「ねぇ、昨日部長と喋ってたバリトンの人ってあなただよね?」
翌日、任命されたバリトンサックスを持って登校した自分を待っていたのは、突然前の席の人から話しかけられるというよくわからない状況だった。改めて前の人を見ると、その腰付近まである髪の毛を片側だけ上に上げ、お団子状にまとめており、もう片側は髪の毛を肩まで流しているのが特徴的な人だった。その雰囲気は、ものを憂うような儚さと美しさのどちらもをまとっている。こんな女性と知り合いだっただろうか。
とはいえ、昨日の音楽室での楽器決めの状況を知っているという事は、彼女もそこにいたという事だろう。あの中で見覚えのありそうな人を探さなくては。そう考え、数瞬のフリーズを経ることで、自分はようやく彼女が何者かを思い出した。自分と同じ新入生で(これは同じクラスだから当たり前だが)テナーサックスを吹いていた人だ。
「あ、えっと、もしかしてあんまり覚えられてないかな……?」
そしてようやく自分が彼女のことを思い出したはいいものの、気が付けば相手に不安を抱かせるには十分すぎる時間が経過していた。目の前の彼女は、告げる言葉も顔も態度も、全部がしょぼくれているような雰囲気を既にまとっているのだった。流石に、急いで返事をした方がいいだろう。
「いや、ごめん。少し驚いてて。えっと、テナーサックスを吹いていた……?」
「そうそう!覚えててくれたんだ!改めて、私は平尾澄子。おんなじクラスの後ろの席にまさかサックスパートの人がいるなんて思わなかったよ。嬉し~な~、おんなじサックスパート同士これから頑張ろうね!」
今度はさっきとは真逆だった。そのすべてから喜びのオーラを放出している。それを表すかのように片側に寄せた髪の毛が笑顔になることで左右に揺れた。フリーズしてでも彼女のことをしっかりと思い出した自分に感謝をした。喜んでくれるのであれば、それ以上のことはない。
「ねぇねぇ、さっそくなんだけどさ、あなたってどのくらいサックス吹いてるの?昨日吹いてたアルトの音、正直めちゃくちゃ綺麗だったよ!」
そう自分が喜んでいると、彼女からさらなる疑問が飛んできた。どうやら、自分のパーソナリティに興味があるようだ。時計を見ると、まだ始業まで時間がある。ならば、せっかくの機会を活かして彼女と雑談をすることにしよう。少しだけ話に入りたそうにこちらを見ている後藤のことは無視をして、になるが。
チャイムが鳴る音がすると、今日の授業の終わりと夜の始まりを意識させられるような気がする。なぜならそれは、楽器の練習が始まることの合図だからだ。不思議な感覚だと自分でも思うものだが、これは中学時代の経験に依拠するのだろう。中学時代は、帰るのが夜になるのはそこまで珍しいことではなかった。冬になると特にそうで、17時になると日が落ちてしまうのが全く珍しいことではなかったのに、それ以降の方が練習時間が多かった。だからこそ、チャイムと部活、部活と夜といったような連想ゲームのような区分けが自分の中に生まれたのかもしれない。
ともかく、今日はパートの顔合わせや初めての練習が行われる日だ。遅れないようにしなくてはならない。家で勉強するようにノートなどの整理を終えて鞄を背負うと、いつの間にやら普通に話す仲になっていた後藤と澄子(本人がこう呼ぶようにと言っていた)から声をかけられる。どうやら準備の遅い自分を待っていてくれたようだ。返事をして廊下の外にいる彼らのもとへ向かうと、そこには想像だにしない景色が広がっていた。
「あ、君が最後の同じクラスの吹奏楽部員?よろしく!私フルートの傘木希美。みんなで部活盛り上げられたらなーって思ってるから、同じクラスの人と一緒に部活行きたいなと思って声かけたんだ」
そこにいたのは自己紹介で印象に残った女性だった。今日はきっと、“いきなり話しかけられる日”なのだろう。相変わらず急な出来事には慣れないなと、驚く体に反していやに頭は冷静だったものだから、その硬直が解けたら直ぐに答えを返すことができた。といっても、自己紹介程度のことしかできなかったが。
そうして4人で音楽室へ向かうことになったが、結局のところ自分と後藤が並んで歩くことになった。それはつまり、澄子と希美(こちらも本人がこう呼べと言った)の後ろについて、話を振られたら話すような形態だ。自分も後藤も寡黙な方だという自覚はあり、この状況を気にすることはない。ないのだが、4人で音楽室へ行っているはずなのに、不思議と昨日も見た光景だなと思ってしまった。主に後藤が大きいせいかもしれないが。
そして、そんな我々とは真逆に傘木希美は話が非常に上手だった。話には綺麗な抑揚が付き、澄子とは違った形で表情がコロコロ変わる。1つの技術といってもいいようなものを、彼女の話し方からは感じることが出来る。そんなことを考えていると、再び我々寡黙どもに話が回ってきた。どうやら、楽器を所有しているかどうかについて聞きたいらしい。
「南中って、フルート買わないとやらせてもらえなかったんだよね~。2人は?」
「俺はチューバだから、流石に買えない。学校のを使ってた」
「あ、そういえば創君は昨日吹いてたあれ、自分のアルトだよね?他にも持ってたりするの?」
後藤が先に答え、それに続いて澄子が疑問を重ねる。自分も、この空気に慣れてきたようだ。ひとえに彼らのつくる居心地の良さのおかげだろう。
「自分は一応、吹奏楽で使うサックスは家にあるよ。今持ってるバリトン含めて、ソプラノとテナーも。といっても、お金持ちの家という訳じゃなくて、両親ともサックスが好きで、その流れでだけど」
留保したとはいえ、4本も楽器を持っている家というのは流石の吹奏楽部員でも珍しい。3人とも、話をする前と比べて目を輝かせているのがわかる。
「そっか、だからさっき小学生の時からサックスやってるって言ってたんだね。お父さんとお母さんの影響って大きいもんね~」
そんな中、澄子が投下したのはガソリンだった。小学生から楽器をやっている人も高校の吹奏楽部でなかなか珍しいからだろう。大体の人は、中学の部活解禁から楽器を触り始めるものだからだ。他の2人の興味の視線はさらに強くなった。というか後藤、お前もか。
そうこう話を続けている間に、気が付いたら音楽室についた。この後はパート練の場所を教えてもらったり、1年生全体の係決定したりなど、1週間で様々なスケジュールが入っているようだ。少しだけ、新しい何かが始まるような予感がして、扉を開いた。
しかし、自分たちを待っていた現実というものは、北宇治高校吹奏楽部のこれまでの演奏を聴いていれば十分に想像できうるものだった。そもそも、予感というのはあくまで現実のものではないことを、きっと見落としていたのだろう。
それぞれどれほど期待していたかはともかくとして、吹奏楽部1年生が抱いていた希望は割とすぐに打ち砕かれることになった。自分の場合、まずその第1がパート練についた時だった。
パートリーダーでもある上野先輩に連れられて、今年サックスパートに入る自分含めた4人は音楽室とは真反対の教室に案内された。
教室に入って一瞥、得たものは『この学校におけるパート練というのは、きっと何か友達同士の秘密の暗号のようなものであって、練習することは表さない』という理解だった。教室にいるほとんどの人が1つの机を囲んで駄弁っており、その小脇にはお菓子がある。おそらくは
「あ、久しぶり!」
感じた空気の悪さを払拭してくれたのは、その一団とは少し離れたところから発せられた声だった。あの顔は確か、小笠原晴香先輩といったはずだ。自分が上野先輩に話しかけられていたところで、バリトン一緒にやろうと言ってくれた先輩だ。彼女のあいさつに対して会釈をする。
顔を上げて彼女の方をよく見ると、そこには小集団が存在した。楽器を持ち譜面台を目の前に置いているという事から、廊下に聞こえていた音は彼女たちのものであることがわかる。さしずめ、真面目に練習したい人と部活のメンバーと遊べればいいという人で対立があるといったところだろうか。確かに、部活の目標が全国大会出場でありながらあの演奏をしていたちぐはぐさや、顧問の梨香子先生の持つ雰囲気からして、こういった対立は起こりそうだ。
「じゃあみんな、1年生来たから自己紹介しよっか」
背後にいる上野が声を出すと、駄弁っていた集団もこちらに興味を示したのか。テキパキと自己紹介の場が整えられる。自分たち1年が準備に参加する間もなく、気が付けば席に案内されていた。
自己紹介は上級生から始まった。駄弁っていた集団と、練習していた少しの人たち。おそらく仲が悪いとまではいかなくとも、決して良くはないんだろう。一人一人名前や趣味や担当楽器を言う中で、すぐにそれが判明するのは、部活という人間関係の距離の近さゆえだろうか。
3年生が終わり、2年生が終わり、遂に1年生の番が回ってきて、それは起きた。
「若井菫です!アルトサックス配属になりました!私、1年生ですけど高校でも頑張ってA編成に入って本当に全国大会行きたいです!よろしくお願いします!」
恐らく彼女は気づいていないだろう、一瞬だけ空気が凍ったことに。ただその空気も、彼女が好きなバンドについて語り始めると、すぐに溶けて全員がその話題に乗り始めた。
きっと、自分が抱いた感覚が杞憂ではないことを悟りながら、せめて大きなトラブルが起きないことを祈った。自分はどういう環境であっても、練習さえできればよいのだから。