1912年2月2日
東京
一人の若い男が新聞を読み耽っていた。
歳の頃は十九かそれぐらいであろうか
彼の机には大量の参考書だのノートが積み上げられていた。
彼の目は新聞のある記事の、特にある写真に釘付けになっていた。
その目の奥にある思いはなんであろう。
懐かしさ?親愛の情?
とにもかくにも彼の心では様々な想いが去来していた。
その記事はロシア帝国の皇太子がサンクトペテルブルクを出立したと言うものだった。
写真はアレクセイ皇太子の御真影であった。
奇妙だ。他の人が見れば非常に奇妙に思えるだろう。
もし、これが1905年の出来事をひきづっている人物であるならば、その人物がロシア情勢に関して敏感であったとしても不思議ではないだろう。
しかし、この書生はたいしてロシアに対して悪感情を抱いている様子はなかった。
1904年の時には彼はすでに物心がついた少年であり、その時は他の多くの人のように戦争に熱狂したことがあるものの、すでにそれも冷めていた。
とすると、何故かくも東京の一角の一書生がこんなにも身分も人種もあまりにも違うロシア帝国の皇太子に様々な想いが去来しているのであろうか。
その理由はまだこの人物一人しか知らない、ただ彼はその記事を見つけて以来、勉強に手がつかず、ずっとソワソワしていた。
彼の頭の中では遠い昔、
幼くして死んだ彼は世間のことなど碌にも知らず、その死に方はその分、世間のドス黒い一面を一身に受けた形であった。
彼は自分のことを兄と呼んでいた人物を思い返した。
母親が違うとはいえ、彼の中ではあの人物はいつまでも弟であった。
「いつか会えれば良いんだが…」
彼がふとそう言った独り言、そのひと言は彼の頭の中の思いをよく体現しているものであろう。
しかし、今の彼が皇太子に会おうとなど、思っていても出来るものではなかった。
身分が違いすぎる。
彼はそのことで自分を割り切ろうにも割り切れなかった。
彼はそのまま小一時間ソワソワしぱなっしであった。
最終的にある結論に辿り着いた。
「会いたいのであれば、自分の身分を高くする他ない。」
幸いにももうすでに武士の時代は終わっている。
いまだに様々な制約があるとはいえ、福沢諭吉が言うように学問で身を立てることは一応できる社会ではある。
ならば、かつての太閤秀吉のように自らの身分を高める他ない、彼はそう結論づけ、無理矢理自分を納得させた。
そうして彼こと、高木惣吉は自らが志望していた海軍兵学校の試験の勉強に勤しむのだった。
同じ頃、陸軍大学校でも一人の男がその記事と睨めっこしていた。
彼の場合は別に親愛の情を持っていたわけではない、彼の心に去来していたのはそれとはまた別の思いであった。
彼は別に皇太子の前世と会ったわけではなかった。それ以前に殺されていたのであった。
恥も外聞も無い逆賊によって…
彼は、彼が再びこの世に生を受けた後に、彼を殺した処刑人がその後どうなったかを調べてみたが、どうやらそいつは、帝…今では後醍醐帝と呼ばれている帝の側の軍によって戦いの中死んだらしい。
それを知った時は彼は心中、安堵した。
良かった…良かった…逆賊が死んだのは喜ばしい…
とはいえ、その後の後醍醐帝の南朝の末路は彼にとって決して良いものではなかった。
彼にとってみれば二つに分かれた皇祖皇宗の血統で正当だと思うのは大覚寺統の血筋の南朝の方であったから、持明院統の北朝の血統の今上天皇は彼にとって複雑な存在であった。
なんせ、かつては彼も大覚寺統の血筋だった…
しかし今はどうであろう…
彼の体には今やあれほど争った持明院統の先祖の血が流れているのである。
彼はその運命の皮肉さを滑稽にさえ思った。
とはいえ…少なくとも彼は今上天皇のことを一個人としては敬愛していた。
曲がりながりにもこの国を武士の束縛から解放し、皇祖皇宗の治世を取り戻したのは今上天皇とその配下の薩長土肥である。
それに…持明院統の血筋とはいえ神武天皇や皇祖神の血筋を受け継いでいるのは事実である。
彼はそのことで、自分を割り切った、いや割り切る他なかった。
彼は自分の血筋を忘れんとするが為か、文武の両方に没頭した。
元から、文武で見識が深かった彼はどんどん成長していった。
その優秀さから彼は皆から未来を嘱望されていた。
もっとも彼は、これぐらいが当然であると思っていた。
さて、そんな彼だが、最近陛下の体調がおぼつかない。
以前に陛下と謁見した際も、やはり心労が積もりに積もっている様子であった。
彼は…彼が前の人生において激動の時代を生きてきたからか、後継の皇太子に対して、失礼と思いながらも内心頼りないと感じていた。
そして、そんな折にロシア皇太子がいずれここにもやってくるのである。
彼は非常に冷静で、賢明であり、決してロシアに対しては1905年の時の認識で止まっているわけではなかった。
しかし、彼の中では一抹の不安がよぎっていた。
もしも弱みを握られたら…
彼は彼の中のトラウマから、ついついそう思ってしまうのであった。
そして一方で、彼は陛下に対する敬愛によるものか…段々とかつての自分の父親の姿と陛下とを重ねるようになっていった。
そしてその心の中での父と陛下との同一視は…
かつて彼が日本国の至尊と考える天皇への忠義から奮闘していた原動力を無意識に呼び起こし…
そして最終的に彼は…
天皇と国体のためにはどんな手段をでも厭わない
という考えに至ったのであった。
とはいえ、彼はあくまで賢明である。
よほどの国家存亡の危機にならない限り
彼はあくまで手段を選ぶつもりであった。
そんな考えを持つ東久邇宮成彦王は、一方で自由にも憧れていた。
そんな自由への憧れは後のフランス留学で爆発することとなるが、それはまた別の話しである。
………………………
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また再び今日が訪れた。
何回この繰り返しを経験しているのだろう。
この世に降り立って、数えきれない程の年月がたっている。
だがそのほとんどを自分はどうして過ごしていたのだろう。
毎日毎日空虚な毎日を過ごす…
いつからこんなことを意識しだすようになったのだろう
つい少し前まではこんなことなど思っても見なかったのに
何故?何故?
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いや、わかりきっているあの二人のためだ。
あの二人のうち、もう一人が自分を俗世に招いて、もう一人が自分をより人間らしくしたんだった…
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何回、こんな同じ問いを繰り返しているのだろう。
わかりきった答えを何度も何度も自問して自答する。
自分の中のこのぽっかり空いた空虚がそうさせているんだ。
嗚呼、あの人にまた会いたい。
かつて、私があんなにも愛した人…
でも、あの人は死んでしまった。
人間というのは脆いものだから…
あなたが死んだ時、私がどんなに悲しんだことか…
夜も昼もずっと、涙が枯れても泣いた。
会いたいと思った。
何度も何度も。
そのために、私は何度も黄泉の国に行った
傲慢な私は、あの伊邪那岐神でさえできなかった、死者を連れ帰ることをやろうとした
でも、できなかった。
何度も何度も穢れを受けながらも必死に探したが、いなかった。
例え伊邪那美神のように醜くなっていようと、無理矢理でも私は連れ帰ろうとした。
でも、できなかった。
かつての伊邪那美神の黄泉大神はその、自分のあまりの必死さを見てついに同情さえもした。
そしてこう言った…
「この国には居ない。」
私はその答えに頭を岩に叩きつけられたかのような衝撃を受けた。
此処には居ない?ではどこに…?
私は必死に黄泉大神に食いついて、彼の行き先を聞いた。
でも帰ってきた返答は知らないだの、遠くに行ったの一点張りだった。
私は…穢れを祓わないままに駆け出した。
日本中を駆け回った。
ついには根の堅洲国に高天原まで駆け回った。
高天原では、私が穢れを祓わなかったために私は臭いもののように追放された。
結局、祓った後に自分の本来いたところに帰って私は何の行動をとる気力をなくし…そして…今に至る。
…………………
…………………
…………………
思い出しただけでも気が滅入る。
ただただ自らを此処まで狂わせた、愛と、知性というものに対して恨みを抱いた。
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…………………
嗚呼、こんなことを思い出すんじゃなかった…
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…………………
…………………
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…………………
おや…
珍しい…
こんなところに…人が珍しく…
………懐かしい…
……どうして?…
…………………
…………………
…………………
あっ……
あなたは…
その頃、
列車の中で皇太子は三回ほどくしゃみをした。
「殿下?」
そう語りかけたのは、皇太子のボディガードとなったステパンであった。
「大丈夫ですか?風邪でも引かれたんじゃあありませんよね。」
「ん、まぁ大丈夫さ。多分誰かが私のことについて何か話したんだろう。」
「ん?どういうことで…」
「まぁ、気にしないで。」
「はぁ…」
「それより…今どこに向かっているだっけ。」
「えっ、忘れたんですか?ついさっき話したのに。」
「ん、まぁそんなところだ。」
ステパンは皇太子のその忘れっぽさにズッコケてしまうのであった。
「えぇ…しっかりしてくださいよ。あなたは次の皇帝ですから…。」
「まぁまぁ、それよりも早く教えておくれよ。」
「ハァ、ではお話すると、今向かっているのはワルシャワです。」
「おっと…そうだワルシャワだった…そうだったそうだった」
「えー、ちなみに皇太子殿下の記憶力が心配なので言っておくと…その次は…」
「今さらっとディスったよね?」
「ドイツ、オーストリアハンガリー、イタリア、フランス、そしてイギリスに訪問する予定です。」
「イギリスねえ…料理が不味い国…」
「殿下もさらっとディスられてるじゃないですか。」
「えーそのあとは…なんだっけ?」
「やっぱり記憶力が心配ですなぁ。えー、その後はヨーロッパを出るのですが、イギリスから船に渡ってアメリカ大陸に行くのです。」
「あっ、そうだった…」
「アメリカ大陸では東海岸の都市を訪れたのちに、大陸横断鉄道で西海岸に行きます。」
「うん、で、そのあとは…」
「船にまた乗って、ハワイ、フィリピンを経由して中国の租界に訪れた後に、日本に訪問、その後はウラジオストクに船で行き、シベリア鉄道で首都に帰還という形です。」
「あーなるほど、我ながらに結構な距離を旅するもんだなあ。」
「殿下…一つお聞きしたいのですが…」
「うん?」
「今回の世界旅行は前回の、皇帝陛下が皇太子の時の世界旅行と比べて大変貧相に思えるのです…。」
「そうなの?」
「そうですよ、見たわけじゃないですが、聞くところによると従者の数も少ないし、乗る船が専用の船ではなく、他の乗客も多く乗る一般的な豪華客船で、さらには予算も結構小規模であるとか…。一国の皇太子にもかかわらずですよ?」
「うーん、ただ単にケチっただけとか…」
「いやあ、どうにもそうは思えませんなあ。この国の腐れっぷりを見てみてくださいよ、貴族や上級国民やら何やらに忖度しまくって、金を湯水のように使うくせに、今回は…」
「君、結構毒舌だね…。あと、それでいったら私もその中に入るよ。」
「あ、いや、その…それとこれとは全く別でして…ええ、あのお、えっとお…そうですね…」
「いや、気にしなくていいよ、私はむしろこっちの方がいい。」
「え?」
「こっちの方が身軽でいいしね、お忍びもできるし。」
「エ、まさか夜の街に繰り出してあんなことやこんなことでもするんじゃあないでしょうね?」
「君、私が何歳だと思ってるの?あと何でそこで夜の街が出てくるの?」
「そんなことより、」
「そんなことよりって…」
「あの山師…いえ、ラスプーチン殿は結局見つかりませんでしたな。」
「話題の切り替え早いね、……………………グリゴリーは…………ああ、残念だが彼は…。」
「聞き及んだ話ですが…何でもこの世界旅行はラスプーチン殿の反対派の策謀が働いておるとか…。」
「ん、何…ただの噂さ…。」
そういう皇太子の顔はどこか遠くをみているようだった。