桃と戌童を迎えたのは、粥と二切れの漬物だった。
粥はいくらか水が多めに足されていて、塩も良く効いていた。なにより、躰に染み渡るように暖かい。
「遠火にして少しずつ温めていたのですよ。水も、少量を継ぎ足しながら作っています。あまり良い調理法とは言えませんが、すぐに暖かい物を出せますから」
問うた桃に対して、なんでもないことのように矢翠は言った。
それがどれほど面倒な作業かということは、料理をしない桃にも想像は付く。僅かにでも目を離せば粥は焦げ付くだろう。
椀を掻き混ぜてみたが、一片の焦げさえ見当たらなかった。
「桃殿は従者にも恵まれておられるな。例え金子を積んだとて、粉骨砕身働いてくれる人間というのは意外と見つからぬものですよ。おこぼれに預かれる私としては、とても助かりますが」
「矢翠は私の従者という訳ではありませんよ。柴の家に仕えているのですから」
戌童が頷き、小さく微笑んだ。それに気付かない振りをしながら桃は粥を啜った。
姉のように感じることさえあるのだ。家に仕えているだけなどと、いくら言い募っても白々しいだろう。
矢翠が口元を手で隠しながら、可笑しそうに肩を揺らしている。
「しかし、意外と手間取られましたな。桃殿の腕前ならばすぐに戻られるかと思っていましたが」
「賊が肉を焼いていまして。子供の猪でしたが、捨て置くのもどうかと思い」
「では、獣肉を?」
「正直、あまり良い料理とは言えませんでした。臭みが強くて」
「賊のやることですからな。大方、最低限の皮と臓物だけ除いて火にかけたのでしょう」
「戌童殿は、獣肉は?」
「旅の空では、食せるものはなんでも口に入れますよ。猪よりは、鳥の方が私は好ましいですが」
戌童は旨そうに粥を啜ると、脇差の鐺で焚き火をちょっと崩した。
「西方に行った時は、火を通さずに鳥を食う者と会ったことがあります」
「まさか」
「まことですよ。彼らは生の鳥を食べるのです。羽を毟り、臓物を出せば後は裂いて塩を振りかけるだけで」
「そんな」
浅ましい、と続けそうになって桃は口を噤んだ。海の魚などは生で食することもある。鳥だから浅ましいというのは理屈が通らないような気がした。しかし、口を止めても気持ちの底まで振り払えはしない。
戌童はその辺りを察したように、穏やかに続けた。
「差し出された鳥を拒んだ私を見て、彼らは笑っていましたよ。浅ましいと思ったのだろうと。私が頷くと、また笑いました」
「それで?」
「それだけです。彼らは何も否定せず、気分を害したような素振りも見せませんでした。そして、生の鳥を食べていた。とても旨そうにです。その姿を見ていると、だんだんおかしな気分になってくるのですよ。浅ましいとはいったい何なのかと」
「私には難しい話です。大切なことを聞いている、という気はするのですが」
「なに、つまらぬことですよ」
「戌童殿は、その鳥を」
「旨かったですよ。もっとも、この粥には劣るかもしれませんが」
そう言って笑うと、戌童は残った粥を掻き込んだ。
後始末を済ませてしまうともうやることはなかった。戌童は気を遣ったのか、桃たちとはいくらか離れた場所で躰を休めていた。矢翠は桃の隣で、すでに目を閉じている。戦いの場に立つことこそないが、朝は最初に起き夜は最後に眠っていた。体力の回復は常に意識しているようだ。
月が明るい夜だった。梢をすり抜けるように月光が差し込み、視界には葉を落としたままの木々が、時間から切り取られたように静止していた。靄のようなものだけが、月明かりに姿を漂わせては消えていく。
浅ましいとは何なのか。幹に背を預けながら、桃は思索を散らしていた。生きるために食事をする。尿や便を出し、男と女が交わる。浅ましいといえば、全てが浅ましかった。
考えている内に、眠気が鎌首をもたげた。それすらも、今の桃には浅ましく思えた。人は眠くなる。それがどれだけ道徳的に許されぬ状況でも、眠気に抗えないこともある筈だ。
考えること自体は嫌いではなかった。ただ、どこかで面倒になって打ち切ってしまう。
気付けば眠気の山は越えていた。立ち上がり、延寿国村を持って歩き出した。しばらく歩き、戌童らを起こすことがない場所まで離れて鞘を払った。
剣を構えている時の自分に、無駄な思索はない。どうやって斬るのか。あるいは、何を斬るのか。それだけだ。
刀を納め、小柄を抜いた。構える。しかし、手は動かなかった。ここしばらくの鍛錬で、自分の投擲になにかが足りないことはわかっている。このまま撃っても無駄だということを、頭ではなく指先が悟っていた。
五間先の木。狙いは精密になってきた。ただ、木を穿つにはなにかが足りない。
不意に、茂みの奥から何かが飛び出した。猪。それも、通常よりも一回りは大きい大猪だ。
延寿国村を掴もうとして、止めた。刀を木の根元に置いたままにして前に出る。大猪が低く唸り声をあげた。もう一歩前へ出ながら、小柄を強く握った。
大猪ははっきり桃を捉えながらも、辺りを窺っているように見えた。それは警戒というよりも、何かを探すような素振りだった。
「お前の子供なら、私が喰った」
なんとなく、そう言っていた。野盗が焼いていた猪はまだ瓜坊といってよい大きさだったのだ。母親が近くにいるというのは充分あり得た。
大猪が一瞬動きを止め、それから長く尾を引く叫びをあげた。それは濁声のように薄汚れて、酷く耳障りで、どこまでも切ない嘆きだった。
はっきりと敵意を感じた。ひとしきり鳴き続けた大猪が、凄まじい勢いで突進してくる。
小柄を構えて待った。精々が三寸程度の刃渡りで、強く鍛えられている訳でもない。まともに撃っても大猪の皮すら破れないだろう。
どこかで、まともではなくなることができるのか。
牙。跳躍することで辛うじて躱した。それは、延寿国村が遠ざかったということでもある。
大猪は意外な器用さで旋回したが、足場に苦しんでいるようだった。桃は更に跳んで距離を離した。五間。小柄は構えただけだった。穿てる訳がない、としか思えないのだ。
再び突進してきた。躱す。同じことが何度か繰り返された。息が乱れている。大猪の突進は力強く、間違っても受け流すなどということはできそうにない。大きく躱さざるを得ないのだ。
あと何度躱せるのか。躱せなくなった先には、死しかないのか。
跳んだ。牙が、着物に触れる寸前だった。大猪の動きには全く衰えが見えない。桃はとっくに肩で息をしていた。
あと二、三度だろう。そう思った。その次は、恐らく躱しきれない。
呼吸を止めた。肺が猛り狂い、躰は疲労に震えそうになっていたが、その全てを桃は無視した。瞬く間に苦しくなった。死。すぐ目の前に、それこそ大猪の牙よりも身近にそれがある気がした。呼吸をしなければ死ぬる。当たり前だった。小柄では猪を穿てないというのも、当たり前だ。
視界が一瞬明滅した。気付いた時、桃は大猪の突進を躱していた。呼吸はしていない。肺も、動いてはいない。そして、小柄を構えていた。五間。
吸い込まれるように、放った小柄は大猪の目のすぐ横へと刺さった。それは肉というよりも、豆腐かなにかに突き立ったように見えた。大猪は一度だけ前脚で地を搔いた後、生を諦めるかのように目を閉じて、ゆっくりと横に倒れた。
駆け寄ろうとして、桃も地面へ倒れ込んだ。躰が際限なく空気を欲している。しばらく息を吸い、咳き込むように吐いた。吐いた分だけ、また息を吸った。
延寿国村のところまで這って行き、刀を抱いてからようやく立ち上がった。小柄を引き抜く。血はあまり出なかった。目のすぐ側から入って、脳に繋がる管を傷付けたようだ。眠っているような姿で、大猪は死んでいた。
しばらく、桃はぼんやりとした。殺そうと思っていた訳ではない。しかし、命を消していた。
「たまげたな。こんな大猪を小柄とは。しかも、あれは
男の声は、闇の中から聞こえるにしては屈託のない呑気さだった。月明かりに浮かび上がった姿は小袖に野袴で、どこか剽軽な感じのする若い男だった。桃よりもいくらか歳上というぐらいだろう。
気配はなかった。山の中にいきなり現れた、という気がするほどだ。
「いつから?」
「お主が猪と対峙した頃だ。刀を捨てた時には、狂ったのかと思った。並みの剣客なら、太刀があっても避けるほどの大猪だ」
「魁鉄の技と言いましたね。誰ですか、それは?」
「血族さ。もっとも、血は遠いがな。柴の首を獲るなどと置き手紙して消えたが、あっさりとお主に斬られた。おまけに、小柄の技まで盗まれるとはな」
「鬼の一族ですか」
「
「私を、斬りにきたんですね」
魅志磨は答えなかった。
尋常な腕ではない。相対しているだけでも、それはわかった。刀を抜けば、恐らく必殺だろう。
桃は右足を前に出して、裾を割った。魅志磨が笑いながら刀を抜き放った。
総毛立った。明らかに、桃とは腕が違う。相討ちすらも望めるかどうか、という手練れだ。
ほとんど気圧されるようにして、鞘を払った。魅志磨がふと目を細めた。
「輪反りに小乱れすら混じらぬ直刃。延寿国村と見たが」
「まさしく」
「来国行*1の娘婿が打った刀か。因果なものだな」
何の因果なのか、よくわからないままに正眼に構えた。魅志磨は下段である。片手にぶら下げられていた刀がいつ構えを取ったのか、桃には見極められなかった。
固着した。大猪との闘争で搔いた汗は既に引いていた。むしろ、寒気を感じるほどに剣気が肌を刺している。動けなかった。潮合云々ではなく、動けば斬られると肌が感じていた。
相討ちに持ち込めるのか。考えられることはそれだけだった。
剣先に渾身の気合を込めた。まだ構えている。そして、いつまでも構えていられる筈だ。構えていられると思わなければ、飛び込んでしまいそうだった。
魅志磨の闘気が揺れた。潮合。爪先で地を掴むようにして、なんとかやり過ごした。飛べばまず斬られる。
固着していてもいずれは斬られるのではないか。疑念が浮かんでは消え、やがて何も浮かばなくなった。延寿国村。見えている。魅志磨の剣先も、はっきりと見えている。斬られるかどうかも、もう考えなかった。
浅ましい。唐突にそう思った。大猪の命と代えて、小柄の技を習得したのだ。そんな自分が生きようとすることは、どこまでも浅ましかった。
剣気。潮合。弾けていた。魅志磨が酷く緩慢な動きで斬り上げ、桃は躱すともなく躱していた。二の太刀の斬り下ろしは、どうしようもないほど凄まじかった。避けようがない。思った時、横薙ぎとともに前に踏み込んでいた。馳せ違う。転がり起きると同時に、右肩に酷い熱を感じた。斬られていた。浅傷だ。桃の斬撃は、魅志磨の袖を斬ったような手応えだけだった。
向き直る。肩の熱は、じわじわとした痛みに変わっていた。血がゆっくりと滴った。魅志磨の方は、やはり掠りもしなかったようだ。
構えた。動きに大きな支障が出るほどの傷ではない。しかし、趨勢は明らかに相手に傾いていた。相討ちも無理だろう。
「ここまでかな」
魅志磨がそう言い、飛び退りながら刀を納めた。何かしらの気配が近付いていることに桃は初めて気付いた。
「犬の一族の戌童だろう。お主と戌童を同時に相手するというのはぞっとしないな」
「逃げるのか」
「応とも。敵わんと思えば逃げる。当然のことだ」
そう言って、魅志磨は桃を見つめた。
「お主の剣は人間のものではないな。どこまでも端正な、ただの剣だ。人間味などなく、拭い去るように命を消す。ここで斬っておいた方が衆生のためなのだがな」
「勝手なことを」
「そう思うならば追ってくるがいいさ。その時は斬ってやろう」
魅志磨が背を翻した。束の間迷ったが、追わなかった。肩の痛みはだんだんと酷くなっている。
「桃殿、ご無事か?凄まじい気がぶつかり合っていましたが」
少し経ってから、戌童が飛び出してきた。桃の傷を見て驚き、それから大猪を見て言葉を失った。
「これは、いったい」
「晒を頂けますか、戌童殿。放っておいても血は止まると思いますが」
「それはもう。しかし、誰にやられたのです?私はてっきり刺客にでも襲われたのかと」
「鬼の一族で、魅志磨という男です。恐ろしいほどの手練れでした」
「鬼の。それはまた」
戌童は晒を出して桃の肩に巻くと、ふらふらと引き寄せられるように大猪に近付き、傷口を覗き込んで唸った。
「しかし、これは神技ですな。小柄の一投でこれだけの猪を狩るとは。都にもこんな遣い手はおりますまい」
「私です、それは」
戌童が振り返り、もう一度唸った。それから脇差を抜き、大猪の躰を何箇所か斬った。じんわりと滲み出すように、それでいて止まることはなく血が流れ始めた。
血抜きだろう。自分は母猪まで喰うことになるのか、と桃は思った。
気付けば夜が明けようとしている。混じり合うような月と日の光の中で、溢れだす血はいやに鮮やかに見えた。