あと、チ。のアニメは見た方がいいです。
不協和音が聞こえる。耳をつんざく、そんな言葉では少し表現がぬるい音。より正確に言うならば、脳の神経を歯車にすり潰されるような音、というのが正しいだろう。
ああそうだ、この音はきっと、もうすぐ終わってしまう夏休みを嘆く、そんな心を表しているのだろう。そんな現実逃避をしてしまう程度には、この先の未来は暗いものに見えた。
だが無情にも、このような薄氷を踏みつぶす、美しさの欠片もない音楽は、今日も今日とて続けられている。
「うーん……やっぱり、ここの音程変だよね。もう一回チューニングしてみよ?」
ああまただ。また違う。言っていることが違う。晴香先輩の練習指導では、絶対に良い賞は目指せない。
確かに音程は悪いが、ここで必要なのは和音の理解だ。チューニングをやるよりも、明らかに和音の練習をしたほうがいいのに。
「ねえ晴香、ここの指なんだけど、これどうやったらいいのかな。忙しすぎて疲れる~」
どうやったらいいか、なんて、今更になって言うのだろうか。今までだって、指だけなら予習しておく時間があっただろうに、どうして態々、今更になって?やはり、岡本先輩の楽観さでは、絶対にアンサンブルは成立しない。
そもそもその部分は、余りにも基本の音階だ。アルペジオを常にやっておけば、できないなんてことにはならないだろうに。そこまで基礎力を欠いているのに、なぜ平然としていられるのだろう。
「あ、創君。楽譜のスコア*1持ってる?ごめん、今日家に忘れちゃって、良かったら見せてくれないかな……」
ふざけているのだろうか?1回1回が進行の遅い練習なのに、そんなふうに大事にできなければ、もう本当にどうしようもない。このような澄子のうっかりが続けば、アンサンブルの完成は更に遠のく。
そもそも、アンサンブルの練習でスコアを忘れてしまうなど、常識的に考えて言語道断だ。スコアを確認しながらひとつひとつ動きの練習をしていくのに、それが出来ないとなると効率はかなり落ちる。練習に参加する者としての心構えに問題があるだろう。
そんなことが、来る日も来る日も繰り返された。ずっとずっと変わらないまま、何度も何度も放物線を描いて、ただ日常だけが浮かんでは消えていった。
「ちょっとあんた、朝から何?ため息なんかついて。やめてほしいんですけど」
辿ってきた放物線から目を逸らす事になったのは、この夏休みの朝練習では、しばらく見なくなっていた人物のせいだった。とはいえ、その呼びかけが丁度良いものであることも事実だった。過去を思い出してため息をつくのは、無駄な時間だと言えるだろう。
「ああ、ごめん。吉川さん」
そう、その人とはトランペットのあの人、吉川優子さんである。名前をようやく覚えた。
「全く、さっさと練習始めるわよ。あんまり時間取らないでよね」
「あはは……、吉川さんは厳しいね」
「は?厳しくないけど。そうだよねー、みぞれ」
危惧していたこと、つまり、吉川さんが朝練に現れたのは、つい先週のことだった。鎧塚さんと練習曲を吹いた次の日くらいだろうか、急に彼女が朝練習にやってきたのだ。理由としては、アンサンブルのためだと言っていた。恐らくは、中世古先輩が主催している金管でのアンサンブルのことだろう。特段興味がないため、メンバーは特段知らない。だが、そのためという事は彼女もメンバーのひとりなのだろう。
選曲は建部知弘氏作曲の『晴れた日は恋人と市場へ!』だと聞いている。これはすごく難しい曲という訳ではなく、今からやれば表現を完璧に磨き上げることも可能だろう。このままいけば、やはり今年アンサンブルに出場するのは、彼女たちのアンサンブルなのだろう。
話を戻そう。予想通り厄介だったのは、自分と鎧塚さんが一緒に練習しているのを見た時の、吉川さんの反応だ。鎧塚さんの近くに座っている自分を見た瞬間の彼女の形相ときたら、それはそれは恐ろしいものだった。
――ちょっとあんた!みぞれにあんなこと言っといて、どういう神経してそんなことができんのよ!
今でもその表情を思い出せるのは、このおまけにしては強烈な一言と、一緒に脳裏に刻まれたからだろう。まあ、まったく正論なのだが。
吉川さんは、鎧塚さんを自分から遠ざけようとした。だが結局のところ、そうした事情は、希美がやめた夕焼けを覚えていた吉川さんと自分だけのもので、覚えていない鎧塚さんの混乱が吉川さんに矛を収めさせた。
ただ、吉川さんもそのまま引き下がることは出来なかったようで、気がつけば毎朝練習に参加することを要求してきた。強制的に。彼女の強い圧に負けた、というか従わざるを得なかった自分は、泣く泣くそうせざるを得なかったというわけなのだ。
「じゃ、早く初めましょ?」
「はい……」
鎧塚さんとの練習は、どちらかと言えばエチュードメインになっていたため、別に問題はないし、練習時間が減るというわけでもない。ので、問題はないのだが、正直吉川さんは鎧塚さんほど上手くはないし、気乗りはまあ、しなかった。
「あー、朝から一仕事した!みぞれも、しっかり休憩取りなよ?」
両手の指を絡ませて、吉川さんはぐっと伸びをした。そのしなやかな身体が左右に動く。
「というか、今日で夏休みの練習は最終日だねー。みぞれはさ、夏休みの宿題、終わった?」
「……うん」
「えー!……さっすがみぞれだなあ。私、まだまだ終わってないよお。ねね、明日空いてる?私の宿題手伝ってよ」
「……いいけど」
「やった!約束ね、みぞれ!」
姦しいというのは、こういう事を言うのだろうか。いや、それは少し異なるだろうか。話しているのはほとんど吉川さんだ。しかし、鎧塚さんも鎧塚さんで、自分の時よりもよく話している。やはり、良い人間関係を作れているようだ。
「……で、あんたは?」
楽器を静かに片付ける。練習以外で、彼女たちに関わる必要はない。会話の邪魔をしてはならないだろう。さて、今日の午前中は何の練習をしようか。『プロヴァンスの風景』の練習もいいが、午後のアンサンブルの練習を考えるに、エチュードでしっかり表現の基礎を固めるのもいい。悩みどころではあるが、とりあえずは基礎練習か。朝にもこうしてエチュードを吹いているのだから、基礎練習の時間が増やす必要があるだろう。やることは山積みだ。今日は学校でできる夏休み最後の練習だから、大事に時間を使いた――
「いった」
せっかく今日の練習について考えていたのに、急にふくらはぎの辺りにしなやかな振動が奔った。特段そこまで痛くはなかったが、つい声が出てしまった。驚いて後ろを見ると、警戒とも軽蔑ともとれるような顔をした吉川さんが、鎧塚さんの近くに立ったまま、こちらに顔だけを向けて佇んでいた。
「あんたは。って、聞いたんですけど」
「……あ、え?ごめん、聞いてなかったんだけど……何の話だっけ」
「はあ?あれで聞こえてないの?本当に?」
こちらにアピールするかのような、深く大きなため息。……先ほどため息について小言を並べられたような気がするのだが、果たして誰からだっただろうか。まあいい、話を聞いていなかったのは自分の方だ。
「宿題よ。夏休みの宿題。あんたは終わったの?今日で夏休み最後の部活でしょ?だから聞いたの」
「ああ、そんなことか。もう先月には終わったよ」
「……え。あんた、そういうのちゃんとやるタイプなんだ。ちょっと意外」
「意外って……。まあでも確かに、楽器をやるには邪魔だからね。だからさっさと終わらせたんだよ」
率直な問い、率直な返答。意外と思われているのは少し心外だが、よく考えれば、彼女とは同じクラスでも何でもないし、たいして話したこともない。そう思われること自体はありえないことではない。
「ふーん……。ま、流石にあんたは明日のみぞれとの勉強会には誘ってあげないけどねー。ね、みぞれ」
「……?私は別にいいけど」
「え?」
「ああ、ごめん。明日は名古屋の先生のところに行くから、そもそも参加はできないかな」
「え、いや、その、突っ込みどころはいっぱいあるけど……。そう……なのね。が、頑張って……?」
いつも通りの朝だ。放物線の上り側。日が強まっていくにつれて、下り坂になる。いつも通りの毎日の、ほんの少しの普通の時間。願わくば、下るだけの時間が早めに終わってくれますように。
「うーん、やっぱり入りの意識が足りないよね……。さっき4人の基礎練習でやった通り、みんなでしっかり音程とブレスを合わせて。もう1回やるよ」
まあ、現実というのは正直なもので、そんな願いは届かない。
練習というのは恐ろしいもので、出来ない箇所があればあるだけ続く。出来ても続くのだから、それ自体は当然だ。だがこのように実りがなければ、そこに全く意味はない。意味はないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
「もう1回」
ただただ、時間だけが過ぎる。
「もう1回」
過ぎる。
「いいって言うまで続けて。いくよ」
今日もただただ、時間だけが過ぎていく。
「……いったんそこまで。うーん、やっぱり、指揮者がいないって難しいね。アインザッツだけだと、中々意識が揃わないや」
ただ、過ぎていくだけの時間にも、限りはある。晴香先輩も、そのことはよくわかっているのだろう。その額には、巡らせた思いを感じる冷たい汗が流れている。
この、夏休みという時間のあるステップアップの時期に、我々はどこまで進歩できただろうか。そこから逆算すれば自然と、本番までに完成するかどうかが、よく理解できるというものだ。まあもちろん、わかっているだけではどうしようもないが。
いったん休憩で。晴香先輩がそう言った。すると直ぐに、岡本先輩の雑談が聞こえる。それ自体は問題ないのだが、最も練習すべき人物がそうしないというのは、反感を買うことが少しは考えられないのだろうか。まあ、先輩に意見など、出来ようもないが。
この光景も、1週間も経てば考えることにすら疲れてくる。せめて自分の時間だけは大事にしようと楽譜をめくる。明日は先生と会うのだから、練習を重ねておく必要がある。
「ねえ、創君は……どう思う?アンサンブル。練習って、どこが足りないかな?」
ふと、空気の流れが止まった気がした。肌に触れる様な視線が、思いのほかくすぐったい。
晴香先輩が、自分にその役割を求めているのは、薄々感づいてはいた。先輩が練習指導をするたびに、少しためらうような視線がこちらに飛んできているのは、意識を割かなくても理解できたからだ。先輩としては、ためらうのも当然だろう。いくら自分の方が上手いとはいえ、自分は後輩で、この部活は世代間トラブルがあったばかりだ。いくら先輩が1年生側だったとして、トラブルがあったばかりのこの部活では、それを信じろと言う方が無理がある。最も、自分が練習指導を今までしてこなかったのは、世代問題だけでなく、シンプルに自分が練習できる場所さえあればよかったからなのだが。
「このバンドで一番上手いのは、間違いなく創君だって、この場のみんなが理解してる。だから、ぜひ意見を聞かせて欲しいなって……だめかな?」
「……そうですね」
さて、何をどうしようか。ここまでおぜん立てをされたのであれば、少しくらい助言をしても許されるのではないだろうか。皆、ここに集まっている以上、少しはやる気があるという事だろうし、技術が上がれば上がるほど、曲を変えたときに楽になる。
「では、とりあえず音楽表現について1つだけいいですか?まず、最初の部分はグラーヴェですよね?自分としては、速度記号的な意味だけでなく、発想記号としての意味も重要にするべきだと思ってます。なので、ここはもっとグラーヴェらしさを出す表現で、全体をまとめていくのがいいんじゃないでしょうか?」
正直、このバンドは表現をしていく場面に入ってはいないが、まずは全員の意識をまとめていかなければ始まらない。もちろん、譜読みは基礎中の基礎だ。グラーヴェの意味くらいは全員把握しているだろうが、それをより意識させ、すり合わせていかなければ、タイミングなどずっと合わないままだ。
「そ、そっか。確かにそうだね。そうやってまとめていくんだ。ありがとね、創君」
晴香先輩の安堵が、こちらにまでわかりやすく伝わってくる。まだ安堵するには早いと思うのだが、本当に大丈夫だろうか?まあともかく、意識が変わってくれるのであれば良しとしよう。
「は~い、質問質問。グラーヴェの意味って何?」
「――は?」
その岡本先輩の言葉は、先ほどまでの前提すら簡単に覆した。
「あ、実は私も……普通の速度記号だと思ってて……」
学校に忘れるというほどには、その程度には譜読みをしていたであろう澄子まで、その岡本先輩を支持した。
これは、なんだろうか。ふざけているのだろうか。その程度で、よくもまあアンサンブルコンテストに出るなどと言えたものだ。
ふつふつと、今まで抑え込んでいたものが、胸の奥からこぼれ出すのがわかる。怒りたいわけではない。それは絶対にそうだ。自分だってまだまだ奏者としては半人前がいいところなのだから。
なら、ならそれでは、こうして無駄にされた自分の時間はどうなるのだろうか。ソロコンテストを控えた重要な時期に、こんな無駄にずっと付き合わされる自分が、余りにも報われないではないか。
「ああ、それは、ですね荘重に、とか、そんな意味で――」
いや、まて。自分は、なんでこんな事前に調べておけばわかることを、わざわざ説明しているのだろう。こんなことは、馬鹿らしいのでは。こんな、やる気がない人たちに付き合うほど、自分の時間は、安くない。
「――やっぱり、やめませんか?こんな無駄なアンサンブルなんて」
初めて、自分にも優しくしてくれた皆の表情が、凍り付いたような気がした。夏にはふさわしくないような不思議な感覚。だが、まあ、それも丁度いいだろう。もう今日で夏休みも終わるのだから。さっさと冬に向かう方が、猛暑にも少しはありがたみがあるというものだ。
「ちょっと、無駄って。後輩、それはどういうこと」
「そのままの意味です岡本先輩。こんな状態で、この程度のやる気でアンサンブルを続けていても、全く意味なんてないと思います」
「そんなの、やってみないとわからないじゃない」
「そうかもしれないですね。でも、そうじゃないかもしれない。自分個人の感覚ですが、このままずっと続けることに意味があるとは思えないんです。だって、譜読みもできない、指も回せない、練習もしない。これでどうやって上手くなるんですか?もう夏休みは終わります。一番上手くなれる時期は、もう終わるんです」
ああ、良くない。本当に良くない。よくないことはわかっている。こんなことを言っても何の解決にもならない。自分の立場を弱くするだけだ。先輩たちが上手くなると、自分が上手くなることには何の関係もないのだから、こちらがのらりくらりと躱せばいいだけだ。そうとわかっているのに、理性が上手く働かない。ああ、この部活に入ってから、こんなことばっかりだ。
「確かに、私が下手なのはそうかもしれないよ。だとしても、そういう言い方はないでしょ!それは、あんたが上手いってわかってて指導をしてる、晴香に対しても失礼じゃない!違うの?」
「は、創君、ごめん。私も全然音楽わかって無くて、謝るから、いったんここは落ち着いて、ね?」
岡本先輩の怒声と、澄子の謝罪、そのどちらもが、耳に入ってくる。それなのに、不思議だ。こんなにも頭が受け入れるのを拒否してくる。
「晴香先輩、言いましたよね。自分は今年、アンコンのすぐ後にソロコンがあるんです。そっちのためにも練習をする必要があるって。先輩だってわかってるはずです、このままじゃ上手くいかないことは。なのに、晴香先輩は、曲の難易度を落とすようなこともしない。成功できないのが明白で、なら、自分がここにいる意味って何ですか?」
「藤原!」
自分の声をかき消しすように、岡本先輩の怒号が木霊した。その間も、晴香先輩は、俯いてずっと黙ったままだった。
……言ってしまった。これでは、もう引き返せない。最悪な人間だと思われただろう。失礼で、弱くて、愚かな人間。それがきっと、集団に背いた自分への評価だ。最悪、部活をやめることになるかもしれないなと、頭の中でごちる。
本当に、この部活に入ってから、おかしなことばかりだ。自分はこんなに感情的な人間だったのだと、知りもしなかった。知りたくもなかった。
「あのね、創君、」
「――ともかく、この状況が改善されないようであれば、自分はアンサンブルをやりたくありません。サックスなら三重奏でも、他の人とやる四重奏でも、なんなら五重奏でも、他にいい曲はたくさんあるはずです。そっちを当たってください。失礼します」
何か話そうとしている晴香先輩の言葉をすべて遮って、席を立った。岡本先輩が引き留めようとしているような声がした。けれども自分は、そんな声すら無視をして、ひとりで練習に向かうことにした。
ひとりで歩く廊下は、夕焼けを浴びて、自分の影を濃くはっきりと映した。その日はもう、誰とも会うことがないまま、ただひとり影に溶けるように、家に帰った。