器ゼロの使い魔   作:垂直抗力

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序章:ゼロの器編
1 亭主関白の消失


 

 

 冷え切った屋敷の中を、一人の女が歩いていた。

 早朝の静かな廊下を進むとなると彼女の足音が反響しそうだが、実際はとても静かだ。

 そんな静寂が作られているのは、彼女自身の意思によるものである。

 

「――」

 

 張り詰めた空気に満ちたその屋敷は、彼女にとっては監獄と何ら変わりはなかった。否、彼女というのは語弊がある。何せ、屋敷の住人のすべての女性がそう思っているに違いないのだから。

 そう思わせる発端となった人物は、今は姿が見えない。結局のところ『彼』の体は一つ。『全員の妻』を常に監視できるはずもなく、彼の目に入らない時間でだけ唯一心を取り戻せるのだ。

 

「――っ」

 

 周りに人がいないことを確認し、張り詰めていた体の力を抜く。

 無に徹していた心に灯が宿り涙がこぼれそうになるが、必死に堪える。

 一度感情を解放させたらもう戻ってこれないのではないかという不安以上に、主の意向に逆らうことへの恐怖。そのことが、彼女の表情を人形のようにするのだ。

 

『笑うな。泣くな。喚くな。怒るな。——ただ可愛い顔をしていろ』 

 

 人を人としない扱い。大の大人が人形遊び。そんな悪辣なお遊戯が始まったのは、この言葉からだった。『彼から発せられる音』は、聞くに堪えないものばかりだ。

 自分の中で全てが完結している彼は、人語を介した会話という高等技術をもたない。上辺だけの言葉で、論理のろの字もない身勝手な理論を押し付け、意にそぐわない対応をしたものには平等に死を押し付けるのだ。

 

 そんな彼の全てが気持ちが悪かった。清潔というよりは汚れ一つないというのが彼だが、とても生理的に受け付けなかった。あれと比べたら、この世のどんな男も高尚に見える。

 そんな身の毛のよだつ彼の気色悪さは、屋敷のいたるところに反映されている。当然、屋敷中の品々もその一つだ。

 

「――」

 

 潔癖症を疑われるほどに白一色の調度品達は、主の趣向によるものだ。何でも、余計な色を飾るのは欲深の人間のやることだと。聞く価値のない戯言でしかないが、飽きるほど聞かされたら嫌でも頭に入る。それすら、彼の計算によるものだと思ったことがあったが、そんなことは絶対にありえない。

 

 彼は、頭のおかしい馬鹿だ。器がおちょこほどの大きさしかなく、些細なことで癇癪を起こすその姿は、若々しい見た目に反して耄碌した老害にしか見えない。

 そんな人間と共に過ごすことが、この世の何よりも苦痛でしかなく――。

 

「――百八十四番、こんなところで何をやっているのかな? そんなところでボケっとしてるなんて、限りある人生という時間の大幅な浪費でしかないと思うんだけど。君に忠告するためにその時間を費やした僕を思う気持ちがあるなら、何かするべきことがあるんじゃないの?」

 

 背筋に怖気が走った。

 嫌悪感と恐怖、その両方が女性の神経を掻き立てる。だが、決してそんな顔を見せてはいけない。顔には人形のごとき無機質感を張り付け、荒れ狂う心は胸の中に押し込めておく。

 何十人もの『先妻』の最期を見た彼女――百八十四番の、生存戦略だ。

 

「――。申し訳ありません、旦那様。旦那様の貴重な時間を使う前にやるべきだったこと、それは料理の支度でございます。このような粗相をしてしまった不出来な妻を、どうかお許しください」

 

「――そう、それでいい。そのようにちゃんとした謝罪があってくれれば、僕の費やした人生の時間も浮かばれるものさ。今回消費した時間は、君と僕との間の考えの相違性の無さを知るための先行投資だと思うことにするよ」

 

「もったいないお言葉です。それでは、失礼します」

 

 そう言って背を向け、男から去っていく。

 表情は変えない。声色は常に一定。最低限の行動でやりすごす。

 これらをこなすことで、やっと生きるか死ぬかの瀬戸際に立つことが出来るのだ。だが、以上の条件を突破したとしても、決して安心はできない。

 安心するには、あの男の沸点が不明瞭すぎるのだ。極度の器の小ささを誇る彼は、常人では想像のつかない地雷を数多く所持している。

 それらの一つを踏んだ瞬間、文字通り、破裂することになるのだ。

 

 

 

 朝食の時間になった。

 当番の女性たちが、無表情で食事を食卓に運んでいく。その中には百八十四番の姿もあった。彼女は今日の当番ではないのだが、あの男に言われた以上、そうせざるを得なかったのだ。

 だが、彼がそんな当番なんてものを知っているとは思えない。妻たちの関係性もまるで把握していない彼だ。自分が妻たちのまとめ役だという事実と同じように、連日誰が家事を行っているかなんてわかりっこないのだ。

 

 そんな形ばかりの自由を敷く男は、食卓の席についていた。彼はどういうわけか食事をとる必要がないのだが、妻たちとの団欒を楽しみたいとのこと。もはや何も言うことはなかった。

 今日もこの地獄染みた朝食の席に着き、生きた心地のしない一日を過ごすことになると――、

 

「ッ――!!」

 

 そのような考えを、皿の割れる音が遮った。

 突如、急激に温度が下がったのを、肌で感じた。

 驚いた百八十四番が顔を向けると、どうやら音の発生源は百二十三番。新しく補充されてきた妻だ。百八十四より古い番号である百二十三の名をもつ彼女が新人であるのは、彼女が二代目の百二十三番だからだ。初代がどうなったかなど、言うまでもない。

 

 席を立つ音が響き、カツカツと靴音を立てて何者かが接近する。足音を立てるなんて不埒な行動をした妻を、あの男が許すとは思えない。

 自然とその人物は絞られる。

 

「――怪我がなくてよかった。何せ裂傷なんて指についてしまったら大変だ。それだけで、君の完成された美という価値にも傷がついてしまうからね。あ、それだけで心配をしたわけではないよ。失敗をしてしまった妻を慰める。僕はそういう当たり前のことが出来る人間だから。よく他人の失敗に対して大げさに感情を爆発させる人っているけどさ、ああいうのって自分のことを絶対に失敗をしない完璧な人間と思ってる、頭の足りない人だと思うんだよね。僕は完成された人間だけど、完璧ではないからね。数ある欠点を自覚するなんて大したことでもないさ」

 

 足音の主――男が百二十三番に声を掛ける。その内容には彼女の失敗を責めるものはなかったが、彼女自身を慮る内容は微塵も入っていない。

 あるのは他人に対する悪罵と、あくまで自分が最上であるということを他人に押し付けるような、そんな醜い虚栄心だけだ。

 しかし、そんな聞いているだけでうんざりするような話があるだけで、出血沙汰にはなる気配はない。ならば、彼の怒りが爆発する前に皿の後片付けをしなければと、百八十四番が他の妻に指示を下そうとすると――、

 

「——でもさ、君。怯えた顔をしたでしょ?」

 

 そんな緩みかけた雰囲気を、その一言が絶対零度に突き落とした。

 

「皿を落としたとき、怯えた顔をしたよね。悪びれもせず怯えるということはさ、失敗に対する反省よりも先にその責任問題を問われることへの恐怖が勝ったってことでしょ? それってどうなのかな。人は誰でも失敗はするものさ。僕ですらその例外にはなりえない。でも、一番の失敗っていうのは、やらかしたことに対して反省の色を示さずに、それを隠そうとすることだと思うんだよね。自分に過失があるにも関わらず、取らねばならない責任から逃げ出そうなんて、あまりにも欲深だ。『怠惰』だし、『強欲』すぎる。そんな自分勝手な振る舞いを今、君はしたわけ。そんな自己中心的な人が僕の妻だなんてありえない。今まで従順な妻を演じてたみたいだけどさ、そんな醜い本性じゃ化けの皮が剥がれるのも時間の問題だったよね」

 

 男の顔が凶悪に歪み、その濁った瞳が百二十三番を穿つ。

 それだけで彼女の体は動かなくなり、表情の固まった目から涙が零れ落ちる。蓋をし、外に出ないようにしていた感情が、個人に向けるにしては圧倒的な殺意によって解放されてしまったのだ。そのことが、彼女の生存率を下げていっていることに、彼女は気づかない。

 

「返事もせず、だんまりを続けたかと思ったら今度は泣き出したか。ほんと、女って生き物はすぐこれだよね。自分が不利な立場にあると自覚したら、そうやって可哀想な自分とやらを見せて周囲の人間を味方にしようとする。個人で完結していない未完成らしい習性だ。そうして不細工な顔を見せることで、美的感覚の狂ってる男共を引き寄せてきたんだろうね。そんな淫売が処女だなんて話になるわけがない。君が処女というのは真っ赤な嘘だ。出鱈目だ。そんな嘘で呼吸をするように僕を騙すなんてさ、そんなに僕が騙されやすい人間だと思ったわけ? あ、こいつなら行けるなって? ッ!——ふざけるなよ尻軽がぁ! 僕は二度と騙されない! 君のような嘘つきが僕を始めとした善良な人間を穢す前にここで浄化してやるよ、名誉の強姦魔め!」

 

 男の中で膨張した被害妄想が、彼を凶行に移させる。

 怒りに支配された男が右腕を上げ、その眼光が百二十三番の泣き顔に狙いをつける。

 彼にとって不愉快な顔を、その腕で消し飛ばす気だ。

 

 百八十四番は焦燥感に身を焼かれながらも、行動に移すことはできない。ここで一言でも発して止めるような勇気があっても、先妻たちの虐殺の果てに自分の亡骸が転がるだけだ。

 

――また、暴挙は止められないのだろうか。

 

 度重なる殺戮に、心が凍てついていくのを感じる。人が目の前で弾け飛ぶ光景など見慣れたくもないが、このままではあの男の理想——人形のように聞き分けの良いだけの人間になってしまう。

 そんな人生に何の価値があるのかと、百八十四番の濁った眼が男の上げられた右腕を映すと――、

 

「――え?」

 

 眼が映したのは右腕ではなかった。その足元だ。何か楕円形の鏡が出現している。足元に鏡を設置した覚えはない。そんな悪趣味な飾りつけは、男にも頼まれていない。

 では、あれは何なのだろうか。

 その百八十四番の疑問は、その後の光景が答える。

 

「は?」

 

 男の姿が、一瞬で鏡に飲み込まれた。

 悪罵を喚き散らし、激昂に騒ぐこともなく、瞬きした時には綺麗さっぱりいなくなっていたのだ。

 

 

 

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