硫黄島では就寝前に必ず水を供えることが義務付けられている。もし忘れてしまった場合、日本兵の幽霊が現れ、水を求めてくるという。
コップの水が空だったことに対して、賢人が落ち着くまでは少し時間がかかった。落ち着きを取り戻した賢人は、深く深呼吸をしてから部屋を出た。
廊下に出るとすでに数人の海軍関係者たちが清掃をしていた。賢人はすれ違いざまに挨拶をしながら、食堂へと向かった。
食堂は朝早かったこともあり、数人の海軍関係者がいるだけだった。
「山田提督、おはようございます。」
後ろから声をかけられて賢人は一瞬驚く。振り向くとそこには中村の姿があった。
「中村さんですか…。おはようございます。」
「昨日は良く眠れましたか?」
「はい…。まぁまぁですね…。」
賢人は昨夜の出来事を話さなかった。話したところでどうにかなるものではない。賢人はそう思ったのだ。話したところで笑われるか、怪訝な顔をされるだけだろう。あの日本兵の幻影は、ただの見間違いだったのかもしれない。だが、コップの中の水が空になっていた事実だけは説明がつかなかった。
違和感を抱えながらもそのまま賢人は斎藤に朝食をよそってもらうと、中村と向かい合って窓側の席に付いた。
「山田提督。早速ですが今日は近海の哨戒をお願いしたいです。」
食事を口に運びながら中村は賢人に言った。賢人も食事を口に運びながら中村の話に耳を貸す。
「近海哨戒、ですか?」
賢人が聞き返すと、中村が頷き話を続ける。
「はい。現在硫黄島は父島と母島を含む『小笠原諸島防衛線』を構成するうえで重要な島です。もしここが深海棲艦に侵攻され、防衛線が崩壊したら…」
「…本土への侵攻は時間の問題となりますね…」
中村は頷いた。現在、硫黄島鎮守府は深海棲艦の本土侵攻を阻止するための防衛線「小笠原諸島防衛線」を父島、母島とともに構成している。もし硫黄島が深海棲艦の手に落ちたら、日本本土侵攻は時間の問題となり、本土空襲も激化する可能性がある。
「すなわち、近海を深海棲艦がうろついている可能性がある。そのため警備と深海棲艦に対する迎撃を踏まえて近海を哨戒する。ってわけですね?」
「御名答。さすが海軍兵学校を上位で卒業した提督ですね。」
中村はそう言うと、笑顔を見せた。賢人は「そんなことはありませんよ」といいながら笑みをこぼしていた。
「では陽炎を含む艦隊を編成して、硫黄島海域の哨戒を行います。」
「上空哨戒は父島航空隊が行ってくれるそうです。それに関しては安心してください。」
中村はそう言うと、席から立ち上がった。
「それでは私はここで。提督も頑張ってください。」
そう言い残すと、中村は食堂を後にした。賢人もお盆を返却すると食堂を出て、執務室へと向かった。
「司令〜、本当に哨戒任務だけでいいの?」
執務室では陽炎が賢人の膝に乗りながらそう言った。賢人は苦笑いしながら答える。
「まぁね。ここのところ深海棲艦は目撃されていないけど、念の為だよ。」
すると陽炎が賢人の方に顔を向けてから言った。
「そう言えば司令。まぶたが重そうだけど昨日寝れた?」
「えっ?」
そう言うと陽炎は健人の額に手を当てて心配そうに聞く。
「熱とかない?大丈夫?」
賢人は一瞬、あの日本兵の姿が脳裏によぎった。だが余計なことを言って陽炎を困惑させるにはいかない。賢人は笑顔を作って言った。
「まあ、新しい環境だからかな?でもこれくらい大丈夫だよ。心配いらない。」
そこ返しに陽炎は少し賢人のことを見ていたが、
「ふ〜ん、そう。まぁ司令なら大丈夫よね。」
そう言って笑った。しかしその顔はどこか心配するような表情を帯びていた。
「じゃああとは任せておいて!」
陽炎は健人に軽く手を振り、執務室を出た。扉が閉まると同時に、廊下に静寂が訪れる。
「ん?」
陽炎はふと、背筋に薄ら寒いものを感じた。誰かに見られている。そんな気がしたのだ。
廊下を振り返るが、そこには誰もいない。ただ木造の床と壁が静かに延びているだけだった。陽炎は首をかしげる。
「気のせい…だよね。」
自分にそう言い聞かせ、陽炎は廊下を歩き始める。しかしいつまで経っても、感じる「なにか」の存在を否定はできなかった。
硫黄島鎮守府庁舎から徒歩2分のところに千歳飛行場はあった。千歳飛行場では日本国防軍の誇る最新鋭戦闘機「F-7烈風改二」が倉庫前で整備されていた。健人は中村の案内で千歳飛行場を見学していた。
「あれがF-7烈風改二です。国防軍が誇る最新鋭の戦闘機です。」
中村がわかりやすく解説する。健人は初めて間近で国産戦闘機烈風改二を見た。F-22のようなステルス戦闘機独特の鋭利な機体をしており、強力な双発エンジンを備えている。
「すごいですね…。硫黄島にも最新鋭機が配備されていたなんて…」
「まぁ、数は少し足りないですけどね。現状、大本営では小笠原諸島防衛線を構成するうえでは十分だと判断しているようです。」
中村はそう呟く。すると健人は烈風改二のすぐ横に一機の戦闘機が駐機しているのが見えた。目を凝らしてみるとそれは烈風改二ではなく、古いタイプのプロペラ戦闘機だった。
「あれは、…零戦?」
健人はそう呟く。すると中村が首を傾げた。
「山田提督?どうしました?」
「いや、あそこに零戦があったので…」
「零戦?ここにあるのは烈風改二と流星改二だけですよ。」
「えっ?」
そう言われて健人はもう一度振り返る。すると今までそこにあったはずの零戦が影すらも残さずに消えていた。
「でも、確かにここに…」
健人はそう言うが、中村は腕時計を見て言った。
「そろそろ時間ですね。訓練が始まるので我々は帰りましょう。」
中村に言われ、健人は零戦について疑問が残ったが仕方なく中村とともに戻っていった。さり際に健人は再び滑走路を見つめた。
「なんなんだ、この島は…」
陽炎たちは近海哨戒を行っていた。天気は晴朗の上波も穏やかだった。
「本当にここ周辺に深海棲艦が出るの?」
陽炎は連装砲を持ち直しながら吹雪に問いかける。吹雪はそれに答えた。
「はい。数ヶ月前に第二次小笠原諸島海戦と呼ばれる戦いがあったんです。」
吹雪に続いて綾波も話し始める。
「戦艦を含む12人の艦隊で出撃したんですけど、深海棲艦は軽空母3隻、戦艦2隻を含む海上打撃艦隊だったんです。なんとか撃退には成功したんですけど、戻ってこれたのは3人だけ、って聞いたんです。」
「そ、そんな事があったの?」
話を聞いて陽炎は顔を青ざめた。それに青葉が口を開く。
「そういえば青葉が以前の司令官に聞いたんですけど、その前の第一次小笠原諸島海戦では6人の艦隊が深海棲艦の空母打撃群に壊滅状態にされたようです。幸い、轟沈者は出なかったみたいです。」
熾烈な戦闘が硫黄島で繰り広げられていたことを陽炎は知り、思わず身震いした。改二であるため練度は十分であると自負はしていたが、最前線では通用するのかと考え始めていた。
その後、特に深海棲艦は発見されずに夕方には全員が鎮守府に帰投した。健人は陽炎たちを出迎えて夕食を取り、21時に報告を聞いた。
「じゃあ特に異常はなかったってことだね。」
健人は報告書に目を通しながら陽炎に言った。陽炎は伸びをしたあとに付け加えた。
「そっ。でも以前大きな海戦が2回あったって吹雪たちから聞いたわ。」
その言葉に健人が一瞬動きを止める。以前海軍省で小笠原諸島近海で大規模な海戦が発生し、数名の艦娘が轟沈したことを先輩提督から聞いていたことを思い出したからだ。まさかこの硫黄島鎮守府だったことに驚いていたのだ。
「司令?」
陽炎の声で健人は我に返った。
「朝から調子が変だけどほんとに大丈夫?」
そう言うと陽炎が顔を覗き込んできた。
「やっぱり疲れてるんじゃない?今日は早めに休んだほうがいいわ。」
「えっ、でも書類の整理が…」
健人がそう言うと、陽炎は健人の手に自分の手を乗せる。
「いいから。司令が倒れられても困るしあとは私がやっとくから。ね?」
陽炎はそう言ってウインクをする。それに健人ははぁ、と息を吐くと静かに言った。
「じゃあお願いするね。でも無理はしないでね。終わらない分は明日僕がやっとくから。」
「分かったわ。司令も十分に身体を休めてね。」
健人は執務室を出ると、真っ暗な廊下を歩き始めた。廊下は灯火管制のためにランタンで明かりが確保されているため、わずかに薄暗かった。
「(陽炎には敵わないなぁ。いっつも僕のことをちゃんと見てくれてる。)」
廊下を歩きながら健人はそんなことを考えていた。陽炎は健人が提督訓練生3年時に秘書艦として選択してからいつもそばにいた。そのため健人の体調や考えなどは手に取るようにわかる。
「(迷惑かけっぱなしだな…。もうちょっと気をつけないとな)」
廊下を歩き続けていると、島特有の湿り気を含んだ夜風がどこからか吹き込んでくる。夜は静かなものだと思っていたが、次第に賢人の耳に明るい声や楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「誰だろう、こんな時間に…」
不思議に思いながら音のする方に足を進めると、明かりのついた一室が目に入る。賢人は立ち止まり、そっと扉の隙間から部屋の中を覗き込んだ。
そこには数人の兵士が座卓を囲んで宴会をしていた。日本酒を酌み交わしながら、まるで戦地の緊張感など忘れてしまったかのように笑顔を浮かべている。
「こんな時間に飲んでるんだな…。」
賢人は少し呆れながらも、自分には関係ないことだと思いその場を立ち去ろうとした。だが、彼の動きに気づいた一人の兵士が声をかけた。
「よう兄ちゃん、一緒にどうや?」
不意に誘われ、賢人は戸惑った。参加していいものかと思いながらも、兵士たちの陽気な雰囲気に引き寄せられるように、つい足を止めてしまった。
「いや、僕は…」
「まぁまぁ、堅いこと言わんと!提督も忙しいやろ?たまには肩の力抜きなはれ!」
促されるまま、賢人は部屋の中に入る。部屋の中はどこか古びた雰囲気が漂い、木目の粗い座卓には酒瓶や湯飲みが並べられていた。
「ほれ、一杯くらいならええやろ。」
そう言い、赤黒い染みのついた軍服を身に纏った兵士の一人が陶器製の茶碗に日本酒を注ぎ、賢人の前に差し出した。
「じゃあ、少しだけ…」
賢人は茶碗を受け取り、軽く頭を下げると一口飲んだ。口当たりの良い日本酒が喉を滑り落ち、身体がほのかに温まる感覚を覚えた。健人は最近酒を飲めるような年齢になったが、今まで日本酒に口をつけたことはなかった。
「…これ、美味しいですね。」
「せやろ?ここでは俺等のちょっとした楽しみなんや。」
陽気な兵士たちとの会話に賢人は思わず笑顔を浮かべ、気づけば談笑に混じっていた。
「内地の家族が本当に心配なんよな〜。でもなぁ、俺等はその家族を守らにぁあかん。」
中年に差し掛かった人の良さそうな兵士がそう言った。彼は訓練でついたのか顔に大きな傷跡があった。健人は少し違和感を感じたが、本土に残してきた家族のことを思い浮かべた。
「…ですね。でも守るために僕達は戦わなければなりませんね。」
すると一人の兵士が健人の肩に手を掛ける。彼の手には古い火傷の跡があった。
「そうやな!はようこの戦を終わして帰ろう!」
「ああ、もちろんだ!」
そう言うと再び酒を酌み交わし始めた。。普段は緊張感のある島での生活だが、この夜だけは和やかな時間が流れているようだった。
翌朝、賢人は目覚めると昨夜の出来事を思い返していた。
「あの兵士たち、誰だったんだろう…?」
彼らの顔や声は覚えているものの、その後どうやって部屋を出たのかが曖昧だった。頭がぼんやりとし何かが引っかかるような違和感を覚えつつも、執務室に向かうため健人は身支度を整えた。
「し・れ・い!おはよう!」
執務室に着くなり陽炎が挨拶をしてきた。賢人は「おはよう」と返して、机の書類に目を通した。
「すごい、本当に終わってる…」
陽炎が本当に書類を終わしてくれるのか心配だったが、書類の束はきれいに処理されており、印鑑もはみ出すことなく押されていた。
「どう?私の実務能力は?お礼なんていいわよ〜」
陽炎はそう言いながら笑っている。賢人は笑みを受けべて、立ち上がる。
「よし、じゃあ食堂に行こうか。」
「賛成〜!」
賢人と陽炎は執務室を出ると、廊下を並んで歩き始めた。賢人はふと横目で昨晩、宴会をしていた部屋を見た。その部屋は昨日の賑やかさと一転して、静寂に包まれていた。
「(あの人たちも訓練に戻ったのかな…)」
賢人はそう思いながら食堂へと向かった。
食堂では中村が待っていた。
「おはようございます山田提督。」
「中村さん、おはようございます。」
賢人と中村は挨拶を交わすと、そのまま向かい合って座った。早速中村は今日の日程を賢人に話し始めた。
「今日の予定ですが、島の主要な場所を案内したいと思うのですが…」
「島の主要な場所?」
健人が聞き返すと中村は頷いてから言った。
「はい。まずは慰霊碑に向かいたいと思うんです。慰霊碑は臨時着任した提督たちが必ず訪れている場所なんです。」
「そうなんですか…。」
賢人は脳裏に水を求める日本兵の姿と昨晩の不気味な宴会の光景が浮かび上がった。すると背筋が寒くなる。それを振り払うように賢人はご飯を口にかきこんだ。
中村は食事を終えると、賢人と陽炎を伴って慰霊碑へ向かうための道を進み始めた。
「この慰霊碑は、かつての戦争で命を落とされた旧軍の将兵たちを祀るために建てられたものです。硫黄島にはまだ埋もれている遺骨が多く、その供養の意味も込めているそうです。」
「遺骨…ですか。」
賢人はその言葉に思わず口を閉ざした。昨晩会った兵士たちの顔が脳裏に浮かぶ。傷のある顔、赤黒く染まった軍服――どれも鮮明に記憶に残っているが、それが現実だったのかどうかはわからない。
陽炎が少し心配そうに言った。
「でも、そういう場所って少し怖い感じがするね。司令、大丈夫?」
「えっ? ああ、平気だよ。」
賢人はそう答えながら、どこか胸にざわつきを覚えていた。そして慰霊碑が建てられている島の北東へと歩き続けた。
道を進むと、鬱蒼とした木々の間に慰霊碑が現れた。それは灰色の石でできた、簡素だが重厚な碑だった。その碑は日本列島をかたどった形に掘られており、碑の周囲には何本かの旗が立てられている。その下には花や酒瓶が供えられている。
中村は軍帽を脱ぎ、脇に抱えて碑に向かって一礼する。賢人と陽炎も碑に向かって一礼する。そして中村が説明を始めた。
「これが慰霊碑です。戦後、硫黄島に残った旧軍の関係者や遺族が訪れてはここで祈りを捧げていくそうです。島の提督がここを訪れるのもその一環です。」
賢人は慰霊碑の前に進み、供えられているものに目を向けた。花や古びた酒瓶、折り鶴、そしてその中に奇妙な違和感を覚えるものを見つけた。
「……あれは。」
視線の先にあったのは、陶器製の茶碗だった。健人が昨晩兵士たちから差し出されたものと同じ…いや、それそのものだった。
賢人は茶碗に近づくと、その細部をじっと見つめた。その茶碗は部分的にかけており、僅かであるが酒の香りがしてきそうな雰囲気をまとっていた。
「(……間違いない。昨晩、あの兵士たちと飲んだ時の茶碗だ…)」
視線が茶碗に釘付けになっていると、背後から「山田提督?」と中村が声をかけた。賢人ははっと我に返り、振り返ると中村と陽炎きょとんとした顔をしていた。
「どうかしましたか?」
「司令、なにかあったの?」
二人の心配するような声に賢人は無理やり平静を装いながら言う。
「あ、いえ。何でもありません。」
そうは言いつつも賢人は視線を慰霊碑に戻した。しかし胸のざわつきは収まらない。なぜあの茶碗がここにあるのか。どうして昨晩の兵士たちの姿が頭から離れないのか。その答えはどこにもなかった…。
ついに本格的に怪異が動き始める…