「中国の歴代王朝は常に受験でも意識させられる場所ですから、世界史でセンター試験を受ける人は特に、定期テストでも頑張るようにしてください」
センター試験、受験、定期テスト。学生が聞きたくないであろう言葉ばかり並べ立ててくるのが、この世界史の授業の特徴だった。聞きたくない、というのは他のみんなの反応からだ。部活でも、教室でも、聞こえてくる声の中にこれらの言葉に肯定的なものは少ない。
「ちなみにですが、私は中国史では随の煬帝のファンでして――」
世界史の授業のもう1つの特徴は、先生のうんちく話が長い事だ。5月くらいまでは聞いていた気がするのだが、内容が難しいことに加えて、半ば趣味が混ざっている。さらには、高校範囲ではない内容でもあり、気がつけば話半分に聞いている。昼間はよく寝ることができない体質なため、寝ることもできない。だからこういう時は、眠気の代わりに来る頭痛と戦うために、せめて何かを考えることで時間を潰すのがセオリーだ。
高校生になって感じることに、時間の流れが非常に速い、ということがある。入学して、練習場所を探してこの部活に入部して、また別の練習場所を探して、そうして繰り返しているうちに、気が付けば、季節は盛夏と呼ぶにふさわしいまでになった。
思い返してみれば、この半年の間だけで多くのことがあった。後藤や滝野など、心優しい仲間と出会うこともできたし、今までやったこともなかったようなマーチングに挑戦したりもした。まあ、この北宇治高校吹奏楽部はマーチングにもそこまで力を入れてなかったものだから、きっと傍から見ればとんでもない足のステップをしていたと思うけれど。
この間ようやく中間テストが終わったと思ったのに、もう期末テストはすぐそこまで来ている。これが終わってしまえば、高校生最初の夏休みはすぐそこだ。朝練と放課後という短い時間に縛られることなく練習ができると考えると、それだけで妙な高揚感すら覚える気がしてくる。
それはそうと、流石にもうコンクールメンバーくらいは決めて置かなければならない気がするのだが、北宇治高校はいつオーディション等を行うのだろうか。確かに、今年選んだ課題曲、自由曲はものすごく難しい曲というわけでもない。一か月の取り組みでも、形にすることは出来るだろう。だが、このまま全員で合奏しているのはいささか問題があるのではないだろうか。
コンクールにおいて、55人であること、時間を超えないこと等の制限は絶対だ。梨香子先生や3年生がどう考えているのかわからないが、せめてこれまでの練習を無駄にさせるようなことはやめて欲しいところだ。
『私、お飾りの部長だから』
……ただ、あの日聞いた言葉が、何か練習が無駄になる以上に嫌な予感を想起させてならなかった。
「――以上の人たちが今年のA編成コンクールメンバーです。他の人たちはまた来年のコンクールを目指して頑張ってください。では、一度コンクールメンバー以外の人達は個人練習に戻ってください」
梨香子先生に告げられた言葉は、無情なほどに淡白な、ナイフのような鋭さを伴うものだった。
夏休み最初のミーティングは、待ちわびていたコンクールメンバーの発表と共に始まった。それ自体はむしろ遅いというほどのことで、特筆するべきことは無い。強いて言うなら、オーディションなどは特にされていない点だろうが。けれどまあ、発表自体はつつがなくスムーズに、流暢に、Fluentに、どの言葉でも良いのだが、そういった言葉が似合うように、すんなりと済んだ。しかし、部活の空気という点に限れば、明確に1つの終わりを迎えたと言っていい。
結論から言おう、短簡な実力主義の観点からすると選ばれるべき人物が、選ばれるべき場所に名前を連ねることがなかった。
それは例えば、ソロの部分。トランペットで一番上手い先輩は、音を聞いている限りで、滝野がいつも言っている中世古先輩だろう。しかし、中世古先輩の名前がソロとして呼ばれることはなかった。代わりに呼ばれたのは3年生。特に説明はなかった。
それは例えば、1年生。希美や鎧塚さん、若井さん、彼女たちと朝練をしている人たちなど、現行の2年3年の人たちよりも明確に上手と言える人はコンクールメンバーにはならなかった。……いや、鎧塚さんは呼ばれていたような気がする。そもそも、北宇治高校はオーボエパートが彼女だけのバンドだったし、間違いないはずだ。
そして、それは例えば、自分。どうやら、バリトンサックスを吹くのは晴香先輩だけのようだ。
ただ、この采配は理解できる。高校の吹奏楽部なんて、本気で全国を目指すところの方が少ない。B編成にしか出場しない、もしくは出来ない高校は山のように存在する。A編成に出場するにしたって、地区大会以上に進む高校というだけで、既に相当なふるいにかけられているのがこの世界だ。こんな世界で無理に実力主義を採用したところで、普通はそんなものに耐えられない。ならば初めから、地域のイベントに参加する様な楽しい部活としてやったほうが、“らしい”というものだ。
これは先生の方だってそうだ。部活は大きな集団だ。それをまとめ上げる存在が、生徒ではなく先生側にいるのは吹奏楽部にとってかなり重要だ。その意味では、梨香子先生にはそもそも全国を目指すだけの指導力はない。きっと、過去に音楽をやっていたからという理由で前顧問の穴埋めを任されただけの人だ。美智恵先生の方も、以前伺った時には声楽が専門だと言っていた。そういう人達に、そもそも指導力を期待するだけかわいそうだとすら思う。
だからきっと、こうした年齢でコンクールメンバーを決めて、高校生活を彩る部活づくりは方針として、間違ってない。あと自分の場合、バリトンは2本なくてもいい。……それでもオーディションが無いことくらい事前に告知して欲しいところではあるが。
ただそれでも梨香子先生がした発表は、ぐらぐら揺れるこの部活が、ようやく手に入れかけていた静謐を、どろどろと雨で溶かしてしまった。きっともう、溶けたものは戻らないのだとすら、思った。
◆
「響部長、少しお話いいですか」
人も少ない教室で、悲痛な声がか細く響いた。ここは北宇治高校サックスパートの練習教室。パート練習のために割り振られたその部屋には、既に居残り練習をしている生徒たちしか残っていない。ただその少なさに反して、ピンと張り詰めた空気が緊張を誘っていた。
「……ごめんね、菫ちゃん」
「なんで、謝るんですか」
「本当に、ごめん」
「なんで、なんで謝るんですか!まだ何も話してないのに!」
菫は叫ぶ。子供みたい、だなんて彼女自身わかっている。わかっていても、叫ぶ。そうすることでしか、この胸の痛みが、怒りが、苦しみが、晴れることはない。ないんだと、潤んだ視界が教えてくれている。
響はその瞳を見ても、叫びを聞いても、まるで動じていないような佇まいだ。そうして真っすぐ、ただ真っすぐ、どこまでも繊細に菫を扱おうとする。今更そんな気遣いなんて必要ないのに。
「す、菫ちゃん。気持ちはわかるけど、その、響先輩だって」
「晴香ちゃん」
この状況に耐えきれず助け舟を出そうとした晴香を、響が制する。こうされると、晴香は何もできない。仕方なく、苦虫を噛み潰したような顔でこの沈黙に耐え続ける。
この嗚咽混じりの沈黙の中で、最初に声を発したのは響だった。
「……私も、実力がある人がコンクールに出たほうがいいとは思う。でも、この学校はそうじゃなかった。そう出来ないのは、私のせい。だから、ごめん」
「そうじゃ、そうじゃないんです」
「……私だってね、今の3年より菫ちゃんの方が、もちろん藤原君もだけど、上手いと思う。音の違いなんて一瞬でわかっちゃうもの。でも、そんなこと言っても彼女たちには響かないから」
「ちが、うんです」
「でもね、来年!来年は、きっと、サックスパートはこうはならないと思うの。部活としてはまだ弱いかもしれないけど、アンコンに出たり、ソロコンに出たり、サックスパートだけなら――」
「そういうことじゃないんです!」
菫の絶叫は、響の話を完全に遮った。声と吐息が、校舎の壁に木霊する。風が吹く教室には、夕日のカーテンが揺れている。この場を静謐が支配する前に、菫はゆっくりと、崩れた顔を隠さずに言葉を紡ぐ。
「確かに、私たちはここで耐えればいい、かもしれないです。でも、でも、響先輩はそれでいいんですか?」
「……え?」
「3年生が一番優遇されて、コンクールメンバーに選ばれて、ソロにも選ばれるなら、どうして先輩がソロじゃないんですか!」
それが、菫の涙の理由だった。
初め、梨香子先生のコンクールメンバー発表を聞いた時、菫の中にあったのは怒りより諦観だった。どんなに努力して、どんなに呼びかけても、気休めのように練習場所を用意されるだけ。この部活はそういう場所なんだと、どうしようもない無力感だけがあった。きっと、他の南中のみんなもそうだっただろうと思う。この気持ち悪い閉塞感から逃げ出すことだけを考えていただろう。
だが、その感情はソロの発表で完全に塗り替えられてしまった。ソロはきっと部長でもあり3年で一番上手い響先輩だと考えていた、その考えすら甘かったと突きつけられたからだ。ソロに選ばれたのは、サックスパートの中で一番菫を邪険に扱おうとしてきた3年だったのだ。対して上手くもない、練習もしないくせに、他人には酷く接する。そんな人間に、菫だけじゃなく、同学年の響先輩までもが、どうしてここまで奪われなければならないのだろうか。どうして、という疑問がそのまま、胸をずたずたに引き裂いて、装うことすらできない感情が生まれた。
「……それ、は」
「私たちは、確かに先輩のことを悪く言いました。だけど、先輩の努力している、素敵な音にだけは嘘つけないんです!そんな綺麗な先輩がソロにすら選ばれないなんて、そんな事があっていいわけないじゃないですか!」
菫の言葉は矢のように真っすぐ飛んだ。響と菫は仲が良かったわけではない。菫にはずっと、響が部長という立場なのに何もしない人間にしか見えなかった。響のおかげで練習ができる場所を作ってもらっているとわかっていても、それでは意味がないように見えた。コンクールのために努力したいという気持ちが軽んじられているようにすら思えた。
だから、嘘をつこうとした。先輩が嫌いだと思い込んでいたら、まだきっと他の全部も諦められるような気がした。それでも練習中に外から聞こえてくる綺麗で繊細で、奥深いサックスの音が好きだ感じる自分はいなくならなかった。
「だから、だから私は、先輩のあんなに綺麗な音が、そのまま消えてしまうのだけは、諦められません!先輩はそのままでいいんですか!?」
その言葉に、初めて響の笑顔が崩れたような、菫にはそう感じられた。果たしてそれは揺れた瞳のせいだろうか、もしくは握りしめられ、少し光りを帯びたその両手のせいだろうか。
「菫ちゃん、流石に落ち着こ?少し言い過ぎだよ」
響の様子を見て、黙っていた晴香が止めに入った。伝えたいことを全て言い切って、返事を待つだけになった菫には、その言葉は冷水をかけられたようだった。はっとして、少しだけ落ち着きを取り戻す。
我に返ってなお、響から返事は来ていなかった。いつもリラックスしていて、笑顔を崩すことはないように見えた響にしては、珍しいなと思った。つまりそれは、そう出来ない悔しさが彼女の中にあることに気がついて、菫を再び激情が襲いかける。
「大丈夫」
襲いかけて、呆気にとられる。そんなに悔しいのに、どうして大丈夫なんて言葉を吐けるのか、わからない。
「私なんかのことよりも、みんなが吹ける環境のほうが大事だから、私は、いいの」
「……本気で言ってるんですか」
「そう、本気。本気だから、辞めないで」
絶対に嘘だと思った。菫にはわかる。だって音楽で嘘はつけない。響の音は、もっともっと、見てほしいと言っているかのようで、だから綺麗だと思ったのに。再び視界が霞んでくる。例え理解し合えなくても、音楽で出来た憧れのひとりだったのに。そえして、その憧れにここまで言わせてしまう環境がこの吹奏楽部なのだと、ようやく気がついた。
「……そうやって、頑張っている人を軽んじる場所にいたくないです。失礼します」
悔しくて悔しくて、呼び止める声も聞こえなかった。今はただ、この場から消えたかった。そうでもしないと、この流れる雫が止まることはないだろうな、なんてただ他人事のように、思った。
駆け出した校庭には菫の感情を代弁するかのように、悲しみを表現したようなサックスの音が流れていた。