
「ありがたいと思っています。この旅、戌童殿がおられなければどこかで倒れていたでしょう」
「様々なことを思い出します。思い出しては、消えていく」
虚ろにさまよっていた瞳が、ゆっくりと伏せられた。桃は延寿国村を構えた。
まだ、命の火は灯っている。しかしいつかは消えるものだ。
振り下ろす。首の皮一枚だけを残した戌童の躰が、眠るように前に倒れていく。血はあまり噴き出さなかった。静かな死。戌童らしい、と思った。
遠巻きにしていた兵達が近寄ってきて、戌童の亡骸を布で包んだ。荷車が引かれてくる。戌童だったものがそれに乗せられ、粛々と運ばれていく。それは無骨で不作為な葬列のように見えた。
もう一度、延寿国村を袖で拭った。躰の至る所が血で汚れている。自分の血もあれば、誰かの返り血もある。着物を汚した血の持ち主達は、もう桃を除いて生きていなかった。
延寿国村を見つめた。刃文の向こう側に血塗れの女が映っている。
刀を納め、帰還の指揮を執るべきだ。わかっていても、いつまでもそれを眺めていた。
◇
戌童の葬儀は行われなかった。戦死者をまとめての弔いがあり、その中の一人として送られたのだ。
陣形も何もない乱戦のうえ、撤退の指示が出されるその時まで鬼の一族はほとんど決死の兵だった。損害は大きく、戦場で死んだ者もいれば帰還の途次や予後で力尽きた者もいて、実に半数が命を失っていた。犬の一族に直接連なっている者も三人死んでいる。個別に戌童の葬儀を、などと言える状態ではなかった。
申は、ひっそりとした葬儀が開かれた。縁の深かったであろう船頭や露天商などは呼ばれず、猿の当主と繋がりのある商人や名主だけが淡々と参列した。
泣いていたのは、公浜だけだった。桃の姿を見つけ、近づいてくると頭を下げた。
「兄上は、立派に戦って死んだのでしょう?そうですよね、桃様」
桃はただ頷いて、それからありきたりな悔やみを述べた。申がどういう死に方をしたのか、公浜は知らないのだ。いや、恐らく参列している誰もがそのことを知らず、そして大した興味も持っていない。跡目が公浜と定まったことだけを、小さく囁きあっている。
猿の当主が知らない筈はなかった。しかし激高することもなく、桃が挨拶をした時も子を失った親として何の変哲もない定型句を返してきただけだった。
人の死に様はこうやって消えていくのだろう。申も戌童も、大勢のうちの一人として紛れていく。やがて、死そのものも風化していく。
柴の屋敷での生活は、何も変わらなかった。起きて、剣の鍛錬をし、眠る。何事もなかったかのように、矢翠も家事に勤しんでいる。申の死がどういう扱いになっているのか、桃にはわからなかった。これから先もわかることはないだろう。申はただ、歴史の狭間のような場所に消えていった。
剣を握った。夕刻の庭。ただ構え、一刻は微動だにしなかった。
陽が落ちる。剣の先に何かが見えてきた。自分。それも、血に塗れた自分だ。
他愛なく斬れる、と思う。母ですら斬れなかった存在が自分に斬れる訳がないとも思う。構えていた。構えたまま、時は過ぎていった。
「夕餉の支度が整いましたよ」
矢翠の声がした。幻影の自分が消え去る。あらゆる気配が霧散した庭で、桃は刀を納めた。
夕餉は祖父と一緒に取る。言葉はあまり交わさない。祖父の顔には陰が纏わりついていた。旅に出る前は、病を得たか酒毒に当たられたのだと思っていた。今は違う。あの陰は、祖父の内側から溢れているものだ。
食事を済ませ、酒を飲み終えると静かに眠った。朝日の中で一人起きる。延寿国村を引っ掴み、屋敷を出た。いつも素振りをしていた林へと向かう。
人の目があった。以前は感じなかったものだ。姿も見せないまま、遠巻きに探るように眺めている。
朝廷の手の者だろう。気にせずに桃は林へ入り、鞘を払った。
正眼。夕闇とは違う光の中で、桃は剣の先を見つめた。正体のない何か。それは自分になるのかもしれないし、母にも、あるいは戌童や魅志磨にもなるのかもしれなかった。
跳んだ。左一文字の横薙ぎ。斬った。何かを、刃が通り抜けた。死んでいった者達。死ぬべきだった者達。桃が今まで斬ってきたあらゆる者を、その刃が通り抜けた。
人の命を消す剣だと、鬼の族長は言っていた。そうなのかもしれない。改めて思うと、様々な命を消してきた。そうすることが正しいとどこかで思い込み、それ以上の考えをやめていた。そして今も、思っている。消すべきだと信じた命を斬ってきたのだ。消さなければ、何事も為せなかった。
だから、今考えているのは後悔とは全く別のことだった。消したくはない。しかし、消すべき命。
延寿国村を、下段に構えていた。母や魅志磨の剣だ。幾度か相対し、そのたびに自分が斬られると覚悟した剣。桃がこの世から消し去った剣。一度も鍛錬したことのないそれが、不思議と手に馴染んだ。
正眼の女が見えた。血塗れで、肩を上下させ、剣だけが微動だにすることなく構えられている。踏み込んだ。自分がどう剣を遣ったのかわからなかった。振り上げ、振り下ろしたのか。それとも左一文字に薙いだのか。
何もかもが消えていた。桃はただ一人で、剣を構えているだけだった。そうなると、桃にはわかっていた。
延寿国村を納める。どこまでも正しく、人の命を消す剣。魅志磨が、斬ってやりたかったと言っていた。
斬られるべきだったのかもしれない、と思った。それが一番安寧の道だったろう。今更、意味のないことだ。
誰を斬るべきなのか、はっきりと見えている。だから、斬るしかなかった。
屋敷へ向けて、桃は歩き出した。
次回最終話です