1904年8月12日 ペテルゴフ宮殿
「皇太子殿下がお生まれになったぞ!お生まれになったぞ!」
その日宮殿内は大騒ぎであった。無理もない。何せずっと待ち望まれていたロシア皇帝の世継ぎがようやく生まれたのだら。
その世継ぎの名前はアレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ。彼の両親はロシア最後の皇帝と皇后となるニコライ2世とアレクサンドラ・フョードロヴナである。彼らは"史実"では最後は赤軍によって一家もろとも銃殺されることとなる。しかし…この時点において既にその歴史の歯車は狂い始めていた。そしてその原因はこのアレクセイ皇太子にあったのであった。
さて、このアレクセイ皇太子、生まれた時点ですでに物心がついていた。加えて言うならばすでに大人の成熟した精神を持っているのだ。もっともそのことをこの時点においてまだ誰も知らないが。
このアレクセイ皇太子、実を言えば転生者である。それもこの転生者はこのロマノフ家と縁もゆかりもない、この時点に置いて551年前の、ここから遠く離れた日本の鎌倉龍ノ口において処刑された北条時行その人であるのだ。
………………………
あれ?死んだんじゃ…?
結局最後には逃げきれずに…。
最後はどう死んだんだかな…。
うまく思い出せない…。
………………
結局天下は取れなかったか…。
みんなを無駄死にさせてしまった…。
ごめん…ごめん…ごめん…
………………アアッ、クソッ…みんな…みんな…どこへ行ってしまったんだ…?
アアそうかこの暗闇は…みんなを死なせた罰で無間地獄に落ちたから…。アアッ…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…みんな…みんな…
…………………うるさい
さっきからなんなんだ…この音は…人の声のようだけど意味不明なことを言っているようだ。
これも…罰か…延々とこの音を聞かせられるということか…
彼は自分の情けなさと申し訳なさで胸が押しつぶされそうになった。しかし涙は流れなかった。
…………なんで………涙を流せない………。胸が張り裂けそうな思いなのに…。どうして…どうして…。
彼は目を強く瞑った。
どうしてなんだ……どうしてなんだ……涙を流すのも禁じられているのか…。
彼は祈った。
お願いします…どうか涙を流すことだけはお許しください…八幡大菩薩様…どうかお許しを…。
そうすると彼の中の直感が言った。
目を開けるが良い。
彼は藁にもすがる思いで目をパッチリと開けた。
目の前に広がっていたのは、別世界だった。
わたしのなまえはアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ。
きょうはとーてっもたいせつなひなの。
なんたってきょうはワタシのおとうとがうまれたんだもの。
いま、そのおとうとはちいさなベッドでねているんだ。
とっーてもかわいくて、おかあさまもおとうさまもほっぺたにおもわずチュッチュしてるのよ。
ワタシもおかあさまとおとうさまにほっぺたにチューしてもらいたいなー。
でもヘンだなー。おかあさまとおとうさまにとーてっもかわいがってもらってるのにおめめをつむってなんだかくるしそうなかおをしてるもの。どーしてなんだろう。
おいしゃさんはなんともないっていってるのに…。
アッ、めをあけた。
おめめをキョロキョロとみまわしてる。
アレッ?もしかしてないてる…?
どーしたんだろう?こわいゆめでもみたのかなー?
おかあさまもおとうさまも、おねえさまたちもみんなとまどってる。
おいしゃさんがまたしんさつしたけど、やっぱりなんともないんですって。やっぱり、こわいゆめをみたんだろーなー。
アッ、こっちにおめめをむけた。じっと、みてる。
そっか、ワタシがじっとみてるからそっちもみかえしたのね。
なんだか…アナタのおめめをじっとみてると、アナタのキモチがわかってきたようなきがする。
もしかして…アナタかなしいの?
でもどうしてなんだろう。わかんないや。
こんどおねえさまたちにでもきいてみようかしら。
でも、わからなくても、アナタとはなかよくやっていけそう。
そんなきがするんだ。
アッ、もうおじかんですって、もっとアナタとはいたいけどなー。
でもしょうがないや、こんどまたあえるときをたのしみにしてるわ。
じゃっ、またね!ワタシのカワイイおとうとくん!
その日の夜 サンクトペテルブルクのある教会の礼拝堂にて
「ホーオ、皇太子がお生まれになったのか。」
そう呟いたのは、ある奇妙な人物だった、その人物は修道僧であるのだが、明らかにほかの修道僧とは違ったオーラを放っている異様な人物であった。
「アア、そうじゃ。今まで知らなかったのかい?」
そう答えたのはこの教会の司祭である。
「エエ、今まで地下室にこもって儀式をしていたもので。」
「オオ、そうじゃったの。なんでも朝早くから何かに取り憑かれたように地下室に大急ぎで儀式しに向かいにいったと修道僧達がいっとったわい。皆あんな様子の君は見たことがないと心配しとったぞ。」
そういうとその異様な修道僧は、いかにも胡散臭そうな笑顔を浮かべた。
「なーに、心配いりませんよ。それよりも今日は喜ぶべき日じゃないですか。待望の皇太子が生まれたんでしょう?明日にもそれを記念して儀式を行うために今こうして準備をしているんじゃないですか。それに…今のでやっと今日の朝、第六感が言っていたものの正体がわかってこれ以上なく嬉しいですよ。」
「ホーオ、その様子だと君が儀式して見ようとした"未来"は今日お生まれになった皇太子の"未来"ということかい?」
「左様、左様。確定的なことはまだ言えませんがね。だが、お生まれになった皇太子は只者ではない…。いずれ英雄となる器を持っとります。その時は…この自分も皇太子の英雄譚に立ち会いたいものですよ…フフフフフ。」
そう言うこの修道僧を、司祭は奇妙な人物だと思う一方で何か神聖なものを見る目で見ていた。何せ彼の後ろからは光が出ていたのだから、まるでイコンで描かれた、イエスやマリアの後光のように…。
この時、修道僧ラスプーチンは今持つあらゆるコネを使って皇太子に近づき、そしていずれロシアの英雄となる人物━━ アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ━━のもとにつこうと決意したのだった。