ここからダル・セーニョ   作:辛酸

11 / 26
水無月エスプレッシーヴォ

 6月、即ち梅雨の季節。先月まで吹いていた皐月の風はすっかり鳴りを潜め、空には雨雲、地面には水たまり、空気には湿気と、ジメジメしたものだけが集まる時期になった。かく言う今日もそうである。先例に習い、しっかりと朝から雨が降り続く。耳にした天気予報は、どうやらこの雨は1日続くようだった。

 ……あの祭りの日から、おおよそ2週間が経過した。ただ、あの日以来上野部長と関わることがなくなったかというと、そういうわけではなかった。コンクールのための練習が増えてきたこともあり、関わる回数であればむしろ増したと言えるだろう。正直に言えば、上野部長と会うたびにあの日のことを思い出してしまうものだから、あまり会いたくはない。だけど、練習しないことはよくないことだから、あまり弱音を吐いていられない。彼女の方も、あの日以来そこまで自分個人への追求はしないでくれている。

 ……だけど正直、他人のことをどうでもいいと思ってるだなんて、図星だと思ってしまった自分がいる事には、堪えてしまった。やはり、考えても意味がないことは考えてはいけない。迷っても意味なんて、どこにもない。

 ところで、雨というのは、楽器吹きにとって天敵だ。楽器にかかるストレスは平常時とは比較にならないものになる。特にサックスではタンポの部分、簡単に言えば穴に蓋をしている部分の裏なのだが、そこに使われているスポンジの劣化が早まってしまう。

 ある程度長く楽器を吹いてきたこともあり、劣化したタンポはいくつか見てきたが、初めて見た時の衝撃は大きかったと記憶している。金属でできた綺麗なサックスの中で、まさか腐って黒ずむ部分があるなんて、知らない人間からしたら想像もつかないだろう。とはいえ、雨でなくても強い日差しの下や風などでも劣化してしまうため、外で吹くことはあまり推奨されていないというのだから、これは楽器そのものがデリケートすぎるのが問題なのかもしれない。

 そんな推定デリケートで重い楽器をケースに入れて背負い、しっかりと傘の中に納めて登校するのは、自分で選んだとはいえ重労働だ。

 北海道に住んでいた頃には感じなかったが、人はここまで湿気に包まれるとどうやら逆に汗をかくようになるらしい。そう遠くないはずの距離を歩いているだけだというのに、じとりとその存在を感じることができる。朝も早いというのに、実にご苦労なことだ。しかし、そんなことでしょげていても仕方がない。自分が濡れすぎないようにさっさと足を進めるしかないようだ。

 

 ◆

 

 今日はなんで雨なんだろう。吉川優子は心の底からそう思った。今日はたまたま、南中出の皆で初めから揃って朝練ができる日だった。いつも中川夏紀以外のメンバーは来るものの、時間がまちまちだったり、そもそも最初に来る傘木希美と鎧塚みぞれがかなり早く来ていたりするので、揃って学校に来ることは珍しい。よりにもよってその珍しい1日が、しっかりと本降りの雨に見舞われた。

 優子にとって、傘を持って歩くと生まれる距離は、そのまま相手が離れていくように見えた。雨がなければ、この空白はなかっただろうに。

 

「皆ー、鍵取ってきたよー!」

「ありがと〜希美もみぞれも〜」

「いいのいいの、私たちはいつもの事だし!」

 

 学校について最初にやる事は、音楽室の鍵を取りに行くことだ。そこで、その役割を自分から背負っていったのが希美であり、それについて行ったのがみぞれだった。それというのも、毎回一番乗りで学校に来て練習しているのは希美とみぞれの2人組なのである。

 どうせ、優子がたまには取りに行くと告げたところで、基本気が利く彼女のことだ。大丈夫という一言で、ぴゅんっと去ってしまうだろう。だからこそ、そういう心遣いに対して優子はせめてもの抵抗をする。

 

「ありがと、希美、みぞれ」

「えー、優子もそれじゃ余所余所しいって。というか、優子だっていつも私たちの次くらいには来てるじゃん」

「そういうことはいいの。こういうのはちゃんとしたいし。みぞれも、ね」

「……うん」

 

 優子がまだ南中だった時から、この2人は一緒にいた。と、いうには少し遠く、正しくは一緒にいることが多かった。ぱっちりと開いた目と健康的なポニーテールに、明るく顔も広い希美と、かわいらしい垂れ目と少し暗い雰囲気を与えるロングヘア、何よりも閉鎖的で希美にべったりなみぞれでは、明らかに正反対と呼ぶに相応しい。希美がみぞれ以外の人と話すのはよく目にすることだが、その反対はない。人間性が、というよりは関係性が、実に不思議な2人組。アンバランス、なんて言葉さえ浮かびそうになって、優子は、それ以上考えるのをやめた。きっと、ここまで一緒にいられるのは、この2人の仲が良いからなのだろう。そう信じよう。……羨ましい、なんて誰に宛てた言葉かもわからないのに、優子のほうが変みたいだ。

 

 

 

 パーっと、朝の音楽室には少女たちが鳴らす楽器の音が響いている。それはまるで、雨の音と戦うように、この曇天を打ち消すように、そういう力強さを伴って鳴らされていた。優子の耳には、その音が風のように流れ込んでくる。木管楽器が鳴らすロングトーンは、不思議と耳に心地良く感じる。繊細、と表現されるその音を、優子は嫌いじゃなかった。

 金管楽器にとって、ウォーミングアップの時間というものはいささか退屈なものになりがちだ。横に木管楽器がいる時は特にそうだ。華々しく楽器を吹くために、華々しさの欠片もないマウスピースだけを使って音を出す。木管楽器が綺麗な音を出す横で、タオル片手に間の抜けた音を延々出す必要があるというのだから、さっさと楽器が吹きたくなる。それは優子にとっても例外ではなかった。心地良い音を聞くのは嫌いじゃなくても、自分が音楽に携われないのならそれはそれで話が変わる。そんな優子の気持ちとは裏腹に、木管たちの音は耳に入り続ける。溜息。

 ……まあ、今日はなんだか吹きたい気分だしもう吹いてもいいだろうなんて、つい優子は思ってマウスピースを楽器につける。やっぱりロングトーンからやるのがいいか、最初の1音は何にしようか、なんて楽器を吹こうとした。吹こうとして、固まった。理由は簡単だ。がららと開いた扉の向こうから、軽く挨拶をしながら入ってくる男を見たからだ。

 

「おはよう」

「ちょ、あんた、どうしてそんなに濡れてるの!?」

 

 そう、その姿は完膚なきまでに濡れていたのである。袈裟に切られたかのように綺麗に上半身から下半身までずぶ濡れになっている。そんな人間が急に入ってきたとなると、他のメンバーよりも扉の近くで吹いていた優子は反応せざるを得ない。

 

「ごめん、車とすれ違った時にね。楽器は庇えたからまだいいんだけど」

「いや良くないわよ!藤原、ほら早く拭いて、風邪引いちゃう」

 

 普通のことを言っているはずなのに、余りにも平然としているものだから、この状況はまるで優子の方がおかしいみたいだ。

 

「ああ、こんなものはすぐ乾くし大丈夫だよ。練習の時間がもったいないから」

 

 前言撤回。しっかりと目の前の男は頭がおかしかった。決して優子の方がおかしかったわけではない。藤原創、サックスパート1年にして毎回楽器を持って帰る練習ジャンキーという話は、どうやら底の底まで本当らしい。

 それにほら、後ろ側も楽器も濡れてないし。などと、練習で脳みそを腐らせてしまったのか、藤原は突飛な発言を繰り返している。そこまで面識があるわけではないのだが、余りにも阿呆な言動に、優子は絶句してしまう。先程から口角がピクピクと震えて小うるさい。

 楽器の音が響く中でも、流石にこの状況に気づいたのか、他のメンバーもやって来る。

 

「わ、すごい濡れてるね。創君大丈夫?」

「希美、菫、このバカを説き伏せてあげて。私、流石に聞いていられないかも」

「え、バカって……自分、君に何かしたっけ……?」

「ええもちろん、自分の発言のアホさに気づかない方がおかしいから。何ならもう一度言って見なさい!今度は審査員が2人もいるんだから。すぐに講評用紙だってもらえるんじゃない?」

 

 音楽室の扉の近く、ちょっとしたから騒ぎ。創は言われた通り先ほど言った言葉をそのまま繰り返した。その言葉は案の定最後まで繰り返されることなく、無事に彼はお縄――ならぬ、タオルにかけられた。

 菫や希美にタオルをかけられて少し不服そうな彼の姿は、まるで水をかけられたブルドッグのような哀愁を漂わせている。優子の勝ち誇った顔を見て、本当に大丈夫なんだけど、なんてぶつくさ呟いても、既に勝敗は決しているのだ。

 

「てか、意外と創君って鍛えてるんだね」

 

 創が拭いている姿を見て、菫がそう言及する。濡れたワイシャツから透ける腕は夏服が解禁される前には気づかなかった太さを持ち、腹筋には健全な鍛え方がされた筋が入っている。状況だけで見れば少し色っぽいはずなのに、先程の発言のせいで色っぽさは欠片も無い。

 菫の発言に対して、体を拭きながら創が答える。

 

「といっても、腕と腹筋だけだけどね。ほら、腹筋は当然だけど、腕もケアしておかないと腱鞘炎になるから」

「うぐ、サックス吹きとしても女子としても刺さるなその発言。私も腹筋はしようかな……」

「菫、言ったらちゃんとやるんだよ?最近、食べすぎてるって言ってたもんね」

「希美!仮にも男子の前で言うの禁止だからそれぇ!」

「仮にも、なんだ」

「当然でしょ!あんたは早く拭いちゃってよ」

 

 思い返してみると、南中の頃はこんな会話をしているのが日常だった。厳しい練習の合間に、ちょっとした思い出が増えていく。いろんな人がいて、いろんな苦労があって、その中で曲がりなりにも1つの音楽を作ろうとする。それが優子にとっての吹奏楽部だった。

 どうしてこうなってしまったのかなんて、今更考えても仕方がないことを、優子は知っている。優子はこの吹奏楽部で中世古香織と出会うことができた。それだけでこの状況にはある程度お釣りが来てもいい。だけどきっと、他の皆はこの意地が悪い不真面目さに耐えられないのだ。耐えられるか、耐えられないか、どこかの誰かの言葉と考えを借りるならきっとそれでしかない。

 創が拭き終わると同時に、笑い声も自然に決着した。

 

「タオルありがとう。洗って返したほうがいいかな」

「大丈夫。代えもあるし、そのまま渡して」

 

 そうして希美にタオルを返すと、それじゃあとだけ言って、創はアルトサックスを組み立て始める。希美はタオルを受け取って、それを片付けるために音楽室の奥へと帰っていった。その様子を見て、優子も自分の練習に戻ろうとキャスターからトランペットを取る。

 そんな中で、一人だけ声を出した人物がいた。それは菫だった。

 

「ねえ、創君はさ、今の3年生に不満とか、ないの?」

 

 きっと、今の発言は近くにいた優子以外には聞こえなかっただろう。黙々と練習するみぞれのオーボエの音に掻き消されていたはずだから。それでも、空気に緊張が走ったのがわかる。直接の対立がほぼなくなったとはいえ、南中以外で簡単に共有できる話題じゃないはずだ。

 その言葉を聞いて、楽器を組み立てる手を止めることなく創は答えた。

 

「ああ、自分は特にないよ。合奏はある程度割り切れるし、個人練習にそこまで影響はないから」

 

 どこまでもあっけらかんと放たれたその言葉は、きっと他のメンバーに聞かれていなくて良かったはずだ。こんな気にする意味がわからないような言い方をされては、何も言い返しようがない。自分たちの必死の努力が意味ないような発言、悪意がなくても聞きたい人は少ないだろう。

 

「――そっか。そう、だよね。創君は音大が目標だもんね。部活とか、そこまででも、ないよね。ごめん、邪魔して」

「?まだ組み立ててるだけだから、気にしなくて大丈夫だよ」

 

 菫は大人だと、この時ばかりは優子も思った。その発言を聞いて1番悔しいのは、きっと同じ楽器である菫であるはずなのに。

 優子の中に言いようのないようなモヤモヤがこみ上げてくる。そんな言い方ないでしょと、言ってやりたかった。でも、まだ耐えられている優子もきっと、どこかで彼と同じ他人事ではと考えて、やめた。言う資格が、ないように思えた。

 

 優子が外を見ると、まだまだ雨が降り続いている。このモヤモヤはきっと、この雨のせいなのだと、そう信じることにした。せめてこの雨が、6月が早く終わるように、大きく大きく、どこまでも響くように音を出した。




 なんか暗い話が続いていますが、原作の流れ的にもう少し暗い話が続きます。青春要素も考えていますのでご容赦。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。