1904年 8月24日
この日、アレクセイ皇太子はロシア正教会の伝統に則って洗礼を受けることとなる。この時、アレクセイの代父母には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、イギリス国王エドワード七世など、錚々たる人物がなっていた。もっとも、そのことをアレクセイ━━北条時行━━はまだ知らないのだが。
全くもって…面食らうばかりだ…。
私は今、天狗のような顔をした女に抱かれて移動して別の部屋に来たのだが…移動していて視界に入ってくる荘厳な建物の雰囲気に圧倒されるばかりだ。
この荘厳さ…。いつか聞いた奥州にある中尊寺金色堂を凌ぐんじゃないか…?あの金色堂はせいぜい本堂程度の大きさだけど今いるこの場所と言ったらそんなものなぞちっぽけに見えてしまうんじゃないか…?
あの時…八幡大菩薩様に祈って目を開けた時から全く訳がわからない状況が続いている…。
まず目を開けたとたんに視界に入ったのは天狗のような顔をした男と女達が自分を見つめている様子だった…。特に今私を抱いている女と…その横にいる男は私を見るどころかよくほっぺたに接吻をしてくる。私は生まれ変わってこの2人の子供となったんだろうか?初めて接吻をされた時は吃驚したもんだが…親が子供を愛する時はああいうこともするもんなんだろうか…?よくわからない。それとあの女の子…。多分あの中で一番幼いだろうあの子…。あの子も他の子以上に私の方を見ていた…。あの目…何だか私の心を見透かしてくるような目だった…。
その次に気づいたことといえば…自分の体が赤子に戻っていることだった…。もしやこれがいつか聞いた輪廻転生なのだろうか…?ウーン、でも以前に聞いたところによれば…天狗は神の一種だと言うしなぁ。ただの人が神に転生することなんてあるのだろうか…?あぁ、でも頼重殿のような例があるしなぁ…。
…………父上……。思えば…頼重殿が鎌倉から連れ出したから、自分は天下を取ろうと動くこととなったのだったなぁ。あの時連れ出されていなかったら…自分はあそこで死んでただろう…。
あの人のおかげで自分の逃げ上手に自信を持てたんだったなぁ…。
でも…、結局最後は逃げ切れずに…犬死にしてしまった…。あの人の自分に対する期待を…思いを…無駄にしてしまった…。
あぁ…父上………、あなたとはもう会えないのでしょうか…?もし会えるのであれば……謝りたい……そして……願わくば…諏訪にいた時のようなあの日常をおくりたい…。
でも…虫が良すぎますよね…。大勢の人を巻き込んで…死なせたというのに…こんな願いをするなんて…。
どうして私は再び人間界に転生したんだろう…。普通こんな人間は地獄に堕ちるのが普通なのに…。
どうして…閻魔大王は…私を地獄に堕とさなかったんだろう…。その方が…むしろ清正とするのに…。
もしや…これもまた一種の地獄なのだろうか…。そうかもしれない…。果たして…どんな罰が来るんだろう…。
……生き地獄……。そうだそれが私に課せられた罰なのだろう…。今まで逃げ回ってきて意地汚く生きてきたツケが帰ってきたんだ。だとしたら…、私の両親と思しきこの2人や…、あの少女たちも巻き込まれてしまうんじゃないか…。
……もしそうだとしたら…それも生き地獄の一つなんだろう。
……またしても人を巻き込んで犬死にしてしまうのか…。
そう思うと彼は再び涙が込み上げてきたのだった…、それもこの世界で目覚めた時よりももっと悲痛な思いで…。彼の悲痛な思いは…。ただ単に涙を流すだけには止まらなかった。誰よりも優しい故のこれから起きるだろうと思ったことに対する無力感や情けなさ…絶望感は次の瞬間に彼を絶叫させるに至ったのであった。
「オンギャァァァァァァァァァァァァァ」
「ウォッ?!」
突然の泣き声にニコライ2世は驚いた。
「おっおいママ。アリョーシャがどうかしたのか?!」
アリョーシャことアレクセイを抱きかかえていたママ━━皇后アレクサンドラ━━もこの泣き声に驚いた。何せ今まで滅多に泣かなかった息子がいきなり泣いたからである。
「わからないわ…。アリョーシャ…アリョーシャ…。どうかしたの?ヨォシヨシヨシ…。」
「オンギャァァァァァァァァァァァァァ」
「オイオイ、あんなにおとなしかったのにこんなに泣くなんて一体どうしたっていうんだ…。」
皇后はなおも懸命に赤子を宥めようとしたが、そんなことなぞ知らない赤子はなおも泣き叫び続けた。
「アリョーシャ…アリョーシャや。どうしたというのよアリョーシャ…。」
皇后がそう宥めていると、不意に1人の女の子がアレクセイに顔を近づけた。
「アリョーシャ…。なにかこわいの…?かなしいの…?もしそうなら…」
「おんぎゃああぁぁ………………?」
彼女は不意に彼を抱き上げたと思うと彼を抱きしめた。彼は彼女の温かみを直に感じ取った。加えて彼女のその目!何もかも見透かすようなそれでいて優しく包み込むような彼女の目はすぐに彼を落ち着かせることとなった。
「ナーシャ…。」
そう皇后が呼びかけたその女の子はアナスタシア皇女であった。
「ワタシ…、なんだかこのこのきもちがわかるの…。なんだかつたわってくるのよ…。」
「ナーシャ…。すごいよ…。」
そう言ったのは皇帝であった。
「アリョーシャの顔を見てみな…。安らかな顔だろう…。ナーシャのおかげさ…。」
アレクセイの顔を見てみると確かにその顔は安らかで、若干の微笑も含んでいた。先ほどまでの悲痛な顔とは大違いであった。
次に皇帝は皇后の方を向いた。
「ママ…気にすることないよ…。赤ん坊はみんなそんなもんさ…。今まで泣くことが少なかっただけのことだよ…。」
「そ、そうね…。でも、何だか心配で…。」
「大丈夫さ…。きっと神はこの子を見守ってくださるはずさ…。」
それからしばらくして赤ん坊は眠ってしまった。
「やれやれ、眠ってしまったか…。」
「ええ…。」
「サテ…少し席を外す。ちょっと代父母達と会っておきたいもんでね…。」
そういうと彼は洗礼式の際の控室を出て代父母の部屋に向かおうとした。
その際、彼はドアを閉めて、初めてドアのそばに人がいることに気がついた。
「災難だったな、ニッキー。」
「ヴィリー…。いたのか。」
男はドイツ皇帝ヴィルヘルム二世であった。
「ああ、少しお前と話したいことがあったもんできてみたら、赤ん坊がギャン泣きという訳さ。」
「そ、そうか…。」
「しかし不吉だなぁ。今まであまり泣くことのなかった赤ん坊が洗礼式の直前でギャン泣きとは。」
「ヴィリー!」
「なぁに冗談冗談…。だがそれでもなぁにかあるように感じたものでね…。」
「……。」
「ところで…。
アレクセイが生まれる数ヶ月前、日本とロシアは戦争状態に突入していた。世にいう日露戦争である。この頃にはすでに旅順は包囲されており、日本軍による攻撃の真っ只中にあった。また一方で、ちょうどこの頃には日本軍とロシア軍の間で遼陽会戦と呼ばれる戦いが始まっていており、日本軍とロシア軍は満州の荒野にて死闘を繰り広げていた。
「………何…。最後には勝ってやるさ…。我がロシア帝国があの
ところで、このニコライ皇帝、度々日本人を猿と侮蔑の混じった呼び方をしていた。1891年に彼が皇太子だったとき、彼は日本を訪れたのだがその際、滋賀県の大津にて津田三蔵という巡査に切りつけられて以来、大の日本嫌いとなったのである。
「ふーむ、そうだと良いが…。」
「ところで何でそんなことを聞いてきたんだね…?まさか嫌味だけ言うつもりじゃあるまいね。」
「イヤイヤとんでもありませんよ…。大ロシアの皇帝陛下に誓ってね!」
皮肉混じりにそう言いつつ、彼は顔をニヤニヤさせていた。
「………で?何が言いたいんだね?」
「ニッキー、少し耳を貸してくれるかな…。この話はちょっと込み入ったものでね…。」
彼はそう言うと彼はニコライ二世の耳元に近づいてヒソヒソと囁いた。
"史実"ではなかったこのヴィルヘルム二世の些細な行動…。のちにこの行動が歴史の歯車を大きく狂わせるきっかけとなるとはこの時誰も思っていなかった。