待たせた上に話あんまり進まないですすみません。
もしこの世に卒業論文の悪魔がいたら、きっと結構強いと思います。
静かな音楽室に、ギシリ、と木材の軋みが鈍く木霊した。それはきっと、指揮台の上に誰かが乗った音だろう。恐る恐る踏み出したその両足は、震えを隠しきれていない。なのにどうしてか、身体の方はカチコチで、凍ってしまったかのようだった。
少ない勇気を振り絞って深呼吸。それでも溶けることのない氷は頭の隅に追いやって、なんとかその目を部屋の奥まで向ける。見開いた目に飛び込んだのは、不思議そうにこちらを向く顔、顔、顔。針のように体に刺さる視線を見て、少女はただ思った。
――これが、響先輩の見た景色なんだ。
不思議と、少ない勇気が震えた気がした。
「部長を任されることになりました、小笠原晴香です。……えっと、その……よ、よろしくお願いひます!」
議場――といってもここは音楽室だが――はさらなる静寂に包まれた。それにはもちろん晴香が部長になった驚きもある。だがそんなことよりも、余りにも予想通りに晴香が挨拶を噛んだことで、部員たちは笑うことよりも不安が勝ったのだろう。
「はいはーい、私こそがこの部活の副部長、2年の田中あすかです!さあ者共、控えおろう!まあそういうわけで、かわいく噛んでくれた部長さんを、この私が支えていくので、適当によろしくね」
「ちょっ、あすか、噛んだは余計でしょ!」
「え〜?そんな顔真っ赤にしても説得力ないですな〜」
顔を真っ赤にして怒る晴香と、それをからかうあすかという構図は、意図したのかしていないのか、音楽室に蔓延していた緊張感を取り払った。取り払われた緊張は、初めに抱いた不安とともに、霧が散っていく様に似て、それに合わせて部員たちの顔にも晴れ間がさした。
この土壇場での失敗を誰よりも重く感じ、一瞬顔が青ざめかけた晴香だったが、その笑顔を見ると、心に僅かな安堵が芽生えた。ただそれと同時に、本来部長に選ばれるはずだった少女の実力と、自身の現状の差を苦く思った。
「ほら、晴香。このあとは予定表配って予定の確認、でしょ?」
少しの安堵から放心していた晴香を現実に引き戻したのは、余裕綽々と言った表情のあすかだった。譲歩を重ねた末に副部長を引き受けた今においても、彼女の特別さは損なわれなかった。そうやって、何事も些事かのようにやり遂げてしまう彼女のことが、心強くも羨ましかった。
「全員、プリントは受け取りましたか?では、これから来月までの予定について話します。これからの練習は基本的に、文化祭や10月にある植物園でのコンサートに向けてのものになります。文化祭では、昨日のコンサートの曲だけじゃなく、例年通り新しい曲もいくつか取り入れます。その曲はこれから決めますので、楽譜係の人はこのあと集まってください。……えっと、10月のコンサートはある程度そこで吹いた曲をベースにプログラムを作るので、文化祭に向けてだけでなく、そこに向けても練習をお願いします」
もしもの時を考慮して、指揮者用譜面台に忍ばせたカンニングペーパーは、しっかりと効力を発揮した。ぎこちなくも噛むことないセリフ回しは、このたったひとひらのルーズリーフのおかげである。
今日の予定は、本来ならここまで。新しい幹部の顔見せと、これからの予定の確認だけだ。しかし、晴香にとっての本当の戦いはこれからだった。ルーズリーフの隅の隅、そこに小さく書いた目標は、どんなになっても達成しなければならないものだ。
「……今日配った予定表は10月までのもので、まだ変わる可能性もあります。更にそこから先の予定は、これから決めることになります。ただ……」
神妙な面持ちをする新部長を見て、そこまで真面目に聞いていなかった部員たちでも、少しだけ意識を晴香に割いた。
再び多くの視線が晴香に刺さる。刺さったそれらは返しがついているかのように、晴香にある少しの勇気をえぐっていく。それでも、もう決めたことであるそれを言わない選択肢は、既に存在していなかった。
「ただ、私は今年北宇治高校として、アンサンブルコンテストに出たい……と思ってます。サックス四重奏のつもりなので、皆さんに迷惑をかけるわけじゃないですし、アンコンも12月ですので、普段の活動にすごく影響が出るわけじゃない……と思うので、あの、えっと……出ても、いいですか」
消え入りそうな声は、そのか細さに反してよく響いた。アンサンブルコンテストという名前を出した瞬間から、ざわつきだした音楽室には、声の大きさなど些細な問題であった。経験者から初心者まで、多様な驚きが場を支配していたのだ。経験者にとっては、これまで出ていなかったアンコンに出場することへのちょっとした驚き、初心者にとっては、全く知らないコンテストに対する未知の驚き。事前に知らされていた者を除いて、これらから逃れることは不可能だった。
「質問、いいですか?」
音楽室を包んでいた静寂が破られかけていたその時、1つの音が空を裂いた。軽やかに、かつ強かに発せられたその声を出した人物を、晴香は確認するまでもなく理解した。そうなってしまうほどに、聞こえてきた声は余りに聞き馴染みのあるものだった。
「……香織?」
「はい。私が聞きたいのはひとつです。サックス四重奏で出るってことでしたけど、別にサックス四重奏じゃなくても出てもいいですか?」
「……え?ご、ごめんなさい。それはどういう」
余りにも唐突だったその質問の内容を、晴香は理解できなかった。こうして晴香が部全体にアンコンへの出場を投げかけたのは、他の部員からの反発があると考えたからだ。大量退部が発生し、コンクールを銅賞で終えた今、部員たちのモチベーションは如実に下がっている。いくら3年生がいなくなったからといって、その下がったモチベーションが急に戻ることはない。この部活であればなおさらだ。だからこそ、『別に出なくても』と言う言葉が出てくることは予想していた。しかしその反対については、想像すらしないままだった。
改めて質問の意図を問われた香織は、快い笑顔を崩すことなく、その美しい声でこう告げた。
「えっと、少し考えたんですけど、せっかくなら私もアンコン出てみたいなと思って。だから、いつにするかとかはまた考えないとですけど、出場を希望するチームが出揃ったら、最終的にオーディションでどこが出るか決めませんか?」
「……え?」
晴香にとって、それはまさしく想定外の一撃だった。事前に相談していた香織が、まさかそんな提案をしてくるとは思いもしていない。
そんなうろたえなど、どこ吹く風とでもいうように、香織は矢継ぎ早に話を続ける。
「というか、そもそもアンコン出るとか出ないとかって、少し堅苦しいと思うんです。別に、アンコン出ない人だってアンサンブルをやって楽しんでも良いのかなって」
「……え!?」
なんだろうか、これは。確かに、香織に相談していたことは参加するかしないかにすぎない。が、それでも不思議だ。予め相談しておいた人から、こんなにも突飛な発言が出てくるなんて、いったいどういうことだろうか?
「それに、去年のスケジュールを見てみると、12月初頭に演奏会の予定は特になかったんです。ならそこで、オーディションも兼ねた部内アンサンブル発表会、やってみても良いんじゃないでしょうか?あ、もちろん曲はポップスでもクラシックでも何でもよしって形ですけど」
「……ええ!?」
香織が言葉を紡ぐたびに、話の規模がどんどん大きくなっていく。サックスパートだけで出ようと思っていたアンコンが、数秒前に希望者によるオーディションに、たった今曲の制限も何も無い部内コンテストへと姿を変えようとしている。
しかし、驚く晴香をまたも置いていくように、周りの空気は変わっていった。今までは心配や懸念が含まれたざわめきが、少しずつ楽しげなものへと変わっていった。本気でやらなくてもいい、希望者だけでいい、そうして極限まで苦を省いたものが香織の提案だった。だがこの形であるからこそ、北宇治の部員にとっては、ただの楽しげなイベント事に見えたようだ。
ざわめきが、それぞれ誰と組もうか話し合う声に変わった頃、その状況をみかねたのか、晴香の隣から手を叩く音が聞こえてきた。
「はいはい。みんな、誰と組みたいとか話し合うのはいいけど、まずこれを本当にやるのかから決めないとだからね。というわけで、この件はまた後日!まあとりあえず、ある方向で考えておいてくれてもいいから、わかった?じゃあ今日のミーティングはこれで解散!」
鶴の一声、まさにその言葉に相応しいあすかの取り仕切りによって、音楽室は再び静けさに包まれ、混沌とした場に秩序が生まれた。
「香織」
ミーティングを終え、演奏会の曲決めも終えた今、晴香を縛るものは何もなかった。集まった部員たちがそれぞれの練習教室に戻っていく中、香織を呼び止める声が漏れていた。
「さっきのあれ、どういうこと?」
詰めるような声が出たことに、彼女自身驚いた。どういうことか問うつもりはあっても、香織を否定するつもりまではなかったからだ。
詰められた当の香織はと言えば、観念したようき唇を噛むと、それから、少し申し訳なさそうにはにかんだ。
「ちょっと、いきなりだったよね。そこはごめんなさい」
「……ごめん、私も今冷静じゃない。だけど、香織もアンコン出たいなら、前相談したときでも、今日までの間でも、言ってくれればよかったのに。それは……それは、どうして?」
京都府の場合、アンコンに出れるのは、ひとつの学校でひとつの代表だけだ。例え高校入学から出たことがなくても、過去の経験から2人ともそれは理解していた。少なくとも、その前提はあるはずだった。
だからといって、友人である香織にただただ譲ってもらって、アンコンに出たいなどと、晴香は少しも思っていない。例え香織の気持ちを事前に知っていたとしても、今回まとまったオーディション形式でなくとも、何かしらの手段で競っていたことは間違いないだろう。
今回の不意打ちでここまで動揺しているのは、きっとそう思っていたからだろう。ただ予期せずライバルが増えた困惑も、そのライバルに信用されていなかったのかもしれないと思った苦々しさも、きっと、その前提があったからだ。
隠しきれず、行き場のない感情がとめどなく溢れる。その滂沱を受けて、香織の美しい顔にも翳りが見えた。
「本当に、相談するべきだったとは、思うの。アンコンに出てみたいっていうのは本当。相談しなかったのは、そもそも私は晴香と違ってチームも決まってないし、組もうともしてなかったから。それなのにさっきああいう提案をしたのは……ただ、負けたくなかったの」
「負けたくなかった?」
「……うん。アンコンに出たいっていう晴香は、凄く強く見えた。あすかの代わりに部長にもなって、絶対大変なのに、そこだけは諦めなかったでしょ?」
言いきって、強く力の込められた目線が返ってくる。いつものものより、大きく開かれ、見るものを釘付けにする魅力を持つ、その目線。
「だから、私も頑張りたかった。私は、一生懸命やりたいって言ってた1年生を、全然庇いきれなかった不甲斐ない先輩。だけど、そのままでいるのは嫌なの。私も、晴香みたいに変わりたい、変わろうとしたい」
――香織も、同じなんだ。
心の底からそう思った。本当は、信用できていなかったのは自分の方だったのかもしれない。思い通りにいかないストレスをぶつけてしまった自分自身を、大いに恥じた。
「だからね、晴香。どっちが勝っても、恨みっこ無しだよ。私は、本気で晴香に勝ちたい。本気で晴香と競いたい。私も、一生懸命何かを頑張ってみたいから」
「香織……」
そう言った香織の顔はどこまでも真剣で、強い感情を湛えていた。晴香の胸の奥の奥が、またどこか熱く揺らめいた気がした。
「……まあ、それはそれとして、あんなに自信なさげに提案したらみんな聞き入れてもらえないでしょとは思ったけどね?」
「え?」
「だって晴香、もっとかっこよくプレゼンするのかと思ったら、急に弱々しくなっちゃうし、ああでもフォローしないと、私の考えてたことまで台無しになっちゃうでしょ?」
「か、香織!褒めるのかからかうのかどっちかにしてよ!」
先ほどまでの真剣な表情は、どこか遠くに行ってしまったように、香織の顔はくしゃっとした、いたずらっぽい笑みに変わっていた。
8月中旬。窓から見える青く明るい空には、少しの雲がかかっている。雲間を縫うように、力強くこちらを照らす陽炎に辟易しながら廊下を進む。目的地は3人が待つ空き教室。事前に使えそうなところを探してアンサンブルの練習をするための場所だ。
どうやら目的地の場所は、来夢に聞いていた通りで間違いなさそうだ。耳を澄ませば、3本のサックスの音が聞こえてくる。これからは晴香も、そこに加わるのだ。まだまだ出来ないところは多くても、それは少しずつやっていくしかない。
教室に入る前に、バレないように少し深呼吸。心のブレも筋肉の硬直も、演奏に邪魔にならない場所へと追いやる。大丈夫、これなら少しは上手くやれる。そう考えて、隠しきれない昂りをそのままにドアを開ける。
「みんなお待たせ!少し大変なことになっちゃったけど、始めよう、私たちのアンサンブルを!」