ここからダル・セーニョ   作:辛酸

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遅くなりました。
元々投稿頻度を決定しているわけではないのですが、今後、現実との兼ね合いで、遅くなることが多々あるかと思います。


2小節目のグラーヴェ

「ねえ創君、アンサンブルのオーディションやるって本当かな?なんか、オーディションって聞いた途端さらなる緊張が襲ってきたんだけど……うう、どうしよう……!」

 

 澄子が隣でそう嘆いた。その嘆きが自分の耳に届いたのは、ミーティングを終え、空き教室に向かっている現在のことだ。

 

「実際どうだろうね。中世古先輩はやる気あるみたいだったけど、他の人はそこまでオーディションに興味ないんじゃないかな。まあ……だとしても、少なくとも中世古先輩のチームとはオーディションで戦うんだろうけど」

「やっぱり、そうだよね?……も、もし私のせいで負けちゃったら、私どうしたら……」

 

 どうやら澄子の嘆きは、もしオーディションに通らなかったらという考えから来るものであるらしい。その言葉は普通の吹奏楽部であるのなら出て当然と言えるものだ。しかし、こと北宇治高校においては、その言葉が出るとは思わなかった。それはきっと、晴香先輩でもそうなのだろう。でなければ、自分たちをあのように、あたかも他の参加者がいないような言い方で誘うことはできないはずだ。

 自分としても、あの中世古先輩の言葉には驚いたと言わざるを得ない。今までアンサンブルコンテストに出ていなかったこの部活で、わざわざ出ようとする人がいるとは思わなかった。

 

「まあ、平気だよ。もし『グラーヴェとプレスト』が吹けるなら、この部活の人には負けない。勝ち上がるという意味なら、相手じゃないと思うよ」

「え?もしなの?というか凄い自信……」

「もし、なのは自分からすると当たり前だ。強豪校でもなんでもない北宇治で、8月から難曲をやるんだ。みんなはオーディションなんかより、そもそも形になるかどうかを心配するべきだよ。そういう甘えた考えは、確実にノイズになる」

 

 至極当然だと思って発した一言は、聞いた側からすると肝が冷えた発言のようだ。澄子の顔を見てみると、先ほどまでの心配そうな不安顔は、若干引きつっている。やはり見積もりが甘いようだ。

 この1週間、澄子はある程度この曲を練習していたようには見えた。もちろんまだまだ練習時間は足りないが、最低限全員が澄子くらい練習しなければ、本当にお話にもならない。オーディションになった今、アンサンブルコンテスト以前の問題、そこに届くかどうかすら怪しいだろう。

 もしコンテストに届いたとしても、出来て銀が受賞程度。なんなら参加賞の銅がいいところだ。その程度の成果しか得られないなら、自分がそこにいる意味はない。ならばせめて、簡単な曲をそれなりに吹けるようにして、府大会くらいは通過した方が達成感があるだろう。

 

「やっぱり、晴香先輩はそこをわかってないよ。あの曲はそんな簡単に吹ける曲ではないのに……あ」

 

 隣りには、引きつったまま顔を動かさない澄子がいた。しかし、先程までの表情とは違う点もある。明らかにその笑顔は崩れかかっているし、先ほどより少し距離が遠い気がする。

 ……確かに、流石にこれは言いすぎた。まだ演奏も始まっていないのに、士気を下げるようなこと言うべきではなかった。何より、優しくのんびりとした彼女ですらこうなるほど、きっと言い方も悪かっただろう。反省だ。

 

「……えっと、つまりは、せめてもっと曲のグレードを落として、表現力を磨いた方がいい賞が取れるんじゃないのかなと思って……。とはいえ、決めるのは先輩だろうから、自分や澄子は練習することしか出来ないけどね」

「……あ、ああ!そうだよね!そういうことだよね……あはは」

 

 苦笑。澄子から出たのはまさにそれだった。少し離れたと思った距離感を、前を歩く彼女の背を見て感じ取った。

 またやってしまった。こんなだから、友達の1人もできやしないのだろう。

 しかし、今回のことに関して彼女たちの見積もりが甘いのは事実だ。そこは、余り許容したくない。後悔をしているのか、していないのか、自分でもよく分からないが、なってしまったものは諦めたほうが、きっと楽だ。

 

 教室についたのは、自分と澄子が一番最初だった。会議中の晴香先輩はもちろん一番最後に来るのだろう。岡本先輩は恐らく他の先輩方と話しているのだろう。

 ただ、こうして1年だけが早く目的地に着くのは全く悪いことではない。何故なら、空き教室を合奏が出来るようにセッティングするのは基本的に後輩――主に男子――の役目だからだ。音楽室であれば、他の1年もいることで素早く終わるが、パート練習であれば話は別だ。今回の場合、たった2人でそれなりの量ある机を運ばなければならない。これが意外と面倒なのだ。

 ただ、面倒なのは澄子も同じだったようだ。先ほどの空気もいったん忘れて、2人で机を後ろに寄せ始める。片側からひとり3列ずつ、特段示し合わせる必要もなく、互いにテキパキと手を動かす。

 

「でも実際さあ、どうして晴香先輩は急にアンコン出ようなんて言い出したんだろうね?創君はなにか聞いてる?」

 

 ふと、澄子が疑問を投げてくる。……確かに、よく考えてみれば、先輩がアンサンブルをやりたいことは伝わってきたものの、その理由まではわからないままだ。

 

「そうだね、先輩が何か言っていたような記憶は特にないかな。そもそも、考えたこともなかったな」

「考えたこともないかー……」

 

 考えたこともない。自分が放ったその言葉に、澄子は引っかかりを覚えたようだ。彼女は何やら思案顔で、動かすべき手を止めていた。

 その様子に、つい先程出来た間を思い出す。

 

「ごめん、また何か変なこと言ったかな」

「ん?ああ、違う違う。なんというか、やっぱり創君は変わってるなって思ったの」

「ええと、それは変なことを言ったんじゃなくて?」

「うーん、なんというか、楽器上手い人って独特っていうか、そういう人が多いなって思ってさ。なんだろ、こう、独自の世界観?があるというか。だから、別に悪い意味ではないよ?」

 

 変わってる、独特。そう言われたのは、いつぶりだっただろうか。ただ別に、楽器をやっていることでそう言われるのは、何も珍しいことではない。“楽器が上手い人は変わってる”。そんな、どこでも言われていて、吐いて捨てるくらいよくある言説だ。

 

「……。そんなことはないよ。自分はそんな、大した存在じゃない」

「えー?その言い方とかもう既に変わってると思うけどなあ」

 

 そんな問答を繰り返していると、気がつけば机は後ろに寄せ終わり、教室の前方には椅子が4つ並ぶばかりになった。これから自分たちが座るそれらの椅子は、合奏がしやすいように楕円形に配置されている。

 

「うーん、並べ終わったけど、先輩たちまだ来ないね。ねえ、先に少し合わせてみない?」

「それは……大丈夫だけど、自分の練習は大丈夫なの?」

「うっ……、あんまりそれを言われると自信はないけど……。ま、まあほら、やってみないと何が出来ないかも、わからないかなって思って」

「まあ、もうすぐ時間だし、先輩も来ないから自分は大丈夫だけど」

 

 自分の演奏が頭の中に流れたのか、澄子は明らかに目が泳いでいる。そんな彼女を少し訝しみながら、椅子に座って楽器を構える。彼女に必要なのは合わせではなく、自主練習だと思うのだが。

 とはいえ、合わせることは悪いことではない。そう感じた。ともなれば、その準備が必要だろう。手に持ったソプラノサックスを温めるために息を吹き込む。すると、楽器に神経が通る錯覚がした。その錯覚を隅々までを張り巡らせて、彼女の用意を待った。

 

「よし、じゃあやろっか」

 

 そう言う澄子に、ただ視線を送ることで返答をする。

 自分の視線を受けて、澄子がメトロノームを鳴らす。緊張感と同時に、この空間にゆったりとした音が聞こえ始める。まさにこの曲の開始に相応しいリズムだ。

 これからやるのはアンサンブル。合奏の始まりは1、2と数え上げられるものではない。顔と顔を見合わせて、自分たちの力で息をそろえるのだ。

 さあ、このアインザッツ*1から、アンサンブルを始めよう。

 

 

 

 

 

 ガチャリ、と仰々しい音が鳴って、玄関が開いた。フラフラになった身体は倒れるように、家の中に吸い込まれてしまった。その様はまるでゴミが掃除機に吸い込まれるようだったが、自嘲する体力すら今は惜しかった。

 いつもであれば、どんなに疲れていてもこうはならないはずなのだが、今日ばかりは勝手が違った。汗で湿ったYシャツをネットに入れ、持って帰ってきた楽器の近くにへたり込む。

 どうしてこうも体力を使ってしまったのか、その理由はもちろん、アンサンブルにある。本当にはっきりと言ってしまえば、あの状況はかなり想定外だったのだ。そう、まさかだ。まさか、()()()()()()()()()()()()()()()

 想定外だったのは、初めて澄子と合わせた時からだ。メトロノームをつけた上でのアインザッツだったのに、いきなり入りがズレていた。さらには音程もズレており、教室に響き渡ったのはとてつもない不協和音だったのである。もちろん、和音は重ねてこそのものだが、それにしても限度がある。

 さらなる問題は、自分がそれに気がついて演奏を止めた後の彼女の態度だ。自分が演奏を止め一拍、彼女はさも不思議そうにくびをかしげて、こう言った。

――あれ、どうしたの?何かあった?あ、もしかしてむせた?

 何を問われているのか、正直よく理解できていなかったが、頭が弾け飛ぶような衝撃を受けたことは確かだった。彼女はまさか、自分が失敗したとは思っていないのか。この程度の演奏では、最後までやる意味などどこにもないというのに。

 極めつけは、先輩方が来てからだった。正直分かってはいたが、普段から然程練習していないであろう岡本先輩は特に酷かった。音色、音程、指回し、表現、何をとってもいいところがない。その上練習でも難しいと言って休んでばかりなのだから、もう本当にどうしようもない。

 晴香先輩はまだ、音色以外の点では想定通りの実力であり、この不協和音をまずいと感じているようだった。だがそれでもなお、懸念は足りていないと言える。そもそも、懸念だけでは意味がない。考えているだけで楽器が上手くなるというのなら、誰も、苦労などしていない。

 

 ふと、肺の底が持ち上がる。気がつけば、長いため息が漏れていた。

 

「どうしようも、ないな」

 

 ……兎にも角にも、ようやく開かれたアンサンブルの道が、ここまで過酷なものだとは思わなかった。こんな調子では『グラーヴェとプレスト』は絶対に吹けない。その上12月まで、この下手なバンドにずっと拘束され続ける可能性がある。なんという罰だろう。

 晴香先輩は自分に指導することを期待していたのかもしれないが、指導があってもやる気がなければ上手くならない。そもそも、後輩が先輩に指導など、気が進まないにもほどがある。

 ああ……本当に憂鬱だ。いつまでこの身体は保ってくれるだろう。

 

 

 翌朝。今日という今日も、自分の思いなどお構いもなく、部活が始まる。

 

「おはよう、鎧塚さん」

 

 いつも通り、頷くだけの彼女を横目に、楽器ケースの蓋を開ける。鎧塚さんが余り声を出さないのは、会った時から変わらない。こうした挨拶も、頷いてくれるだけで十分だと思うようになった。

 だが今日は少しばかり、自分にとっては特別な日だ。

 

「鎧塚さん、お願いしたこと、やってくれた?」

 

 再びゆっくりと頷く彼女を見て、心に少し安堵が生まれる。

 

「本当にありがとう鎧塚さん、こんなことに付き合ってくれて。おかげで、自分ももっと上達できる気がするよ。問題ないようなら、スタートは1時間後にしようか」

 

 そんな安堵は露も知らず、鎧塚さんは最後にもう一度だけ頷いて、さっさと練習に戻ってしまった。

 自分が彼女にお願いしたこととは、非常に簡単なことで、一緒にエチュードをやることだ。なぜそんなお願いをしたのかと言えば、これまで少しずつ続けてきた2人での朝練に、限界が来たからである。似たような音色のソプラノサックスとオーボエでも、ずっと同じ基礎練習ができるというわけではなかった。そもそも、シングルリードのサックスに対して、木を2つに重ねるダブルリードのオーボエでは、様々にテクニックが異なる。ずっと続けられないのも当然だ。

 ただ、限界というのはテクニック面の話だけではなく、鎧塚さんの上手さにも起因する。初めこそ見誤っていたが、彼女は上手だ。そんな彼女に、わざわざ専門外なテクニックの基礎の話をするよりも、問題である表現力に切り込む方が価値があると正直に感じた。

 だからこその、エチュードだ。エチュードは、表現力を磨くにうってつけのもので、自分にとっても練習になる。まさに一石二鳥のアイデアだ。

 ただもちろん、こんなものは断られれば終わりだ。しかし鎧塚さんは、特に何も変わった様子なく引き受けてくれた。なんといい人なのだろう。ただまあ、我ながら、自分はなんと調子のいい奴なのだろう。

 

 

 2人で吹くエチュードは、思っていたよりも上手くはいかなかった。これは練習だ。上手くいかないのは当たり前なのだが、それでもやはり問題は共通のようだ。すなわち、彼女の表現力の問題だ。

 今まではやっていた基礎練習では、表現力が求められるわけではない。だからこそ、彼女の音の良さだけを考えることができた。しかし、今回はエチュードだ。表現力を磨くためにやるとはいえ、まずはその音楽表現に取り組まなければならない。だが彼女には、表現をしようという考えがない。それはまるで、もう楽器など吹く理由がないとでも言うかのよう。

 ズキリ、と鈍く頭が痛んだ。久しぶりに、釘が釘が刺さったような音がした。

 

「……鎧塚さんは、何のために楽器を吹いてるの?」

 

 痛みに喘ぐように言葉が出た。言ってしまった。分かりやすく固まった彼女を見て、そう思った。

 

「あ、いや、その、そういうことが分かったほうが、表現力って高まるかなと思って」

「わからない」

 

 それは普段の鎧塚さんからは考えられない、素早い返答だった。怒気を含んでいて、でもそれ以上に悲しげで、どこか八つ当たりのような声色。

 

「私に、そんなこと、わかるわけない」

 

 その言葉は、口数が少ない鎧塚さんに渦巻く、静かな激情を湛えていた。周囲の何も気にしていないように見えて、その小さな身体には、津波のような波紋が溢れていた。そこでようやく気がついた。彼女は、どうしてと叫ぶように、夥しい現実にと打ちのめされるように、気持ち悪いと自嘲するように、それしかないと縋っていた。その膨大な感情ではち切れそうな体を、必死に保っていたのだと。俯いた彼女の、見えもしないその瞳が、どこか濡れているような気がした。

 ズキリ、と鈍く頭が痛んだ。いや、違う。きっとそれは、それだけは違う。これは、本当は、痛みじゃなくて――

 

「……わからなくても、君は吹いてる。ならそれは、吹くしかないってことだ。違うの?」

「……え?」

 

 ズキリ。上手く思考がまとまらない。痛みで視界が真っ赤になる。目に見えないその赤が、喉の奥からカタチを持った嗚咽になってただ漏れ出す。

 

「吹くか吹かないかなんて、練習するかしないかなんて、始めから、本当は自分にしか決める権利がないはずだ。それなのに、君はまだ続けてる。それは、君に残ったものはそれしか無いってことでしょ?なら、違うはずだ」

 

 ズキリ。自分は何を言っているんだろう。よくわからない。よくわからないけれど、これだけは、この感情だけは吐き出さないといけない。そのことだけは理解できた。

 

「理由がなくても、残されたものがそれしかないなら、やるしかないんだ。やってやって、生きるしかない。理由なんて関係ない。だって、……それしか出来ないんだから」

 

 嗚咽を吐ききったことに気がついたのは、腕に汗が垂れたことに気がついたからだった。汗なんて、いつの間に出ていたのだろう。気が付かなかった。なんとなくぼんやりと、汗が垂れた腕を見ていた。

 ただ、そんな時間は長くは続かなかった。鎧塚さんを置き去りにしていたことに、今更になって気がついたからだ。慌てて彼女に視線をやると、先ほどまでの激情は既に和らいでいた。代わりに、心底不思議そうな視線がこちらに向いていた。

 

「ああ、ええと、その、つまりは!……頑張ろうって事、かな……」

 

 しどろもどろ、お粗末な言い訳だと自分でも思う。ただ、これ以上の言葉を自分は持ち得なかった。

 そんな自分を前にして、鎧塚さんは、文句をつけるわけでもなく、逃げ出すわけでもなく、泣き出すわけでもなかった。ゆっくりと、ただ楽器を構えるだけだった。

 

「ありがとう」

 

 一言、そんな言葉を残して。

*1
楽器を動かして合図を出すこと

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