鎧塚さんと一緒に朝練をするようになってから、早いものでもうすぐ1週間が経とうとしている。そしてそれはつまり、3年生の卒部コンサートの始まりと、アンサンブルの初合わせが近づいているということでもある。考えるだけで不安になるが、それは練習をしない理由にはならない。
カツ、カツ、カツ、カツ――
メトロノームの音が響いている。ゆっくりとしたアダージョ。揺れる金属製の振り子が発するこの音は、静かな朝に時を刻む唯一の寄る辺だ。その寄る辺に集まるように、2つの音がなっている。自分のソプラノと、鎧塚さんのオーボエだ。
音色の似た2つの楽器が奏でる音は、完全な調和とまではいかなくても、美しいひとつの音となってロングトーンを響かせている。そうして基本の音域のすべてを吹き終えた時、お互いに何を言うでもなく、静かに吹くのをやめていた。
「鎧塚さんは、オーボエを始めてどのくらいなの?」
鎧塚さんとする練習は、意外にもすんなりと行うことが出来た。今のところ、朝声をかければ応えてくれる。だがそのような人間関係のことよりも、大きな驚きがあったことは、彼女の楽器の上手さである。
正直に告白すると、先週の自分は鎧塚さんの演奏から来る苦痛から逃れたい一心で、深く考えることもせず彼女を練習に誘っていた。そう、先週までの彼女は、確実にわかりやすく凹んだ、本当につまらない演奏を行っていたはずなのだ。それがどうだろう、彼女自身は気がついていないようだが、一緒に吹いている時の彼女は、自分の想像よりも数段上の上手さをしている。もちろん、やっているのが基礎練習だというのもあるが、それにしても驚きだった。
今しがた自分が経験年数を尋ねたのは、この驚きがあってこそだ。自分の予測では、明らかに彼女は、現在の段階で既にそこらの高校生を上回る実力を持っている。しかもその技術力は、普段の演奏では相変わらず活かされていないと来ている。もしこれが本当に、気がつかないままやっていることだとしたら。それは本来的にとてつもない音楽センスを持っているのか、一緒に吹いている人に自動的に合わせられるだけの耳を持っているのか、この2つのはずだ。だがそういうセンスは、中学からやっているだけで身につくものではない。
「……。普通に、中学から」
「そう、なんだ」
鎧塚さんの答えは、いつもより弱々しいものだった。何か嫌なことでも思い出してしまったかのように、伏せられた目。
だがそんな事はどうでもよくなる程度には、その事実は衝撃だった。楽器というのは基本的に、同じ努力量なら、後から始めた人間ほど追いつけないように成っている。それは音楽センスや感覚、その他諸々を磨く1番の方法が“時間をかける”事だからだ。……だからこそ音楽家は、スパルタめいた教育を幼い頃から子どもに施す人が少なくない。
「昔オーボエ以外やってたとかはない?」
「……ピアノを、小学生まで」
「そっか、ありがとう」
その言葉を引き出して、ようやく腑に落ちた。流石に鎧塚さんの音楽センスが、たかだか3年で鍛えられたものではないのは明白だ。もしオーボエしか経験せずにこのセンスであるのならば、自分の苦労が報われないというやつだ。まあもちろん、自分のほうが上手いが。
なんて、柄にもなく張り合うような真似をしてしまった。別に、こんな虚栄心を満たすために練習を止めたかったわけではない。ただ、ただ説明がつかない事態を片付けたかっただけだ。
「次、は?」
気がつけば鎧塚さんは前方にいた。相も変わらず目は合わないままで、静かにこちらを見やっていた。その手にはオーボエではなくメトロノームが握られている。どうやら、止まっていたメトロノームを巻きに行ってくれたらしい。
「ああ、ごめん。練習を止めちゃって。……そうだな、速めで半音階とかはどう?」
そう投げかけると、鎧塚さんはゆるりと頷いた。頷いた彼女が設定したのは、速度120。軽快なアニマート。指の練習には悪くない速度だ。
「じゃあ、1オクターブ下のG#(ジス)から8分音符のリズムでやろうか」
この感じなら、しばらく鎧塚さんとの練習は心地よく続けられそうだ。
◆
3年生の卒部コンサート、当日。ショッピングモールで行われるこの演奏会は、部の人数を考慮してか、広々とした控室が与えられていた。本来つつがなく行われるはずのこのコンサート。しかし小笠原晴香にとって、コンサートの直前から、それどころではない事態が起きすぎていた。
そのひとつはアンサンブルだ。晴香が始めたとは言え、その道は始まる前から苦難ばかりだった。日々の練習の合間に、突然難易度の高い曲を練習しなければならなくなった。一足先に譜面を見ていたとはいえ、難易度は変わるわけじゃない。演奏会は演奏会で失敗できない中で、どちらも練習しなければならないというのは、中々のハードスケジュールだ。
それに、アンサンブルで大変なのは練習だけではなかった。付属して表れたのが、アンサンブルメンバーのケアだ。特に、メンバーへの抜擢で責任を感じているのか、平尾澄子はよく質問に来るようになった。
面倒を見るべきなのは後輩だけじゃない。同級生でアルト担当の岡本来夢は、どうにもまだサボり癖が抜けないらしく、先輩がいる時は先輩と、いない時は宮キリコらとよく話をしている。そんな来夢に向かって「練習しよ?」と声をかけるのが最早日課になりつつある。
肝心要の藤原創は、練習をしてくれてはいるものの、相変わらず合奏以外ではひとりで練習をしていて、様子を伺うのにも一苦労だ。
アンサンブルをやろうとしたのは自分たちであるし、そもそも指揮者もいない演奏形態で先生を巻き込むことはできない。つまり、これらの練習管理はすべて晴香に任せられているという訳なのである。
――あれ、ひょっとしてアンサンブルって、過酷?
時既に遅し。晴香がそう思った頃には、練習も責任も、両方の肩に重くのしかかっていた。この凸凹なカルテットの明日は、何処。
「はぁ……」
大きなため息が出る。3年生にバレたら怒られそうだなと思いつつも、止まらないのだから仕方ない。
そもそも、このため息の原因は3年生にもある。そう、アンサンブルだけならば、例え過酷だったとしても練習をすればいいだけだ。なのに晴香がここまで沈んでいるのはつまり、それどころではない、もうひとつの問題が存在するからである。
その問題とは、晴香が
これはつまり、あすかが部長就任の誘いを断ったことに由来する。
『ごめん、晴香。私部長になるの断ったから、晴香にもお願いが来るかも!』
よくも気軽に打ち明けてくれたものだと今は思うが、その当時は断ればいいだけだと楽観的に考えていた。晴香がリーダーに向いていないことなど先輩方も知っている筈で、お願いされてもすぐに断れるだろうと。
だが現実はそう簡単ではなかった。なぜか先輩方も晴香を部長にするのに乗り気であり、響先輩と仲が良いから、優しいからなどという理由でアプローチされ、気がつけば断れなくなっていた。本当は、響先輩のことを持ち出されるのも、優しいと言われるのも、嫌だったけれど。
兎にも角にも、この1週間は急な引継ぎ作業が入って大忙しだった。最低限、あすかが副部長としてなら業務を引き継ぐという事になったおかげで、それが晴香ひとりの作業にならなくてよかったものの、それ以外に良いことがなさすぎるというのは考えどころである。そもそも、本当に大変なのはこれからではなく明日からであるという事からは、一度目を背けることにした。
――きっとみんな、あすかが部長だと思ってるだろうしなあ……
何でもできて、リーダーシップがあって、楽器も上手。そんなあすかが部長にならずに、取り柄のない晴香が部長になることを望んでいる人がもしいたのだとしたら、例え地球の裏側にいたとしても会いに行く。出来ればそのまま手を取って、部長の仕事を変わってもらうだろうに。
「晴香、大丈夫?」
「香織……。大丈夫……うんやっぱ無理」
そんな晴香の事情を知って気遣ってくれるのは、残念ながら香織だけだった。副部長として部長に次ぐ責任を背負うことになってしまったあすかに慰めてもらうことは、非常に忍びない。加えて、事態が事態であり、他の部員にはそもそもこのことを話せないからだ。
「しょうがないよ。急に部長やれだなんて頼まれても、そんな簡単に受け入れられるわけないもん」
「うう、そうだよね。私も、なんで受け入れちゃったんだろう……。やっぱり私には無理だ……」
「でも、そこまでネガティブになるのもだめだよ。まだ始まってないことなんだし、私もできるだけ支えるからさ。じゃあ、私も行くね。何かあったら、すぐ相談するんだよ?ひとりで抱え込まないようにね?」
「わかってるってば。本当にありがと、香織」
心配してくれる香織の言葉だけが、今の晴香の救いだった。あすかと香織、人望のある2人が味方をしてくれるというだけで、多少はみんなの溜飲も下がる……かもしれない。そう考えて思考を停止していなければ、明日へのプレッシャーで身がもたない。
溢れだしそうな愚痴をすんでのところで抑えて、何とか目の前の演奏に集中しようと楽譜を見る。そういえば、今日の演奏の中にはあの有名な吹奏楽曲である、真島俊夫編曲の『宝島』が入っている。……響先輩がいない今日は、コンクールでもソロを吹いたアルトの3年生が演奏する手筈だったはずだ。
そうして楽譜を見返している晴香に、赤いリボンの人影が近づいてくる。
「ねえ、小笠原さん。君の後輩がアルトになってるのって、彼が自分で考えたことなの?それとも小笠原さん?」
「あ、先輩……。えっと、まあ、はい……」
見上げた先に見えたのは、貼り付けたような薄らいだ笑顔。氷のように冷たい、それでいて見るものに対して苛立ちを伝えるような静かな炎を宿している。それはコンクールでソロを吹いたアルトの先輩だった。今にして思えば、1年生が部活をやめるようにいじめ行為をしていた先輩のひとりが彼女だった。……きっと今までずっと、響先輩はこの顔を向けられて、それでも耐えてきたのだろう。
「ふーん、そうなんだ……。求められたからいいよって言ったけど、本当にそうなるって私思ってなかったな~」
「す、すみません」
背筋が凍えるような感覚がする。先輩に詰められている、未来の自分を幻視した。外から聞けばただの理不尽でも、この小さな箱庭のような縦社会の中では成立してしまう。だからこそ、そこに込められた意味に恐怖が生まれる。
「ああいや、謝れなんて言ってないよ?ただちょっと、急すぎるなって思っただけだよ。それに私だって、もう明日からはサックスパートでも何でもないただの部外者だしさ?全然いいよ」
「あ、ありがとうございます」
だがその撃鉄は下ろされなかった。想定外の反応に、背中の寒気が引いていく。今日が部活にいる最後の日であるという事もあってか、そこまで直接的ないじめ行為をする気はないという事なのだろうか。
「じゃあ私、彼と話してくるから」
「……え?」
「ん?別にただ後輩とお話ししてくるだけだよ?何か問題あるの?」
「あ、いや、そういう訳じゃ……」
「じゃあね」
待ってください。という言葉が、どうしても喉につかえて出なかった。もう明日辞めるような先輩なのに、明日からは部長なのに、そんな言葉すら出なかった。
――やっぱり、こんな卑怯で臆病な私なんかに、部長なんてできるわけがないんだ
ネガティブな思考が浮かんでは積もっていく。その度に先輩は彼に近づく。またもう1度、一緒に練習していた後輩がいやがらせされるのを見ていることしかできない。若井菫、誰よりも部活を良くしようと思っていたはずの彼女が流した涙が、脳裏をよぎった。
本当に、それでいいのだろうか。今までと同じで、ただ見ているだけの自分で、本当に?答えはわからない。それでも、怯えながら、ゆっくりのまま、体が動いた。
「ねえ藤原君。急にアルトになるなんてどうしたの?」
「いろいろとありまして……。流石にアルトが多すぎて迷惑でしたか?」
「ああ、そういう事じゃないの。事情って人それぞれだもんね。藤原君って上手だしそういうこともあるよ」
もう既に、先輩は彼に話しかけている。それでも何か、やれることをしないと。そうじゃなければ、このまま何も変わらずに、ずっとずっと後悔をしたままだ。
「たださ、今日はポップスが多めでアルトのソロっていっぱいあるじゃない?」
「そうみたいですね」
「じゃあさ、せっかくアルトになったんだし、君もソロ吹きなよ」
「……え?今からですか?」
「そうそう。例えば……『宝島』とかどうかな。盛り上がるよ?きっと」
駄目だ。先輩は彼に演奏で恥をかかせようとしている。『宝島』のソロは難しいことで有名だ。いかに彼が上手といえど、演奏会当日に言われて簡単にできる曲ではない筈だ。そんなことは許されることじゃない。
「待っ――」
「やめた方がいいよ」
先輩を止めに入ろうとした瞬間、強く腕を掴まれた。
「来夢……!何で止めるの」
「あんたこそ、怖がって止めに入っても効果ないよ。先輩は明日からはもういないんだから、今変なリスクは取らない方がいいじゃない」
それは痛いくらいに本当のことだった。あすかもいない今、晴香は立場が弱い人間のままだ。そんな状況で恐る恐る止めに入っても、効果があるのか怪しいばかりか、こちらに矛先が向くかもしれない。
「でも、流石にいきなりソロをやれなんて」
「わかってる。私だって流石に演奏でいじめなんてひどいと思う。最悪私がやるから、落ち着いて。一応中学の頃やったし」
そんなことを言う来夢だって、今日まで練習などしていない筈だ。彼と状況は同じはずなのに、その言葉にこもる優しさが、今は少し暖かい。その暖かみが、落ち着いた思考を取り戻させる。一度状況を見守ろう。そう思った次の瞬間に聞いた言葉は、予想の斜め上をいくものだった。
「え?ここって先輩がやるところですよね?当日になって吹けないってことですか?」
空気が凍りつくとは、こういうことを言うのだろう。渡された譜面を見て彼が放った一言は、周囲の温度を本当に下げた気がする。晴香自身忘れていたが、彼は天然なのだった。誰がどう見ても嫌がらせだとわかるそれを、“ただ演奏会当日までに吹けなかったから譲った”と解釈したのだ。その頓珍漢な回答に、この場の誰もが口の端をひきつらせた。
「え、えーっと、私はただ、1年生の君もせっかくならソロを吹いた方がいいと思っただけだよ?」
「はあ、そうですか……。すみません、自分にはソロを譲るという発想がなかったので。確かに、いろいろな事情がありますよね。相談してくれてありがとうございます」
その顔は少し不気味なほどにいつもの笑顔だった。きっと彼は本気でこんなセリフを吐いている。本気で、これが何でもない日常の会話だと思っている。これは、流石というべきなのだろうか。
「わかりました。何か事情があるなら引き受けます。ただ、出来ればもう少し早く言っていただけると嬉しかったです。ソロをやるなら責任を持ちたいので」
じゃあ、譜読みをするので失礼します。そう言って、彼はひとり楽譜と対話をするかのように集中し始めた。難しいはずの譜面については何も言わず、二つ返事で引き受けたのだ。あっさりと終わった“嫌がらせ”に顔をひきつらせたままの先輩に声をかけられる人は、この場のどこにもいなかった。
その後のことは敢えて語るまでもなかった。合奏は曲を途中で崩れさせながら進んだが、『宝島』のソロになった瞬間、その瞬間存在したどんな音よりも光り輝くような旋律がこのショッピングモールに響き渡った。響き渡った旋律は、その場にいた誰もがその美しさを認めざるを得なかった。
ポップスに似合うサックスの音色はどこまでも洗練されており、指は踊り子のようになめらかに舞った。高音域のビブラートは白鳥の飛び立つ水面のようなしなやかさだ。リズムについても、独特なアレンジが行われていて、どこまでも伸びやかな雰囲気を纏っていた。どこをとっても、あれだけの短時間で仕上げたとは思えない演奏。
正直に言えば、晴香は彼を侮っていたのだと思う。いつも彼がやるソロ曲の楽譜を見たことはなかったし、きちんと聞いたこともなかった。合奏ではいつも、ソロもなく目立たないバリサクだった。だからきっと、普通の人より上手という事だけしか、たったそれだけのことしか理解出来ていなかった。
「お、お疲れ様。創君」
「お疲れ様です、晴香先輩。何か用ですか?」
急に、恐ろしくなった。音大を目指していて、それだけの実力を持っている彼と、自分たちがアンサンブルなんて――。
「今日、ごめんね。いきなりソロなんて」
思考を止める。それはきっと、思ってはいけない。何よりも、承諾してくれた彼に失礼だ。
「ああ、そのことですか。平気ですよ。流石にもう、こんなことはあってほしくないですけど」
いつも通りの笑顔。誰もケチをつけることができない、鏡で見たお手本のような微笑み。
――うらやましいな。
誰に何かを言うでもなく、そう思った。他人を黙らせられる実力と、人のことを気にかける必要がない気高さ。先輩とか後輩とか、音大を目指すとか目指さないとか、そんなことは些事だと思えるくらい、その姿は煌めいて見えた。楽器だけなら、まるであすかのような、その特別さ。
「ねえ、アンサンブルさ」
なら、自分にできることはなんだ。それだけの奏者を含めたアンサンブルで、出来ることは何だ。
どこまでも、どこまでも届くように。あの人の、響先輩のところまで。それだけの覚悟を含めて、ただ祈るように誓いの言葉を口にした。
「頑張ろうね、明日から」
がんばるっていう言葉は、余りにも言葉の意味が広すぎて、本当の意味で誰かと共有するのが難しい言葉ですよね。