ホシノ同級生相棒概念   作:洞鼬

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誤字報告、感想ありがとうございます。

毎回楽しみに読ませていただいています。


102話 来訪者

 目覚ましの音でカヤツリは目を覚ました。

 

 何時ものように、ごそごそと自分の布団から這い出そうとしたところで、今日はすぐにそうする必要が無いことを思い出す。

 

 台所の方から何か調理するような音が聞こえる。カヤツリの代わりにホシノが朝食を作っている音だ。

 

 調印式での覆面水着団の大立ち回りから、カヤツリの身体の調子は良くなかった。初日は疲れもあったのだろうが、翌日から異様に身体が重かった。あまりに調子が悪くて、弁当どころか、朝の調理もままならない。

 

 見かねたホシノが手伝ってくれるようになり、今では簡単な物なら作れるようになった。カヤツリの調子が悪い今では朝だけ代わりに作ってくれることになっていた。

 

 目覚ましを見れば、まだ時間がある。布団に包まっていても良いのだが、昨日までのようにホシノに起こされるのも気が引ける。だから、眠気の残る身体に鞭打って、布団から身体を引きずり出す。

 

 数日間続いた腹痛はもう収まっていた。昨日マトが教えてくれた病院の薬が効いたのかもしれなかった。医者は何の異常もないとか言っていたが、薬だけは出してくれたのだ。市販薬よりよほど効きが良い。

 

 腹痛の原因は薄々気がついている。ホシノが作ってくれたサラダを食べてからだ。まさか、あんなに嬉しそうに作ってくれたもので腹を壊したなど言えるはずもない。今では上手くなって、手が血まみれになる事も減ってきたのだから。

 

 

「……ん?」

 

 

 制服に着替え終わったカヤツリは妙な気配を感じた。見れば自分が寝ていた布団が盛り上がっている。丁度ホシノ一人分くらいの膨らみだった。

 

 

「……はぁ。驚かせようたって無駄だからな」

 

 

 どうせ、ホシノが潜り込んでいるのだろう。カヤツリが不調だから、最近は一緒に寝ていない。調理の音もほぼ終わりかけの音だし、起こすついでの悪戯に違いない。そう思って布団を剥ぎ取ったカヤツリはそこに寝ている人物を見て固まった。

 

 ホシノが寝ていた。それは良いのだが、髪型がおかしい。昔のようなショートヘアだ。まさか、悪戯の為だけに切ったのだろうか。昨夜は普通だったのに。

 

 そんなはずがないと、カヤツリは思い直す。よく見れば服装も何だかおかしい。なんか変わったドレスみたいな服だった。カヤツリはこんな服を見たことが無い。

 

 

「んん……」

 

 

 布団を引っぺがされて寒いのか、短髪ホシノがゴロゴロしている。カヤツリは少しずつ距離をとる。なんだか嫌な予感が止まらないからだ。ただその挙動は一歩遅かったようで、短髪ホシノが目を開いた。

 

 

「うへ……カヤツリ……? カヤツリ!?」

 

「ぐえっ」

 

 

 短髪ホシノがカヤツリに抱き着くようにタックルする。ホシノの石頭が鳩尾に直撃して、カヤツリはうめき声をあげる。カヤツリは短髪ホシノに文句を言おうとして、できなかった。泣いていたからだ。

 

 何かをぐすぐす言っているが、涙声のせいで全く聞き取れない。カヤツリの身体を短髪ホシノがギリギリと締め付けるせいで、ものすごく痛い。

 

 

「痛い! 痛い! 痛い!」

 

「あ……ごめん……」

 

 

 申し訳なさそうに短髪ホシノが謝る。本当に申し訳なさそうで、カヤツリも言葉に詰まった。それに今の状況が全く分からない。聞きたい事が山のようにあった。

 

 

「カヤツリ~。朝ごはんできた……」

 

 

 カヤツリの部屋のドアが開いて、ホシノが顔を出した。エプロン姿で、長い髪を後ろで纏めている。これまでと一緒の姿だった。カヤツリは目の前の暫定ホシノとドアの方のホシノを見比べる。なんだか状況が混沌としてきていた。

 

 カヤツリが恐る恐る長髪のホシノを見ると無表情だった。無表情で、カヤツリと抱き着いている短髪ホシノを見て、部屋を出ていく。そしてすぐに愛用のショットガンを持って戻ってきた。修羅場の始まりだった。

 

 

「誰? カヤツリは答えられる? それと君も」

 

「「……」」

 

 

 カヤツリは何も答えられない。何も知らないから、答えようがないし。目の前の長髪ホシノの威圧感がとんでもない。威圧感自体はカヤツリではなく短髪ホシノに向けられているから、恐怖感はそうでもないが、この状況のストレスで腹痛がまた蘇ってきた。

 

 まるで、浮気が見つかったみたいだなとカヤツリはどこか遠くで思う。そんなつもりは全くないし、その予定もない。威圧感をカヤツリに向けない事からして信用してくれているのは伝わる。それは、とても嬉しいのだが、ここでの銃撃戦は勘弁願いたかった。

 

 短髪ホシノはカヤツリから離れて立ち上がる。短髪ホシノの顔を正面から見た長髪ホシノは固まる。自分と同じ顔が目の前にあればそうもなるだろう。

 

 固まる長髪ホシノをよそに、短髪ホシノはあたりを見渡して、何かを確認している。我に返った長髪ホシノが銃を突きつけて警告する。

 

 

「答えて!」

 

「カヤツリを一日だけ借りるよ」

 

 

 そんなことを言って、短髪ホシノはカヤツリに正面から抱き着いた。どう考えてもカヤツリの方が大きいのだが、そんなことは意に介さずに、カヤツリを抱きかかえて窓の方に向かって進もうとする。

 

 長髪ホシノの目が細まって、敵意が全開になるのをカヤツリは感じ取った。本気で戦う気だ。今更ながらカヤツリは確信が持てた。長髪の方が本物、というかカヤツリのよく知るホシノだろう。短髪の方は良くわからない。何か目的があるようだが、カヤツリには判断がつかない。

 

 

「返せ!」

 

「危ないよ。カヤツリに当たったらどうするのさ」

 

 

 怒りに染まったホシノが短髪ホシノに発砲するがどういう理屈か、弾が届かない。カヤツリには当たる直前に消えたように見えた。何度もホシノは短髪ホシノに発砲するが、結果は同じだった。カヤツリも暴れるがびくともしない。

 

 

「心配しないでいいよ。明日には返すから」

 

「カヤツリ!」

 

「ホシノ!」

 

 

 そのまま短髪ホシノはカヤツリを抱えたまま、窓から外に向かって飛び出していく。それはとんでもない勢いで、カヤツリの視界からはあっという間にホシノが小さくなって見えなくなった。

 

 

 □

 

 

「離せ!」

 

 

 短髪ホシノに向かって、カヤツリは叫ぶ。短髪ホシノは聞こえていないのか、それとも聞こえていても無視を決め込んでいるのか、全く聞く耳を持たない。尋常ではない速度で、人気のないアビドス砂漠の方へと進んでいく。ようやくカヤツリを離せば、そこはホシノの家から大分離れたところだった。あまりに遠いから、ここからカヤツリだけで帰ろうとすれば、確実に遭難するだろう。なにせ、今のカヤツリは制服しか着ていない。水筒はおろか、銃すら何も持っていないのだ。

 

 だから、今、全ての主導権を握っているのは目の前の短髪ホシノだった。ホシノとカヤツリを引き離したところからして、何か目的があるのだろう。それが恨みか何なのかは分からないけれど、禄でもないものだろうなという予感はあった。

 

 短髪ホシノといえば、カヤツリをじろじろと見ている。目も潤んでいるように見えるし、どこかまた泣きそうになっているように見える。

 

 

「何が目的だ」

 

 

 そんな短髪ホシノに、カヤツリは強い口調で詰問する。圧倒的に不利なのはカヤツリだが、言いなりになったところで無事である保証はない。あのホシノの攻撃を方法は分からないが軽くあしらった相手だ。どうせなら、少しでも情報が欲しかった。

 

 

「……目的? ああ、目的、目的ね……。そうだね。久しぶりに、カヤツリとおしゃべりする事かな」

 

「……」

 

 

 それなら、こんなことをする必要もなかったはずだ。睨みつけるカヤツリにも短髪ホシノは悲しそうな顔をするだけだ。

 

 

「あと、そうだね。ノノミちゃんやセリカちゃん、アヤネちゃんにも、できれば会いたいかな。ヒフミちゃんやヒナちゃん、マトちゃん。ああ、それと柴関の大将にもね」

 

 

 まるでホシノみたいなことを言う。姿かたちもホシノのくせして、同じような事を言うものだから、カヤツリはイラついた。きっと目の前のホシノはカヤツリが良く知る、カヤツリが大好きなホシノではないのだろう。

 

 

「そんな目で見ないでよ……。別に危害は加えないし、一日私に付き合ってくれたら、こっちの私に返すからさ」

 

「誰だよ。ホシノだけど、ホシノじゃないだろ」

 

 

 困ったように、短髪ホシノは頬をかく。

 

 

「私じゃ、カヤツリみたいに上手く説明できないよ? それでもいいなら答えるけど」

 

「いいから、早く」

 

 

 返事を急かすカヤツリに、短髪ホシノは答える。

 

 

「うーん。子供みたいなものかな? 今の私は」

 

「答えになってない」

 

 

 本当に分かりにくい説明にカヤツリは不満だった。見た目通りに子供なのは見れば分かるのだ。ただ、短髪ホシノは笑って、それを否定した。

 

 

「うへ、そうじゃないよ。カヤツリ。見た目の話じゃなくてね。私の立場の話だよ?」

 

「立場?」

 

 

 立場なら、みんなそうだろう。みんな生徒で子供だ。大人は先生とか黒服とか、理事の事を言う。しかめっ面のカヤツリに短髪ホシノは、さっきと同じように笑ってカヤツリを否定した。

 

 

「もう、気がついてるんじゃない? ね? パパ? いやママかな?」

 

「出まかせ言うな。ふざけてるのか……」

 

 

 なんだか、おぞましいことを言う短髪ホシノにカヤツリは反抗した。カヤツリにはこんなに大きな子供はいたことが無いし、女になった覚えもないのだ。そんなカヤツリを見て、短髪ホシノはやっぱりなという顔になった。

 

 

「やっぱり私じゃダメだよ。やっぱり頼るしかないねぇ……。あんまり、この手段は取りたくなかったんだけど、しょうがないか」

 

「どこに連れてく気だ!」

 

 

 また短髪ホシノはカヤツリを抱え上げる。そして行き先を答えるのだ。

 

 

「カヤツリもよく知ってる人の所だよ。むしろ、カヤツリの方が良く知ってるんじゃない?」

 

 

 □

 

 

「それで、私のところまで来たわけですか。久しぶりの再会がこんなものになるとは……。私も想像していませんでしたよ。相変わらず、貴方は私に興味深いものを齎してくれる」

 

 

 どこか嬉しそうに、黒服はカヤツリと短髪ホシノを交互に見て言う。かなり興奮しているのか、口調が多少早かった。

 

 ここは黒服のオフィスだった。何故、短髪ホシノが場所を知っているのかは知らないが、確かに黒服なら説明はしてくれるだろう。至極わかりやすく。ただ、問題が一つあった。

 

 

「分かっているとは思いますが、もちろん対価は必要ですよ。前回の分はもう返し終わりましたから」

 

 

 対価。これが問題だった。カヤツリには払う気はない。何を要求されるか分かったものではないからだ。けれど、短髪ホシノは心配ないと言うように、カヤツリに微笑む。

 

 

「対価は私が払うよ。それでいいでしょ?」

 

「ええ、私としては構いませんよ」

 

「待て、そこまでしなくてもいい」

 

 

 カヤツリは短髪ホシノを制止する。黒服の対価はそんな軽いものではない。短髪ホシノの正体の説明など、カヤツリの自己満足にすぎないのだ。ただ、カヤツリが知っているホシノではないのだとしても、みすみす破滅させる気は無かった。

 

 

「……うへへ、やっぱり、カヤツリはカヤツリだね。心配してくれて、私は嬉しいよ。でも、大丈夫、説明だけだから。黒服に何かをやってもらうわけじゃない。説明相応の対価なら、そこまでのモノではないでしょ? 違う?」

 

 

 ニコニコした満面の笑みを浮かべるホシノをよそに、黒服は顎に手を当てて、少し考え込んだ後に頷いた。

 

 

「ふむ……まあ、良いでしょう。このホシノさん。いえ、彼女には私の質問にいくつか答えてもらう事を対価にしましょう。貴女には、暴れられたら敵いませんから」

 

「知らない事は知らないって言うよ? それでもいいの?」

 

「ええ、構いませんとも。他人から聞いて、全て分かってはつまらないですからね」

 

 

 妙に黒服の聞きわけが良かった。本当に機嫌が良いらしい。ビナーの件と同じくらいには。

 

 黒服が指を鳴らすと、椅子が二つ、現れた。座れと言うことだろう。二人が座ると、黒服は、カヤツリが良く知る風に話し始めた。

 

 

「最初ですが、カヤツリ君。貴方、最近身体の調子が悪くありませんでしたか? 全身の倦怠感などは?」

 

「ありましたけど……それと、腹痛も」

 

「なるほど、それは、あのアリウス分校の防衛戦の後からでしょう?」

 

 

 そうだと肯定した後に、何で知っているのかと聞き返そうかと思ったが、カヤツリは止めた。どうせ、どこからか覗いていたのだろう。先生の事もお気に入りのようだし、あの場にもしかしたら、黒服か他のメンバーもいたのかもしれなかった。

 

 

「サラダですが、レタスのですか? ホシノさんが作ったと……。ドレッシングは?」

 

「シーザーサラダドレッシング……。いや、これ関係あるんですか」

 

「クックックッ……大ありですよ。カヤツリ君。貴方の腹痛はただの腹痛ではありませんからね。いや、本当に貴方は私を飽きさせませんね」

 

 

 以前の騒動を覚えていますか。そう黒服は言う。もちろんカヤツリは覚えている。セトの件だろう。またセトのせいだとでも言うのだろうか。そのカヤツリの疑問を黒服は肯定した。

 

 

「ええ、まあ今回は事故のようなものですが。最後に、貴方ホシノさんと関係を持ちましたね?」

 

「ノーコメントで」

 

「もう、それ答えだよね?」

 

 

 黒服の本当に無礼な質問にカヤツリは真面目に答える気は無かった。どうせ答えを分かって聞いているのだから、黒服はこういう事をする。カヤツリの反応で楽しんでいるのだ。短髪ホシノも良い性格をしている。

 

 

「そこの彼女は、今は貴方の子供ですよ。貴方とホシノさんの間のね。認知くらいしてあげたらどうです?」

 

「……は? いや、冗談も大概にして欲しいんですけど」

 

「私がこういった場で冗談を言わない事は、カヤツリ君。貴方はよく知っているでしょう?」

 

 

 黒服は心底愉快そうに言う。そんな事は分かっているのだ。ただ心の準備が追い付かない。黒服はカヤツリを置いてけぼりにして、話を続ける。

 

 

「逸話にはこうあります。余りにアレなので、ぼかして言いますが。ホルスの特製ドレッシングが掛かったレタスを食べたセトは、まあ何と言いますか。親になったんですよ」

 

「……ちょっと、トイレ休憩を、お願いしても?」

 

 

 黒服は笑いを堪えているのか、肩を震わせて、ジェスチャーでどうぞと言う。カヤツリはもう、どうすれば良いのか分からなくて、内心を整理する時間が欲しくて、トイレに引きこもった。

 

 

 □

 

 

「ふむ、少々、刺激が強すぎましたか。彼もまだ子供ですからね。仕方のないことでしょう」

 

 

 黒服は機嫌よく呟く。本当にカヤツリは飽きさせない。それに、目の前の彼女も。

 

 あの話の続きでセトは、太陽を吐き出したとも、別の神を産んだとも、色々とパターンがある。今回の場合は太陽なのだろう。太陽神であるホルスの掲げる日輪。ただ、正体は違うのだろうなと思う。サラダを食べただけで、子供ができてはたまらない。

 

 

「それで、貴女は何です? そのテクスチャの下は?」

 

 

 黒服は目の前のホシノに対して尋ねる。カヤツリは気がついていないようだったが、黒服には分かる。こっそり機械で観測している黒服には。

 

 だって、神性が漏れ出ている。強い太陽の神性が。漏れ出ている余波だけで生半可な攻撃は蒸発するだろう。彼女はかなり気を使って抑えてはいるが。

 

 

「もう、分かってるでしょ。多分それでいいと思うよ。私は小鳥遊ホシノだけど、この世界の小鳥遊ホシノじゃないからね。今回だって、偶々こうなっただけだよ」

 

「……貴女がここに来たのは、あの時ですか? ヒエロニムスを焼き払ったあの。二つの神性が混じった、神秘と恐怖の混じったあの槍から?」

 

 

 あの映像を持ってきたマエストロは大興奮だった。黒服も、ゴルコンダとデカルコマニーも大興奮で、生でその現場を見れたマエストロが羨ましいぐらいだった。あれは崇高だった。恐怖と神秘が両立した、正真正銘の。実際には違うのかもしれないが、少なくとも黒服はそう思っている。

 

 先生の大人のカード。アレは時間を対価に可能性を引き寄せるモノ。その根源も限界も黒服には想像のつかないモノ。ただ、効果は知っている。

 

 アレは無いモノを持ってくることはできない。無から有を生み出すことはできない。だから、カードであの崇高が現れたというのなら、近い未来、いつかの未来、いくつかに分かれた遠い分岐の未来のいずれかで、アレは存在するということだ。

 

 だから黒服やマエストロ、ゴルコンダとデカルコマニーは歓喜した。だって、自らが目指すモノは形がどうであれ実現が可能だということだから。マダム──ベアトリーチェはそれどころではないようだったが。逃げたスクワッドを追うので忙しいのだろう。

 

 

「たぶんね。私は、あの攻撃に含まれた一部に過ぎないんだよ。それが偶々、近くで戦っていたカヤツリに接触した。この世界の私、過去の私か。私と関係を持っていて、さっき話した逸話と合致していたから、カヤツリの子供っていうテクスチャを被って出てこれたんだよ。調子が悪いのは、カヤツリの神秘を横取りしたからだし、セトちゃんにも悪いことをしたよ」

 

「……しかし、貴女は一日しか持ちませんよ? そのテクスチャは貴女の神性を抑えきれない。テクスチャが壊れれば、ホシノさんと同一存在である貴女は、元の未来に。安否は知りませんが、向こうのカヤツリ君の所に引き戻されるでしょう。貴女と、ここのカヤツリ君の契約では無いのですから」

 

 

 そう黒服は警告する。今の彼女は、カヤツリの神秘と自前の、おそらく恐怖で維持されている。黒服のやろうとした実験。詳細は違うだろうが、その結果が目の前にあった。自分が行おうとした実験だ。結果の想像はつく。ただ、彼女はそれで良いようだった。

 

 

「いいんだよ。私は我慢できなかったんだし、大元の私から零れた影法師にすぎないんだから。カヤツリや、皆に会うだけ……いや、一目見るだけでいいんだ。これは、私にとっては奇跡なんだよ。あの頃の幸せな夢の続きを見てるんだ。大元の寝ている私も同じことを言うと思うよ?」

 

「何があったのです?」

 

 

 黒服は好奇心の赴くままに質問する。目の前の彼女は首を横に振った。

 

 

「……分からない。もう、大事なこと以外は、やらなきゃいけないこと以外は覚えてないんだ。向こうじゃ、私は眠ってるからね。私が、カヤツリをあんな風にしちゃったんだ。ずうっと一緒だけど、もうお互い会えないんだよ。お互い会えるのはもう二人……いや、三人しかいないんだ」

 

「……なるほど。貴女は……いえ、止めておきましょうか。私からはもう、聞くことも言うこともありません。対価として十分なものが聞けましたとも」

 

 

 黒服は目の前の彼女と、ここには居ない彼女の言うカヤツリがどうしたのか、どうなったのかは大体の予想がついた。

 

 黒服なら、今の状態を維持する事はおそらく可能だろう。カヤツリの協力は不可欠だが。契約を迫り、神秘の探究の絶好の機会。ただ、黒服は止める事にした。もう向こうの二人は手遅れで、きっと二人はそれでいいのだろう。ならば、大人である自分は手向けの言葉を贈るだけだ。

 

 

「どうか、後悔の無い一日を。暁のホルス」

 

 

 その言葉を聞いた彼女は、悲しそうにも、嬉しそうにも見える。泣き笑いのような表情で笑った。

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