北宇治高校新1年生吹奏楽トランペットパート所属、滝野純一は憂鬱だった。理由は簡単だ。意気揚々と入部した吹奏楽部が、入部したばかりだと言うのにいきなり座礁手前だからである。もちろん、吹奏楽部という場が余りにもトラブルばかりだというのは、彼の中学時代からの経験上わかっていたことではある。しかし、夏に入る前から既に何人もの人間がトラブルを起こしまくっているのは、そう簡単にお目にかかれる事態ではない。しかもそれが、余りにも強気な同年代というのだから尚更である。
大吉山北中学校、通称北中に通っていた滝野純一は、3年生に反抗する同年代があの南中の出であることを知っている。そして彼女たちが、府大会銀賞という結果で終わったこともだ。知っているからこそ、彼女たちの思いに共感が出来てしまう。だがそれは、共感以上のことを滝野自身に許さなかった。なぜなら滝野は、ある程度のんびりやる部活の素晴らしさもまた、理解できてしまうからだ。
北中は決して、強豪校というわけではない。勿論、例外もいるが。そう、あの楽器の上手さだけでなく気の強さまで部内でトップだった黒髪で美人で頑固なトランペットの後輩だったような気がする人間だ。コンクールメンバー選出の時、常に1stの座を奪い取っていったあの少女を、滝野を2ndで留まらせ続けたその強すぎる双眸を、滝野は忘れることはないだろう。というか若干トラウマだ。
ともかく、支部大会出場を目指していながら実際は府大会銀賞で留まるような、そんな“現実”の味を滝野はよく知っている。そしてそんな、程よく厳しく程よく緩いような、そんな“ありふれた”吹奏楽部の楽しさを、よく知っている。だからこそ、北宇治高校吹奏楽部の現在の運営方針も、少なからず理解できる、できてしまう。だからこそ、きっと滝野は何もしないことを選ぶだろう。後悔するかもしれなくても、そもそもあんなに強気になれやしない。特に吹奏楽部では。吹奏楽部男子の権力向上を求める。
それに、そもそも滝野は中世古先輩がいるからこの部活に入部したのだ。吹奏楽部に、否、学校全体のマドンナである中世古先輩、彼女の勧誘を断ることは滝野には不可能なことであった。告白したなら、付き合ってくれないだろうか。ただし、その夢を阻もうとしてくるのがまさかの同級生女子でありそうなことを、滝野はまだ知らない。
「滝野、後藤、自分はそろそろ行くよ」
「ん、ああ。またな、藤原」
吹奏楽部男子は固まる。それは、そこでだけは人間関係のルールを同性のものに戻せる唯一の場所なのだから。今話しかけてきた男、藤原創もそうして固まった人間の1人だ。同学年男子組、などと上級生から呼ばれているが、ちょうど3人で集まってしまったのだから、さもありなん。それよりも、1年生3兄弟などと呼ばれている方が、滝野には衝撃が大きかった。なんでもその理由は『後藤、滝野、藤原の順で身長が小さくなっていくから』らしいが、断固反対である。どう考えても末っ子の後藤やひとりっ子の藤原よりも、妹のいる滝野の方が長男に向いている。決して後藤なんかではない。
なんて、きっと練習するために去っていっただろう藤原の背中を見て考える。そうしてその背中が見えなくなった頃、静かに大盛りの弁当を食べる後藤に向けて、滝野はふと話題を作ってみることにした。
「なあ後藤」
「ん」
「……やっぱり、藤原ってなんか距離遠くね?」
そう、滝野を悩ませている問題は1つではなかった。先ほど去っていった友人についてだ。……なんて、実は友人であると思っているのは滝野だけという可能性も、捨てきれないところがあるのだが。
サックスパート所属の藤原創。彼は一瞬の演奏で、部活の中で誰が上手いとか下手だとか、そんな誰もが少なからず持つ透明なものさしを、尽く破壊しつくした。そもそも、彼の前でそのものさしを取り出すのは、余りにも世間知らずで滑稽だからだ。彼はそんな奇異と羨望の視線など、どこ吹く風としてただ楽器を吹く。彼はこんな高校にいるのがおかしなくらい、音色も、ストイックさも、何もかもが違いすぎた。余りにも違いすぎて、一月もすると誰もが彼を別の生き物として認めてしまった。そして気がつけば、誰もが彼を外した新品のものさしをもって、新しい縮尺を使うようになった。
実際、部活が始まった初めの頃は、話題の一部に彼がどんな人間か、なんてものがあったのだ。当然それに伴って、噂話もいくつか聞いた。曰く、月に2度休むのは有名な先生から個人レッスンを受けに遠出している。曰く、ピアノも上手い。曰く、カレー屋で超激辛をすごく美味しそうに食べていた。曰く、小学生の頃に全国規模のソロコンクールで中学生を抑えて金賞を取った。曰く、曰く、曰く。中には聞くに堪えないものもあったのだが、滝野には彼の楽器へのセンスと情熱が、きっと噂に違わないものだと感じられた。
ただまあ、そんな噂も、サンフェスが終わって同級生の状況が落ち着いた頃には次第に話されなくなっていった。理由は単純、藤原創という人物が部にとって余りにも異物だったから。全国金なんてスローガン、誰も達成できるなんて思ってない相応の努力もないこの部活には、彼は宇宙人も同然だった。そのクセ、彼自身積極的に人間関係を築こうとしないものだから、どんどん関わる人が減っていった。
それでも滝野は、なんとなく気になるときだけ話題にするその空気感が嫌で、付き合いを続けることにしている。元々男子3人で集まったことから続いた縁を切りたくなかったのもあったが、そこで生まれた空気感が悪くないものに感じられたのだ。滝野が喋って後藤が反応し、更に藤原が反応するというような、独特のリズム感は、存外心地よい響きを生んでいた。
意外と気に入っている関係だし、藤原も笑ったり共感したり、練習が大変なのによく付き合ってくれるなとも思ったりする。だのに、滝野はどうしてもその笑顔だったり共感だったりが、自分じゃない別のところを向いているようで、帰ってくるやまびこのような遠さがあるようで、ならない。他の人との関係を見ても、どことなく不安になるような、そんな
「まあ、藤原は音大行きたいみたいだし、忙しいんじゃないか」
「それはそうだよなぁ、俺進路なんて全く決まってねーのによく考えてるよ」
「それに、まだ京都に来たのも、顔合わせたのも2ヶ月くらいだし、そういうものだろ」
「そうかぁ?俺にはあいつが結構京都を楽しんでるようにも見えるぜ?てか、仲良くなんのに2ヶ月かかるのはお前の基準だろ後藤」
などと言いながら、後藤の言う事にも一理あるなと考えて、このささくれのような違和感に、滝野は蓋をすることにした。
◆
中間テストが終わったあとは、長い部活の始まりである。少しの気だるさと、触れてなかったトランペットがどれだけ下手になっているか考える憂鬱に、涙が流れるような気持ちになる。決して徹夜からくる眠気との戦いの結果などではない。
「あ、そういえば」
中間テストが終わったということは、つまり祭りに近づいているということではなかろうか。急いで滝野がスケジュールを確認すると、あがた祭りの開催時期はすぐそこに迫っていた。そして、完全にそれを忘れて誰とも予定を合わせていなかったことにも気がつくことができた。何たるミスだろうか。これでは中世古先輩にデートを申し込もうにも、窓口が終了しているだろう。
誰と行こうかなんて考えて楽器室の扉を開けると、そこには閃きの源泉が湧いていた。そうだ、野郎ではあるが、これを機に3人で祭りでも行けば、藤原に対する違和感も拭えるだろう。ついでに京都の魅力について解説してやれば、誰にとってもWin-Winな最高の祭りの出来上がりだ。なんと素晴らしい閃きだ。だが無情、そんな素晴らしい閃きの源泉には毒が流されていたようだ。後藤の裏切りという毒が。
「滝野、少しは落ち着きなよ。今のところ、自分は全然行けると思うよ」
笑顔で言う藤原の姿を見るに、まだ毒に染まっていない部分は残されていたようだ。危ない危ない。さて、流石に男2人というのもなんだし先輩でも誘ってみようか、いや女子の集団に混ざるのもありか――!
「おはよう、後輩男子3兄弟」
滝野の邪な思考は、急な乱入者の手によって乱された。真後ろからかけられた声に、すぐに振り返ると、そこにいたのは部長である上野先輩だった。
「おはようございます部長!」
上野響部長、サックスパートのパートリーダーでありながら部長でもある。大きいリボンをつけた同じパートの某が、「部長は何もしてくれない」と愚痴っていたような記憶があるような気がしたが、滝野には関係ないことである。なぜなら、160cmくらいの身長に、伸ばされた髪の大人っぽさ、中々な主張をする胸には、男性を引き付ける魅力がばっちり備わっているからである。加えて、我々1年生に優しくしてくれて楽器も普通に上手いとなれば、まさに理想的な先輩と言えるだろう。きっと、他の3年生に反抗することを頑張りすぎたがゆえに、こういう素敵な先輩がいることを見逃してしまっているのだ。なんという罰当たりな。
「3人共、何の話ししてたの?随分楽しそうにお話するね」
「上野部長、聞いてくださいよ!後藤が裏切ったんですよぉ!」
流石の後藤でも、女性であり先輩である上野部長には手が出せまい。裏切った罰を受けるが良い。
「へー、後藤君の彼女かぁ。部内?当てて良い?」
「ぶ、部長、勘弁してください」
「部長!やっちゃってください!」
「あはは。冗談だよ、安心して後藤君。無理に聞きはしないって。でもまあ、先輩に教えてくれても良いんだよ?」
なんと吹奏楽部らしい会話だろうか。入部早々内輪もめしていた頃では味わえなかった空気感が、こんなに素早く手に入るとは思わなかった。滝野は、楽器だけじゃない、こんな吹奏楽部特有の空気感が嫌いじゃないのだ。
ふと突然、視界の端に銅色が映る。気がつけば、楽器の準備をしていた藤原がそこにはいた。
「じゃあ滝野、自分は練習に行くから後で日程を教えてくれ」
「おう、後でな」
いつも通り、すぐ練習に赴くその姿を見送ろうとする。しかし、今日はいつもと少し違った。その後ろ姿に駆け寄っていった人物がいる。上野部長だ。どうやら藤原に2人きりの祭りの誘いをしているらしい。……なんということだ、一部は毒に侵されていない部分があったかと思いきや、源泉自体が毒の湖だったようだ。滝野はこんな奴らを誘ってしまったことを心底後悔した。滅べ。
「すみません、その、今滝野が案内をしてくれると言ってくれたので……」
しかし、藤原からの返答は不思議なものだった。喜ぶでも、困るでもなく、ただ淡々と予定があると返しただけ。そう捉えられるような、極々いつもどおりの返答。それを聞いて、滝野の胸にテスト前に蓋をした感情が蘇る。性欲がないとか、部長のことが好きじゃないとか多分、彼にある問題はそういったことじゃないんだろう。部長がやったことは、普通ならかなり勇気がいることなのに、自分には関係ないと言わんばかりに空いた距離感。
「あ、悪い藤原、俺そういえば祭りの日は別のやつと行く約束してたの忘れてたわ。また後で埋め合わせするから、今回は先輩と行ってくれないか?」
気がつけば、そんな事を口走っていた。なんとなく、こうした方がいいと思ったから。だがこれでは、結局祭りの相手が決まってないのは滝野だけではないか。誰もいなくなった部屋で、1人ため息をつく。
全くもって、滝野純一は憂鬱だ。
ソロコンクールというのは、基本的に吹く人1人で出場するコンクールのことです。様々なコンクールがあるのですが、吹奏楽コンクールのように吹く時間や課題曲がそれぞれ設定されていたりします。また、基本的に1人というのは、完全に1人でやるのではなく、ピアノ伴奏をつけることが基本だからです。