ここからダル・セーニョ   作:辛酸

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 というわけで、原作より2歩ほど早くアンサンブルコンテスト編なるものをやります。


2つのアンサンブルと1人のソプラノ
アダージョ


 日曜日、それは市民楽団の練習日。そしてそれはつまり、吹奏楽部を辞めた希美にとって、“吹奏楽”に向き合うことが出来る唯一の日でもある。

 先週のホール練習とはうって変わって、今日の練習日は宇治市にあるスタジオでの練習だった。募集要項にも書いてあったけれど、この駅近辺にあるスタジオこそが、渡辺ウィンドが本拠地にしている練習場所のようだった。流石に練習場所としてはホールより狭いが、スタジオならではの音響感や、踏みしめた床の輝きが、心地よい高揚感を与えてくれる素敵な場所だ。

 ここにあるものはすべて、学校の吹奏楽部に所属していても、きっと得られなかったもの。そう自覚すると、希美の中にもこの現状を肯定するような、そんな気持ちが生まれてくる。

 この選択に、迷いがなかったわけではない。自分を止めてくれた人、背中を押してくれた人、道を分けた人、多くの人と別れて、簡単に感情が整理できるわけでは決してなかった。

 少なくとも、あそこにあったいくつかの特別は、きっと彼女が辞めたとしても変わらずに輝くのだろう。ただ、もうその輝きには近づくこともない。その残酷さを知っているのに、この選択をしたのだから、これはただの後悔でしかないことを、彼女は考えないようにした。

 

「それでは、練習を始めます」

 

 それでも、ほら、まだ吹奏楽を追い続けることが出来る。

 

 

 

「くあぁぁあ、つっかれたぁー!」

「お疲れ様、希美」

 

 何時になってもギラギラと輝くことをやめない空の下、その空に降参して手を振るように、創と希美は宇治の街並みに溶け入るように、今度は近くのファミレスで涼むことにしたのである。

 今日の練習は17時まで。しかしどうやら、19時から創は近くのピアノの先生の家でピアノのレッスンだそうだ。今日ファミレスに入った理由というのも、この2時間の隙間を埋めるための軽食をとることが目的だそうで、せっかくならと希美もついていったのだ。

 

「それにしても、初めて渡辺さんの指揮で吹いてみたけど、すごい指揮者だねあの人……いろんな意味で」

「そうだね。あの人は、音楽が好きなのはすごい伝わるけど……うん」

 

 渡辺ウィンド、という名前は渡辺さんの名前からとられている、というのは、彼が結成メンバーだからというだけではない。それは彼がこの楽団のコンサートマスターにして指揮者でもあるからだ。だからこそ、この楽団の音楽指導、調整は彼が行っているのだが、希美にとって、その彼の指導にどうにも引っかかるものがあった。

 

「少し、こう、あれだよね」

「まあ、なんというか、奇抜ではあるね」

「言わないようにしてたのに!」

 

 そう、吹奏楽部の指導者、すなわち顧問というのは、基本的には教師との兼ね職である。そのため、部活という学生団体の指導者という側面が強い場合が多い。指導にしても、強豪校という訳ではなくても、どちらかといえば苛烈であったり怒号が飛んだり、強烈なインパクトを伴うものが想起されることは、決して不思議ではない。かくいう希美の場合もそうである。梨香子先生こそその通りではなかったが、地域の強豪校である南中の顧問や、副顧問ではあるものの、美知恵先生はまさしくそのイメージの通りである。

 そういったイメージの指導者に触れてきた希美にとって、渡辺さんの指導は全くと言っていいほど新しいものだった。何より驚いたことは、彼の指導では怒号のようなものが全く飛んでこないのだ。それどころか、彼が怒っているようなところを、今日の練習で一度も見ることがなかった。

 

――そこのソステヌートをもっと意識して欲しいんだ、そうもっと、いい感じ!もう少し!はいかっこいいねぇ!

――ここのフォルテッシモが物凄くいい!みんなも感じてるかな?この気持ちよさ。それじゃもう少し強くしてみようか、もっと気持ちよくなれるよぉ!

 

 思い出しただけなのに、まるで自分のことのように恥ずかしくなって来て、頬が熱くなる前に考えるのを辞めた。

 御年いくつかは分からないけれど、あの整えられた白髪と、その人生の重みを感じさせるようなハスキーな声から察するに、それなりにお年を召している筈だ。はたして面接の時の落ち着いていて慎ましやかで、まさに紳士といった風体の渡辺さんは果たしてどこに行ってしまったのだろう。

 と、ついそんな事を考えてしまって、希美は自身の考えの失礼さに気づく。うん、自戒は大事だ。しかし、そう思ってしまう気持ちだって、誰かに理解して欲しいところだ。

 

「まさか、初対面の時はああいう人だとは思わなかったな……。あ、もちろん好感は持てるし、指導もすごく上手だったけどね?」

「ああ、それはそうだよ。自分だって、知り合ったのは希美とそう変わらないし、初めての時は珍しい人だと思ったよ」

 

 創は入部して少し経ってから入ったと言っていたし、確かに半年も変わらないはずではある。だからこそ、彼の言うことはもっともだ。

 

「ああ、うん。でも私は丁度今も、その気持ちになってるかな……」

「どういうこと?」

 

 他の人に珍しいなどと言っておいて、それを言い放った当人が、さも当然のように大量のタバスコを入れながら、ドリアを食べ進めているところを除けば、であるが。そんな彼を見て、流石の希美も頬を引きつらせる他なかった。

 なんというか、目の前の余りにも特殊な味覚や、びしょ濡れのまま練習を始めようとした事が、彼も()()括りであることの証明ではないだろうか。やはり音楽の道を進む人は、どこか変な気質があるのかもしれない。

 まだ頭にクエスチョンマークをつける創に対して放った、なんでもないよーという言葉は、彼女自身驚くくらい感情がこもっていなかったとは思う。

 そういえば、いつだか低音パートで彼のファミレスの使い方について話しているのを聞いたことがある。まさかその時は、これほど掛けるなどと思ってはいなかった。だがこうして目の前にその情景を直接描き出されると、中々ショッキングな光景だ。

 

「あ、そういえば教室でのピアノ譜軽く譜読みするんだったよね?私も少し見てもいい?汚さないから」

 

 帰れば食事が待っている希美は、お腹が空いたのを隠すようにドリンクバーを楽しんでいた。食べている彼に話しかけ続けるのもどことなく気が引けて、なんとなく暇をつぶせそうな事を提案してみる。こんな時、携帯があれば時間を潰せたのだろうか。

 

「ああ、いいよ」

 

 案の定彼は了承した。ありがとうと返して、絶対に汚さないように、もらった楽譜ファイルを思慮深げに眺めてみる。

 他の楽器とは異なるような、ピアノ独特の2列に並んだ5本線。ピアノの経験がない希美にはその独自性だけで難解だ。とはいえ、この楽譜は彼が食べ終わるまでの多少の暇つぶしとして、ありがたく拝借したものであって、希美が弾くわけではない。ないのだから、そこまで本気で読む必要もないのだけれど。

 ト音記号のある列を、ゆっくりと目が滑っていく。少し眺めるだけでは曲のことはあまり分からないが、きっと難しいんだろうなと思った。だって恐らく、彼がピアノを習う理由は、音大入試に使うためだから。基本どんな楽器でも、ピアノを習う必要があるのが音大入試なのだと、風の噂で聞いたことがある。

 そのためなのかは分からないけれど、楽譜の中にはエチュードが多かった。希美が知っているような曲には、ファイルを半分読み進めただけでは出会えない。

 読み進めるたびに、目の動きが速くなる。こうして速度を上げていくのは、まるでスケートでもしてるみたいだ。全然関係もない、知りもしない曲を記号までしっかり読もうとするのは、やはり無謀だったようだ。

 滑走を始める目線に呼応するかのように、頭の中の声が大きくなり始めた。自分の頭の中のことなのに、その声は他人事のように騒ぎ始めるのだから、段々と無視できなくなってきて、仕方なしにその議論の内容に耳を澄ませた。

 本日の議題は、どうやら目の前にいる彼のことだった。争点になっているのは、彼が希美の事を、本当はどう思っているのか、である。

 彼とこうして外で会うのは、今のところは2回目となる。この前はカフェで話しをして、ある程度彼について知っていることは増えたと思う。けれども何故か、彼について知れば知るほど、どんどん彼のことが分からなくなっている気がしている。言葉は返ってきているはずなのに、笑顔だって浮かんでいるはずなのに、掴んだ砂が掌から零れ落ちるように、返してくれた全てがその場で消えてしまうような、虚しさが心の中にある。

 彼に対してどうしてそう感じるのかは、希美にもよくわからない。けれども、嘘をつかれているわけでもないのに、こんなにも心の内がわからない人は、あすか先輩くらいしか見たことがない。そのあすか先輩だって、“自分の利益になる”ことに対する、わかりやすいアンテナがあった。

 

(創君は、どういう言葉を求めてるんだろう)

 

 嫌われてはいない、と思う。ただそれが、希美の思い込みだとしたら、そう考えてしまう自分の刺々しさに少し、嫌気がさす。希美だって、せっかく同じ楽団に所属するような奇跡が起きたのだから、ある程度仲良くなっておきたいだけだ。ただ、彼との関わりの中にある、既視感のような虚しさが、どうにも気になって仕方ない。

 

 もやもやした気分のままで、結局結論など出ずに脳内会議は終了した。

 だけれどもまあ、このまま考えていても答えなんて出るはずがない問いだ。他人のことは考えてもわからない。それは、どの世界の人もきっと同じだ。そんなことよりも、仲良くなりたいのにその人の前で笑顔を崩してはいけないだろう。角度も気持ちも、上げるのは技術だ。

 もう考えることをやめたからか、再び楽譜の方に意識が戻った。気がつけば、殆ど最後のページまでペラペラとめくって見ていたようだ。ちらりと創の方を見てみると、彼ももうすぐ食べ終える様だ。ならば、とりあえず最後の楽譜くらいまでは見ておこう。

 希美はそう考えて、ファイルのページをめくる。すると、出てきた楽譜の曲名にはこう書かれていた。

 

「ベルガマスク組曲……作曲はドビュッシー……」

 

 ドビュッシーといえば、誰でも名前くらいは効いたことがあるような超有名な音楽家だ。ただ、ベルガマスク組曲という曲名は効いたことがない。一体どんな曲だろう。

 

「もうそんなところまで読んだの?」

「え?ああ、うん。ほとんど流し読みしただけだよ」

 

 すると、遂にタバスコまみれの食事メニューを完食したのか、お手拭きでしっかりと手を拭いている創に話しかけられた。彼の方から話題を作ることが少ないため、希美は咄嗟に反応することができなかった。

 

「その曲は、多分希美でも知ってるんじゃないかな。ドビュッシーの月の光っていえば、それの三楽章だよ」

「あ!それなら私も聞いたことある!へえー、そっか、これがそうなんだ」

 

 ようやく聞き覚えのある楽譜を発見したせいか、一楽章も二楽章も飛ばして、件の三楽章を見始める。すると、そこには確かに『月の光』と書かれたタイトルの楽譜が存在した。

 譜読みというのは不思議なもので、あの有名なイントロの部分は、こんな音符で表現されていたと考えるだけで心が躍ることがある。音符を読むだけで頭の中に流れてくる様々な音の海に、ただ緩やかに漂うのは、吹く前のここでしか出来ない経験だ。

 そういえば、ピアノとフルートは確か同じ調の楽器だから、音域の調整さえしてしまえば、楽譜のまま移調せずに吹けるのだということを、ふと思い出した。そして、それは呼び水のように、この後話そうと思っていた内容につながったのである。

 

「ねえ、いきなりなんだけどさ、アンサンブルってこの曲じゃだめ、かな?」

「ん?希美はベルガマスクやりたいの?」

「なんか、こういうのって、運命!って感覚が大事な気がしてさ。どうかな?」

 

 何故希美たちがアンサンブルの話をしているのかと言えば、それは渡辺ウィンドでの練習中にまで遡る。

 

――本当に突然でごめんなんだけど、みんなに相談があります。せっかく木管の若者が2人も入ったので、もちろん2人がよければだけど、定期演奏会の中に2人のアンサンブルパートを入れたいと思ってるんだ。

 

 そう、すなわち渡辺さんの思いつきである。本来だったら、練習回数の少ない市民吹奏楽団で、本番である11月後半の3カ月前にプログラムを変えるのは、かなり苦労を要することだろう。だというのに、渡辺ウィンドの他の方々も賛成意見が多く、渡辺さんに至っては、「曲さえ決まれば後は全部私が編曲する!ピアノが必要ならピアノも弾く!」とまで宣言したのだ。

 希美としてもそんな面白そうなこと、乗り気ではあった。そこに肝心の創の方も二つ返事で了承して、驚くほどすんなりとアンサンブルを行うことが決まったのである。

 

「んー。でも確かに、ベルガマスクなら編曲次第では綺麗に演奏できそうだね。フルートの音色にも物凄く合ってる。運命、確かに面白そうかもしれないね。相談してみようか」

「ほんと?やった!」

「まあ、渡辺さん次第だからなんとも言えないところではあるけど……」

「あの人なら多分大丈夫だって、じゃ、決まりね!」

 

 と、希美がファミレスについてきたのはこの相談のためでもあったのだが、何気ないほど簡単であっさりと、吹こうとする曲が決まったのだ。音楽とは、時にはこうした自由さが必要なのかもしれない。

 その後も談笑は続いた。時間をゆっくりと消費して、溶けていくコップの中の氷のように、なんでもない時を過ごした。

 だというのに、もう振り返らないと決めたはずなのに、なんとなく空いた間が、ふと希美の背中を突き刺した。

 

「あ、ところでさ……その、コンクール、どうだった……?」

 

 まずった。そう思った。そう思わせる程度には、創の顔は暗くなった。その顔を見て、振り返らないと思ったはずの希美の心が静かに揺らいだ。

 

「コンクール、か。そうだね……端的に言えば、最悪だった……」

「さ、最悪……?てか、ごめん!こんなこと聞いちゃって……」

 

 最悪なんて強い言葉を使った彼を、初めて見た気がした。

 

「大丈夫。でも、ああ、本当に、最悪だったんだ……あのコンクールは……思い出したくないくらいには」

「そ、そんなに最悪な演奏だったの……?」

「ああいや、演奏はあんなものだよ。最悪なのは……バスなんだ」

「え?」

 

 今、彼はなんと言っただろうか。余りに短い言葉過ぎて、よく聞き取れなかっただけかもしれない。何かそういう、音楽用語だったのかもしれない。希美の思考が稲妻のように素早く回る。バス、バス、バス。うん、よく分からない。低音パートの事だろうか。希美の中の稲妻は、どうやら回路をショートさせるに留まったようだ。

 

「いや、あのバスは本当に最悪だった。運転手の運転があんまりにも荒すぎる。元々自分が乗り物に弱いのはあるけど、あんなふうな運転をされたら酔うのは仕方ないと思う。いや、本当に荒かったんだ。カーブを曲がる時の速度と言ったら――」

「ああ、うん、そっかー……」

 

 その後も長い間続いたバスへの文句は、今日の彼の話の中で最も熱量を伴っていた。その様は、希美の心をたいそう打った、かもしれない。

 兎にも角にも、音楽家とはやはり変な人が多いのかもしれないな。きっとそうだな。希美が改めてそう思い直すのは、この後すぐの帰路でのことだった。




 アンサンブルコンテスト編と言いつつ、アンサンブルコンテストから話が始まりません。

ソステヌート……音を十分に保って という意味の音楽記号
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