ホシノ同級生相棒概念 作:洞鼬
『まずは謝罪をさせて頂戴』
自身の自己紹介をした後に、ホログラムのリオが静かに頭を下げた。それをカヤツリは静かに受け取る。
自己紹介されなくとも目の前の女生徒の事は知っている。少なからずは各学園の上層部の名前と顔くらいは頭に入れておくものだ。
『今回の事故に巻き込んでしまって済まなかったわ。この病室も治療も、そのお詫びだと思ってもらって構わない』
「了解した。有難く受け取らせてもらう」
『そうしてくれて嬉しいわ。ありがとう』
どこか安心したように言うリオを見て、カヤツリは同情した。他校の生徒を巻き込んだ事件だ。仕込んだこのドローンもカヤツリが目覚めたら分かるように誰かに置かせたのだろう。見たところ武装は着いていないが、最悪これで脅すつもりもあるのかもしれない。
事故とリオは言った。正確にはアリスの暴走によるものだが、リオはそう通すことにしたようだった。カヤツリはアレが事故では無いことを知っているし、リオもきっとそれでは誤魔化せないとは思っているだろう。
だから、これはお願いなのだ。そういうことにして欲しいというお願い。
今回の件は誰がどう見てもミレニアムに非がある。傍から見れば一人の生徒が武器を振りまわして、二人の生徒が怪我をした。そういう話にしか見えないのだから。きっとモモイだけなら内々に済ませられただろうが、カヤツリも巻き込まれたのが良くなかった。リオからすれば最悪だろう。どんな要求をされてもあまり強くは出れない。
リオは把握していないだろうが、カヤツリは先生に聞いて全て知っている。だから、そこまで意地悪をする気は無かった。あれは全員にとっての想定外だったのだから。
『……それで、本題なのだけれど。そちらの要望を言って頂戴。できる限りは叶えると約束するわ』
一気に面倒になったとカヤツリは思った。話が長引く予感がしたのと、直ぐにはホシノに連絡できなくなったからだ。カヤツリ一人しかいない場所で、そんなことを聞かないでほしかった。そんなものはカヤツリの一存で決められるものではないし、こう言った事は事前の打ち合わせの最後に、答えが決まりきった状況で言う言葉だ。まだ早い。
「何で今、そんなことを?」
カヤツリが聞き返すと、リオは当然のような顔で言うのだ。
『貴方は、アビドスを実質的に取り仕切っているのでしょう? それなら、今ここで決めてもらった方が効率が良いわ。貴方なら分かってくれるでしょう?』
一体どういうつもりなのか。セミナーの会長から出た発言とは思えない。今の発言は取りようによっては完全に喧嘩を売っている。”カヤツリ以外のアビドスの生徒と話すだけ無駄だ”か、”セミナーで話し合うまでもない”くらいには受け取れる。カヤツリに、お互いの相談抜きで答えを求めるのはそう言う事だ。
「どの程度の物を想定している? 金額で言ってみて欲しい」
文句が山ほどあるが、それら全てを飲み下して、カヤツリはリオに問う。もしかしたら、これは相手の策略なのかもしれない。こちらを苛立たせる作戦に違いない。
そう自分に言い聞かせて、要望の規模のすり合わせを始める。大体の相場は知っているが、そこから減らすのか、増やすのかで誠意というモノが決まる。リオが言うようなトップ同士の話し合いで決まることなど。すでに決まっているの事の確認作業に過ぎないのだ。
『……そうね。これくらいでどうかしら』
少しの間、考え込んだリオは金額を提示してきた。相場よりも随分と桁が多い気がする。誠意ととるには多すぎる。
「口止め料込みってことか……」
そうカヤツリは呟く。この額はそうとしか思えなかった。本当にカヤツリに黙っていて欲しいのだろう。ミレニアムが大量破壊兵器を抱えている。スキャンダルどころの話では無い。リオはそれを一番に恐れているのかもしれなかった。相談させないのもそのせいかもしれない。
しかし、この額は幾らなんでも多すぎる。この額は流石に、セミナーの会長とはいえ自由にできるものではないだろう。受け取ったら何をさせられるか分かったものではない。
「これくらいでどうだ?」
相場よりも少し高め、リオが提示した金額よりも大分少ない金額をカヤツリは提示した。これくらいの方が後腐れが無くていい。別にカヤツリは外に向かって吹聴する気もないし、クロノスに垂れ込むつもりもない。
「……どうした?」
リオの返答を待つが、どうにも返事が返ってこない。ホログラムのリオを見れば、どこか固まっているように見えた。
『何か不満でもあるのかしら』
リオの言葉にカヤツリは眉を顰める。不満は有り余るほどにある。そもそもが、病み上がりのカヤツリにドローンによる突撃をかましている時点で論外なのだが。さっきの言動と言い、金額の過多と言い、妙にちぐはぐだ。こちらを怒らせたいのか、尊重したいのか。どうにもリオの意図が読めない。
『アビドスは借金で困窮しているのではなくて? 金銭はあればあるだけ良いでしょう? 別に後から見返りを要求したりはしないわ』
「別に深い意味は無いと? 口止め以外の何にも?」
『ええ、それだけあれば十分でしょう? 貴方も私も得をする。何を迷う必要があるのかしら。貴方はそうではないはず』
本当に不思議そうに、リオはカヤツリの答えを肯定した。この反応を見る限り、腹に抱えている物はアリスのこと以外ないらしい。ただ、どうにもさっきからリオの発言の端々が気になった。
「……金は要らない」
カヤツリはリオの提案を拒否した。少しこの、目の前の生徒の事を知る必要がある。どうにも意図が読みにくいことを含め、ここで探りを入れた方が良いだろう。アリスの件がどう転ぶにしろ、お互い自治区の代表だ。話し合う事もあるに違いない。それに、彼女の事を知るのは今も進行している先生のアリス救出にも少しは役立つかもしれない。
だから、ジャブとして、リオの提案を蹴った。
リオの反応はとても分かりやすかった。その反応だけで、カヤツリはある程度の事が分かった気がした。
『何か気に障ることをしたかしら……もしそうなら謝るわ』
リオの声も表情も姿も、さっきと何ら変わりがない。噂通りのビッグシスター。鉄の女。印象だけならそうだろう。カヤツリが提案を蹴ったことに対して、その理由を聞き出そうとしている。そういう風に見えるだろう。
違う。そうカヤツリは思った。
カヤツリには確信があった。どこか、目の前の彼女には怯えが見えた。怖がっているのだ。
たぶん、分からないのだろう。相手がほしい物は分かっても、それを飲み込ませるやり方が。だったら、さっきの言動と今の反応にも納得がいく。
リオにおそらく悪意はない。口止めの意図はあるだろうが、金額自体に含むところは無いはずだ。リオとしては黙っていてほしいのと、本当の詫びの気持ちだけだ。
かなりの無理を言っている自覚があるのだと思う。だから、あんなに多額の金額を提示した。それはアビドスが一番ほしい物が金銭だと知っているからだ。リオはカヤツリが一番ほしい物を渡せば、言う事を聞いてくれると思っている。
それで、拒否された事に怯えているのだ。リオからしたら、それは理解できない事だ。それを拒否されてしまえばリオには出せる物は無い。自分の理屈が通じないから怯えているのだ。
先生やアリス、ゲーム開発部に使った力押しは使えない。カヤツリはミレニアム生では無いからだ。セミナーの権力で学内は揉み消せても他学園のカヤツリはそうもいかない。強引に排除すればどうなるか。カヤツリにだって想像もつかない。
ミレニアムは新興の学園だ。トリニティやゲヘナと比べてだが。その分、両校のようなしがらみは無い。それに、先生が来る前は他学園との外交などあまり意味を成さなかった。仲介役の連邦生徒会がまだ機能していたからだ。だから、こんな様でも何とかなったのだろう。もしかしたら、セミナーの他の人員が必死にフォローしていたのかもしれない。
「……そう言うってことは、落ち度があったと、そう思うのか?」
『ええ、私は嫌われているもの。私にそういった自覚は無いけれど、この提案が受け入れられないということは。提案以外、つまり私に問題があるのでしょう』
少し、イラついた。
さっきの提案の押し付けもそうだが、それ以上にリオの態度にだ。
「……俺に文句を言われたくらいで、簡単に頭を下げないでほしい。貴方はセミナーの会長で、ミレニアムの責任者なんだろう? 押し付けられたわけじゃなく、皆から選ばれた。違うのか?」
『違わないわ』
それはやけに自信ありげに答えている。そこの誇りと責任は分かっているようだった。
「じゃあ、簡単に頭を下げない方がいい。舐められるし、貴女を信じて任せた人達の頭を下げさせるに等しい。それは貴女にとって嫌な事じゃないのか?」
リオはキョトンとしていた。まさかこんな事を言われるとは思ってもいなかったに違いない。先生はアリスの件を話す時、リオについては必要最低限のことしか言わなかった。良いとも悪いともだ。その理由は今分かった。
目の前のリオは不器用だった。手先の話ではなく生き方の話だ。そのくせ、諦めが良すぎる。
『……そうね。でも、それで望みが叶うなら安い物でしょう? それを貴方はよく知っているのではなくて? だから、私は貴方と話をしてみたいと思ったの』
リオは、キョトンとした顔から、どこか挑戦的な、何かを問いただす時のような顔に変わっていた。もう提案の話では無くなっているが、軌道修正はしない。どうでもいいのだろう。リオにとっては、カヤツリと話すことが目的だったらしい。それと自分のやり方に口を出されたのが気に入らなかったようだ。まさか、こんな事を言われるのが初めてでもあるまいに。
「随分と知ったような事を言う……」
それに付き合うつもりはカヤツリには毛頭無い。大体の人となりは見えたからだ。悪い人間でないと分かれば、それで十分だ。
『知っているわ。貴方の事は調べたもの』
「……何?」
予想外のリオの言葉にカヤツリは言葉を詰まらせた。セミナーの会長であるリオが、態々自分を調べる必要性が分からないからだ。
『……あのレールガンが始まりよ。ほとんどが正体不明のそれ。それで攻め込まれたのだから出所を抑えるのは当然でしょう。そして、あれは貴方の持ち物だった』
レールガンの持ち主だから調べたのだとリオは言う。それはおかしい話だ。あの出来レースで自分はレールガンを紛失した。それを拾ったヘルメット団がミレニアムを襲撃している。ヘルメット団からカヤツリは追えないはずだ。レールガンを紛失したのはゲヘナとアビドスの境界だ。場所から自分には繋がらないし、マトが秘密を漏らすとは思えない。
『教えてくれた人がいたのよ。黒服と言ったかしら』
カヤツリは平静を装いながら、内心で困惑していた。思いもかけない名前だったからだ。
『あの不気味な大人は、レールガンを買い取ろうとしたわ。かなりの金額を積んできたけれど、全て拒否したの。あんな危険物を知りもしない大人には渡せない。そう言えば、交換条件を提示してきたわ』
「どんな?」
『持ち主である貴方の事を教える代わりに、誰にもレールガンを渡さない事。貴方が望むなら、あれを返すこと』
黒服のやりたかったことは分かる。あのレールガンをカヤツリに渡したかったらしい。確かに黒服から渡されたら、それを素直には使わなかった。だからこんな回りくどい手を使ったのだろう。
『貴方のやってきた事は、合理的だったわ。治安維持に、連邦生徒会を巻き込んだヘイトコントロールと情報収集。一つの手間で多数の成果。他人からは良い目では見られない手段で、アビドスを守る為に、貴方はすべき事をしていた。能力は違くとも、立場と責任と実績は同じよ。仕事のやり方。その点では貴方と私の考え方は似通っている』
それなのにとリオは言う。
『やり方が間違っていると貴方は言うの? 目的の為には取らなければならない手段がある事を貴方なら知っているはずよ。私もそうしたし、貴方もそうしてきた。そうでしょう?』
さっきの挑戦的な表情のまま、リオはカヤツリのやったことを列挙した。
「そうだな。それは認めるよ。目的の為には取らなければいけない手段もある。学園の為にできる事をする。それが、学園の代表の責任だ。貴女は間違っていない」
カヤツリの返答にリオは頷いている。唇の端が満足そうに少しだけ吊り上がっていた。
「でも、一人で全部やるのは違うと思うよ」
『どうしてかしら。その方が効率的よ。それは貴方も同じでしょう。だから貴方は一人でアビドスの管理のほとんどを行っていた。違うのかしら』
「効率的というなら、合ってる。そこも認めるよ。楽だもんな」
そこは同感だった。だって一人は気楽だから。
「他人に心を砕いて説明しなくていい。他人に迷惑を掛けなくていい。他人に文句を言われなくてもいい。全部自分の裁量で決められる。失敗したら全部自分の責任だ。とっても楽だ。他人が自分の所為で傷つく姿を見なくていい。自分が傷つかなくていいんだから」
『……ええ、そうね。これが代表のやるべきことよ。学園の生徒の最大限の幸福を追求すること。他の生徒が傷つく必要はないわ。成果だけ享受していればいいの』
でも、とカヤツリは呟く。昔はカヤツリもそう思っていた。そうすれば、皆が笑っていてくれると信じていた。
「でも、そうじゃなかった。嫌だと言われたよ。”何もできないで見ているだけなのは嫌だ”って。”手伝わせてほしい”って」
『それは非効率よ』
リオがぴしりと指摘する。それはその通りだった。恐らくカヤツリが一人でやった方が早いだろう。まだ教えている最中の事でもある。
「仕事の上ではそうだろうな。でも、俺も貴女も、仕事が目的なわけじゃないはずだろう。誰かに笑っていて欲しいから。やりたくないけど、誰かがやらなければならなかった仕事をやっているんだろう?」
リオもカヤツリも、そうであるはずだった。皆に辛い思いをして欲しくないからやっている事なのに、結果として皆を悲しませている。それは過去にカヤツリが経験したことで、リオが今直面している事なのだろう。
「ビナーの報告書は読んだか? アレを読んだら分かるはずだ」
『……黒見セリカの事を言っているのかしら?』
リオはカヤツリの言いたいことを直ぐに言い当てた。その通りでカヤツリはセリカの事を話したかった。
「あの時、セリカ後輩の様子を見て、代わってやるつもりだった。傷ついてほしくなかった。可愛い後輩だからな」
『そうね。貴方が全部やっても良かったはず。その方が確実だもの。でも、上手くいったから良かったものの、失敗したらどうするつもりだったのかしら』
「きっと罪悪感で辛い思いをするだろう。でも、また任せる。ちゃんと対策してから、やらせるよ」
リオは不満そうな雰囲気だ。ホログラムの外からでも分かる。
『解決策になっていないわ。辛い思いをするのは変わらないでしょう?』
「何もさせない方が辛い。失敗するよりもな。それは信用されて無いって事だ。いるだけ邪魔だと、お前なんか要らないと。言っているのと同じなんだ。こちらの気持ちは伝わらない」
それは、皆に、ホシノに教えられたことだった。
「大事に思うことと、大事にすることは、似ているようで全く違うんだ。幾らこっちが大事に思っていても、思うだけじゃ伝わらなかった」
『言っても伝わらないわ。私が言っても怒らせるだけだもの。それなら、望む物を与える方が何倍も効率がいい』
いじけた様なリオにカヤツリはそうだろうなと思った。言い方がストレートすぎるし、全てを確定事項のように言う。反論すれば理詰めで潰す。人によっては怒るだろう。
「でも必要な事なんだよ。だから、今こんなことになっている」
『……先生ね。貴方に話したのも当然なのかしら。あの甘い大人なら』
リオはカヤツリが眠っている間に起きたこと、アリスの件を知っている事を認識したようだった。
『間違っていると、貴方も言うのかしら? ゲーム開発部やネルやヒマリのように。アレを可愛い後輩だからと、目に見える危険を放置しろと。暴走するトロッコの進路を、可哀そうだからと見知らぬ大勢の方に傾けるのかしら?』
「ふん。トロッコ問題か」
リオの態度が急に頑なになる。今まで似たようなことを散々に言われたことが察せられた。自分か良かれと思ってやったことを否定され続ければこうもなるだろう。本人だってやりたくてやっているわけではなさそうだ。でなければ、調べて共通点があるとはいえ、初対面であるカヤツリにここまで話さないだろう。
本当に不器用な人物だった。さぞ生きにくいだろう。カヤツリも人の事を言えないかもしれないが。
「さっきも言っただろう。間違っていないって」
『貴方は何が言いたいの? 私のやり方が間違っていないのなら、何が間違っていると言うの!?』
「傷つけただろう。貴女が守りたかったものを、貴女は自分で傷つけた。今は自分自身も傷つけている。だから、守りたかった人たちが今。歯向かっているんだろう? それが嫌でたまらないんだろう? もう頼れる人が居ないなんて思っているんだ。そうでなきゃ、初対面の俺にここまで話さないだろう?」
かつてのカヤツリと同じだった。ホシノを守りたくて、全てから遠ざけたカヤツリと。そして、結局はホシノを苦しめていたカヤツリと同じだった。
リオには、カヤツリと話すよりも話すべき人達がいるはずだった。
「さっき、俺が文句を言ったのは気がついてないからだよ。いや、振りをしてるのか」
カヤツリは各学園の代表の噂をある程度は知っている。勿論目の前のリオの事もだ。
「噂じゃビッグシスターとか言われてるらしいな」
『分かっていた事よ……』
監視社会の独裁者みたいな言われようだ。良い気分はしないだろう。でもカヤツリが言いたいのはそういうことではない。
「でも、会長を辞めて欲しいとかは聞かなかった。それに、貴女に反抗した生徒たちも、貴女が嫌いだとか、辞めてほしいなんて言っていなかったらしい。ただ、納得できないからアリスと話したいんだそうだよ」
『……でも、私に怒っていたわ』
「手段に怒ったのはそうだろう。一番は違うと思う。きっと話してくれない事に怒ったんだと思う。そんなに私たちが頼りないのかって。信頼に値しないのかって。貴女は自分が思っているよりも好かれているんだと思うよ」
でなければ、C&Cは初めから着いてこなかっただろう。今までリオが会長をやれていたのは皆から信じられていたからに他ならない。皆の事を思って何かをやってくれているのだと。そう皆は信じていたのだろう。
『まるで心を読んできたかのように言うのね……あくまであなたの想像でしょう?』
リオは強情だった。そうでもしなければやってられないのかもしれない。きっと今までもそうしてきたのだろう。けれど、これは知っておくべきだ。
「俺はそう怒られたんだよ。泣かれもした。そして、取り返しのつかないことになりかけた。状況は違うが構図は一緒だ。好きなようにやればいいと思う。きっとどちらも間違ってないんだ。ただ話を聞きもしないのは違うと思う」
ふと、リオの言ったトロッコ問題が脳裏に浮かんだ。
自分の目の前をブレーキの壊れたトロッコが走っている。そのまま行けば線路の先にいる五人が轢き殺される。ただ自分にはポイントを切り替える権利がある。ポイントを切り替えれば五人は助かるが、切り替えた先の一人が犠牲になる。自分はどうするのか。ポイントを切り替えるのかそうでないのか。それがトロッコ問題だった。多くの人が助かる道を選んで幸福を追求するのか。自分が手を出さなければ死なかった一人を助けて倫理を守るのか。そういう問題だ。
昔、スワンプマンの話をした黒服を思い出した。スワンプマンの話をする時に思考実験について話していた気がする。
「トロッコ問題で貴女は五人を助けるんだろう。より多くの幸福を追求する。そういう道を選ぶんだろう。きっとそれも正解だ。でも関わらないって選択もあるんだ」
『それは現実逃避に過ぎないわ。まさか貴方がそんなことを言うなんて思わなかったけど』
まくしたてるリオにカヤツリは苦笑する。本題はそれではない。そういう選択肢もあると言う話だ。
「きっと貴女は他の生徒にそうであってほしかったんだろう。でも、選びたいって言ってるんだ。一緒にポイントをどうするか考えようって、隣にまで来てくれているんだ。それを跳ね除けるのは、話を聞きもしないのは間違っているんじゃないか? 思考実験に間違いはないけれど、唯一の間違いは問いから逃げることだよ。俺はそう教わった。なら今の貴女はどうなんだ。隣に来てくれた人たちの事を考えているのか? 考えていないように、わざと見ないふりをしたように見えたから怒ったんだ」
彼女は恵まれていた。彼女自身は無いと思っている物はすぐ近くに転がっているのに。それを台無しにしようとしている。だから、カヤツリはイラついたのだ。
『……話はそれで終わり?』
ぶっきらぼうにリオが話を締めくくった。機嫌が悪そうにも見える。けれど、それなら、カヤツリの言葉は痛いところを突いたのだろう。それならばいい。後は先生が上手くやるはずだ。
「いや……最後に一ついいかな」
『何かしら。やっぱり金銭が惜しくなった? 残念だけれど、さっきの発言は取り消せないわよ』
「詫びの話はあっているけれど、金銭の事じゃない」
これは賭けだった。たぶんやらなくてもいい事で、リオもやりたくは無いことだろう。でも、聞くならタダだ。
『いいわ。言ってごらんなさい。何も無しというのも礼に欠けるもの』
「アリスに伝言を頼みたい」
リオは考えるのか目を閉じた。そして目を開くと大きなため息をついた。
『……いいでしょう。話して頂戴。ただ、時間は限られているから、一言二言でいいなら。それで思いとどまらせようとしても無駄よ』
「それでいい。別に思っている事を伝えるだけだ」
カヤツリの伝言を聞いたリオは、静かに頷く。
『……確かに。私は準備があるから、失礼するわ。それと……ごめんなさい。巻き込んでしまって』
そう言って、ホログラムのリオは姿を消した。詳しくは言えないが、どこかさっきとは雰囲気が違うような気がした。