槍を握っている時間が増えた。
以前は鍛錬といえばとりあえず素振りをしていたが、ここ数日はただ構えているだけのことも多かった。それでも、前よりもずっと自身の武芸と向き合っているという感じがする。
「桃殿に影響されたか、申」
微動だにしない申を見て、戌童がおかしそうに笑った。桃がただ刀を構える姿を盗み見てから、同じような鍛錬をするようになったのだ。
「しかし、形だけだな。お主の構えは敵も、己すらも見えてはおらぬ」
「やはり俺は未熟でしょうか?」
「誰でも未熟から始めるものだ。そして、未熟さはしばしば余人の目からは滑稽に映る」
鬼退治の一行が逗留するようになってから、戌童とはよく話をした。桃と比べると遥かに真っ当な武人然とした立ち振る舞いで、申にとっては是非とも教えを乞いたい人物だったのだ。
はっきりと技を教えてくれるようなことはなかったが、庭で鍛錬をしていると一言二言と言葉を落としていく。それが、申には有り難かった。
「滑稽ですか、俺の鍛錬は」
「今はそうだ。しばらくは嗤われていくしかあるまい」
「覚悟しています」
「お主はよりによって桃殿を手本とした。天稟を追うのは、苦しいぞ」
「戌童殿から見ても桃は天稟なのですね」
「味方で良かったと、この旅で何度も思ったものだ。剣についてはまず怪物というべきだな」
「それほどに」
類稀な剣客だろうとは思うが、怪物という印象を申は持っていなかった。等身大の、人間らしい遣い手。申を奮起させようと剣を構えた桃の姿には、強さとは別に血の通った思いやりがあった気がする。
「凄まじい迫力でしたが、俺には怪物とは思えませんでした」
「そうか、お主にはそう見えなんだか」
「やはり、それも俺が未熟だからでしょうか?」
「なんの。あるいは私の眼よりも真を捉えているやもしれぬ。人を怪物と恐れるのも、やはり盲目であろうしな。剣は人の為すことだ」
戌童は零すように呟いて、屋敷へと戻っていった。
朝の鍛錬を終えると河岸へ出る。馴染みの船頭や水夫たちに声をかけて回り、荷下ろしが滞っている舟があれば蔵まで荷を担いだ。
商いの基本は、荷を動かすことにあるのだ。舟が停まっていたのでは何の利も生みはしない。日が高いうちにできるだけ走り回らせるべきだった。
いつか灯りも整備したい、と申は思っていた。水路に沿うように灯を並べれば夜間にも荷を動かすことができる。日差しの下ではすぐに腐ってしまう品も、夜に動かせるようになればもっと遠くまで運び込むことができるだろう。交易の道を、ずっと延ばすことができる。
容易いことではないだろう。想像もできないような困難がどこかに待ち構えているかもしれない。そこにぶつかった時のためにも、船頭や水夫との繋がりは大切だった。
「申様」
「お前、怪我はもういいのか?」
「お陰様で」
荷下ろしを終えた申の前に立ったのは、以前猩々一家に甚振られていた船頭だった。
「あの後、お救い頂いたにも関わらずお礼も申し上げぬままでいたこと、大変不調法を致しました」
「当然のことをしたまでだ。それに、俺では結局力が足りなかった。礼ならば桃に言うといい」
「申様あってこそ、桃様も剣腕を振るってくださったのでしょう。それに、お礼は先ほど申し上げて参りましたので」
「桃に会ったのか?」
「ご当主様と共に挨拶回りをされておいででした」
猿の一族と柴の一族が親密に連携している。それを喧伝するための要員として、桃は父に連れ回されているようだった。桃の方にも、朝廷へ向けて各氏族の団結を示す必要があるというから渡りに船ではあったのだろう。
「父と桃だけか?」
投げかけた質問に、船頭が目を伏せた。心に暗澹としたものが広がりそうになり、申は頭を振ることで気持ちを払おうとした。
弟の公浜が、その場には居たのだろう。
氏族を代表する立場の二人に連れられて、顔を見せて回っている。引き合わされた有力者たちの脳裏には当然跡目という言葉が浮かんだ筈だ。
長幼の序は侵しがたい慣習ではあるが、家長の意向は時にそれを凌駕する。父の意図がどこにあるのか、多くの人間が忖度しているだろう。
「僭越ながら、私めは申様にお味方します」
「いいのさ、そんなことは。人々が力を合わせてより良い街を創り、それぞれの営みを安んじる。それこそが、唯一尊重されるべきことだ。俺の身上ではなくな」
船頭は浮かない顔をしたまま、一礼して去っていった。いささか綺麗事を言い過ぎたかと、申は内心で苦笑いした。
猿の領地が発展し人々が穏やかに暮せればいい、という気持ちに嘘はなかった。ただ、自らの手でそれを成したいという想いが、どうしても肚の底に燻っている。
必ずできるという自信がある訳ではなかった。ただ、やってみたい。己の持つ才覚をぶつけてみたい。領民のためなどではなく自分自身の野望として、そういう想いが拭い難くあるのだ。
それも、後継ぎが公浜と決まればどうしようもなかった。
野望などというものは過去の絵空事として、心に蓋をしながら慎ましく役人暮らしでもするしかないのだろう。
耐え難いような気もするが、実際にそうなればあっさりと馴染んでしまう自分の姿も想像できなくはなかった。ただ、虚しさは残る。
「坊っちゃん、乗りやすかい?」
「どっちに行く?」
「上りますよ」
別の船頭から声をかけられて、申は舟に飛び移った。
手伝いを終えた後は適当な舟に乗せてもらうことも多かった。ここからなら、下りの流れに乗れば猿の屋敷まで大した時間もかけずに行き着く筈だ。上りならかなりの遠回りをすることになる。
「棹を借りていいか?」
「そりゃ構いませんが、どこまで行くつもりで?」
答えずに、申は棹を水底へと押し込んだ。舟がゆっくりと滑り出し、川を遡上し始めた。
◇
屋敷に戻ったのは夕方だった。馴染みの船頭の舟を乗り継ぎ、街を一周する形で屋敷まで戻ってきたのだ。棹を操り続けた腕は酷く疲弊していたが、それでも申は槍を握った。
庭へ出て、構えた。突く。全身の力を上手く槍に伝えながら、最後に腕で押し出す。言葉にすれば容易いが、自身の躰でさえ意思十全のままに支配しきるのは難しい。
一度だけ戌童が突きを見せてくれたことがある。刀と槍では訳が違うが、こういう突きを放てれば、と思わせるだけの凄味はあった。
突きを繰り返す。回数は多くないが、一突き一突きに渾身の気迫を込める。それでも、無造作に見えた戌童の突きにさえ遠く及ばなかった。
突きを終えると薙ぐ動きを繰り返す。そして、構えだった。
庭の木々へ向けて真っ直ぐに槍を構える。静止し、雑念を払い、穂先だけを見据えようとする。そういう自分であろうとする。
しかし、何かが足りなかった。桃と対峙した時にはあった筈の何かが、今の申にはない。
「随分と熱心らしいな、申」
縁側のそばに、いつの間にか桃が立っていた。腰には延寿国村がある。
「帰ったのか」
「お前の気、外にまで漏れていたぞ」
「槍に全てを込めようとした。しかし、上手くいかん」
「そうだろうな」
桃が鯉口を切った。延寿国村。切っ先の照り返しに打たれた瞬間、申は自分の全身に緊張が走ったのを自覚した。
桃は刀をぶら下げたまま、ただ立っているだけだ。申はゆっくりと槍の穂先を桃に向けた。息を一つ吐く。僅かな動作だけで躰が悲鳴をあげていた。槍がにわかに重くなった。
突ける筈だ。そう思った。状況の全てがこちらにとって有利になっている。得物の長さも先に取った構えも、初動で絶対的な差を生む筈だ。
そう思っても申は動けなかった。動けば斬られる。斬ると、桃の剣気が語っている。
突けない。しかし、退くこともできない。構えていた。それ以外にできることが何も思いつかなかった。
どれぐらいの時が経ったのか。槍がますます重くなり、額からは汗が流れた。自分が正しい構えを取っているのかさえ、申にはわからなくなっていた。しかし、構え続けるしかない。
不意に、桃の姿が掻き消えた。無我夢中のまま槍を打ち込み、跳ね上げた。風。倒れ込む。転がって起き上がった時、桃はもう刀を納めていた。鼻先が強烈な刃風の残り香に痺れている。
躱した。信じられない気持ちで申は穂先を見つめた。確かに、桃の一太刀を躱していた。
「今日は、死なずに済んだな」
「手を抜いたのか?」
「薄皮一枚ぐらいは斬るつもりでいたさ。だが、当たらなかった」
「なぜ?」
「何を言っている。お前が躱したんだろう」
呆れたようにそう言ってから、桃は縁側の柱に背を預けた。
「そうか。俺が躱したのか」
「二の太刀を遣えば斬れた。倒れ込んで躱すなら、起き上がるにしろ倒れたまま防ぐにしろ、素速くした方が良い」
頷いて、もう一度槍を見つめた。
どうやって躱したのかは覚えている。突きを途中で上に曲げ、それから跳んだ。なぜそうできたのかは、自分でも説明できなかった。
「二年前、初めて人を斬った。女子供を襲った辻斬りの男だ」
桃が、見るともなく虚空に視線を漂わせたまま言った。
「捕らえようとしたのか?」
「いや。頼まれて、最初から斬るつもりで行った。祖父がそう差配したんだが。捕方の手には負えないような相手だったんだ」
「そこでお前が行って、あっさり斬ったわけだ」
「ところが、相手の方が腕が上だった。斬られると思ったさ」
「辻斬りだろう?それも、女子供を狙うような」
「なぜ辻斬りなどに手を染めたのだろうと、今でも疑問に思うことがある。一廉の剣客だったよ。対峙した瞬間から、私が斬られるものと覚悟した」
「だが、お前が勝った」
「そうだな」
「なぜだ?」
「今のお前と似たようなものだ。何も考えられず、ただ構え、躱した」
その言葉は、新鮮な驚きをもって申の心に届いた。桃が自分と同じような心境になることなど、あり得ないような気がしていたのだ。
「相手は立ち合う前から負傷していた。出血で動きが鈍るまで、私は斬られないことだけを考えて待っていたのさ。その後から、ただ構える鍛錬を始めた」
「そうか。お前も、最初からあんな鍛錬をしていたわけではないのか」
「当たり前だろう。始めた頃、構えた私の前にはいつもあの辻斬りの幻影が浮かんでいた」
自分に足りなかったものはそれなのだろう。
どれだけ心気を研ぎ澄ませようとしても、目蓋の裏に幻影が浮かんでくるようなことはなかった。曖昧な何かと向かい合い、槍を構えていたのだ。滑稽だと言った戌童の言葉が、ようやく申にも飲み込めた。
ふと、桃がやってきた理由に思い至った。
「お前、戌童殿に言われてきたな」
「あの人が存外、お節介を焼く方なのだと初めて知った。気に入られたな、申」
「有り難いが、不相応という気もする」
「槍の手練と立ち合ったことがないとぼやいておられた。お前、長じれば斬られるかもしれんぞ」
「冗談だろう、おい」
桃がちょっと笑った。空には沈みかけの陽も顔を出したばかりの月も浮かんでいる。複雑に入り混じった光が、縁側に柔らかく注いでいた。太陽とも月ともとれぬ光だ。
光の中で、桃は美しかった。
梢が擦れ合う静かなさざめきと屋敷から辛うじて届く喧騒が、庭の無拍子な背景として囁きあっていた。
静かだった。この静けさの中では、何も憚ることがないような気がした。
「今日、公浜も一緒だったのか?」
桃は相変わらず柱に背を預け、懐手で前を向いていた。
「
「領民を手伝うことが責務と考えれば、まあそうだ」
「その責務をお前だけが負う道理はないな。猿殿も、弟もそうだろう」
「役割というものがある。父にも俺にも、公浜にもな」
「公浜は無邪気だな。屈託がない」
「誤解されないように言っておくが、俺は公浜のことが好きなんだよ。ああいう弟がいてくれることを幸福に思う」
「家督を奪われてもか?」
「それは父が決めることだ。そもそも、家督の話と公浜への気持ちは分けて考えるべきだと俺は思う。家族なのだからな」
「そんなものか。私には、あまりわからない話だ」
「お前、兄弟は?」
「いない。多分な」
思わず、申は顔をあげた。
「どういうことだ?」
「そのまんまさ。兄弟がいるかどうかはわからん。そもそも母を知らないからな」
「しかし、柴殿の一族だろう?
「祖父だ。これも多分と付くが」
「気持ちの話をしているのか?」
「いや。単純な血縁として、祖父が父ということさ」
「おい、全くわからんぞ」
「ある日突然、幼子を自分の孫だと言って連れ帰ってきたらしい。他には何の説明もなしにな。どこぞで行きずりの女を孕ませたのだと、誰だって思うだろう」
何を言うべきなのか、申は言葉を探した。同情は拙く、共感は薄っぺらい。父が父であり、母が母であることが申にとっては当然だったのだ。
陽が沈む。肌寒い風の中で、入り乱れていた光が解けていくのを、言葉もなくただ見ていた。屋敷からはいつもと変わらない炊事の音が穏やかに響いている。桃は薄く笑ったままで、焦燥の中にいる申がむしろ場違いのような感じさえあった。
「あまり悲壮になってくれるなよ。最初からそういうものと思っていれば、気に病むこともない。女中たちの態度だけは閉口したが」
「矢翠殿とは仲が良いように見える」
「私が幼い頃にどこぞの家からやってきて、女中になった。面倒なのは私が来る前から仕えている女中たちさ。つまりは矢翠以外の全員ということになるんだが」
「そうか、矢翠殿は味方だったか」
「姉のようだ、と思ったこともある。本人には言うなよ」
その物言いで、申は心が一つ休まるのを感じて胸を撫で下ろした。桃に寄り添ってくれる人がいたことは、浮世に一筋陽光が差し込むのを見たかのような、不思議な充足を伴って実感となった。
「姉か。それは良い」
「人のことを慮っている場合でもないだろう。お前は生きて帰れるかわからない旅に出て、帰ったとしても家督を取り上げられるかもしれない」
「それは俺の事情だ。他人の幸福を喜ばない理由にはならん」
「私は他人に疎い方だが、お前が随分と損な性分をしているらしいことは流石にわかってきた」
似たようなことを言われたことがある。屋敷での勉学や社交よりも現場での肉体作業に精を出す申を見て、あれは損をする男だ、と親族が噂しあっていたのだ。
作業を手伝って損をしたとは思っていない。それでも、言葉が堪えることはあった。
「だがまあ、悪くない」
桃が柱から背を離し、屋敷へと躰を向けた。夕餉の香りが、少しずつ庭にも漏れ出してきている。
「損な性分でもか?」
「ああ」
「そうか、悪くないか」
香りが強くなってきた。魚と味噌汁、あとは茸を焼いたものだろう。
申は頭の中で算盤を弾いた。屋敷に籠ることがなかっただけで勉学自体は怠らなかったのだ。物の値段は、街を巡る間に自然と頭に入れていた。夕餉の食材の質や値段もすぐに思い浮かぶ。
やはり損はしていない。桃や戌童とともに行くなら、旅も損にはならない、という気がした。
「いい加減、顔見せだのにも飽き飽きしてきた。そろそろ出立するぞ。矢翠の支度次第だが二、三日あれば十分だろう」
「それまでにお前の二の太刀を躱してみよう」
「面倒だ。戌童殿に斬ってもらえ」
桃が屋敷へと戻っていく。後を追おうとして、自分の躰が汗に塗れていることに気付いた。桃が来たのは鍛錬の途中だったのだ。
何気なく構えを取った。気負いもなにもない。そして、幻影の桃が目の前に浮かんでいた。呼吸、それから斬撃。
躱す間もなく、一太刀で斬られた。そうそう上手くいくものでもない。苦笑いしながら、申は一度だけ槍を振って玄関に回った。