朝、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ます。時刻は朝の4時59分、恐らくあと一分もしないうちに目覚ましが鳴るだろう。
ベッドの中から視線だけを動かし、壁にかけてあるカレンダーを見る。叔母が他の会社からの挨拶でもらったと言っていたものだ。そこに書いてあったのは、ゴールデンウィークが明けたことを示す学校開始の赤丸だった。そしてその学校開始の赤丸は、きちんと今日についている。
体を起こし、カーテンを開ける。5月にもなると、差し込んでくる日差しが段々と強くなるのを感じられる。白む視界は自分が眩しさを感じている証拠だ。そのまま窓を開けると、視界の白が増える代わりに、身にまとっていた重たい空気がどこかへ行って、心地よさが運ばれてきた。
リリリ、リリリ。リリリ、リリリ。
……などと考えていると、遂に目覚ましが騒ぎ出した。クラシックは吹いているので聞き慣れているが、目覚ましのような音はどうにも好きになれない。嫌に耳に残るせいで、聞くたびに耳を痛めているような気さえしてくる。ただやはり、時間は無駄にできるものじゃない。しっかりと毎朝起きるためには、多少は気苦労も必要だ。
30分程度で朝の支度を終えると、そこから朝の日課を始める。いつも通りのブレストレーニングやマウスピースで音を鳴らす。どうやら、今日の調子はそこそこらしい。だが調子の上向く、上向かないはかなり繊細な問題で、気にしても始まらないものだ。
「根気強く付き合うことが成功への近道でしょう」と、時間確認のために付けたテレビも自分を後押ししてくれる。
気を取り直して楽器を組み立て、ロングトーンを始めることにする。自分が出す音の輪郭を決定づけるように、なぞるように、だが縮こまらず吹いていく。地道ではあるが、その地道さも含めて芸術なのかもしれない。一応、朝っぱらからうるさい、と言われないように、この小部屋には自家製で買い集めた防音設備を搭載してある。まあ、実際効果があるのかどうかは、隣人のさじ加減になってしまうが。
そうして基礎練習をしていると、そろそろ6時半になる。楽器を片付け、学校へ行くべき時間だろう。
登校時間というのは、存外馬鹿にならないと自分は思う。教科書の入ったカバンと楽器のどちらもを担ぎながら、只々ひたすら道を歩いていく。
この歩いて登校できるという状況は自分にとって重要だった。それは自分が北宇治高校を選んだ理由の1つでもある。なぜなら自転車通学では、楽器を運ぶことができない、訳では無いが、ぶつける危険が常に伴う。これは両親からもらった大切なものだから、なるべくそういうことは避けたい。それに、“近い”ことは大きなアドバンテージに繋がるのだ。この少し早い時間での登校には、即ち意味がある。
北宇治高校吹奏楽部は、サンライズフェスティバルを前にしてよりその状況を悪化させていた。不仲の理由が理由なだけに、縦社会の影響が強い吹奏楽部ではそれは中々平静になるものではなかったのである。
そんな中、痺れを切らした他の1年生が直接梨香子先生に談判を行ったのである。結局のところ、部活の雰囲気は悪くなっただけで、大した効果はなかったみたいだ。彼女たちを見ていると、ある意味では空回るというのはこういうことかと合点がいくような心地になる。そんな姿を見るのは、特段愉快なことではないのだが。
そんな中でも、得になることが1つあった。それこそが朝練の解禁である。
元々梨香子先生に変わった時から朝練のシステムは許可されていたようなのだが、部活のやる気に影響され、そのまま廃れていただけのようだった。梨香子先生はどうやら「仲良くが一番だから、とりあえずやる気ある子は朝練がんばってみよ」という考え方のようだ。
こうして実際に対案を提案した梨香子先生に対して、彼女たちは食い下がれなかったようだ。結果的に自分が朝練をできるようになったので、彼女たちには感謝しかない。
そう、つまり登校の意味とは朝練だ。松本先生がいらっしゃる7時から始まる朝練。そのために普段なら家で練習する時間を使って学校へと歩を進めている。家でおよそ1時間、学校でさらに1時間半ほどの練習は実に貴重だ。家では吹けない音量での練習も、学校でなら可能だ。こういった役得のために吹奏楽部に入ったのだ、活用以外に道はない。
そんなことを考えていると、日の光を遮ってくれていた並木道がすっかりと開けてまたもやまぶしい光が降ってきた。どうやら学校についたようだ。小高い丘の上に立つこの高校は、この並木道のおかげで日差しがある程度遮られている。とはいえ、この分だと夏は暑そうだ。しっかりとタオルを忘れないようにしよう。
音楽室についたのは、どうやら自分が一番乗りではなかったらしい。鍵の開いている教室に入ると、おはようという声が響いてきた。先客は2人。どうやら1番乗りではなかったみたいだ。彼女たちは確か、同じクラスの傘木希美と、もう一人はオーボエの鎧塚……さんだった気がする。
「学校始まっても早いね~藤原君。私達もさっき着いたところだよ」
「ありがとう。でも、希美達のほうが早いから、自分は全然だよ」
希美の言葉を軽く受け流して、音楽室の端に座る。恐らくあと30分もすれば、先生に直談判した彼女たちも来るだろう。せめて邪魔にならないように、自分は端の方で吹くのである。ただまあ、音量を下げることはできないが。
カバンの中から、何度も繰り返したせいで汚れている教本を取り出す。基礎練習をもう少しやったら、早速この教本のエチュードに取り掛かろう。
◆
「はい!そこ歩幅揃えて〜。1年生頑張ってね〜」
やる気のない声が響く。先週から始めた行進の練習は、どうやらあまり効果がないらしい。それも当然だろう。誰も彼もがサボタージュ、むしろ行進しているだけ普段よりマシ、そもそもこの部活はそんな状態だったはずだ。
そうやって一人、中川夏紀は校庭でごちる。初心者である夏紀は、北宇治高校特有の「謎ステップ」に悩まされながらも、この練習をサボらずにいた。というのも、いつもはサボっている3年たちもこの練習に限っては最低限練習の意思を見せていたからだ。こういう集団お得意の
とはいえ、それでも練習はスパルタというわけでもなさそうだ。なんだかんだと休憩時間は用意されていた。とりあえず座ろうと思って日陰のある石垣に腰を下ろした。そのまま片耳だけイヤホンをつける。これも、ここでは許されたことだ。と、音楽を聴いていると急に声をかけられた。
「ごめん、楽器を日陰に置きたいから隣座って吹いていいかな」
「え、あ?……まあ、大丈夫だけど」
そいつはありがとうとだけ返すと、夏紀の隣に座った。なんとなく気になって、夏紀は隣に座った男を見る。帰宅部でそこまで人間関係に頓着してなかった夏紀にとって、吹奏楽部は人と人との関わりが多い場所だった。顔と名前がなかなか一致しない。
なんとも間が悪いことに、まあいいや、と視線を外した瞬間に名前は思い出さなかったが、少なくとも彼がどんな人間か思い出した。確か菫が言っていた「べらぼうに楽器が上手い」とかいうサックスの人間だった。なんならおんなじクラスだったような気もする。
そんなことを思い出してしまったものだから、夏紀はなんとなく隣の男が気になった。あんなにも情熱を持って取り組もうとしてる同級生がそこまで言う人物とは一体どんな人物なのだろうか、と。
「ねぇ」
しまった、と自分でも思った。大して興味もないのに話しかけても、お互いに得なんてないことを自分が一番知っているのに。そう思った時にはもう遅く。そいつは不思議そうな顔でこちらを見ていた。その宝石のような純粋さをもった目を見ると、逆にどこに焦点があっているのかわからない遠くを見るような目をしている気がして、少し話すのが躊躇われた。だがまあ、なんとなく惰性で会話を続ける。
「アンタって、毎日どのくらい練習してるの?」
「そうだね……、まあまちまちだけど毎朝5時半にはやってるかな。まあ、後は出来るだけ部活に残ってってくらいだよ。月2回くらい名古屋の教室には行ってるけど、とても大した量じゃないよ」
あんまりにも淡々と言うものだから、自分の耳を疑った。毎朝5時半に起きるなどと夏紀とは正反対な生活も良いところだ。夏紀からしたら鳥肌が立ち寒気がするようなガチガチの生活に対して、ついつい口を挟んでしまった。
「そんなに楽器やって、将来何になるつもりなん?」
すると、そいつはまた驚いた顔をして、少し考える素振りをして答えた。
「まあ正直何にも決まってない、それに、やりたいことがあるとも思ってるわけじゃない」
けど、と付け足すように夏紀の方を見てイヤホンを指差す。
「ロックって、それが何に対してだとしても、本気でやってるからロックなんだと思うけど、どうかな?」
なんて、最悪な綺麗事を口にした。
「なんて、自分自身それでサックスに取り組んでるわけじゃないけどね」
それじゃ、と困ったような小さな笑みを浮かべながらそれだけ告げて、そいつは夏紀の目の前から消えていった。これは、喧嘩を売られたのだろうか。近寄り難くてけんかを売ってきた意味分かんないやつ、名前も覚えてない多分特別なそいつとはなるべく関わらないようにしようと決めて夏紀は今の出来事を忘れるよう心がけた。
ただなんとなく、夏紀の心にはその言葉がもやもやとなって残ったのだった。
有名な話ですが、吹奏楽では基本的にドレミファソラシドではなくドイツ音階を利用します。作中で良くチューニングべーなどの言葉が使われるのはこのためですね。これには、各楽器がドの音を出した時にドイツ音階で出る音が違ったりすることも影響しているのかなと思います。ちなみに、ピアノはドの時にツェーの音が出るC(ツェー)管で、アルトサックスはEs(エス)管などの違いがあります。