硫黄島鎮守府着任初日。賢人はその日の仕事を終わらせ、ソファに腰掛けた頃には日はすでに落ちかけていた。
「もうこんな時間か…。そろそろ晩ごはんを食べに行こうかな。」
賢人は立ち上がり、スマホをポケットに突っ込むと向かいのソファでうたた寝している陽炎をゆする。
「陽炎〜、起きな。もう日落ちてるよ。」
「う〜ん、あと三時間〜」
「長いよ…。ほら起きなって。」
寝ぼけ状態でようやく起き上がった陽炎を連れて、賢人は執務室を出た。こんなことは海軍兵学校時代からしょっちゅうだった。
「確か一階に士官用の食堂があったはず…」
賢人が朝の記憶を頼りに廊下を進んでいくと、少しずつ会話をする声が聞こえてきた。「食堂」と示された札がある部屋の扉を開けると、お盆を手にとって食事を運んだりしている士官たちがいた。食堂には米の炊ける匂いや、野菜を炒める音が聞こえる。
「結構しっかりしてるのね。」
まだ重たいまぶたをこすりながら陽炎が言う。賢人もお盆を持って食堂のカウンターに向かう。カウンターの中の食堂では若い炊飯員たちがせっせと働いていた。
「あっ…。もしかして山田提督ですか?」
突然、一人の炊飯員に賢人は声をかけられた。賢人が驚いてお盆から顔を上げた。声の主の炊飯員はまだ十代に見える若い青年だった。
「はい、そうですけど…」
「ああやっぱり!覚えてますか?海軍兵学校の後輩の斎藤です!」
顔を見て賢人は少し考えたがすぐに思い出した。海軍兵学校時代、共に提督育成訓練を受けた後輩だ。彼の料理スキルは海軍兵学校でも随一の腕前だったことを覚えていた。
「斎藤か…。久しぶりだな。」
「はい、あの時はお世話になりました。」
「まさかの硫黄島勤務か。そっちはどうなんだ?」
「はい、毎日楽しく働けてますよ。」
斎藤はお椀にご飯をもりもり盛りながら言う。そして盛り終わると、賢人のお盆にどかっと置く。
「山田先輩も頑張ってくださいね。ここ、硫黄島は少し特殊なところなんで。最初は苦労しますよ。」
斎藤はそういい終わると、味噌汁を賢人のお椀に置いた。昆布と豆腐のシンプルな味噌汁だった。
食事を受け取ると、賢人と陽炎は席についた。するとそこに中村がお盆を持ってやってきた。
「隣いいですか?」
賢人が頷くと、賢人と陽炎の向かいに中村は座った。三人は手を合わせて食事を始めた。
「山田提督。どうですか硫黄島の初仕事は?」
「そうですね。やっぱりわからないところもよくありました。でも少しずつ覚えていきたいと思います。」
賢人は茶碗を手にとって答えた。中村は煮物に手をかけながら話を続けた。
「確かに覚えなければならない事項は多岐にわたりますが、ここには我々海軍職員もいます。お手伝いできることはさせていただきますので安心してください。」
そう言われ、賢人はほっと胸をなでおろした。「最も最悪な左遷先」と言われていた硫黄島に来て不安だったが、中村のような人物が居ることに安心感を覚えた。
「ところで資料の方は読みましたか?」
中村は賢人にそう問いかけた。賢人は軽くうなずいた。
「はい。軽く読んでみましたが、色々と特別な決まり事があるんですね。」
「そうなんですよ。ご存じの通りこの硫黄島はかつて旧軍とアメリカ軍との間で熾烈な戦闘が繰り広がられました。そして両軍合わせて3万人近くの人命が失われました。」
賢人はかつての硫黄島の熾烈な戦いを思い浮かべ、少しばかり身震いがした。いまだに発見されていない遺骨は1万人以上にも上るという。浮かばれない魂がいまだにこの島に宿っているとか…
「まぁ、山田提督はなにも心配することはありません。山田提督は自身の執務などを行ってください。他は我々が対処しますので。」
中村はそう言うと笑顔を見せた。その笑顔に賢人は少し安心した。しかし陽炎には、中村のその表情が何かを隠しているように見えた。
「そうですか…。わかりました。改めて1か月間よろしくお願いします。」
賢人はそう言って頭を下げた。
夕食を終えると中村は賢人と陽炎を資料室に案内した。資料室には大量の書類や記録書が保存されていた。
「ここが書類を保存しておく場所です。処理が終わった書類はこちらにお願いします。」
「わかりました。ありがとうございます。」
資料室の案内が終わると、中村は一礼し兵舎の方へと走っていった。賢人はその後ろ姿を見送ってから、陽炎とともに執務室に向けて歩き始めた。
その時だった。
かすかに後ろから、ブーツを引きずるような音が聞こえた。賢人はすぐに振り向いたが、そこには誰もいなく、ただ木製の廊下が続いているだけだった。耳を澄ませてみるも、聞こえたのは外から吹く風音と波のさざめきだけだった。
「司令?どうしたの?」
陽炎が不思議そうに賢人の顔を覗き込んだ。賢人は我に返り、陽炎に向き直って言った。
「あっ、いや、なんでもないよ。気のせいみたいだ。」
「な〜んだ。…まぁ、少し嫌な雰囲気はしたけど…」
陽炎はそう言うと、執務室に向けて歩き始めた。賢人はもう一度後ろを振り返った。すでに誰もいないはずなのに、なにかの存在が色濃く残っていた…。
その日の夜、賢人は母から送られた手紙を読んでいた。
『賢人へ。賢人、硫黄島への勤務が決まったと聞きました。いつも一生懸命に頑張るあなたの姿を思い浮かべると、誇らしい気持ちでいっぱいです。でも、硫黄島はとても過酷な場所だとも聞いていますので、くれぐれも無理をせず、体を大切にしてくださいね。
日々の務めをしっかり果たしつつ、何よりも健康に気をつけて、元気な姿でまた帰ってきてくれることを何よりも願っています。あなたが無事に帰ってくる日を、私たちはみんな楽しみに待っています。
不安なことや辛いことがあれば、いつでも手紙を書いてくださいね。遠くにいても、家族はあなたを支えています。
寒暖差があると思うので、体調を崩さないように気をつけて、どうか気を抜かずにがんばってね。
母より』
これだけの内容だったが、若い提督である賢人にとっては大きな励ましとなっていた。賢人が手紙を読み終わり、しまい込むと、すでに時計は10時を回っていた。
「そろそろ寝ないとな…」
すでにその日の激務を終えた陽炎はソファで爆睡を決め込んでいる。賢人は苦笑しながら陽炎をベッドに移動させる。賢人も隣の私室に入ると、支度をし布団に入った。
それからどれほど経っただろう。
賢人はふと何かの気配を感じ取って目を覚ました。僅かに寝返りをうち、気配を感じた扉へと目を向ける。静かだった部屋に少しずつ音が聞こえてきた。
それは廊下で聞いた、ブーツを引きずる音だった。音は少しずつ大きくなり、賢人の耳元まで聞こえるほどになった。
突然、ブーツの音は消えた。その瞬間、ドアノブが回るゆっくりと回る音が部屋にこだました。
「(誰かが来る…!)」
ドアが軋むように開くと、闇に包まれた廊下の向こうに僅かながらに人影が見えた。その人影はゆらゆらと揺れながら部屋に入ってくる。賢人は息を殺して人影を見つめていた。
段々と人影はかつての日本兵の軍服を着た男へと姿を変えた。そして日本兵はやっと聞こえるようなか細い声で
『水を…水をください…』
と口を開いた。布団の中で賢人は水を供えるのを忘れていたことを思い出した。賢人は恐怖と戦いながら、布団を握りしめていた。
思わず賢人が声を上げようとした。その時、日本兵はなんの前触れもなく姿を消した。賢人は飛び起きると、慌てて電気をつけた。ドアも閉まっており、部屋の中には賢人以外誰もいなかったが、賢人の心臓はまだ激しく鳴り続けていた。
賢人は手を震わせながら、コップに水を注いだ。そして扉の前に置くと、静かに手を合わせた。
水を供え、手を合わせた賢人は、静かに息をついた。だが、まだどこかにその存在が残っているような感覚が消えなかった。彼は恐る恐る部屋を見渡したが、何も変わった様子はない。それでも、不安が胸に残ったまま、賢人は再び布団に戻った。
翌朝、昨晩の恐怖体験が嘘のように空は晴れ渡っており、賢人は太陽の光を浴びて布団から出た。昨晩の恐怖は、今では薄れ、ただの錯覚のように思えた。
しかし、身支度を整えドアを開けた途端、それは夢から現実であることが判明する。足元のコップに視線を移した賢人は、違和感に気づいた。
「…これは…。」
賢人は昨晩供えたコップに目をやると、コップに満杯に入っていたはずの水が一滴も残っていなかったのだ。コップを手に持つと、ついさっきまで誰かが触れたようなぬくもりがまだコップには残っていた。賢人の心臓が再び早鐘のように打ち始めた。
悲劇の島、硫黄島。この島にまつわる戦いと悲劇の怪異はまだ始まりに過ぎなかった…
ようやく投稿ペースが戻せそうです。