吹奏楽コンクール京都大会は、想定通りと言うべきか、参加賞代わりのブロンズで終わりを迎えた。特段待ちわびていたわけでも、期待していたわけでもない自分にとって、この終わりは特段なんでもないものだった。
この感情をあえて例えるなら、冬至の日だ。現象としての実感がそこまでない割に、何か特別な日のように騒がれる。それをなんとなく外から見て、『ああ、そうなんですね』と頷くかのような、どこまでも他人事で、どこまでも灰色。
とはいえ、そんな感情を抱かされる割に、あんなに運転が荒いバスに乗せられて、練習する時間も取れなかったというのだから、そういう意味では最悪だった。
それにしても、
コンクールが終わると、部活に来る3年生達は如実に数を減らした。それでも、完全にいなくなったわけじゃないのは、彼らが来週に迎えるコンサートに参加する意欲があることの、何よりの証明なのだろう。ああでも、上野部長は出ないと晴香先輩が言っていた。受験勉強が忙しいのだろうか。
「でさ、このコスメがマジでかわいくてー」
「ほんとだ!マジ可愛いじゃ~ん」
ふと、声が聞こえてくる。ここはどのパートの練習室だっただろうか。サックスの教室以外の記憶は、正直曖昧だ。
なんとなく気になって、そっと気づかれないように中の様子を伺うと、中にはとぐろを巻いた金色が見えた。あの大きさはホルンだろうか。あのリボンの色を見るに、自分の代とおんなじ青色も、確かにその中に混じっている。先輩とも仲が良いようだ。
一瞬、その中のひとりと目が合った。ふとなんとなく覗いただけだったが、合ってしまったものは仕方がない。たとえ同学年であっても、失礼だと思われないように、会釈をして教室を通り過ぎた。
通り過ぎた教室を背に、微睡むように思う。どうやら、3年生の来る頻度が減ったところで、この部活は特に変わらない。彼らが残した軌跡は、しっかりとこの空気に刻まれている。不真面目の再生産、とでも言えるだろうか。
ただそれは、自分には関係のないことだ。彼らが一生懸命になるものはきっと、音楽ではない。自分とは関係のない、知ることもない、彼らだけの
だから、関係ない。そう言い切ろうとして、ふと頭の中に浮かんだものは、もうこの部活には何も関係のない、希美の顔だった。彼女が辞めてすぐの頃、初めて渡辺フィルで会って、この部活をなぜ辞めたのか聞いた時の、あの瞬間の希美の顔。怒りの中に、それとは別種の冷たさを秘した、あの顔を。
彼女が今のこの部活を見たら、果たして何を思うだろうか。彼女たちがいなくなって、やる気のない人はそのままに、やる気のある人にも疵が残ったこの今を、当然の報いだと嘲るだろうか、それともただ順当だと口を閉ざすだろうか。
きっとそれすら自分には関係のないことなのに、あの時の顔が、不思議と頭に残っている。
「あ、お疲れ創君」
「お疲れ様、澄子」
サックスの練習教室に入ると、同じクラスの平尾澄子が綺麗に編み込まれたツインテールの人と練習に励んでいた。この髪型は確か2年生唯一のテナーサックス奏者、斎藤葵先輩だったはずだだ。つまりこれは、テナーサックス2人での練習ということだろうか。
「今日はテナーだけで練習?」
「そんな感じ。あれ、でも創君どうして戻ってきたの?今日ってパート練習あったっけ」
「澄子ちゃん、もう忘れちゃったの?今日は2時からパートでミーティングやるって晴香が言ってたでしょ?」
「あ!すみません葵先輩、すっかり忘れてました……ごめんね藤原君〜」
そう言うと、澄子は手を合わせてこちらを見やった。彼女は会話をする時に、よく体が動くタイプだ。普段は突拍子もなく不思議な動きが出てきたりして、意味を拾うことに苦戦したりもする。
彼女の身振り手振りを瞬時に理解できるのは、この部活ではアルトサックスの森田しのぶだけだ。どうして理解できるのかよくわからないが、彼女たちなりに共鳴する部分があったようだ。
同じサックスパートの中でしっかりとした人間関係を築けている1年生は、恐らく澄子と森田さんの2人だけだろう。自分は立ち位置こそ頂けているが、練習をあまりしないアルトサックスの人たちからは、毒にも薬にもならない、ただそこにあるインテリアのように思われているだろうから。それも練習に時間を多く割けるから、一切気にしてはいないのだが。今はもういない若井さんについては、あえて語る必要もないだろう。
「大丈夫。だけど澄子、自分はパート練習がないと帰ってこないって思ってるんだね。その通りだけど」
「……あ!いや、これは言葉の綾というか、その……あはは」
「澄子ちゃん、そこはちゃんと否定しなよ……」
苦い沈黙が流れる。澄子のその感覚は現状をあまりにも反映しすぎていて、感心の感情を抱いてしまったくらいなのだが、どうやら上手く伝わりはしなかったようだ。コミュニケーションは難しい。やはり自分は、言葉選びが下手なようだ。
「ま、まあ澄子ちゃんはこう言ってるけど、いつ教室に来てもいいからね?それに、あと15分もあるし少しだけ合わせないかな」
「わかりました。今は何を?」
「次の演奏会用のポップスだよ。『シング・シング・シング』とかは定番だけど、合わせるのがちょっと大変だしね」
「確かに、BPMが速いものは音が崩れやすいですよね」
2人から少し離れて椅子に座って、持ってきた楽器スタンドにアルトサックスを置く。しっかりと固定されたのを確認したら、バリトンサックスに息を吹き込む。
そういえば、今日はあまりバリトンを吹いていない。外が暑いとはいえ、楽器にどれだけ息が通るのか、コンディションの確認はしっかりしておこう。
「毎度毎度思うんだけど、いつもアルトとバリサク持っていって練習するのって大変じゃないの?」
澄子の疑問は最もだ。バリトンは7キロほどの重さがあり、横幅も広く、気をつけて歩かないとぶつけやすい。それを常に携帯しながら、アルトも一緒に持っているのだから、かなり不便なのは言うまでもない。
「大変だけど、この部活ではあくまでバリトン担当だから。バリトンも練習しないと」
「けど、ぶつけたら大変じゃない?置いていくとかしたほうがいいと思うけど」
「澄子ちゃん、流石に置いていくのは危ないんじゃないかな……」
そうですかね?と首を傾げる澄子の頭の上には、くっきりと疑問符が見えるほどだ。……流石に、何かあった時に責任が取れない場所に私物を置いておくのは、楽器が高級品であるのを置いていたとしても、いかがなものかと思うのだが。
「えーと、うん。とりあえず頭から合わせようか!」
先ほどのような間を回避するように、斎藤先輩はメトロノームを鳴らし楽器を構えた。これがテナーサックスの人たちの日常なのだろうか。
「じゃあ1、2の後のブレスで行くよ。……1、2」
メトロノームに合わせて、鋭く呼吸が交わされる。先ほどの空気とはうってかわって、楽器を構えた彼女たちの目は真剣だった。
軽快で弾むような音とは裏腹に、リズムがバラけないよう必死になって指を動かす彼女たちを見やる。少しずつメトロノームからズレてもたついていくのを制御するように、その手をとるように低音で支える。イントロのドラムを引き継いで、いきなり最高潮へと引っ張り上げる役割を持つのがこの曲のサックスだ。決してもたつきは許されない。
曲の中の盛り上がりは光の波のように、サックスの金色に反射して強まっていく。その波が新たな波と合流しようとして、やがて曲の中間部に向かっていく。そうして、完全に1つの波が消えるその瞬間、斎藤先輩の声が次の光を遮った。
「はい、そこまで。……うーん。澄子ちゃん、多分スウィングの縦が合ってないのかな?スウィングも、しっかり拍を数えれば合わせられるから、頭の中で数えながらやってみて」
「うう、すみません……」
「大丈夫だよ、そこ以外普通に出来てるし。えーと、じゃあ一瞬そこだけ練習しようか。……あ、藤原君ありがとう」
澄子が練習できるように、メトロノームを巻きに行く。そう、たいていのメトロノームはねじ巻き式だ。巻き過ぎはあまり良くないが、油断すると、いつも肝心なタイミングで鳴り終わってしまうのがメトロノームだ。しっかりと巻いておかないと。
カッカッカッカッ。
メトロノームの音が小気味よく――というには少し速いが――流れ続ける。揺れるその針は、差し込む日の光の暑さに耐えかねたのか、溢れる汗のような銀色がこちら側に放たれている。日陰にいることくらい、許してほしいものだ。
そんな必死な訴えを涼やかに無視して、次の楽譜に目を通す。まあ、今回配られた楽譜は既に譜読みをしてあり、特段見返す必要はないけれど。
「ねえ、2人はさ」
ふと、澄子にリズムを教えている筈の、斎藤先輩に声をかけられる。一体なんの用だろう。
「……ごめん、やっぱりなんでもない。続き、しようか」
その間は明らかに、何かを言い淀んでいた気配がした。ただ言わなかったということは、特別気にするべきことではないのだろう。
向けた視線を楽譜へと戻し、自分は2人を待つことにした。
◆
――2人は、アンサンブルコンテストに出たいと思う?
咄嗟に出かかった言葉を、葵は喉の奥に押し込めた。そんな言葉、葵が言って良いはずがなかった事を、喉元まで出かかって、漸く思い出したからだ。
2時になれば始まるはずの、パート内のミーティング。そこで何が話されるのかを、恐らくパート内の誰よりも早く葵は知っていた。訂正、誰よりも早く知らされた。理由は単純で、パートの中で一番次期パートリーダーと仲が良かったから。
そうだ、あれはコンクールが終わったあと、4人で軽く打ち上げに行ったときのことだった。
「今年、アンサンブルコンテストに出るのって、どう思う?」
今にして思えば、あの時の晴香はその明るさに曇りが見えていたのだろう。だけど、彼女が何を思っていたのかなんて知る由もない葵には、余りにもその言葉は唐突過ぎた。
「え、何々急に?まさか晴香、あの後輩の子に誘われちゃったとか!?晴香も隅に置けませんな〜」
最初に反応したのはあすかだった。少し茶化すような、飄々として真面目さなんておくびにも出さない、いつものペース。
「あすか、すぐそういうのに結びつけないの。でも、私も理由は気になるかも。何かあったの?」
その次が香織。茶化すあすかをなだめてから、さらっと自分の聞きたいことを聞いていく。いつもの会話と、いつもの流れ。
その流れの中で、葵はただ、なんと言えばいいか分からなかった。
「まあ、うーん。何かあったわけじゃないんだけど、なんか、久しぶりに出てみたいなって。私、中学の時に1回出ただけだし」
何かを隠していることは、すぐに分かった。何かあったわけではないのに、このやる気のない部活の中で、長年出ていないアンサンブルコンテストに出たいなんて、思えるわけがないのだから。
「……それは、響先輩絡み?」
ほらやっぱり。あすかの一言で、一瞬だけ息を呑む音が聞こえた。それは致命的なまでに、彼女が隠し事に向いていないことの証明だ。
「単純に出るって言うだけなら、私も反対なんてしないよ?どうせ他のパートでやりたがるやつなんていないし、校内予選もパスできるでしょ?せっかく上手い後輩だっているんだし、やりたいならやってみたほうが良い」
でもね、とその前置きは刃物のように鋭く、どこまでもこちらの心を見透かしたような言葉だった。だからこそその刃物は、晴香を傷つけないために磨かれたものだった。
「そういうことなら、やめたほうがいいと思うけどなあ。だって、あの人結構そういうの嫌がるタイプじゃない?それに、受験するなら取り合ってくれるかどうかもわからないよ?」
「わかってる」
それなのに、その僅かにこもった天才の思いやりの、全てを棄却するように、晴香の言葉は強かだった。それでいて穏やかで、ちっとも投げやりなんかじゃない、納得感のある言葉。
「……それって、曲とか、誰が出るかとか、考えてるの?」
漸く、葵の口から言葉が出てきた。ああそうだ、葵が黙った理由は、きっとそこだ。
「問題はそこだよねえ。曲の、候補はあるんだけど、四重奏なんだよね……。もしかして、葵は出れない?」
「うーん……、ごめん無理かも。アンコンって12月だよね?塾もあるし、あんまりそのために練習とか、私は参加出来ないかなあ」
出たとして、大学に受かるか分からない。高校に落ちたあの日のような後悔は、もうしたくない。それならそういうリスクもストレスも、絶対に避けるべきだ。だから、きっとこの選択は間違いじゃない。
「そっか……、そうだよね……」
晴香が、痛く響先輩を慕っていたのは、きっと近くで見ていた葵が一番よく知っている。でも今回は、その手伝いをすることは出来ない。
「でも、諦めきれない。だから取り敢えず、他のサックスのみんなに相談して、それでもう一回考える」
ああでも、そうだった。晴香は泣き虫で弱く見えるのに、妙なところで芯がある人間だということを、思い出したのは今だった。
これが、これから起こるミーティングの存在理由だ。これから晴香は、あの時のような強かさで、あの時のような統率で、この教室に来るみんなに呼びかけるのだろう。
その呼びかけにどれだけの人が応えるのか。それが何となく気になって、1年生に参加する意欲があるのか、聞こうとした時によぎった。彼らは、断れないのではないかと。
そもそも、この学校でテナーサックスが吹ける人間は、目の前の澄子か、はたまた後ろにいる創かしかいない。それなのに葵が断ったら、
晴香はきっとそのことに気がついていないし、彼女たちも無碍にはしないだろう。でも、この上下関係の強い部活で、それが一体どれほどの凶器になるだろうか。ついこの間理解したばかりのはずなのに。
――ああ、でもこれで、傷つけない部外者でいられる
それでも、何処かで感じた歪な安堵は、メトロノームの音のように、いつまでも耳に痛かった。
◆
「今年は、サックスでアンサンブルコンテストに出たいと思ってる。まだ部として決まったわけでもなんでもないから、みんなの意見を聞かせてほしい」
ミーティングの議題はどうやら、アンサンブルコンテストへの参加意欲があるかどうかについてだった。
アンサンブル。それは様々な楽器が組み合わさって、少人数かつ指揮者のいない演奏形態。特にこのコンテストにおいては、3人から8人までの編成で、5分以内に一曲を演奏し切る必要がある。
サックスのアンサンブルで多いパターンは2つある。
1つが他の木管楽器と組んで吹く場合だ。中でもフルートやクラリネットなどと組み、奏でる事が多い。場合によってはホルンと組んで演奏していることもある。
しかし、サックスだけの輝きが特に活きるのは2つ目のパターンだろう。それが、サックスだけで組むパターンだ。パートで見ればよく分かるが、サックスは同じ楽器でありながら、アルトやテナー、バリトンなど、違う役割の音域を担当する楽器がそれぞれある。これによって、一緒に演奏した時にかなり近しい音色で、高音から低音まで揃った、一体感のある演奏が出来る。
だからこそ、例えば先述のアルト、テナー、バリトンの3本による三重奏などを行えば、他の楽器編成には出来ない音楽表現が可能となるのだ。
これが金管楽器であれば、高音をトランペット、中音をトロンボーン、低音をチューバ、ホルンという風に、別の楽器でそれぞれの音域を担当するため、サックスに比して音色を寄せるのが難しい。こと吹奏楽の範囲においては、これはサックスの専売特許ともいえるだろう。
語ってしまったが、今回晴香先輩が聞いているのは恐らく後者のサックスだけのアンサンブルの事だ。つまり、今話し合ってる人の中だけでの出場だ。
ただ残念ながら、思い返してみれば、そもそも自分にはあまりアンサンブルの経験がなかった。これでは、参加したとして役に立てるかわからない。
突然のことに答えを決めかねている中、ひとり澄子が手を挙げた。
「そもそも北宇治って、アンコン出てなかったんですか?」
澄子の疑念は最もだ。吹奏楽部では、大抵夏の吹奏楽コンクールと冬のアンサンブルコンテストという、2つの大きな大会を目指して吹くのがありがちなパターンだ。どちらかといえば、マーチングよりもアンサンブルの方がポピュラーと言えるだろう。
「そうなの。特に理由があるわけじゃないみたいなんだけど、私たちより前の代から既に出場してなくて」
「はいは〜い。何かやりたい曲とかもうあるの?」
次に手を挙げたのはアルトサックスの岡本来夢先輩だ。
「……うん。実は、私の中でやりたい曲はあって……」
「どうしたの?言えない理由があるの?」
なぜかはわからないがやりたい曲を言い淀む晴香先輩に、アルトサックスの宮キリコ先輩が純粋な疑問を投げかける。何か言えない理由でもあるのだろうか?この楽団の力量を見るに、そこまで難しい曲はできないだろうと思うのだが。
「やりたい楽曲は、これなの」
そういって晴香先輩は、1冊の楽譜を取り出した。そうして取り出した楽譜をすぐに他の先輩方に手渡した。
「ありがと、晴香。えっと何々~……曲名は、『グラーヴェとプレスト』……?」
「……え?」
今、岡本先輩はなんと言っただろうか?『グラーヴェとプレスト』と聞こえたが。ただそれはきっと自分の聞き間違いか、先輩が読み間違えただけだろう。だってそうでなければおかしいのだ。
「……そうなの、誰かこの曲、知ってる人いる?」
「う~ん、私は聞いたことないかな~。キリコは聞いたことある?」
「いや?私も聞いたことないかな」
先輩たちはどうやら、この曲を誰も知らないらしい。……いや、それにしても流石冗談のはずだ。晴香先輩がそこまで現実が見えていないわけがない。
「ねね、藤原君はこの曲知ってる?」
「あ、それは私も気になる」
「澄子、森田さん。自分は……確かに知ってる。だけどこの曲は流石に……かなり難しいし、出来ないんじゃないかな」
そう、この曲はクラシックサックスの中でかなり存在感のある、所謂“名曲”だ。だがその分、難易度はかなりのもので、バラバラにならずに合わせることがまず鬼門だ。この曲の表現を上手にできたなら、それだけでアンサンブルコンテスト全国大会優勝を狙うことができるほどである。
そんな曲をこの部活でやったところで、どう頑張っても未完成のまま本番を迎え、そのまま全部の演奏が崩壊して終わりのはずだ。晴香先輩が、それをわかっていないわけがない。何故それをわかっていながら、この曲を選択したのだろう。
「私は、出来ればこの曲を吹きたい。先に譜読みしてみたけど、この曲はすごい難しい。それでもアンサンブルコンテストに出てもいいよっていう人は教えてほしいの」
一瞬の沈黙。晴香先輩の言葉は、ただゆっくりと語っただけで、大きな覚悟を伴っていることを悟らせる。どうやら、晴香先輩にはどうしてもこの曲をやりたい理由があるらしい。その理由を伺い知ることはできないが、この状況だったとしてもやりたいというのだから、それは相当なのだろう。
「そんなに出たいなら、私は全然出てもいいよ~。なんか曲名おしゃれだし。んで、この曲は四重奏でしょ?じゃああとはソプラノとテナーでやれる人かな。葵は出るの?」
「うーん、考えてみたんだけど、私はやっぱり出れないかな。12月までずっと練習し続けるのは、ちょっと塾とかもあるし難しいかも」
「マジ?じゃあテナーの担当は……」
岡本先輩の言葉によって、ここにいる全員の視点がゆっくりと、自分の隣にいる人間に向いた。そこにいるのは、3年生が抜けた今、2人しかいないテナー担当の、斎藤先輩ではないもう1人。
「……あ、え?あ、わ、私ですか!?」
「やれる?」
「あ、え、えーっと、私でよければ、なんですけど……その、頑張ります!」
「よし、じゃあ決まり!」
「来夢、あんまり無理強いしちゃだめだよ。澄子ちゃんも、無理ではないからね」
「あ、いえ、その……選んでもらえて嬉しいです」
わかりやすく破顔させる澄子は、どうやら選ばれたことが嬉しいようだ。これで、澄子はアンサンブルコンテストに出場することが決まった。……恐らく彼女は知らないのだろうが、この曲の難易度を知ったうえでその選択をしているのであれば、それはかなりの勇気だろう。
とはいえ、斎藤先輩が出ないという事は、この学校のテナーは澄子ひとりだけだ。いずれにせよ、サックスでアンサンブルをやるのであれば、四重奏であろうが三重奏であろうが、テナーはかなり重要な立ち位置で、1本は欲しい楽器だ。……残酷なことだが、実際のところ彼女に拒否権はなかっただろう。せめて本人が何とも思っていないことが救いだろうか。
「よし、じゃあ後はソプラノだけだね~。キリコ、やる?」
「私はパース。この曲のソプラノすっごい難しそうだしできる気しなーい」
「そっか、弘江は?」
「うーん、私も出来るかなあ。てかそもそも学校にソプラノってあったっけ?」
「確か楽器室にあるよ。一応前は強豪校だったらしいし。よくわかんない楽器もいっぱいあるじゃない?だから全然、やるならやってみてもいいと思うよ~」
何か猛烈に嫌な予感がする。もう1人のアルトサックス担当、橋弘江先輩はなんとなく受けてくれそうな雰囲気はしているが、もし、もしかすると――。いや、やめよう。確定していないことはまだわからない。それに、実際吹くことになるとしても、このメンバーではどうせ大した取り組みはできないだろう。直ぐに別の曲に変更になって、難易度も下がるはずだ。そうに違いない。そうであるなら、自分の練習時間は問題なくとれるはずで、ソロコンテストにも影響はないはずだ。いや、そうであってほしい。お願いします。
「うーん、私にはやっぱり無理かなあ。やってみたいけど、ちょっと完成させられる自信ないなあ」
……どうやら、誰かに向けたはずのこの祈りは、どこの誰にも届くことはなかったようだ。誰が何を言わずとも、先輩2人の無理という言葉をきっかけにして、すべての人の視線がこちらに向くのを感じる。このいかんともしがたい状況を乗りこなすには、どんなトークスキルがあればよいのだろう。ああいや、最早気がつかないふりをすればよいのだろうな。きっとその方がいい。うん、そうだ。自分は何も気づいていない。ああ、窓の外の雲が物凄く綺麗だ。自分も今こそ、あの雲のようにただ現実を泳ぐ凪の心を身に着けるべきだ。きっとそうだ。
「創君、ソプラノ吹くの、お願いできないかな」
真似したものが雲だったのがいけなかったのか、晴香先輩の一言で、自分が作り上げた平穏は一時の仮初のように、風に吹かれて霧散した。正直に言えば、こうなるだろうという予感はしていたのだ。ソプラノの話になったとたん、晴香先輩の視線が何度かこちらに向いていたのに、気がつかないわけがないのだから
「……ええと、すみません晴香先輩。先輩はどれくらい本気なんですか?」
「私は、本当にこの曲をアンコンで吹きたいと思ってる。もちろん、それが険しいってこともわかってる。だから……力を貸してほしい」
そう言われても、と言い返すほどの胆力は自分にはなかった。それほどまでに、晴香先輩の中にある炎は熱かった。近づくだけで火傷してしまいそうなほどの熱。その熱に、例え背にあるものが蠟の巽だったとしても、例え自在に飛べなかったとしても、炎に向かって飛んでいく後ろ姿を幻視した。
……確かに、繰り返し言うが、かなりの難曲だ。もし受けるのであれば、少なくとも12月の本番まで付き合う必要がある。それならば、一緒に吹く人が誰であっても、ただでさえアンサンブル経験の少ない自分なら、得るものはあるだろう。それに、演奏家とは忙しいものだ。本当に音大を目指すなら、アンサンブルとソロの両立だってする必要がある。しかしそれでも、この人たちとアンサンブルをすることに、簡単に頷きたくはない。
「そうですね……。確かに自分なら、この曲を吹くことはできると思います。なんですが、自分もちょうどアンサンブルコンテストの数日後に出ようと思ってるソロコンテストがあって、その練習の時間が欲しいんですが……」
「そういう事なら全然大丈夫!私たちも自分の練習時間はきっと必要だし、それ以上に力になってくれるなら、その方が嬉しいよ」
「えーっと、流石にソプラノを吹きながらバリトンも吹くのは、アンブシュアの維持をするのが苦しいところがあると言いますか……」
「そっちも全然気にしないで!ソプラノ吹いてくれる間、バリサクはずっと私だけで吹くから!」
何という事だろうか、これではどこまでも退路がない。いや、おそらくは違う。初めから晴香先輩は退路を用意していない。どこまで意図してかはわからないが、自分程度が用意できる逃亡策は、きっともうどれだけ並べ立てても無意味だろう。せめてもっとコミュニケーション能力が自分にあれば、断ることができただろうか。
「……わかりました。出来れば直ぐに練習したいのですが、いつからソプラノを始めて大丈夫ですか?」
その瞬間、緊張で包まれていた晴香先輩の顔が、パッと明るく晴れ渡った。
「創君、本当にありがとう!もう練習してくれるなら今からでも大丈夫だよ!」
「来週のコンサートでは、どちらを吹けばいいですか?」
「……あ!ごめん忘れてた……。えーと、そうだな、多分交渉すればアルトのパートに移ることができると思うけど、それもそれで大変だよね……。ごめん、バリサクとアルトどっちがいいかな……?」
「では、アルトに移る方でお願いします。譜面はこの後貰えれば、合奏中には吹けるようにします」
「ほ、本当にごめんね……。でも、それ以上に、嬉しいな」
ああ、こうした笑顔を見せられては、こんなに嫌な気持ちを抱えたまま了承した自分が、まるで義理堅くない人物のようだ。そう思うと、少し苦しい。
ただそれでも、この晴れ渡った笑顔を見ると、胸の奥にじんわりと暖かいものが灯るような気がして、なんだか少し心地よかった。
「じゃあ、とりあえず今年はこの4人でアンコンに出ることに決定します!多分正式な発表は新しい部長が――まあ多分あすかだけど、決まったら全体に連絡することにするから、別に言ってもいいけど一応秘密でね!」
終わっていくミーティングを尻目に、一足先に譜読みをしている岡本先輩と澄子の姿を視界に捉える。仕方なく、自分もそこに合流するために重い腰を上げた。すると、遂に難所まで読み進めたのか、先ほどまではただ選ばれて嬉しそうだった澄子の顔が、余りにわかりやすく固まった。
彼女の隣に腰掛けると、まるで油の切れた歯車のようなぎこちない動きで、焦りと救援の視線がこちらに向いた。
「澄子、だから難しいって言ったのに……」
「さ、流石に、ここまでとは思わないじゃん!」
隣に座る涙目の生き物は、耳をつんざくような鳴き声を発しながら、大げさなリアクションを繰り返している。そんな小動物をなだめながら、目の前にある譜面を見る。すると、その向こう側、自分の対面に座っている、岡本先輩の笑顔が目に入った。
「ねね、よく考えたら、私たち全然話したことないよね?よろしくね、藤原後輩」
「……確かに、余り話したことがなかったですね。よろしくお願いします、岡本先輩」
この状況を前にして、どうしてここまで朗らかなのだろうか。ああ本当に、笑顔の先輩というのは何を考えているのかわからない。高校に入ってから、先輩が笑顔になった瞬間というのは、何かと辛い思いを抱き合わせてばっかりだ。
ほどなくして、ミーティングを完全に締めた晴香先輩がやってきた。
「みんな、アンコン参加してくれて本当にありがとう!これから出来なくて辛いことがいっぱいあると思うけど、助け合ってやっていこう。とりあえず、来週の卒部コンサートが終わってから本格的に練習したいと思います。だからその時までは、各自練習で!とりあえずどこまでさらってほしいかは、コピーした後に伝えるね」
本当に、本当に不安だ。確かに晴香先輩のモチベーションは高くても、明らかに周りはそれを理解していないし、噛み合っていない。
アンサンブルは、指揮者のいない演奏形態だ。練習も、指摘も、すべて自分たちでやらなければならない。その状況で噛み合っていないことが如何に恐ろしいのか、きっと想像しているのは自分だけなのだろう。
スウィング……簡単に言えば、ジャズみたいに音符の長さを少しだけ変えて、そのリズムを表現すること
アンブシュア……口の形のこと。サックスは下の音域に行くにつれてマウスピースが大きくなるため、持ち替えると口の筋肉が対応しきれないことがある→崩れる
サックスのアンサンブル云々……要はサックスだけでアンサンブルすると音が揃って綺麗だよってことです。