夏の暑い日射しは、どうしようもないほどに主張が激しく、とめどなく汗が流れてくる。そしてそれは今日未明においても変わらない。なぜなら、起きて最初に向き合うものは自分が寝ている間に流した汗だからだ。この分では、流石にエアコンをつけて寝ることを考えなくてはならないな、と独りごちる。そんな無駄を受け入れて、小五月蠅い鳴き声が聞こえる前に起き上がる。窓を開けて、光と空気を取り入れたら、アラームが鳴る。そうすればほら、どんなに暑くなっても変わらない、いつも通りの朝がまた始まる。
気がつけば、コンクールメンバーの発表から一週間ほどが経過していた。つまりは、夏休みの凡そ1/4が失われてしまったということだ。そう振り返ってみると、夏休みは意外と短いのだな、と思う。出来るだけ、後悔のないように練習をしなくては。
夏休みの間は1日のほぼ全てを楽器の練習に充てることができる。だからこそ、朝の時間を練習ではなく家事に使うことにした。いつもであれば朝家で基礎練をしてから、学校でエチュードを吹く時間をとるのだが、1日中吹けるのであればそう時間を削りに削る必要も薄いだろう。
ただその代わりに、早くから学校の朝練に参加するようにしている。今までずっと一番乗りの称号を味わうことがなかったものの、ここ数日は希美や鎧塚さんと首位争いを繰り広げるまでになっている。けれど今日は、10分も前から学校に到着しているので、きっと自分が一番だろう。
そんなことで競う必要なんてないのだが、希美にそう言われてからなんとなく気にしてしまう様になった。
さて、学校について玄関に入ってもまだ楽器の音は聞こえてこない。さっさと職員室を訪ねてしまおう。今日のメダルの色が何色であるかは、この挨拶で判断しているのだから。
「美智恵先生、おはようございます」
「ああ、藤原か。今日は早いな。だが、早寝早起きは学生として誇れる美徳だ。練習にもコンディションを見ながらきちんと励むように」
そう言って美智恵先生が鍵束を差し出す。どうやら今日のメダルは金色のようだ。少しの優越感と喜びが脳みそを横切る。とはいえ、早く受け取ってお礼を言わなければ。
「いえ、美智恵先生の方こそ、こうしていつも練習が出来るように早くに来て頂いて、本当にありがとうございます」
「そんな事は気にしなくていい。目的がある努力だ、教員がそれをサポートしないわけにはいかん」
……ずっと思っていた事がある。美智恵先生は生徒に対してかなり厳しい人に見えてしまうが、その接し方のひとつひとつに深い優しさを感じることがある。今の言葉も、そのひとつだ。
実際特段の目標がないこの部活で、たかだか生徒数人のために朝練を開放してくれるというのは、個人の人徳抜きには出来ないことだ。せめてもの感謝を抱くことは絶対に忘れないようにしたい。
「では失礼します」
「ああ、しっかりな」
お辞儀をしてから職員室を出る。ゆっくりとその扉を閉めると同時に、ずっと溜め込んでいたかのような溜息が飛び出す。
「目的がある努力……」
頭の中で、先程美智恵先生に言われた言葉が反芻している。
確かに、美智恵先生の言っていることは正しい。自分が音大に行かなきゃ行けないことと、そのために練習している今は、正しく努力だ。それならば、自分は努力出来ている。先生の言う“目的のある努力”が出来ている。……本当に?
疑問に疑問がぶつかって、頭の中がビリヤードみたいに弾けている。そのくせ答えはどこにも見つからないのだから、こういう自問自答は悪質だ。
ざわつく胸中とは正反対に、反射光がギラギラと目の中に飛び込んでくる。結局音大に行くのは変わらないのだから、こんな言葉ひとつで心が揺さぶられるなんて、どうやら自分はまだまだ修行不足のようだ。心を落ち着けるようにゆっくり深呼吸をしたら、さっさと音楽室に行こう。
そう考えてグッと伸びをした自分を迎えたのは、ちょっとした驚きだった。
「……」
気がつけば直ぐ側に、無言で立つ人影があった。それは音もなく気配もなく、当然のように横に立っているものだから、気がつこうにも気づけなかった。うわっ。と、素っ頓狂な声が出た。声が裏返って、喉に少しの疲労が残る。自分がこんな恥ずかしさを味わっているというのに、彼女は何も反応を示さなかった。
「えっと、鎧塚さん……?」
「……」
無言。彼女の貫く沈黙は、その静けさに反して一種の雄弁ささえ感じるほどだった。雄弁、という言葉にも、もちろん態度がという注釈が入っており、伝えたいことを理解できるわけではないのだが。
「…鍵」
「鍵?」
幾度の沈黙と一拍、さながら仕事が少ない時のシンバルのような独自のリズム感で、ようやく1語だけが紡がれた。どこか少しだけ感情が込められたようなその一言は、自分が迷惑をかけていたことを理解するのには十分だった。
「あ、ごめん。鍵開けなくちゃ練習出来ないよね。行こうか」
髪が揺れて、頷かれたことに気がつく。了承、ということだろうか。確かめるように歩き出すと、後ろから物音がしている。どうやらこの認識は間違えていなかったようだ。
廊下には、2人分の足跡が鳴っている。歩き始めてから、一言も会話をしたわけではない。けれど元来、自分もさして話す方ではないものだから、この沈黙を気まずいと感じることはなかった。だというのに、この違和感はなんだろう。音楽室につくまでの手慰みのように、なんとなくそれを考える。
特段彼女に見た目の変化はないようだから、そういう類のことではない。そうなると、雰囲気だろうか。雰囲気、と言ってもよく考えてみれば彼女はいつも無口だ。関わりの薄い自分にわかるような雰囲気の違いなどあるのだろうか。まあ、ないだろうな。
ああでもないこうでもないと考えていると、もう音楽室の扉の前だった。仕方なく考えるのをやめると、カチャリと心地の良い音を立てる。そのまま教室に入ったら、広々とした教室が目に入る。音楽室の痛々しい静けさに触れて、ようやくそこで違和感の正体に思い当たる。そうだった、鎧塚さんがひとりだけで行動しているのは、イメージとしてどことなく違和感があった。そして、その違和感が示すものはつまり、
「鎧塚さん、今日は希美と一緒じゃないんだね」
希美の存在。彼女と仲が良い他の人達は、殆どいつもこの時間には朝練に来ない。だからこそ、この間怒られた時はかなり予想外だったのだが。
軽い雑談のような問いかけだったものの、どうやら鎧塚さんにとってそれは問われたくない事だったようだ。自分でも分かるほど動揺が態度に表れている。何か喧嘩でもしたのだろうか。そうだとするなら、軽率に聞かないほうがよかったかもしれない。
この話をなかったことに出来るように、さっさと練習の支度を始めようとすると、絞り出されたようなか細い声を耳にする。
「藤原さんも、知らないの?」
「え?まあ、知らないかな」
どういうことだろうか。毎朝一緒に練習に来ている人と同じクラスということくらいしか繋がりのない自分では、まるで情報量に差があると感じるのだが、何故彼女は自分に聞いてきたのだろう。
「希美は、朝来なかった」
「まあ……そうみたいだね」
「どうして来ないのか、わからなくて」
「そ、そうなんだ」
会話が再び途切れる。ちょっとした雑談程度の気持ちだったが、余りにもちょっとしすぎていて味気ない。練習はしたいが、もう少し話を広げておこう。
「えっと、連絡はとれたの?」
「希美、まだ携帯持ってない」
であれば、鎧塚さんは確認する方法がない中とりあえず学校に来た、ということだろうか。しかし、休むのに何の連絡もないとは、希美がそういうタイプだとは考えにくい。意外な一面、というやつだろうか。この早朝から事故に巻き込まれたとも考えにくいが、彼女が不安にもなる気持ちはわかる。いくらそこまで仲が良くないからといっても、ここで放っておくのは余りにも寝覚めが悪い。きっと、北海道の祖父祖母もそう思うはずだ。せめて何か出来ることをしよう。
「それじゃあ、何か他の人は知ってるかもしれないし、後で先輩から聞くのはどうかな。なんであれば、自分も聞いておくよ」
そう告げると、少し不安を残した表情が、垂れた前髪の向こうから顕になる。鎧塚さんと、初めて目が合ったような気がした。
午後の練習。今日も今日とて、その時間は少しずつ終わりへと近づいていた。コンクールメンバーであれば、合奏練習をしなければならないため、ずっと音楽室にこもりっぱなしにさせられるが、生憎と自分はコンクールメンバーではなかった。幽閉されることもなく、代わり映えのしないパート練習を行うのだ。とは言っても、パート練習が開始される気配は微塵もないものだから、好都合とばかりにアルトサックスを持って教室を去った。ひとりで練習するのは、慣れている。
バリトンを吹くことが嫌というわけではないのだが、やはり音大入試に使うのはアルトなのだから、こういう隙間で常に練習していかなければならない。特に今練習している『プロヴァンスの風景』はソロコンで吹こうとしている曲で、決して気を抜いて演奏はできない。
「もう、終わりか」
持ってきた携帯で時間を確認すると、もうすぐ練習は終わりのようだ。やり始めたばかりということもあり、いくらやっても表現力に結びつかない。練習しなければ気がすまなくなるが、いっときこの熱には蓋をしなければならない。中学の頃はコンクールに出ていなかったから、この感覚と付き合うのも久しぶりだ。
それに、希美について聞いておくと鎧塚さんと約束していた。フルートの先輩……は彼女と仲が悪いだろうから、彼女たちを庇っていた誰かに聞くのが適任だろう。となると、低音パートの誰か、後藤あたりにでも聞いてみようか。
「そういえば」
希美と聞いて思い出したが、若井さんも最近部活には来ていなかった。彼女は特に部活との折り合いがついていなさそうであったし、少し心配だ。
「後藤」
「……藤原か」
低音パートは人数が少ないから、取り残されたのは後藤とその彼女の長瀬さんに中川さんという、見事に1年生だけだった。そのはずなのだが、
「中川さんは?」
「別の教室でサボり」
「ああ、彼女って
「え、えっと、別にパート練習自体はしっかりとやってくれるんだよ?」
中川さんの姿が見えない。しかしどうやらそれは“いつものこと”らしい。少しだけ不貞腐れたように後藤は返し、長瀬さんなりのフォローであろう苦笑いが漂った。特段自分は
「別に気にしてるわけじゃないよ。それより、聞きたいことがあって。希美とか若井さんがどうして休んでるかって、知らない?」
明日の朝ごはんって何?そんな一種の牧歌的な楽観さを含んだ聞き方。何も重大なことを聞いた感覚は自分の中で全く無かった。それなのに、空気が凍る音がした。凍って音などしないはずなのに、その絶句には何かが崩れ落ちたような、そんな音がした。
「お前……何も知らないのか?」
「ん?何かあったの?」
どういうことだろう。特に何か、彼女たちが来なくなるような理由が最近あったとは思えない。それに、事態が余りにも唐突だ。それほど不思議なことを聞いたとつもりではないのだが。
「お前、南中の奴らのこと、かわいそうって言ってたよな」
「え?まあ……そうだね」
「じゃあ、こうなった原因も、なんであいつらがここにいないのかも、わかるんじゃないのか」
ますますわからなくなった。いつも口数の少ない後藤がこうして詰問してくるような事態が起こっていたというのだろうか?余りの緊迫感に考え込む。
後藤の発言では、彼女たちの状況こそがこれを解くカギだという。つまりは、実力が正当に評価されにくいこの部活の問題と関係しているのだろうか。だとすればますますわからない。彼女たちの主張は真面目に音楽がやりたいなのだから、ソロで活動したり、自分で練習すればいいだけだ。実際彼女たちはそうしていた。来なくなる理由はどこにもない。
いつまで経っても頬杖をついたままで答えを出さない自分を見かねてか、視線を下に向けていた長瀬さんが噛みしめるようにその言葉を呟いた。
「あのね、藤原君。あの南中の子たちは、優子と夏紀、みぞれちゃん以外みんな部活辞めちゃったの」
「……え?」
何を言っているのだろうか。先ほどの考察とは全く違う。それは流石にありえないだろう。だとすれば、彼女たちの行動に辻褄が合わないじゃないか。
「いやいや、流石にそれは冗談だよ。だって、彼女たちはみんな頑張って練習していたのに、そんなことしたら全部無駄じゃないか」
「やめてくれ」
ピシャリ、と空気が分かたれる。後藤の発言は、それだけの力があった。それでも、後藤の言葉は止まらなかった。
「みんな、お前みたいに凄くないんだ。お前とは違うんだ。なんで、そこには思い至らないんだ。無駄とか、言うなよ」
急にガツンと殴られたような、不思議な衝撃が奔った。ふとした衝撃に混乱した。後藤君、と誰かが言って、もっと小さな声で誰かが誰かに謝った。ただそうする必要があると思い、大丈夫と返してこの場を去った。
廊下をあてもなく歩く。なんでこの衝撃が脳を打ったのか、わからなくて、わからないから、考える。自分が、凄い?そうかもしれない。音大に行こうとしている人は少ないから。自分が、他の人と違う?そうかもしれない。じゃあ、どこが?わからない。持ち合わせる答えはない。思い至らないとは、何に?持ち合わせる答えはない。ただ、廊下を歩く。
不意に、誰かの泣き声を聞いた。体がその声に引き寄せられるようにそちらへ向かう。誰が、どうして、泣いているのだろう。この問いに答えはくれるだろうか。
「鎧塚さん」
体が言葉を吐き出す。相変わらず頭では何も考えていられないのに、その律儀さが憎らしい。泣いている誰かの隣には、それを慰めるように覆いかぶさった誰かがいる。その誰かのふわふわした髪の毛がふわふわした毛布のように見えた。
「そういえば、聞いておいたんだけど、どうやらみんな辞めちゃったみたいなんだ。冗談だと思うから、後でまた――」
「黙ってよ」
誰と喋っているかわからないのに、言葉だけがずっとデジャヴュしている。さっきもこんな言葉を聞いたような気がするけれど、あれはいつだったんだろう。
「あんた、今どういう状況かわかんないの!?泣いている子がいるのに、その原因すら考えないで喋んな!いくら楽器が出来るからって、人間なら言って良いことと悪いことがあるでしょうが!」
答えがひとつ、降ってきた。
そこから先のことはあまり覚えてない。いつも通り居残り練習をして、誰とも話さず鍵を返して、誰とも話さず家に帰ったんだと思う。恐らくそれが、今玄関にいる理由だ。
家に帰ると、悪魔のような思考停止も少し鳴りを潜めていて、ゆっくり物事が考えられるようになった。今日は、かなり手厳しいことを言われてしまった。人間関係は大事だ。そうじゃないと練習に集中できない。だからこそ、早速今日言われたことを意識しなければ。
いつもと同じ味付けの味噌汁と、いつもと同じ野菜炒め、いつもと同じ玉子焼きを、いつもと同じ時間に食べる。もちろん主食は朝に炊いてあるご飯。やはりいつも同じメニューを食べるのが、健康管理には都合がいい。それに、基軸さえ決まってしまえば変える時に楽だ。どうせ味は音痴だからよくわからない。
そうしたら、いつもと同じようにお風呂に入ろう。汚れと一緒に余分なものは落としてしまうといい。なんて、湯船には浸からないでシャワーだけ浴びるのがいつもなのだが。それでも、お湯を浴びるのは心地がいい。そうしている間は何も考えなくて済むから。
お風呂を出たら時間は9時だ。自室に戻ってやるべきことをやろう。廊下に出ると、不気味なくらい清々しい暗闇がそこにはある。数カ月も住めばもう慣れたもので、闇の中でも見えない夜目で歩けるようになる。いつもの歩幅といつもの歩数がこの暗闇に滲みていく。
部屋の扉を開ける。いつも通り、そこにはサックスと勉強机だけがある。仰々しいまでに並べられたそれらは、煌々と蛍光灯を反射してその存在を主張する。そういえば、この家に来てから他の何かを欲しいと思ったことはないなぁ。ガラガラの本棚には恭しいまでに楽譜と楽典と勉強用具が陳列されている。撫でるように勉強机に向かうと、いつも通り寝るまでの暇つぶしが始まる。すなわち勉強だ。音大に合格するためには楽器だけでは立ち行かない、勉強だって必要だ。それをクリアするためには、くるぐるしいまでに今からの勉強が大切だ。
そうやってずっとおどろおどろしい無音を聞いていたら、既に11時が目前になっている。ああ丁度いい、この問題を解いたらベッドの中に入ってしまおう。カリカリガリガリゾリゾリ。ペンの音というのはそれだけで音楽みたいで、少し面白い。
ペンを置いて、そっとやるかたなしにベッドに入る。ああ、きっとここまで出来たらそれは“目的のある努力”じゃないか。きっとそうだ。電気を消して目を閉じて、二重に広がる暗闇を遊泳する。
自分はどうやら違うらしくて、その答えのひとつが言葉なのだとしたら簡単だ。もっと話すことに気をつければ良い。誰に言われたか忘れたが、無駄という言葉も言わないほうがいいみたいだ。つまりそこに気をつければ、コミュニケーション能力は改善されて、また誰かと関わる時にそれこそ小春日和のような気になれるだろう。
ははっ。乾いた笑いが漏れる。なんで乾いている?そうだ、どう考えても、こんなに色々考えている自分はきっと人間だ。本当に?だから、大丈夫。大丈夫。
「おやすみなさい」
また会うかもしれない誰かに、また会うまでのさようなら。
改めて、こんな二次創作かどうかもわからない作品を読んでくれてありがとうございます。これで一旦暗い話は終わりの予定なので、また読んでくれると嬉しいです。良くわからないところがありましたら感想などで教えてください。