ホシノ同級生相棒概念 作:洞鼬
数週間ぶりに戻ってきた集積所はガランとしていた。
受付に向かうために人気のない駐車場を抜けるが、以前と同じ時刻のはずなのに、あの時の様な活気は見られない。
屋台は数を減らしているし、話し声も聞こえない。精々が静かなエンジン音と少ない客がたてる食器の音位だ。
駐車場を通り抜けて、受付の扉を開ける。中も外と同じようにガランとしていた。
「……ご用件は?」
そう聞いた受付に番号を言って、仕事の報酬を振り込んでもらう。青年以外には待っている人はいないから、そのままカウンターの前で待つ。
青年は、あの事件の後からは遠距離地への依頼を受けていた。最終目的地と中継地を決めて、そこへの配達依頼や護衛の依頼を乗り継いでいった。
こんな面倒な手段をとったのは、アビドスから一旦距離を置くためだ。あのヘルメット団に資金提供していた人物の計画を邪魔したのだから、報復か捜索が始まるだろう。姿を隠すのは当然の判断だった。
アビドスから距離を置くにも馬鹿正直にはできない。そんな事をすれば、怪しいものですと自ら言っているようなものだからだ。
だから、仕事を受けて、時間を掛けてアビドスへ戻って来るルートを取った。そうすれば、仕事を受けたようにしか見えないし、戻ってきたのだから、怪しいとは思わないだろう。
「……まだ、かかるのか? 随分と遅いが」
しばらく待ったが、受付の進捗は大して進んでいなかった。余りここで時間を喰いたくはないから、抗議の意味を込めて受付を睨む。
すると、受付の獣人は言い訳をする。
「ああ。数が多いし、場所もバラバラだ。依頼主も纏まってないし、整理もされてない。それに……」
「それに?」
言い淀む受付に、静かに青年は聞き返す。受付には数人が暇そうにしているからだ。青年の視線を分かっているのだろうが、少し迷って、受付は口を開く。
「時間が悪い。そろそろ、アイツらがここに来る時間だ。人手は全部そっち優先になる。だから、こんな優先度の低い依頼は後回しなんだ」
「何を言ってる? 忙しくて、仕事に優先度をつけてると? 人手がそんなに足りないのか? そこで暇そうにしてるのに?」
あんまりな言い訳に、青年は多少語気が強くなった。
ここに来るまで活気はなかった。つまり、単純に働き手が居ないのだ。実入りが悪いから、河岸を変えたとしか思えない。だから、残りの受付は暇そうにしているし、ここはガラガラなのだ。
青年とて、仕事の遅さにクレームをつける気はない。個人差はあるだろうから。ただ、下手な言い訳をされると腹が立つ。
さっきよりも強く青年に睨まれた受付は、小さくなりながらも反論してくる。
「しょうがないだろ……上からそう言われてるんだ。金になる依頼が優先だって」
ここは依頼を仲介して、そこから仲介料を取っている。だから、大口の依頼や大量の依頼を回す依頼を優先するのは分かる。
だが、それはあり得ない。金になる依頼は危険度が段違いのはずだ。
「あの塩漬け依頼みたいなのが、達成されてるってことか?」
「……そうだ」
受付の答えに、青年は訝しげな目を向ける。
塩漬け依頼とは、ここに仲介を頼んだものの、誰も受けてくれない依頼の事だ。
長く残っている依頼は報酬が高く設定されている。ここは長く掲載すればするほどに、仲介料を取られる。だから、長く残っているということは、それだけ資金力がある依頼主であると言う事だ。
そして、それほどまでに重要性が高いと言う事でもある。
「あの鯨を躱して、運搬したってことか?」
「そう言う事になる。もう、大騒ぎさ」
塩漬け依頼は、禁制品を運ぶとかそういったものではない。唯の荷物の運搬だ。
問題はルートだった。
アビドス砂漠を突っ切るルートをとる必要があるのだが。それには鯨の縄張りを通らなければならない。
鯨は、青年にそう呼ばれているだけだ。運び屋たちは大蛇だと呼んでいる。それがアビドス砂漠を泳いでいるのだ。
それは、近づかなければ何もしない。でも縄張りを通れば襲ってくる。車がおもちゃに見えるほどの巨体と、口からの熱線や背中からの潮吹きの様なミサイル。それらを潜り抜けての運搬など、ほぼ不可能だ。
「でも、一回だけだろ」
「いいや、もう何回もだ」
受付の言葉に、青年は訝しげな顔になる。二つの可能性があるが、絞り込みは容易だった。
「倒したのか?」
「まさか。あの大蛇はまだ健在だよ。だからこそ、金になる」
言われてみればそうだった。あの鯨を倒したのかと思ったのだが、もしそうなら、もっとここは賑わっているはずだ。
そうでないと言う事は、上手く躱しているのだろう。そして、それが意味するのは……
「ほうら、お出ましだぜ」
受付が、顎で入り口を示す。外から賑やかな話し声が聞こえてくる。どことなく聞いたことがある様な声だった。
「報酬を」
そう受付で偉そうにしている獣人は、普通の雰囲気しか感じなかった。というか、いつか屋台で管を撒いていた運び屋だったような気もする。
横目でしっかりと観察するが、どうにもおかしい。普通の獣人にしか見えない。今も受付と話して、新しい物を受けている。
受け方にしても、報酬の良い物を適当に受けているようにも見える。全く吟味しているようには見えない。
こんな雰囲気の奴が、あの鯨を出し抜いた? 何回も?
どうにも信じられない。
耳を静かにそばだてると、入口の方で話し声が聞こえた。
「……良い拾い物をしましたね」
「全く、あのガキ様様だぜ。まさか、あの大蛇を追い払えるなんてな」
青年はその会話を聞いて、納得できた。一安心する。
「ただの、成り上がりか」
簡単な話だった。単純に、あの鯨を撃退できる人間がいただけだ。だから、あんな適当な選び方をしているのだ。
「待たせた。確認してくれ」
青年が納得すると同時に、依頼の清算も完了した。明細を見て頭の中で齟齬がないかを確認する。
「問題ない。じゃあ」
しっかりと報酬を確認した青年は受付を跡にする。後ろを目だけで確認すれば、青年の対応をしていた受付が、忙しそうに動いている。……恐らくは、あの獣人連中の相手をしているのだろう。
青年は、彼らへの興味をすっかり失っていた。様子を見れば分かる。唯の考えなしだ。
あの鯨は舐めていい相手ではない。出所のない記憶がそう言っているし、伝聞の話でもそうだ。それなのに、金になるからと依頼を漁っている。もしもを考えていない。次も上手くいくと言う保証など、どこにもないのに。
……それに、主に働いているだろう子供。ガキとか言われていた。恐らくその人物が立役者だろう。それなのに、名前ですら呼ばれていない。
バカなのだろうか。そいつらは、自分の事しか考えていない。その子供が身を賭ける価値はない。ただ都合よく使われているだけだ。あの大人たちは、きっとその子供の事なんて、便利な道具位にしか思っていないのに。
下手な知恵を付けられては困るから、何も教えられていないのもあるのかもしれない。それなら、自分で動くしかない。気づく場面は何度もあったはずだ。それなのに、現状に満足している。
それは、清貧とか欲がないとかではなく、何も知らないだけだ。
……なんだか他人の事なのに、青年はイラついてきていた。嫌なもどかしさを感じる。青年の事情には全く関係がないのにだ。外で朝食をとるつもりだったのに、その気も失せていた。
だから、青年は集積所を足早に去る事にした。外にいるだろう問題の運び屋も見たくなかった。苦いものが沈殿している。
それを振り切るように、青年は頭を振る。でも、それは髪についた砂ぼこりのように、きれいさっぱりとは消えてはくれなかった。
□
「変わらないな」
引き払って数週間は経ったアビドス分校を見て、青年は満足そうに呟いた。どう見ても、人が住んでいるようには見えない。細工は上々だったらしい。
梔子ユメを病院に預けた後、青年は隠れ家であるアビドス分校を引き払った。一時的に離れるだけだから、完全には引き払っていないが、一目見ても分からない様にした。内部も埃が積もって、細工でバラまいたものとは区別がつかないはずだ。侵入しても、人が住んでいたなど分からないだろう。
集積所の不快さと朝食を食べていない空腹感を彼方に追いやって、機嫌よく校庭を進んで昇降口まで来た青年の微笑みが吹き飛んだ。
「剥がれてる……」
両開きの昇降口の扉。その中央上部に、目立たないように張り付けて置いたテープが剥がれている。鍵穴を静かに確認すると、目立った傷はついていないし、扉自体にも傷はない。
外から、張り付けたそれが剥がれていると言う事は、誰かがこの扉を開けたと言う事だ。しかし、扉に外傷はない。
「正規の手段で入った?」
舌打ちして、青年は鍵を取り出す。複製した鍵はすんなりと扉を開けてくれた。
「……鍵を変えたわけでもない。点検に来ただけか?」
侵入されていると分かれば、防犯の為に鍵を付け変えるはずだが。その気配もない。中を覗き込んだ青年は違和感に顔を顰める。
「足跡……それに、空気も……」
埃が薄く積もった廊下。そこに一組の足跡が続いていた。入っていく足跡と戻る足跡。幾つもあるそれがやけに目立った。
空気も淀んでいない。多少は淀みを感じるが、数週間閉め切ったような、それこそ初めてここに来た時の淀み方ではない。
無言で青年は背中のシャベルを構えた。誰かが侵入している。点検が必要だった。罠でも仕掛けられているかもしれない。
慎重に廊下を歩く。カツカツと足音を静かな校舎内に響かせて、一つ一つ教室を確認する。
「点検にしちゃ妙だな……」
校舎を確認し終えた青年は思わず呟く。全ての教室を開けた形跡はある。しかし、一回だけだ。その代わりに家庭科室は何度も入った形跡がある。家庭科室だけは空気の淀みが全くなかった。
宿直室や技術室もそうだ。何回も出入りした形跡がある。青年が使っていた部屋だけ、何度も侵入された形跡がある。妙だと言ったのは、その点だった。
どうしてなのか、考え込む青年は、直ぐに思考を中断した。昇降口の扉が開く音が聞こえたからだ。
「……来たか。ストーカーめ」
こっそりと青年は近場の教室に隠れる。青年が隠れるとすぐに階段を一段一段登って来る音が聞こえる。青年は確信した。
「やっぱりな。最初から決め打ちしてる」
さっきまでの青年とは違う。青年は全部の教室を確認したが、侵入者は直ぐに上がってきた。つまりは巡回ルートを決めているのだ。
だが、これには弱点がある。一度確認した教室は調べないという点だ。青年の目論見通りに、青年の隠れた教室の前を足音は通り過ぎて行った。
数分前まで青年がいた宿直室の扉を開けたようで、中を覗いている音が聞こえる。こっそりと青年は気配を消して、侵入者の後ろに忍び寄った。
「動くな」
「ひぃん!?」
後ろから首元にシャベルを突きつけると、侵入者は飛び上がって、そのまま固まった。
「何の用で来た。早く答えろ」
ひんひん喚く侵入者をドスの利いた声で脅す。侵入者は悲しそうな声で言い返してくる。
「ひぃん……なんでぇ……分かってるでしょ……」
「だから?」
侵入者は、アビドスの制服を着ていた。長い髪を後ろで括っていた。肩には盾を掛けていた。この間の女生徒だ。梔子ユメ。
彼女の言う通り、彼女の事は分かっている。しかし、手加減する理由がない。
「なんで、ここまで来た。誰かに金でも積まれたか?」
「違うよぉ……」
梔子ユメは、なんだか悲しそうな声を出す。最初の質問よりも何故だか悲しそうに感じた。少しだけ罪悪感が湧く。
「……じゃあ、どうして、ここまで来た」
「だって、助けてくれたから。お礼を言いたくて……」
青年は信じられなかった。その気持ちを抱くのは分かる。だが、それだけの為にここまでするだろうか。
「どうやって、この場所を特定した?」
「お医者さんから、アビドスの制服を着てたって聞いたの。だから、最初は生徒名簿を調べたんだよ。でも、おじさんはいなかった」
それは、そうだろう。青年はアビドス生ではないし、おじさんでもない。最初の制服を着ているだけだ。どうせ、最初に居たこの校舎の物を勝手に拝借したのだろう。
「それで? そこからどうした?」
「おじさんの身なりは奇麗だったから。何処かに家があるんじゃないかって思ったの。でもあの近辺は電気が止まってる。通ってるのはここだけなんだよ」
それは知らなかった。黙り込む青年に、梔子ユメは答え続ける。
「それで調べたら、水道も電気もガスも使った記録があったの。だから、ここに来れば会えると思って……」
あんなに苦労した青年の工作は無駄だったことになる。青年は自分の迂闊さに舌打ちをして、シャベルを下ろした。
「あ、ありがとう……」
「さっさと、用件を済ませろ」
振り向いた梔子ユメはびっくりしたように目を瞬かせているが、青年は先を促した。
ここで、これ以上問答をしても意味がない。嘘をついているようには思えないし、校舎の外にも誰かいそうな気配はない。梔子ユメは独力でここまで辿り着き、青年を待っていたのだ。青年を嵌めようとしていたわけでない。手段は納得できるものだった。
ならば、早く用件を済ませてもらってお帰りいただこう。
「助けてくれて、ありがとう」
「……どうも致しまして。ほら、帰れ」
ペコリとお辞儀をする梔子ユメに、適当に返事をして。青年は出口を指差した。でも、梔子ユメは帰ろうとしない。
「用は終わったろ? 早く帰れ」
「どうして、助けてくれたの?」
「はぁ……?」
真剣な目で梔子ユメは青年を見つめている。梃でもこの場所から動かなかそうな雰囲気を感じた。強引にこの場所から放り出すことは出来る。でも、そうした場合はまた、梔子ユメはこの場所へやって来る。この手段は対症療法に過ぎない。根本的な解決を青年は望んでいたから、渋々答える。
「俺の所為で捕まったろう。俺を手伝わなければ、捕まらなかった。他人に自分の不始末を押し付けるのは嫌いなんだよ」
それを聞いた梔子ユメは、何だか目を輝かせている。続けて、質問が飛んでくる。
「あのお金は? 全部持って行っても良かったのに、どうして残したの?」
「アレは汚い金だと言ったろう。俺はああいうのは表立って使いたくないんだ。足がつくし、真っ当に稼ぐ手段なんて幾らでもあるから」
梔子ユメの目の輝きが増した。このまま行くと、目から光線でも放ちそうな雰囲気に青年は辟易する。
「おじさんは、どうしてアビドスに居るの? しばらくいなかったけど。外にいたんでしょう? 態々戻って来るなんて、どうして?」
「それは……」
それは、答えられなかった。追っ手を撒くためという答えはあるが、それは今回だけの理由なのだ。
青年には何もない。ただ、このアビドスに最初に居たから、ここに何かがあると思ってとどまっているだけだ。それを梔子ユメに言ったところで、どうなると言うのだろう。
「……何か事情があるんだね。だから、おじさんはアビドスに居るんだ……よし」
言い淀んだ青年を見た梔子ユメは、何かを決心した様子だった。おずおずと。でも、決意を込めた目で青年に聞くのだ。
「アビドスに居るのなら、その間だけでもいいから、私を手伝ってほしいんだ」
「……嫌だね」
素気無い断りの言葉に、梔子ユメは怯まない。それどころか、どこか嬉しそうだった。
「タダなんて言わないよ? ちゃんと私には渡せるものがあるし」
「どうせ、小遣い程度だろう? そんなもので人を使おうと思うなよ。お前の都合で、俺を振り回すんじゃない」
青年は強く拒絶する。話の流れが、梔子ユメに持っていかれていた。後はさっさと返すだけだったのに。お礼から、質問に繋げられてどうしようもなくなっていた。
さっきも言った通り、強引に追い出せない。どうせまた明日来るからだ。同じような事を言って、同じ光景が繰り返されるだけだ。梔子ユメには納得して帰ってもらわなければならない。
だから、対価を条件にするしか青年には手段が無かった。たかが一生徒だ、青年を動かせるほどの物を提供できるはずがない。身売りなどしても、そんな価値はないと突っぱねられる。金銭も汚い金は御免だと突っぱねる。これで勝ち確のはずなのに、全く不安がぬぐえなかった。
「おじさんには、身分が無いんでしょ? だから、ここに住んでる。私なら何とかしてあげられるよ?」
それは、確かに対価になり得るものだった。青年には身分証明をするものがない。だから、家を借りる事もできないし、アビドスの外では表で働くこともできない。
流石に青年とはいえ、それを手に入れる事は出来なかった。そこまでの技術も伝手もない。学生の身分はそれほどまでに重要なモノだった。
「お前が、それを何とか出来るって? なんだ? そういう店でも教えてくれるって?」
青年は鼻で笑う。それなら跳ね除けられる。そういったものは、真っ当に使う場合は合法でなければ意味がない。それに、そんな場所には網くらいは張っているだろう。
それでも、梔子ユメは自信ありげな顔だった
「うん。できるよ。私は、アビドスの生徒会長だからね」
「……? は?」
青年は言葉を失った。確かに、それなら納得だ。生徒会長は自治区の最高権力者だ。アビドスは滅びかけとはいえ、まだ自治区の体裁は保っている。それは可能だ。生徒会長が手順に則ればできるのだ。
だが、そんな権力者が、こんなところを、一人でほっつき歩いているのが信じられなかった。
「お前、生徒会長だったのか?」
「そうだよ? 知らなかったの?」
知るわけがない。生徒手帳にそんな事は書いてなかった。狼狽える青年を見て、梔子ユメは自慢げだ。
「ふふん。びっくりしたでしょ」
「……なんだ、この危機感の無さは」
青年は脱力する。梔子ユメが攫われた理由が分かった。アビドスの生徒会長だからだ。生徒会長なら生徒名簿など見放題だし、分校の電気消費量なども簡単に見れるだろう。そして、今の青年にとっては厄ネタの塊だ。
この前みたいな騒動が、梔子ユメの傍に居ると降り注ぐ。そのくせ、梔子ユメはそのことを気にしていないように見える。梔子ユメの提案は、青年にとっては簡単に頷けない。
「でも、おじさんは、そうとは知らなくても助けたんだね」
梔子ユメの満面の笑顔に、青年は怯んだ。彼女の善性が前面に押し出されている。このまま押し切られる。
「……さっさと帰れ」
もう、青年に出来るのはこれだけだ。梔子ユメが諦めるのを待つだけ。もう意地の張り合いだった。いつまでも耐久戦をする意思は青年にあったが、梔子ユメは意地悪そうな笑みを浮かべた。
「帰ってもいいけど、おじさん。この校舎を勝手に使ったよね? 生徒じゃないのに」
「……」
「水も電気もガスも、無断で使ったよね?」
背中に冷や汗が流れた。これで、下手なことは言えなくなってしまった。状況が悪いのは青年の方だ。だから汚い方法は嫌いなのだ。こういう時に非常に困る。まともに言い返せなくなるからだ。
「生徒だったら、使っても問題ないんだけどなぁ……」
チラチラと、ワザとらしく梔子ユメは青年を見やる。狙いが分かりやすすぎて、溜め息が出た。
生徒になれば見逃してやるとでも言うのだろう。理屈の上ではそうだ。生徒が分校を使ったところで問題はない。身元不明の不良者が勝手に設備を使用したことが問題なのだから。
しかし、そのためには、アビドスの生徒会長の協力が必要だった。青年は梔子ユメの言うことを聞かなければならない。
無視してもいい。青年がここから逃げ出せばいいだけだ。道義にもとるが、逃げ切る自信はある。アビドスには青年を追うなどという余裕はない。
だが、面倒だ。拠点を失い、経費も掛かる。青年は仕方なく二つを天秤にかけた。
梔子ユメの言うことを聞いても、面倒は降り注ぐ。だが、身分が手に入ると言うメリットはある。逃げ出した場合のメリットは、とりあえずの面倒を避けられると言う点だけだ。
天秤は梔子ユメの方にわずかに傾いている。手に入るのが、プラス面である身分と言うのが大きい。意識してか、無意識かは知らないが、梔子ユメはしっかりと対価を用意した。
自身が差し出せるものを、青年にとって価値あるものを差し出して、要求をした。最後の脅しは可愛いものだが、効果的でもある。
腹立たしい。丸め込まれそうになったことも、どこか仕方なく思っている青年自身も。
仕方ない、本当に仕方なくだ。本当に仕方なく負けを認めてやろう。
「チッ……負けか」
そんな青年の呟きと、その後に続く答えを聞いて、梔子ユメが満面の笑顔を浮かべた。