ホシノ同級生相棒概念 作:洞鼬
「うあぁああああ──なんで──!」
「話は聞いてるわよ。そんなことして、ただで済むわけないでしょうが──!」
早朝、セミナー本部にそんな叫び声が聞こえてきた。やっぱり予想通りのコユキの叫び声に、カヤツリは薄く笑う。ユウカは手加減などしなかったらしい。盛大に雷が落ちていた。
「死ぬかと思いました……」
そして、予定時間ギリギリまで止むことはなかったので。コユキは水族館行きの車内で魂が抜けかけていた。
コユキの両隣はユウカとノアに固められている。まるでヴァルキューレに護送される容疑者のようだ。
そのせいか運転席からのバックミラーに映るコユキは、白目を剥いて口元も半開きだ。それを冷たい目で鏡の中のユウカは睨んでいた。
「……やる事があるはずですよね?」
「うわあっ!?」
コユキの隣。ノアからの続けざまに放たれた言葉。その凍死しそうな冷たさに、コユキは飛び上がる。そのまま、どこか言いにくそうな雰囲気で、ミラー越しにカヤツリをチラチラ見ている。
「その……あのぉ……カヤツリ先輩?」
「なんだ?」
アクセルを踏みながらの返事に、コユキは怯んだ。助けを求めるように、両隣の二人を見るが、助け船はない。
沈黙が車内に満ちるが、カヤツリの隣、助手席のドローンが進行方向を告げる。それを皮切りにノアが口を開いた。
「あと、もう少しで到着ですよ?」
「コユキ、分かってるでしょうね」
ユウカにも追い打ちをかけられる始末で、コユキは涙目になっている。それでも、コユキはたどたどしく言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい……」
「何に対して? お前、どうして、何に謝ってる? 何が悪かったと思うんだ?」
この返しは予想外だったのか、コユキは固まる。両隣に助けを求めるように目をやるが、無駄だ。
二人も、困ったかのように互いに目配せしているからだ。
どうせ、カヤツリに謝るようにコユキに言ったのだろうが。それでは意味がない。今までの事がそれを証明している。
それだけではダメなのだ。普通ならいいかもしれないが、今のコユキはダメだ。
また繰り返すだろう。コユキに言ったことは、対症療法に過ぎないからだ。
ある程度は期待したが、根本的解決にはテコ入れが必要だとカヤツリは判断した。
「それは……カヤツリ先輩のお金に手を出したことです……」
「なるほど、何で手を出した?」
またコユキは言葉に詰まった。良い兆候だ。前までなら、金は回した方が良いとか。クソにも劣る言い訳で逃げただろうから。
「それは……庇ってくれなかったから……」
「その腹いせだと。そんで、それを謝ると。俺に許して欲しいって言うんだな?」
コクコクとコユキは頷く。両隣の二人も上手くいった事に安堵したのか、一息ついていた。だが、まだ早い。
「嫌だね。何で許さなきゃならないんだ?」
「カヤツリ先輩!?」
ユウカが焦ったように大声を出すが、カヤツリには関係ない。
「なぁ、何で謝って終わりだと思う? 許す許さないの権利は俺にある。お前の謝罪に何の意味があるんだ?」
ノアが目を見開いて、信じられないようにカヤツリを見ている。ちょっとばかり、悪い大人相手のカヤツリを出しているから当然だ。
「被害は出なかったからいいじゃないかとか思っているだろ」
「うっ……」
不満そうなコユキへ不意打ちを放つと、バツの悪そうな顔でコユキは呻く。車内の空気は最悪だが、カヤツリは手を緩めるつもりはない。
隣のドローンに聞こえる声で、言う。
「それが効くのは、ある程度の関係性がある奴だけだ。長い時間をかけて積み上げる信用があるからこそ、その人間の謝罪に意味がある。今回の場合は、謝罪自体に意味はない。誰がやるか。重要なのはそれだけだ」
カヤツリは、ミラー越しにコユキを一瞥する。昨夜の様に顔が引き攣っていた。
「そして、お前がやったのは、信頼を粉微塵にする行為だ。元々貯金もなかったが、そんな奴に謝られてもな。謝罪する事自体に意味はあるが、お前の謝罪には意味がない」
「じゃあ、どうすればいいんです……」
いじけたように言うコユキだが、カヤツリは冷たく言い放つ。
「何も無い。謝罪が受け入れられない以上、今のお前に出来る事は何も無い」
「何で、そんな意地悪……」
コユキは完全にいじけたらしい。昨夜許してもらえたと思っていたらしい。カヤツリにとっては、許すも許さないも、何も言っていないのだが。
「俺が意地悪だと。そうやっていじけるのは結構だがな。これまで、何で大丈夫だったと思う?」
「これまで……?」
何を言われているのか分からない。そんな表情のコユキに溜め息しか出ない。だから、これまでの悪業をカヤツリは並べ立てる。
「俺以外の財布にも手を出しただろう。他の部活やセミナーの予算。誰も、早瀬会計や生塩書記以外に、誰にも、何にも言われた事が無い筈だ。何でだと思うよ?」
「それは……私がセミナー所属だから?」
「リオが何とかするって? 違う。金っていうのは、お前が思うよりも重い物なんだよ。人を傷つけるに足る理由に真っ先になる物だ。そして、額が額だ。普通は文句の一つや二つは出る」
コユキは黙ったままだ。両脇の二人は居心地が悪そうにしているが、それはカヤツリの小言のせいだけではない。
その答えをカヤツリはコユキへ教えてやる事にした。
「答えは簡単だよ。お前の代わりに、誰かが後始末をした。自分のせいじゃないのに、頭を下げて、補填した誰かがいただけの話だ」
「それって……」
「さあ? 俺はそんな物好きが誰かは知らないが。少なくとも、お前の先輩だろうさ」
何にも言わない左右を見回したコユキは、何かを察した様子だった。
「後輩のミスは先輩が何とかするものだ。けれど限度がある。そのくせ、当の本人はそのことを知らないし、気にもしない。その上、疑問にも思わないときた。そんな人間の謝罪に価値はあるのか?」
答えは簡単だ。全く無い。コユキにも分かるだろう簡単な答えだ。
またバックミラー越しにコユキを見れば、大分堪えたらしい。かなり落ち込んでいる様子だった。
今のコユキなら、大丈夫だろう。これで開き直れるほど、終わってはいなかったらしい。
「それで、許して欲しいんだったか?」
「……私に出来ることはないって……」
「今のお前は。俺はそう言った。そして、お前は知ったな? お前の代わりに誰かが後始末をしていた事を。その事をお前は知りもしないでいた事。それを知って、その態度なら。一つの約束を守るだけでいい」
静かに頷くコユキを見て、カヤツリは告げる。
「ミスをするなとも、問題を起こすなとも言わない。俺だってとんでもないミスをしたことはある」
一瞬、桃色の髪がカヤツリの脳裏をよぎったが無視を決め込む。
「だから、間違いをすることには怒らない。謝ってくれれば許すし、改善に手を貸すことだって吝かじゃない。けれど、ちゃんと考えて欲しい」
行為自体は簡単なことだ。だが、コユキにとっては難しい。けれど、皆やっていることだ。コユキが皆のようになりたいのなら、同じようにするしかない。
「お前がこれからしようとしていることは、どんなことを引き起こすか。その場だけじゃなくて、その後の事。その後自分が、自分の周りがどうなるかを考えて欲しい」
言葉にせずとも、ユウカとノアがコユキの尻拭いをしたことは伝わったはずだ。普通に考えれば分かる事だが、コユキは分かっていない。だから教えた。無知は罪ではないからだ。
「分からないなら聞いてくれ。俺じゃなくても、誰でもいいんだ。お前の先輩は俺だけじゃない。早瀬会計や生塩書記や、リオだっている」
バックミラーのコユキの目が不安そうに揺れていたが、それは無用の心配だった。
「分からないことだらけなのが当然だ。まだ一年生なんだ。そして、まだ。他人に聞くことが許される時期なんだから」
もう、カヤツリが言うべき言葉は一つだけだ。もう言うことは何もない。
「それを約束できるか?」
カヤツリは、ミラーから目を離した。もう見る必要はないからだ。
車内に、元気なコユキの返事が響いた。
□
『大したものね』
水族館。クラゲの水槽の前で黄昏るカヤツリの隣から、そんな声が響いた。
軽く視線をやれば、ここまで連れて来た円盤状のドローンが浮いていた。無機質なカメラレンズがカヤツリを見つめている。
「やっぱり、聞いてたんじゃないか。連れてけ何て言うから、そうだとは思ったけど」
ドローンからの声はリオだった。それも、当然の話ではある。昨夜のコユキの事を報告してすぐ、仕舞ってあるAMASとかいうドローンを同行させろと言うのだ。
助手席で車内の会話も聞いていたに違いない。リオもリオなりにコユキの事を心配していたのだろう。
『コユキはどうしたのかしら』
「聞いてたんじゃないのか?」
『いいえ。車内での会話が最後よ。様子を見るに視察は終わったようだけど』
リオの言う事は正しい。視察はとうに終わっている。今は自由時間といった所だろう。
コユキは一目散に駆け出して、姿は見えない。ユウカもノアも、二人で周っているようだった。折角の遠出だし、二年生組も楽しめればいいとカヤツリは思っていた。
状況を聞いたリオは、再度カヤツリに聞く。
『コユキの様子は?』
「いつも通り。こればっかりは、時間をかけないと分からない」
平常時はどうでもいいのだ。問題は、コユキの悪癖が発動した時だ。カヤツリに声を掛けるか掛けないのか。他の人間に聞けるのか。その時にコユキがどうするかだ。
『つまり、変わっていないかもしれないということ?』
「いや、そうは思わない。アイツ、謝ってた」
『貴方に?』
「いいや、それだけじゃない」
『そう……それは良い事ね』
リオの声は少しだけ緩んでいた。悩み事が一つ減ったせいかもしれない。ついでにと、カヤツリの方も質問することにした。
「そっちはどうだ? 何か進展は?」
『あったわ。でも、今は手詰まりと行った所かしら』
何やら、怪しい部屋を見つけたらしい。けれど、扉にロックが掛かっていて開かないのだという。C&Cが発破解体を試みたが扉は無傷。この後ヒマリにも頭を下げるらしいが、それもダメであればコユキの出番かもしれない。
『貴方は大丈夫?』
「何が?」
聞き返すカヤツリに、リオは信じられない事を言った。
『車内の貴方のバイタルデーター。随分と異常値を示しているけれど、何か──』
「なんて?」
思わずカヤツリは聞き返すが、リオは当然のことのようにもう一度同じことを言う。
『だから、AMASで観測した貴方のバイタル。随分と脈拍が上昇していたわ。発汗、呼吸数、体温も同様ね。コユキに説教をしていたとはいえ、この数値は異常よ。警報が鳴るから、何かと思ったのよ』
プライバシーだとか、そういった事を声高に叫びたかったカヤツリだが、リオは意見を聞き入れる様子では無いことが容易に分かった。こういう時は逆らわない方が話が早い。
「はいはい。それで? 何を聞きたい?」
『コユキに対しての丁寧な対応についてよ』
面倒な事に、リオはこの話題がとても気になるらしい。カヤツリは突然水槽のクラゲが羨ましくなった。
「至って普通の対応じゃないか。先輩らしくていい」
『昨夜だけなら、私もそう思ったわ』
犯人を追い詰める探偵のように、リオはカヤツリを問い詰める。
『今朝のを含めて二段構えだったんでしょう? だから最初に、夜の誰も居ない間にコユキの秘密を聞き出した。ユウカやノア、私がいる中ではあの娘は絶対に言わなかったから。コユキには、貴方が特別な能力のない人間に見えていること。それを貴方は知っていたから。反省部屋に反対しなかったのも、全部計算ずくだったでしょう?』
元凶が居る前で、お前のせいだと白状する人間は居ない。陰口と同じだ。そういうことは誰も居ないところでは言いやすい。そうでなければ言えないものだ。
『貴方はコユキを誘導した。反省部屋に閉じ込められたコユキが、逃げ出した後どうするか分かっていた。だから、直ぐ近くに居たんでしょう? 到着が早すぎるもの』
カヤツリのパソコンを腹いせに弄りだすのは予想外だった。あれでこんな急ピッチになった事以外は概ね当っていた。
『夜の間に、貴方はコユキ自身の問題を解決した。けれど、貴方はそれだけでは足りないと考えたのね。ユウカとノアを同乗させたのもそのため』
そうだ。コユキの問題。コユキの力と我慢については仕方のない事だ。それについての解決策は提示したが、コユキの問題はまだあったのだ。
カヤツリのパソコンを弄った理由が問題だった。まさか、あんなに引き金が軽いとは。
コユキの一番の問題は、異次元の開錠能力ではない。倫理観のなさだ。普通はストレスが溜まったからと、金を盗まない。普通は他の手段を模索するものだ。
コユキは不満が溜まって、そういう行動を取ると思っていた。しかし、そうではなかった。これではガス抜きの場を用意したところで、何も変わらない。
カヤツリの想定以上の倫理観の欠如。本当は効果判定の為に様子見の予定だったが、荒療治に舵を切った。リオが勘付くのも当然だ。
『コユキに後始末の事を理解させるのに一番なのは、ユウカとノアに喋らせること。でも、それは難しい。あの二人はコユキを可愛がっている。コユキは直接二人にそれを言われたならどうなるか分からない。だから、貴方が話した。それが本当かどうかは、二人の態度が保証してくれる。貴方は、あの三人の仲を最小限の傷で留めた。その状態で、コユキへそのことを伝える事に成功した』
ノアやユウカが、コユキへ後始末をしていたことを言えないのは分かっていた。あの二人はとっても甘い。それがコユキの増長を止められない原因でもある。それを止めるには言えばいい。
──お前のせいで迷惑してる。もう、うんざり。
そう言えば、コユキは止まるだろう。無いのは倫理観だけで、人の心はあるからだ。仲が良いと思っていた先輩に迷惑を掛けていて、そのせいで嫌われる。自分が気がついていなかっただけで、ずっと自分は先輩を傷つけていた。自分で自分の居場所を破壊した。
その事実を叩きつけられれば、コユキはどうなるか分からない。居場所と友人を失えばどうなるか。それはカヤツリ自身が良く知っている。カヤツリはギリギリ耐えたが、コユキは無理だろう。自身の核がまだ何もないからだ。
だから、カヤツリが言えばいい。コユキは嘘だと現実逃避する。そこに、ノアとユウカが居ればどうだろうか。二人は不意打ちには強くない。ノアは怪しいが、ユウカは取り繕えまい。
二人の態度でコユキは察するだろう。傷つくだろう。しかし、直接言われるよりも万倍もマシだ。その後はカヤツリ得意の口八丁で丸め込めばいい。実際、嘘は言っていない。
「正解、正解、大正解。それで? 聞きたいのはそれじゃないだろ?」
『ええ。私が聞きたいのは、何でそこまでの手間をかけたかよ』
リオは、静かに。けれど心配するような声色でカヤツリへと問うた。
「コユキがちょっとダブって見えたんだ」
『貴方と?』
カヤツリは答えなかったが、リオは肯定だと解釈したようで、ドローンを揺らして続きを促した。
「アイツは、無自覚に近しい人間へ迷惑を振りまいていた。その上、自分の事でいっぱいいっぱいでそのことに気がついてすらいなかった。放って置いたら、あの三人の破綻まではそう遠くなかったかもな」
『貴方もそうだったの?』
「似たようなものだよ。そして、俺は破綻した。二度目は見たくなかった。だから、手を出した。結構面倒だったけどな」
カヤツリは自覚は無いが、そうだったのかもしれない。ホシノやユメ先輩やノノミ、シロコへ迷惑を振りまいていたのかもしれない。あの日に、それが爆発したのかもしれない。
だから、コユキを見た時。手を出すことを決めた。何度も思った事だ。誰か、話を聞いてくれる誰かが居たら。ああはならなかったかもしれないなんて。
そして、それは証明された。上手くいって、過去を振り切っていけるかと思ったが、気分はあまり良くはなかった。それは、リオにはお見通しだったらしい。
『それで、不機嫌そうなのね。私にも経験はあるけれど、過去の失敗を幾ら上塗りしたところで、意味はないわ』
「ふぅん。リオはどうしているんだ?」
そう聞かれたリオの声は、少し上機嫌そうだった。心なしか、ドローンもリズムよく揺れているように見える。
『結果だけ覚えておくの。どうしてそうなってしまったか。それだけを覚えておけばいい。取り返せないモノをいつまでも抱えるのは非合理だわ。それは絶対に取り返せないモノよ。時間でも巻き戻さない限りはね』
「……参考にする」
『ええ。貴方の役に立ったようで何より……何かしらネル。今、良いところなのだけれど』
リオの機嫌良さそうな声が途切れて、奥の方から不機嫌そうな乱暴な言葉が聞こえた。どうにも立て込んでいるらしかった。
『そう……カヤツリ。申し訳ないのだけれど、用事が出来たわ。また何かあったら連絡を頂戴。まぁ、バイタルデーターの反応でも分かるから、緊急事態も安心よ』
最後の発言が全く安心させてはくれなかったが、反論を言う前に通話は切れてしまった。後は、ドローンが無機質な動きで揺れているだけだ。時計を見れば、そろそろ戻らなくてはいけない時間だ。残りの三人も残業は勘弁だろう。
「土産でも買っていくか?」
ふと、水族館の出入り口の売店を思い出した。ついでに嫌な事も思い出したが、リオの忠告通りに振り払う。
なんだかリオが仲間外れの形だ。お土産くらいは持って行った方が良いだろう。さっきの件の礼もかねてだ。あの鉄面皮が崩れるかは分からないが、これは気持ちの問題だから。
足早に入口へと戻ると、売店へはすぐに着いた。目当ては菓子系統だ。こういう時は仕事中にも摘まめる消え物が一番。そうやって探すカヤツリの目に、鯨のインテリアが目に飛び込んできた。
──なあに、ホシノちゃん。これが欲しいの?
──……ただ見てただけです。
かつての光景。ホシノとユメ先輩の幻影がカヤツリの視界に映る。冷や汗と動悸が激しくなる。今頃、リオの方ではアラートが鳴り響いているだろうが、どうしようもない。
この水族館は、かつてホシノとユメ先輩。三人で来た場所だ。今回の視察は、大規模リニューアル後の視察なのだ。配置は変わったが、変わらない所もある。この売店とクラゲの水槽がまさにそうだった。だから、カヤツリはあそこにいたのだから。
しかし、そろそろ切り替えるべきかもしれなかった。リオの言う通りに。この水族館みたいに、大事なところだけ残して、後はリニューアルしてしまうのだ。本当なら、もっと早くするべき事柄だ。
「カヤツリ先輩……? カヤツリ先輩!!」
大声の自分を呼ぶ声に、カヤツリは振り向く。遠く、フロアの端。マフラーを巻いた女生徒が、自分を見ていた。遠くて判然としないが、くすんだ灰色ともつかない髪色の生徒だ。
正直、見覚えが無い。似た生徒は知っているが、背丈と制服が合わない。候補はあるが、一年経ったとはいえ、こんなに大きくなるのはあり得ない。
「何だ……お前」
「は……!? 悪ふざけは止めるべき!!」
小声なのに、カヤツリの声が聞こえたのか、その生徒は大声でカヤツリを詰った。それどころか、凄まじい勢いで駆け出して、此方へ近づいてくる。
「訳が分からん!!」
品定めもそこそこに、売店からカヤツリは逃げ出した。あんなのに捕まったら、どうなるか分かりはしない。良い予想は全くできない。
「ええい、黒崎はどこだ!」
ノアとユウカはどうにでもなる。電話すれば車の所まで行ってくれるだろうし、聞かれても誤魔化してくれる。が、コユキはそうもいかない。その場で察せられるとは思えない。説明する時間はないから、カヤツリで確保する必要がある。
そしてカヤツリは全速力だが、人混みの所為で中々距離を離せない。今は人混みに隠れつつ、コユキを探すが、何時までもは続かない事は自明だ。
「いた! 黒崎!」
カヤツリの視界に、念願の桃色の髪が映った。何度も呼びかけるが、背中を向けたまま無反応だ。まさか、朝の事を根に持っているのだろうか。
仕方なしに、距離を詰めざるをえない。
「おい、黒崎!!」
水槽の前に佇んでいるコユキに近づいて、小声で話し掛けるが、全く無反応だった。イラつきながらも、もう一歩近づいて片手を掴んだところで、聞き覚えのある声がした。
「何やってるんですか。カヤツリ先輩……ナンパですか?」
「何……!?」
コユキが面白がった目で、カヤツリの後ろにいた。どうやら、カヤツリがコユキだと思っていた目の前の人間は人違いらしかった。とんでもない失態だ。
「……本当に申し訳ない。人違いでこんなことを……」
「……夢じゃない……本物だ……」
「うん……?」
カヤツリが手を放したが、その場から離れられなかった。何故なら、目の前の、コユキと勘違いしていた人物がカヤツリの手を掴んでいるからだ。その上、何かブツブツと呟いている。
しかも、カヤツリの手を握る力が強くなっている。指がミチミチ音を立ててカヤツリの腕に食い込んだ。
「何で逃げようとするの?」
「は……」
まるで、カヤツリの事を知っているような物言いに、カヤツリは困惑する。そして、まじまじと眼前の人物を見て、カヤツリは今度こそ固まった。それが誰なのか分かったからだ。
「もう、絶対に離さないよ。カヤツリ」
二年生の時とは違う姿の。長い髪を下ろした小鳥遊ホシノが、カヤツリの目の前に立っていた。