ここからダル・セーニョ   作:辛酸

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ひとりのふたり

 鳥の鳴き声が聞こえる。一体それがなんの鳥なのかは、ずっとずっとわからないけれど、近くて遠い空の下で、ずっとずっと鳴いている。それはこの暑くて溶けてしまいそうな鬱陶しい夏を、遥か彼方へ追いやるような、どこまでも楽しそうな声。たったの2羽で寄り集まったその声は、朝の学校をステージに見立てて、ひとりの少女に歌いかけているようだった。

 そんな声が聞こえていないのか、それとも聞かないようにしているのか、生気が抜けたような静けさで、ひとりの少女――鎧塚みぞれは玄関口への階段に腰掛けていた。

 こんな夏休みも残り少なくなった早朝に、何故わざわざこんな事をしているのか。それは彼女自身にもよく分からない。だって、こんな事をしてもどうにもならないことは、大切な人はもう帰ってこないことは、彼女が一番わかっている。

 鳥の鳴き声が聞こえる。遠くで、誰かの歩いている音が聞こえる。その音に、縋るように顔を上げる。実際はそれが求めている音ではないというのは分かっていて、ただの蜘蛛の糸だと知っていて、それでもその糸を掴むために糸の先を見た。

 鳥の鳴き声が聞こえる。誰かの歩いている音が通り過ぎる。気がつけば糸はもう、手のひらをすり抜けていた。

 

 鳥の鳴き声が聞こえる。数分が経っても、待っている誰かが来ることはなかった。そんな事はとっくに知っているはずなのに、それでもみぞれは、ついこの間まで一緒だった大切なものの面影を、定刻になるまで探してしまう。あの日から、毎朝毎朝繰り返している。気持ち悪いと分かっていても、むせ返るような胸の焦げ付きに逆らうことは出来なかった。

 鳥の鳴き声が止んだ。朧げに見えた影からして、飛び去ったのは1羽だけだったようだ。取り残されたもう1羽が何をしているのかは、視界に入らないから分からない。立ち上がると、みぞれは目の前に落とされた、淡くくすんだ青い羽を見る。けれども、それを拾うどころか、それ以上意識を向けることもしなかった。

 

 校舎に入ると、何階も上の音楽室から音が聞こえた。きっといつも練習をしている彼だろう。それ以外に、この時間に来ている人はみぞれとその同行者しかいなかったから。彼が先に来ているということは、今日は鍵を取りに行かなくて良いようだ。

 向かう足取りは重く、無機質。踏み出す足は毎朝、いつもいつも大切な面影だけを追っている。だからなのだろうか。ゆらりと階段を登り終えて、ようやく1つの違和感に気がついた。

――この音、オーボエ?

 この北宇治高校吹奏楽部に、みぞれ以外のオーボエはいない。それは他ならぬみぞれがよく知っている。学校に備品はあるけれど、それも誰かが遊びで吹けるような保管はされていない。そもそも、こんな時間に楽器を吹いているのは、サックスの彼くらいで、余りそういうことをしそうな人には見えない。でももしかしたら、するのかもしれない。

 少しの衝撃に立ち止まっていると、その違和感は靄のようにぼやけていった。よくよく聞いてみれば、これはオーボエに似た音色なだけで、オーボエの音ではなかった。

 とりあえず、悪戯でないことは理解できた。ならば、音楽室に入っても問題ないはずだ。そろそろ練習だってしたい。そういえば、近頃のみぞれは注意散漫だと、優子が言っていた。そんな事を思い出して、みぞれは音楽室の扉を開ける。どうして練習がしたくなったのか、まだ分からないままで。

 

「おはよう、鎧塚さん」

 

 扉を開けたみぞれを迎えたのは、ひとつの聞き慣れた男声だった。どうやら、オーボエらしき音を響かせていたのは本当にサックスの彼――藤原創だったようだ。それを証明するかのように、創の手にはいつもと違う形の楽器が握られている。

 みぞれの方も失礼のないように、いつも通り会釈を返す。みぞれが知る限り、彼が朝練を休んだことはない。そのため朝練を続ける限り、みぞれと創は常に顔を合わせる。毎朝毎朝異性と顔を合わせて同じ空間にいるというのは、人見知りのみぞれにとって簡単なことではなかった。しかし、朝練が始まった当初から、みぞれどころか、その周りの人に関わる意思が創からは感じられなかった。いつも本当に軽い挨拶をして、一言も会話せずに黙々と練習をする創の存在は、みぞれにとっては楽だった。

 みぞれから見た創はいつもひとりだった。周りとの関係はよく知らないけれど、練習をしている創を見るのは、決まっていつもひとりの時だ。みぞれと違って人見知りというわけでもなさそうなのに、なんとなくそれが不思議だった。

――もし、彼のように楽器も上手くて、人付き合いもよかったのなら、希美は

 心臓から溢れるそんな言葉を、胸の痛みと共に、奥の方へ閉じ込めた。

 

 頭痛のような倦怠感を、ため息と一緒に吐き出して、みぞれは頭の中をまっさらにする。そうして、持ってきたオーボエをケースから取り出して組み立てる。湿らせるためにリードを口にくわえる。楽器を組み立て終わったら、そのままの手で譜面台を立てる。座った位置からよく見えるように、腰のあたりで伸ばすのを止める。いつも通り、これが練習をするためのみぞれのルーティーンだ。

 準備が終われば練習の時間だ。まずはメトロノームに合わせてブレストレーニングをする。延べ数分、額にじっとりと汗が浮かぶ。どこまで効果があるのかは、よく分からない。けれども、その積み重ねが大事だと中学の時に言われた気がした。

 トレーニングで少し荒れた息をゆっくりと整えて、譜面台の上にチューナーを置く。チューニングを終えたら、今日も基礎練習を多くやろう。そう考えて楽器を口元に運びたっぷりと息を吸う。そのままゆっくりと最初の1音を吹こうとしたその時、突然声をかけられた。

 

「ごめん鎧塚さん、ちょっといいかな」

 

 みぞれが驚いて顔を上げると、そこにいたのは、いつもの笑顔の創だった。なんで話しかけられたかすら理解できない内に、気がつけば放たれていた次の言葉は、みぞれの頭が理解するのに時間を要するものだった。

 

 

 ◆

 

 

 ソプラノサックス。それはサックスの特徴である、独特な曲線を一切持たない、どちらかといえば金属製のクラリネットのような、けれどもれっきとしたサックスの1種である。しかし残念ながら、吹奏楽で使われる基本的なサックスの中で、最も高い音が出るこの楽器の出番は、その独自性に反して意外にも少ない。実際、自分が家からこの楽器を取り出したのも、かなり久しぶりの事だった。

 昨日、本当に不承不承ながらもアンサンブルのソプラノパートを引き受けた自分は、早速今日の朝からソプラノサックスの練習に取り掛かった。理由は勿論、難曲である、J.リヴィエ作曲『グラーヴェとプレスト』をしっかりと吹き切るためだ。

 この曲は、個人技の中では終盤のソプラノサックスにある連符が最も難しいとされている。自分ならば問題なく吹けるが、どうせこのバンドでは、他のパートが無理だろう。吹き切ること自体出来なくて曲が変わることは既に予想できる。ならば、楽譜がある内にこの曲をマスターして、しっかりと自分の力にしておきたい。……まあ、アンサンブルのための曲をひとりで吹ききったところで、どこまで練習になるのかは考えたくないが。

 ため息を吐きたくなるのを我慢して、兎にも角にも基礎練習に励む。久しぶり取り出したソプラノサックスでは、アンブシュアが余りにも慣れていない。吹いている間、マウスピースを咥える口からは、空気が漏れる音が聞こえている。仕方がないことだとはいえ、この状態で演奏はできない。せめて、演奏ができる状態に仕上げなければ。

 そう思った刹那、音楽室の扉が開かれる。そこにあったのは、ひとりの見慣れた少女――鎧塚みぞれの姿だった。

 

「おはよう、鎧塚さん」

 

 とりあえず、失礼のないように挨拶をする。返ってくるのは言葉じゃなくて、いつも通りの会釈だけだった。

 鎧塚みぞれ。彼女は、楽器が下手になった今も、それに気がついているのかいないのか、ずっと朝練を続けている。夏休みも終盤になって、気がつけば他の誰も朝練には来なくなっていたが、未だに彼女が朝練に来なくなる気配はない。なぜか彼女の演奏による苦痛が変わらず続いているこちらとしては、彼女も休んでくれることが最も楽なのだが、そう簡単にはいかないらしい。

 それでも、不思議に思うことがある。彼女はいつもいつもひとりでいるように見えて、その実周りに人がいることが多い。まだ希美が部活にいた時は、希美やその周りの人たちがその役割だった。だが彼女たちがいなくなったあとも、トランペットのあの人をはじめとして、ファゴットの先輩や田中先輩など、様々な人が周りにいる。彼女の“嫌われない線引の仕方”は、練習も人間関係も出来る、ある意味では自分の理想に近い。もし自分が彼女のようなコミュニケーションを出来たのであれば、少なくともアンサンブルに巻き込まれてはいなかったのかもしれない。とはいえ、そんな事は考えても無意味だが。

 そんな彼女は、これから自分に与える苦痛はどこ吹く風とでも言うように、細やかにブレストレーニングを行っている。どうやら今日からは、彼女の下手になった演奏という苦痛だけでなく、下手なアンサンブルへの参加という二重苦が自分を待ち受けているようだ。前者は勝手に自分が感じているだけで、彼女は悪くない。後者さえ、引き受けざるをえなかった弱い自分が悪い。

 あんまりにもあんまりな自分の愚かさに、溜息が漏れ出る。ああ、せっかく我慢していたのに。

――せめて鎧塚さんの楽器さえ、元の上手さに戻ってくれたなら

 そんな言葉が口から出ようとした時に、ふと思い出した事がある。それは、なぜソプラノサックスは吹奏楽で余り使われないのか、という疑問についてだ。ソプラノはそもそも、吹奏楽の楽曲では特殊楽器としての扱いで、それありきの編成があまり作られない、というのがこの疑問の基本の答えだろう。

 では、それはなぜなのか?自分が考えるに、その理由の1つは、ソプラノサックスじゃなくても良い場面が多いからだろう。つまり、音が似ている楽器が楽団の中にいることが多いのだ。そう、それはつまりオーボエだ。ソプラノは、ほとんどオーボエのサブのような扱いを受けている。少し悲しい楽器なのだ。

 ……つまりは、ソプラノならオーボエの音色を邪魔せずに、互いに練習が――。

 

「ごめん鎧塚さん、ちょっといいかな」

 

 考える終わるよりも先に、気がつけば体が動いていた。そのせいで、何をやりたいかははっきりしているのに、言葉が詰まって出てこない。声をかけたはいいものの、少し硬直してしまう。

 急に声をかけられた鎧塚さんの方も、その表情から困惑が伺える。それも当然だろう、吹こうとした瞬間に声をかけられるなんて、こんなタイミングの良いこと中々起こるわけではない。

 

「……あ、えーっと、その、この間はごめん」

 

 とりあえず、この前のことを謝っておこう。怒られたということは、悪いことをしたということだ。たった今思いついた作戦には、心証が大事だ。まずは謝り、誠意を印象付けておこう。会話が下手なんて、いつも通りの些末な事は気にしてはいられない。

 そんな苦肉の策とは裏腹に、彼女の混乱は続いたままだ。なぜ謝っているのか、まるで理解できていないとでもいうように首を傾げている。……考えてみれば、あの時彼女は一心不乱で泣いていたように見えた。抱きとめたトランペットの人はともかく、遠くから話しかけた自分は、もしかすると路傍の石程度にも思われていなかったということか。いや、そんなことが……本当にある、のか……?まあ、よくわからないが、それはそれで好都合だ。

 

「……ええと、鎧塚さんがよければなんだけど、一緒に基礎練習しない?自分もソプラノサックス吹くの久しぶりで、誰かに聞いてもらいたくて。朝だけでいいんだけど」

 

 鎧塚さんの混乱は収まらない。それも当然だろう。今まで話したこともない、挨拶程度しかしてなかった男から、急に一緒に練習してほしいと言われても、混乱以外どうしていいのかわかるわけがない。

 一緒に練習することの1番の目的は、彼女の演奏からくる苦痛を少しでも取り除くためだ。一緒に練習することで、鎧塚さんの演奏が少しでも上手に戻る手助けをする。ただ、自分のソプラノを聞いて判断してもらいたいというのも本当だ。朝だけという時間設定も、自分はこの時間の苦痛さえ取り除ければよく、彼女にとっても大きすぎる負担にならないギリギリのラインだと思っている。まあ、トランペットの人が来たら怒られるから、というのももちろんあるが。

 

「……どうかな?」

 

 彼女から2人分程離れて腰掛けて、手に入れたい解答を待つ。希美に相談もできず、関わる時間も限られる自分には、これくらいしか打てる手がない。平静を装いながら、心の中で祈りを捧げる。

 

「……私は、別に貴方みたいに上手くない」

「ええと、自分が聞いてほしいのが1番だから」

「……、…………。別に、問題は、ないけど」

「……!本当に?ありがとう」

 

 かなり問題がありそうな間だったが、なんとか鎧塚さんは承諾してくれたようだ。

 そうと決まれば話は早い。早速メトロノームを運んできて、練習の準備を終えることにする。

 

「まずはロングトーンからでいい?」

 

 鎧塚さんが楽器を構える。それと同時の小さな頷きが、彼女の了承の合図のようだ。

 

「じゃあ、B♭(べー)から半音階で、1オクターブの上りを8拍でいこう」

 

 こうして、鎧塚さんの音を取り戻すための、私的な作戦が始まるのだった。




◯半音階
 通常の音階はドレミファソラシドですが、半音階というのはド→ド#→レ→レ#……というように、半音ずつ登っていくことを言います。

 少しずつ原作キャラとの関わりが増えてきました。
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