ホシノ同級生相棒概念 作:洞鼬
喧しい音がノノミの頭を揺らした。
半ば無意識に、その犯人を片手で黙らせる。その時にありえないはずの強い日差しがノノミを照らした。
「眩しい……朝?」
ノノミはベッドから半分起き上がって、瞬きを繰り返す。なんだか変な感じだが、ボヤけた思考は黙らせた時計を見た瞬間に吹き飛んだ。
「いけない……!」
何回目のアラームだったのか。遅刻ギリギリの時間に、ノノミは顔を青ざめさせる。学校まではまだ間があるが、それは今は関係が無い。寝坊して遅れたなどと知られては、待ち人たちに弄られることは目に見えていた。
お陰で一気に目覚めた頭で、ノノミは身だしなみを始めるも、女子の身だしなみというのは時間が掛かるものだ。手抜きで姿を現わす方がみっともない。
そんな事をしているうちに、目標の時間などとうに回ってしまっていた。
「ごめんなさい……!」
そんな言葉と共に食堂に飛び込めば、四つの瞳がノノミを見た。
「遅かったわね。ノノミ」
「寝坊かな?」
ノノミの両親が、食事の手を止めてノノミを見ていた。あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になる。
「彼はもう行ってしまったわよ」
「出勤ギリギリまで待ってはくれたんだが……」
両親が、空っぽの席を見る。そこに座っていたのが誰かなんて言われずとも分かった。
その人間は、両親の言う通りに、本当に待ってくれていたのだろう。
特別な間柄で、同じ建物に住んでいるのに、一日中会わない日がある。今回はノノミの寝坊と来た。朝だと言うのに気持ちが沈んでくる。
「……そんな調子で、彼とは上手くいってるのかしら」
「うっ……」
痛いところを突かれてノノミは呻いた。それなのに、何故か言った方である母親が驚いた顔をしている。
「本当に上手くいっていないの?」
「いえ……」
「その様子、上手くいっていないのね?」
しどろもどろに誤魔化すも、自身の母親であるだけに全く通じていない。母親は完全に朝食の手を止めてしまって、考え込んでいる。
「まさかとは思うけれど、最近は全く顔を合わせていないのかしら?」
「ううっ……」
又も図星で、その様子を見た母親が大きく溜息をついた。
「おかしいわね。ちゃんと私は聞いたはずよ。彼でいいのかって。貴女もそれが良いって、彼が許嫁が良いって言ったでしょうに。嫌いなわけじゃないんでしょう?」
母親はため息をつくのをやめて、一転した真面目な表情になる。怒られるような雰囲気ではないが、ノノミの背筋が伸びた。
「いいかしら。許嫁だからって安心してはいけないの。カミガヤさんは、不満に思っても決して表には出さないでしょう。だからと言って、それに甘え続けるのは十六夜家如何に関わらず女性としてどうかと思うわ」
今すぐにノノミは部屋に逃げ帰りたくなった。寝坊の末に遅刻してきたのが良くなかった。母親は完全に説教の態勢へと移行している。父親とは言えば、ノノミと母親の間に口をはさむつもりは無いのか、完全に静観の構えだ。余計な口出しをして、流れ弾が飛んでくるのは誰だって避けたい。
「まさか、不安なのかしら。カミガヤさんが貴女をどう思っているか不安だとか」
「……私はネフティスの令嬢なんですよ」
「ええ、それはそうです。貴女は私たちの子供、当然です。まさか、誰かから橋の下から拾われてきたなどという戯言でも聞いた? 貴女がネフティスに相応しくないとか。そんなもの言わせておけばいいの。唯のやっかみ。ノノミ。貴女の頑張りは知っているわ」
全くそういうわけではない。見当違いも甚だしい。ノノミ自身がそれを気にしているのは事実であるが、それとこれとはまた違う話だ。
「だから、私がネフティスの令嬢だから……」
「ああ、だから断らなかったと。貴女はそう思っているのね。貴女だから了承したのではなく、ネフティスの令嬢だから彼は断れなかったと」
母親は、さっきよりも大きいため息をついていた。顔を覆う片手の指の隙間から、ノノミと同じ色の瞳が覗いていた。
「馬鹿ね。ノノミ。そんなことは無いって、貴女が一番知っているでしょう? 貴女たちは幼馴染なんですもの」
瀬戸カミガヤ。ノノミの幼馴染。増えた肩書はノノミの許嫁。さっきから母親が気にしているのはカミガヤとノノミの関係だった。
幼馴染といっても、ノノミにあるのは二年前からの記憶だけだ。進路に悩んでいたノノミの元に、世話係としてやってきたのがカミガヤだった。あの頃のノノミは荒れていた。今となっては反抗期だったのだろうなと思えるが、思い返しても些かひどい。何もかもが上手くいかないのを他人のせいにして、それを他人に当たり散らしていた。
当たり散らす癖に問題は全く解決してはいないから、罪悪感でストレスが溜り、また周囲に当たり散らすと言う負のループが完成していた。そんなノノミの元にやって来たのがカミガヤである。
カミガヤはノノミの扱いが上手かった。それが幼馴染ゆえか定かではないが、ノノミは何とか反抗期を抜け出せたのである。
そこで、両親が言ってきたのだ。カミガヤを許嫁にするのはどうかと。
どうやら、ノノミの知らないところでカミガヤはネフティスの仕事をしていたらしかった。その仕事の出来は素晴らしく、ノノミの仕事も投げ出さない。元々はカイザーで働いていたのに裏切る気配も無い。ともなれば、早い話が囲い込みだ。
そして、両親はノノミがこのことを理解しているのを分かったうえで聞いてきている。カミガヤを囲い込むためにノノミを使う。それでいいかと。
何より腹立たしいのは、それが表向きの理由であると言うことだ。自分で言うのも腹立たしいが、両親から見てノノミは分かりやすいらしい。ノノミのカミガヤに対する好意を分かったうえで、この話を持って来ていた。勿論、ノノミは頷いたのだが。
そして、ノノミが気にしているのは、カミガヤがノノミをどう思っているかである。カミガヤからしたら、両親の提案を断れるはずもない。だって立場的には両親やノノミの方が上だからだ。
ノノミは無理やりカミガヤを手に入れても嬉しくはないのだ。カミガヤが拒否しないのが答えではあるが、乙女心的には気にするところしかない。
「本当に嫌だったらね。カミガヤさんはとっくに辞めてるわ。だから安心なさい。安心できないなら、買い物なり映画なり遠出するなり。色々やりようはあるでしょうに。デートの一つでもしなさいな。婚約者同士なんだから恥ずかしくないわ」
「無理やりは……」
そうするためにノノミは確信が欲しいのである。恥ずかしい恥ずかしくないの問題ではない。だが、母親の目に呆れが混じり始めた。
「……相変わらず、肝心なところはヘタレるのね」
「いや、全然時間が取れない……」
ヘタレと言われるのは仕方がないところではあるが、ノノミにも言い分というものがある。時間が全く取れないのだ。ヘタレて会話ができないわけではない。だが、母親は待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「じゃあ、今アポを取りなさい。だったら時間が取れるはずよ。私の携帯を使っていいから、今すぐにやりなさいな。ヘタレでないのなら出来るでしょう?」
指先で自身の携帯電話を揺らして母親が笑う。親の携帯であれば、カミガヤは出るだろう。そうでなくても、ノノミからなら出てくれるだろうが。それは両親も分かっている。ならなぜ、今ここで自身の携帯を使わせてまで予定を立てるのか。
「……」
無言でノノミは通話ボタンを押すだけの携帯を取って、ボタンを押し込む。耳元で呼び出し音が鳴り始める。
ここまでした理由は簡単だ。単純にお膳立てである。ノノミが逃げないように、適度にプライドを刺激しつつノノミを嵌めた。そうしてくる母親にも、止めない父親にも、そうされないと動けない自分に腹が立つ。
『もしもし?』
「ノノミです。少し予定を聞きたいんですけど」
『……なに怒ってる?』
そのせいか、少しだけ語気が荒くなった。それがカミガヤに伝わったことが恥ずかしくて、ノノミは言葉に詰まる。
「今の私の事は良いじゃないですか。カミガヤさんの予定を聞きたいんです。買い物に付き合ってほしいんです」
買い物でいいの? デートって言わなくて? そんな言葉は聞こえない。聞こえないったらない。
『……何のために? 一人で出来るだろう?』
「皆と摘まめるお菓子を選びたいんです。カミガヤさんなら、そういうの知ってるでしょう?」
へぇとばかりに母親がにやけている。ノノミは見えないふりをして、カミガヤの答えを待つ。時間が流れるのがやけに遅く感じる。
『……分かった。今度、時間を空ける。忙しいから切る』
ノノミが返事をする前に、電話が切れた。
「よかったわね」
ニヤニヤしながら母親が携帯を回収した。そして揶揄う様に言う。
「普段から今みたいにすればいいのよ。お互い踏み込まないんだから……」
「そういうの嫌です。カミガヤさんに飲み込ませたんです」
ノノミは仏頂面になる。今のは偶々上手くいったか、カミガヤが引いてくれただけだ。そうやって他者に強要するのはノノミの好みではない。
でも、両親はそうは思わないようだった。
「カミガヤ君はね。毎回ギリギリまでノノミを待ってるんだ」
「そうね。ギリギリまで仕事を入れていじらしいったら。おかげで私たちは文字通りの重役出勤よ。このままじゃ、貴女より私たちと話す時間が長くなるわ」
ノノミは困惑するしかない。朝食を両親とカミガヤがとっていたのは分かる。いつもそうだからだ。いつもノノミが来る前に居なくなってしまう。それは仕事が忙しいからだと聞いている。今さっきだって忙しいはずだ。それなのに、毎回待っていた?
「貴女に合わせてるの。色々干渉すれば、貴女は気に病むでしょう? だから待ちの姿勢なのよ。それに甘んじてるのはどうなのって言ってるの。そっちの方が迷惑じゃないの? 貴女の機嫌を取るのが当然じゃないのよ」
「でも、今の方が迷惑……」
「迷惑じゃないわ。まだ言ってくれた方が迷惑じゃない。勝手に慮るのが当然なのが迷惑よ」
母親は鼻息荒く言葉を放つ。
「お互いの意見のすり合わせは上手くいかないのが当たり前。でも、それを恐れて何もしないのは押し付けてるだけ。自分の選択権を押し付けて、選択しないで楽をしてるだけ。それは甘えで、ノノミが嫌いな迷惑よ」
何故か今の言葉がノノミの胸に刺さった。黙って食事を再開した母親に代わって、今度は父親が口を開いた。
「ノノミは人に迷惑を掛けたくないみたいだけど。それは無理。ノノミだけじゃない。私たちだって迷惑を掛けて生きている。人間はそういう生き物。だから、せめて自分のやりたいことは口に出して言うべきだ。それが相手に対する誠意ってものだよ。それだけは覚えておきなさい」
堅苦しい話は終わりというように、父親も食器を手に取り始める。二人とも口に物を入れたまま話すような人間ではない。言うとおりに話は終わりなのだろう。ノノミも食事を摂ろうと食器に手を伸ばす。
朝食はおいしかった。なぜだか、いつも以上に。この空間は楽しかった。両親と食事を摂るなんて毎日の事なのに。この時間が嬉しかった。両親の説教なんて耳に痛いだけの事なのに。
両親のいってらっしゃいの言葉も何故だか新鮮で、今までにない気持ちでノノミは登校する。その理由は登校時間中も、授業中も、ずっと考えてもよくわからなかった。
□
「ホシノ先輩はなんであんなことしてるの?」
放課後、ノノミにシロコがそう囁いている。二人が見上げた先の階段の踊り場では、シロコの言うとおりに珍妙な自分が見えるだろう。さっきから視線を感じるから覗いているのが丸わかりだ。
「大丈夫かな……」
ソワソワと落ち着きなく、ホシノは踊り場を行ったり来たりしている状態。あまりにも珍妙で、シロコの疑問も当然ではあった。けれどノノミは気づいたようだった。
「ああ、鏡ですよ」
「鏡? 鏡ならトイレにもある」
シロコの言うとおりだ。鏡が欲しいならトイレにたくさんある。こんな踊り場まで来る必要はない。だが、ホシノにはここに来る理由があった。
「そうですね。普通の鏡ならトイレにあります。でも、あそこにしかない物があるんですよ」
ノノミの言うとおりに、ここにしかない物がある。それはホシノの姿を映し出すことの出来る姿見だった。うろうろしていたのは全身をチェックするためだ。これからの事を考えれば、身嗜みはチェックしておくことに越したことは無いのだから。
「……別に変なことはしてないよ」
ただ、じろじろ見られるのもいい気分ではない。ついきつい言葉が口からこぼれるが、二人は気にした様子もなく近づいてくる。それどころか、微笑んですらいるのだ。
「ん。そんなに楽しみなの?」
「そうですね。今日は来る日ですもんね」
ノノミが微笑ましいものを見る目でホシノを見ている。先輩への敬意などかけらも感じない。ホシノとしては不満だ。ただでさえこの小さな身体だ。幾ら髪の毛を伸ばそうが、目つきを鋭くしようが、後輩たちには何の意味もなさないだろう。それがホシノは嬉しくもあり、悲しくもあった。
「はぁ……アヤネちゃんとセリカちゃんが部室で待ってる。早く行かなきゃ。これ以上は活動時間に差し障るよ」
短い溜息を一つ吐き、ホシノは部室に向かって足を進めた。後ろから二人が付いてきて、シロコがホシノに絡んでくる。
「ホシノ先輩。今日の依頼は何するの?」
「そうだね。どうしようか……」
ホシノは頭を悩ませる。ゴミ拾いは先週やったし、宝探しと称した解体作業もこの間やった。流石に同じ案件がいくつも転がっているとも思えなかった。
「……まぁ、部室に何かあるかもしれないね」
まだ残っている依頼を思い出してホシノは呟く。この時間でできそうなものはすぐに思いつかないが、目処はあった。もしもなくとも、その場合は今日の活動を柴関ラーメンにすればいい。あそこで駄弁りながらの放課後を過ごすのも悪くはない。そして、考え事のおかげかすぐに対策委員会の部室が見えてきていた。
「あ、ホシノ先輩」
部室の扉を開けば、セリカとアヤネが出迎えてくれた。部室をさっと見渡すが、目当ての人間の姿はない。
「もうすぐ着くそうですよ」
「っ!? ……ありがとう。アヤネちゃん」
そんなに分かりやすいだろうか。さっきのノノミと同じ微笑ましい視線を振り払って、ホシノは席に付く。
「私の味方はセリカちゃんだけだよ……」
「ん。私は?」
シロコが不満そうに口をへの字にするが、ホシノは忘れていない。ノノミが止めるのも構わずに、ホシノを煽ってきた事を忘れていない。何がよわホシノ先輩だ。
半泣きになるまで戦闘訓練をした事を、もう忘れたとは言わさない。
だがホシノは怒らない。今日のホシノは大人なのだから。落ち着いてやるべき事をやるだけだ。
「じゃあアヤネちゃん。今日は依頼は来てる?」
「ダメですね。もうありません」
「うへっ? ホントに?」
驚いて依頼が入っている箱を見ても、茶色の段ボールの底が覗くだけで、多少は残っていた筈の依頼は何もない。
「あれは取り消しが入ったんですよ。ネフティスが動くそうで必要無いと」
「じゃあ仕方ないね」
無いなら無いで仕方がない。そもそも、このオンボス高校。対策委員会はそういう部活だ。
ここオンボス高校は、オンボス唯一の高校。唯一のと言うけれど、高校は他にもある。ハイランダーが代表的だろうか。
だが、このオンボス高校が唯一というのは普通高校という点だ。他の高校は職業高校に近く、進路が初めから決まっている。
流石のホシノも、一年生で進路は決められなくて、ここに来たのだ。そして、ある人の影響で対策委員会に入部した。
この対策委員会はオンボス高校の生徒会組織にあたる。自治区の運営はネフティスと共同で行うことになっていて、ノノミがいるのはそれが理由だった。
この土地、オンボスは砂漠に囲まれている。砂嵐だって来る。この地の大企業、セイント・ネフティスが対処はしているが足りないところはある。
そこでネフティスは依頼を出す。依頼といっても簡単なものだ。専門的なものは、ハイランダーやネフティスがやってくれる。ホシノたちがやるのは雑用くらいのものだ。だがそれにはちゃんと意味がある。
依頼はある意味で職業体験なのだ。卒業後の進路を決める一助になればいいとのことでそうなっている。もしも合わないと感じたなら、他の自治区への転入も補助してくれると至れりつくせり。
それらの依頼を纏めて、人気の無い物は請け負ったりと、対策委員会はそういった業務だった。
よって、依頼がなければどうしようも無いのである。無いから仕方がないのだ。
「……何でホシノ先輩はソワソワしてるの?」
とうとうセリカが同じような台詞を吐いて、ホシノは裏切られた気分になる。何とか言い訳をしようと口を開くが、ノノミの方が早かった。
「今日はホシノ先輩の先輩が来るんですよ」
「あー……そういえばそうね。もう、週末か……」
セリカがアッサリ納得して、ホシノは愕然とした。これでは、そもそも最初から知っていたみたいではないか。
なんだか騙されたような気になって、そっぽを向くと、階段を上る音がした。
「……ッ!」
ホシノは席に座って身だしなみを再度確認。一通り終わって安心したところで、扉がガラガラ開いた。
「皆、元──」
「ユメ先輩! 来てくれたんですね!」
持ち前のスピードで、ホシノはユメの前に回り込んだ。何故だろう。何回も会っているはずなのに、衝動が抑えられなかった。飛びつこうとしたホシノを、制服ではない大人っぽい服装のユメは指で止める。
「ダメだよ。ホシノちゃん。このまま飛びつかれたら私、転んじゃうよ。喜んでくれるのは嬉しいけどね」
「……ごめんなさい、ユメ先輩。あれ、もう一人はどうしたんですか?」
「何のこと?」
「何のことって……あれ?」
ホシノは思い出そうとして、何も思い出せなかった。いつもユメが来たら、もう一人いたような気がしていたのに。気のせいだったのだろうか?
「じゃあ、皆にお土産だよ! ちゃんと分けてね~」
ユメは不思議そうにホシノを見た後、後輩たちへとお土産を配り始めた。ユメ先輩はいつもこうだ。定期的にホシノたちの様子を見に来てくれて、お土産までくれる。
今日は大きなホールケーキのようで、ユメが付属のナイフで人数分に切り分けようとしてくれていた。マズいとホシノは焦る。
「ユメ先輩。私が切りま──あれ?」
「どうしたの? ホシノちゃん。流石にケーキくらい切れるよぉ」
スパスパと手際よくユメはケーキを切り分けていく。どうにも失敗して泣きそうな気がしたが、杞憂だったらしい。流石にユメ先輩ももう大人だ。昔みたいにどん臭いのは卒業したのかもしれない。それが少し悲しい。
「ほら、ホシノちゃんの分だよ」
お礼を言って受け取ったケーキは甘くておいしかった。悲しい気分は甘味で飛んで行く。それにユメが居るのだ。嬉しくないはずがない。
──もう一人……
──黙れ
ケーキを楽しんでいると何かか細い声が聞こえて、耳を澄ます。でも聞こえたのは一度だけで、注意深くそばだてた耳に、大声が飛び込んでくる。
「ホシノちゃん!」
「うへっ!? どうしたんですか。ユメ先輩」
か細い声はユメ先輩の大声でかき消えてしまった。よく見ればユメだけでなく、周りの後輩も心配そうな顔をしている。
「だってホシノちゃん。美味しい? って聞いても返事が無いんだもの。どうしたの? 眠れてないの?」
「平気ですよ。ただぼーっとしてただけです。週末ですからね」
「ああ、ホシノちゃんは頑張って、疲れちゃったんだね。ちゃんと休むんだよ。来週もずっと続くんだからね」
ユメはホシノを見て嬉しそうに笑う。安心したようなその笑顔に、ホシノも嬉しくなる。ちょっと照れくさくて、ホシノは負け惜しみを言う。
「そう言うユメ先輩も大丈夫なんですか? 疲れた顔してますよ?」
「…………そう見える?」
少しユメが傷ついたような顔をしたので、ホシノは焦った。でも、ホシノが何か言うより早く、ユメはニッコリ笑う。
「ふふーん。流石ホシノちゃん! 気づいてくれるんだね。でも、心配しないでいいよ。今ので元気が出たからね」
「ホントですか? このケーキとかも高いんじゃ……それに無理して来てくれてたり?」
「大丈夫だよ。ホシノちゃんが喜んでくれるんだから」
ユメの声はしっかりしていた。さっきまでの、ふわふわした雰囲気の声では無かった。
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。ホシノちゃんは頑張ったんだよ。頑張ったんだから、その分幸せにならなきゃ。美味しいものを食べて、友だちとお話して、明日を楽しみに眠るの。きっと明日も楽しいよ」
どこか確信を持ったような、ユメらしくない言葉だ。でも嘘には聞こえない。なら、一つだけ言っておくことがあった。
「それは、ユメ先輩もですよ」
「えっ?」
本当に驚いたのだろう。呆気にとられたようなユメに、ホシノは言う。
「ユメ先輩もそうじゃなきゃ。私は嫌です」
「……大丈夫だよ。私は、ホシノちゃんが幸せそうにしてくれるだけで、頑張れるんだからね。私はそれで幸せなの」
それは本気のようで、ホシノのセンサーには反応しなかった。そのまま、ユメは後輩たちやホシノと日々の事を話す。仕事の事や、今日あった事。嬉しかったことや驚いたこと。ホシノにとって、当たり前の日々の事を。
それをユメは満面の笑みで聞いてくれるのだ。それが何だか心地よくて、ホシノは幸せで一杯だった。
「ホシノちゃん。今、幸せ?」
ユメの優しい言葉に頷く。今のホシノは確かに幸せだった。
だから平気だ。胸に刺さるチクチクとした痛みも、心を押し潰すような重い何かも、何かを思い出せない息苦しさも、きっと気のせいなのだ。
ここには皆が居る。後輩たちも、ユメだって居るのだ。これ以上の幸せはない。この日々は、明日も、明後日も、ずっと続くのだから。