物音一つしない丑三つ時の夜の世界を、二つの月の光が照らす。
周囲に建物のないトリステイン魔法学院は真っ暗闇と化しており、学院の構造に明るくない人間が広大な庭に出てしまえば、簡単に迷う。もっとも、そんな人間は学院に侵入できないので、要らぬ心配と切り捨てられるはずなのだが。
そんな油断が、この光景を作り出したのかもしれない。
黒のフードに身を包んだ女が、学院の宝物庫の前に立っている。
「流石、貴族の子どもたちを抱える学院だけあるかな」
言葉とは裏腹に、女の声色には隠し切れぬ口惜しさに満ちていた。
眼前の宝物庫の扉は頑丈が過ぎる。四つの属性を重ねることが可能なスクウェアメイジ。そんなメイジによって掛けられた魔法、『固定化』によって時間が停止したこの扉を壊すのは、もはや威力の問題ではないらしい。
相性の問題だ。この扉は現存するどの魔法とも相性が悪い。世界一堅牢なセキュリティを前に女は困り果て、頭に手を当てる。
「参ったわ、まさか私の『錬金』やゴーレムの攻撃すら無駄だなんて」
扉や壁を粘土や砂に変える『錬金』の魔法も、『固定化』の前では無力だ。単純な威力を求めてゴーレムを使っても、扉の分厚さが尋常でなくまるで歯が立たない。
憎たらしげに女は扉を睨みつける。自身の求める物が手に入らない現状に、これ以上ない程に歯がゆさを感じた。
こうなれば、適当な誰かを脅迫して鍵を開けさせることしか思いつかないが、
「いえ、扉の鍵は学院長が持っているはず。その場所を聞き出すのはそう簡単じゃないだろうね」
ここは数多の貴族が集う学院なのだ。魔法の腕に絶対の自信を持つ彼女でも、相手に数の利を生かされては厄介である。
やはり、問題を起こすのはリスクが高すぎる。
どうにか秘密裏に実行できて、なおかつ扉をこじ開けることができ、起こった問題に貴族たちが揃ってノータッチを決め込む。
そんな都合が良いにも程がある作戦に、上手く使えるような物があるといいのだが————。
「————!」
そこまで考えて、女はあることを思い出した。自身が思い描いた夢物語を、達成しかねない存在。彼女の脳裏に映るのは、あの一方的な暴力としか思えない決闘。グラモン家の息子と、公爵令嬢の使い魔——。
「ちょうど良さそうなのがいるじゃない」
女——否、女盗賊は満足そうに微笑んだ。だが、それは姦計を巡らす悪人が浮かべるものであり、そこに善良の二文字は見いだせない。
禍々しい笑顔を暗闇で浮かべつつ、かねてからの友人に向けるような親しさを声に宿し——、
「せいぜい、良い鍵になっておくれよ、使い魔さん」
彼女が笑う先には、女子寮の一室が見えた。
「——寒い」
寮の一室にて、一人の少女が寒さを訴えた。体の節々が震え、熱でも出したような不快感が止まらない。どうにも眠れる気配がなく、ベッドから降りて自室を見渡す。
時刻は既に二時を回り、普段の少女なら既に眠っている時間だ。安眠できるようメイドに温かい紅茶を淹れてもらうのも、不可能だろう。無理やり起こして時間外労働を課すのもあんまりなので、少女は一人っきりの夜を享受することにした。
既に他の生徒が寝静まった時間帯で、彼女は世界で一人ぼっちになったような錯覚に陥りかける。もちろん、本当に一人な訳ではなく、口のうるささに定評のある使い魔が、地べたの布団で眠りについている。いつもの小生意気な顔も、眠っている間は形無しだ。
思えば、この男を使い魔にしてから今日で一週間となり、経過した期間の意外な短さに少女は苦笑する。コイツは自分の欠点を一々ねちっこく指摘してくるので、黙っていられる時間が少ない。余りにも時間の密度が濃すぎて、時間が遅く感じられるのだろう。
だから、男と話していない間の少女は酷く静かだ。——考えなくても良いことを、考えてしまうくらいには。
「ねえ、わたしってアンタのご主人様をやれてるのかな?」
起きていたら絶対に即否定されるだろう疑問をぶつけると、少女は物憂げに溜息をつく。この休日も自分は使い魔に対し、何もできなかった。武器を調達することも、彼の未知の力を聞き出すことも、ましてや分かり合うことなんていつになることやら。
魔法も使えない上、使い魔から真っ当に信頼を勝ち取れなければ、自分はどうなってしまうのか。
「ッ————」
身に迫る現実に唇を噛み、少女は涙を零すのに耐える。かつての彼女の支えであった幼馴染はもう長い間会っていない。唯一自分を肯定してくれた姉とも、一人寮で暮らしている現状故、直接話すことも叶わない。
そんな今の彼女を支えるのは、彼のご主人様であるという事実だけ。
魔法を使えない貴族なんて、この世界では貴族と見なしてもらえない。少女が誇れる物はその地位だけだというのに、それすらなくなってしまえば、真の意味で自分は何者でもなくなる。
——だからせめて、この男の前ではちゃんとご主人様でありたい。
口うるさくて憎たらしくて、ねちっこくて鬱陶しくて、イライラするし言うことも聞いてくれないし、ましてやご主人様ということすら否定してくる嫌な奴で。
身勝手に呼び出して、たくさん困らせたし困らされたけど、男の前では少女は自分でいられた。
魔法が使えないことを忘れるくらい、自分の嫌な所ばっかりを言われて、もはや少女のことで言及していないことを見つける方が難しい。
そして不思議なことだが、ハルケギニアで最も多く少女を罵倒したこの男は、彼女の一番嫌なことは何故か言わない。それが気遣いなのだろうかと考えたことはあったけど、そんなことは絶対にありえない。
彼は、口の減らない馬鹿だ。器なんて食堂で用意した彼用の皿くらいの厚さしかなく、些細なことも見逃さず減らず口を叩くその姿は、彼の成長した見た目に反して躾けのなっていない子どもにしか見えない。
そんな使い魔と共に過ごすことは————別に苦痛ではなかった。
気遣いなんて物を知っているはずもないし、少女の魔法のことに関して言わないのも、本当に興味がないだけなのだろう。
でも、それならそれでいい。変に気遣われるより何倍もマシだ。そんな少女の内心も知らないで呑気に夢の中にいる使い魔に、主として少女が宣言する。
「近いうちに、アンタを絶対に元の世界に帰すわ」
かつて自分が彼に言い放った嘘に、今更の罪悪感を抱き始める。あのときの自分は、向けられた殺意以上に、召喚した使い魔に否定されることを恐れたのだと思う。
そんな自分可愛さから始まった同居生活に、彼が不満を口にするのも当然だ。ならば、彼を元の世界に戻す方法を全力で考えよう。
だから、彼が帰る方法を見つけるまでは。
贅沢を言えるなら、少女が自分を認められるようになるまでは——。
「——わたしを、アンタのご主人様で居させて」
切実な願いが、はっきりと口から出ていた。
かなり大きな声が出てしまい少女は焦るが、使い魔の男は鬱陶しそうに寝返りをするだけで、起きる様子はなかった。
しばらく彼の睡眠姿を眺めていたが、だんだんと我に返り始める。
——最近の自分は、何か変な気がする。
学年下の少女に声を掛けたことと言い、さっきまでの女々しい態度と言い、自分らしさが行方不明だった気がする。ましてや使い魔に対して思った感傷。あれはもはや、不覚でしかなかった。
かぶりを振って立ち上がると、少女——ルイズはベッドに寝ころび、眠気が訪れるのを待つことにした。
——彼女の身に宿る悪寒は、翌朝になっても、なくなることはなかった。