レグルスが乗馬にまんまと成功したのと同時刻――学院女子寮の一室にて、禍々しい雰囲気を纏った金髪の少女がいた。否、その警鐘を鳴らしたくなるような空気の源は、正確には彼女の手元にある。が、その発生源を作り出したのは彼女自身なので、元凶という意味では少女が該当者として当たるのだろう。
その少女の名はモンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシ。彼女は知る由もないが、タバサよりも先にターゲットとなっていた、レグルスの元花嫁候補である。彼女はそばかす付きなことを除けばレグルスの好みの顔をしていたが、ギーシュという『たまたま』仲良くしていた男の存在によってまんまと候補から逃れたのだった。
そして、今の彼女が筆舌に尽くし難いオーラを放つ――怪しげな薬品の作成理由は、ギーシュだったりする。
キザでナルシストで浮気性。そんな軽薄な男の最後に会った姿を思い出すと、何度目かわからない怒りがこみ上げてくる。
「あんのバカ。どうして男って生き物はああなのかしらね……!」
不特定多数の男を同じ型に嵌めたくなるくらい、モンモランシーの怒りは決定的だった。彼女の脳裏に浮かぶのは、冷や汗をかいて言い訳を並べ立てるギーシュの姿である。その日、食堂にてギーシュの自慢話を聞き流していると、入口の方から彼の名を呼ぶ女の声が飛び込んできたのだ。無論、知らない女だったのでギーシュを問い詰め、納得の行く答えを返さなかったので三行半を叩きつけた。それが最後の記憶だ。
あの日はせいせいしたと晴れやかな気分だったが、どうやら自分のプライドは予想以上に傷つけられていたらしい。が、悲しみに暮れるようなセンチさはなく、あるのはギーシュへの尽きぬ不満と怒り。目にものを見せてやらないと気がすまない。
しかし、そんな彼女が取り掛かったことが斜め上であった。
彼に復讐するのなら、もっと物理的な制裁を加えるだの、魔法で痛みつけるだのあったはずなのだが、彼女は調合という手段をとった。そして出来上がったその薬品は――なんと、惚れ薬だ。他者の心を捻じ曲げる、学院でも禁忌とされている薬である。
その行動に至った動機を推察すれば、純粋な復讐心から来た行動とは言えない気もするが――、
「絶対に、許さない。許さないんだから馬鹿ギーシュ!」
――無論、そこに彼女本人の名残惜しさや寂しさと言った感情があるはずもない。そう、モンモランシーの名誉のために言っておこう。
馬で片道3時間を経て、ルイズとレグルスは王都にたどり着いた。
長時間の移動は、乗馬初心者のレグルスには苦行であり、地面に降り立ってからはおぼつかない足取りで歩いている。その姿に、かつて世界を振り回し尽くした悪意としての存在感は欠片もない。
しかし、そんな名誉の失墜を理由に減らず口を閉じる発想など、レグルスにはなく――、
「ど……どういう……つもりなのかなぁ? ……べん、りなぁ……交通手段って名を……げほっ……な、泣かせたいわけ?」
「貧弱ね。男らしくない」
ルイズの軽口を聞くと、レグルスは「げほっ、ごほっ!」と咳をすると首を横に振り、体を震わせてこう叫んだ。
「性別で求められる強さが違うことに……胡坐を掻いて人をなじるなよ! 卑劣女がさぁ!!」
「ふん、そんなにうるさく喚く元気があるなら、まだ歩けるわよね」
必死の叫びを一切気にしないルイズ。そんな彼女に腕を容赦なく掴まれ、レグルスは無理なペースでの歩行をさせられた。疲労困憊の人間に鞭を打つひどい行動だ。万死に値する大罪である。
そういった不満が、レグルスの表情を疲労困憊から不平不満へと変え、ルイズの手を勢いよく振りほどいた。
足を止めて訝しげに振り返るルイズに、レグルスは顔を不満を露わにしたまま、
「僕が自分の意志で……歩けない人間だとでも?」
「――。思ってないわ。人混みではぐれたら面倒でしょ? 嫌よわたし、あんたを探すためだけにあっちこっち行くの。やる気が出ないし」
「は? 要は僕を方向音痴の子ども扱いしているってことだ。僕よりちょっと地理に詳しいからって、でかい顔をしようとするなよ。君、もしかして誰かより上にいないと自分を肯定できないタイプの人間なのかな?」
「はぁ!? うるさいわね! あんたに言われたらおしまいじゃないの! 黙ってついてきなさいよ」
「図星を突かれたからって叫ぶなよバカおん――ギャ!」
レグルス史上最も疲労を被ったばかりの脚を踏まれ、レグルスはバランスを崩した。
不埒な痛覚を発する自身の足を眺め、何度目かわからない舌打ちをする。
だが、足と共に権利が踏み躙られたこと――それ以上に怒りが湧くのは自分の内側の『空虚』さである。ここまでのことをされても、レグルスの中にルイズへの殺意が涌かないのだ。燃料不足。そう言い換えても良いのかもしれない。
「――――」
思えば、この奇妙な心理状態は初めてのことではない。
かつてレグルスがルイズに権能の内容を衝動的に話した時、既にこの状態に陥っていた。自分の命綱を他人に握らせ、運命共同体であり続けようだなんて蛮行でしかない。他者との結びつきで満たされる不完全な人間達――それと同じことをしているのだ。
そして、そんな屈辱的な現状に対して、『殺意が沸くことがない』この状態を、彼は不安定と呼ぶしかない。
悪意・善意の全てを殺意で返すのがデフォルトだった彼には、今見える世界の景色は未知数だ。
安定を失い傾いた天秤の反動を、周囲のどうしようもない風景に押し付けるしかなかった。
「……あのさ、ここっていわゆる王都と呼ばれる街なんだよね? だとしたらこの極端な道の狭さに説明がつかないと思わない? こんな人で密集して暑っ苦しい場所で僕が窒息死したら、一体どうしてくれるんだよ!」
「うるさいわね。これでも広い方よ」
「はぁ!? これが? 大の大人が手を広げて三人分の狭さなんだけど。これを広いと評価する感覚が到底理解できないね! もっと一般的な大きさの感覚を持ち合わせている人間はいないの!?」
「広い方よ」
返答が面倒になったのか、ルイズは広い方よの一点張り。
まともに会話する意思を持たないルイズ。そんな彼女に話しかけても仕方ないと、荒れ果てた心をなんとか飼い慣らしながら、レグルスはまた一段と増したグラついた感情を、先ほどから否応なしにぶつかってくる人々に向けた。
そして段々と、安定を促す『完成された自分』が戻ってくる安心感と共に――、
「――権能が万全だったら、風通しを良くしていたものだよ」
――完全に倫理観の欠落した発言が、凶人の口から飛び出すのであった。
聞くに堪えない物騒な発言を聞き、仕方なくルイズも別の反応を返す。
「そんな顔しないで」
レグルスと同じくらい――否、レグルス以上に億劫な顔をしたルイズが、面倒臭さを隠さずに話す。乗馬に慣れ切っている彼女は、レグルスのように移動手段の未熟さによる疲労を覚えることはない。それにも関わらず、先ほどの会話の意思のなさといい、ルイズにも余裕があるとはとても言いにくい。
それは肉体的な不調というよりも、もっと精神的な問題であり――、
「行き先の店はうんと酷い場所なんだから……はぁ……嫌だわ」
「酷い場所……?」
ふと、聞き逃せないことを口にした後、ルイズの進路が横道に逸れた。そして狭い路地に入るだにルイズが、「うわっ」と嫌悪感に満ちた声を出した。
ルイズの感情は基本烈火のような激しさを伴うものだが、その声には一切の温度がなかった。怪訝に思ったレグルスが後に続くと――、
「ボォえ!? ……い、一体何なわけ? この、尋常じゃない悪臭はさぁ」
鼻を摘まむ――といった反射動作も忘れ、レグルスは飛びのいた。先ほどのルイズの嫌悪の混じった声の真意を遅れて理解した。
彼の目線の先の地面には汚物が転がっており、文字通りクソみたいな匂いであった。人が人らしく生きる最低限の秩序を根っこから侵害する有様に、レグルスは自身の過去の所業を忘れて嫌悪の表情を浮かべた。
見たくもない。
視界から消すべきだ。
だがレグルスの権能の『物体への時間停止』はどういうわけか封じられている。
なら消し去るには自分の手で触るしかない。
権能を施したとしても、あの不浄の極致の物体に触るのか?
「論外だ」
そう結論付けて、レグルスはこの場を立ち去ろうとする。だが、もっと考える時間を短縮するべきだった。
ルイズがレグルスの去る気配を感じ取り、不躾にもレグルスの腕を掴んだのである。彼女の手の万力がレグルスの逃走を許さない。匂いも相まって、レグルスは怒りが再点火するのを止められなかった。
「あのさぁ! 離せってさっきも言っただろうにもう忘れたのか!? 衛生観念もろくにない、こんな清潔感の乏しい場所に何の用だよ! 如何にもいわく有りげな店じゃないか。こんなところを好きで行くような人間じゃないんだよ、僕は!」
「仕方ないでしょ。言いたくないけど、持ち合わせがないんだから」
レグルスの叫び声が暗い壁面に響き渡る。
貴族どころか平民すら寄り付かない路地裏――その一角に、目的の店はあった。
ほぼ一年振りです。
本当にお待たせいたしました。