ホシノ同級生相棒概念   作:洞鼬

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357話 真意

「理解できぬ」

 

 

 蹲るばかりのカヤツリを前に、無名の司祭は困惑していた。

 

 

「何故だ? 何故、本質に立ち返らぬ。色彩が現れない? オシリスは消えた。この地の者、全てに否定された。であるのに、何故?」

 

 

 司祭の目論見は失敗に終わっていた。

 

 別世界の自身たちの介入。色彩とアトラ・ハシースの方舟による襲撃。それを参考にしたこの作戦。以前に観察したデカグラマトンの件すら組み込んだ作戦は、思うようには進んでいない。

 

 アビドスの住人の全てから否定され、目の前でオシリスは消滅した。そして、絶望しか残っていない。そのはずなのに、何も起こらない。アヌビスの様に、本質を突きつければ、生徒などという偽りの衣など簡単に剥がれるはずなのに。全くそう成ってはいない。

 

 

「……理解できぬ」

 

 

 無名の司祭の理解の及ばぬ事態が起こっている。だが、もう一押しで天秤は傾きそうな気配もして、無名の司祭は何が間違っていたのか思案する。

 

 

「……やはり、オシリスの幻影では力不足だったということか?」

 

 

 この計画の肝でもあり、一番の懸念点だったオシリス。このテクスチャ風に言うのならば、梔子ユメ。その幻影。

 

 あれが出現したのは偶然ではない。材料と状況、そして逸話は揃っていたが、それだけでは不十分。原木の胞子が目覚めるのに衝撃が必要なように、閾値まで刺激がなければ神経が興奮しないように、何かしらの切っ掛けが必要だった。

 

 今の無名の司祭は霞のようなモノ。だが、今の状態でも、ほんの少しの刺激くらいは与えられる。砂漠に沈殿したオシリスの神秘の残留思念。爪先程しか残っていなかった神名文字。それを励起させるくらいは出来るのだ。

 

 そして、目論見は上手くいった。存在もあやふやな幻影ではあったが、目的は初めから持っていて、それは、無名の司祭の目的に沿う物。後はそれに従うままに、幻影は本物へと近づいて行き、そしてここまで漕ぎ着けた。

 

 

「何故、何も言わず消えた? それが目的だったとでも? あり得ぬ。それだけはあり得ぬ!」

 

 

 幻影の気持ちなどは分からない。だが、それだけはあり得ないと断言できる。何故なら、オシリスだからだ。幾ら幻影とはいえ、それは変わらない。セト相手に何かを言わないなどありえない。

 

 

「再度の実証は不可。ならば……」

 

 

 もう神名文字はない。しかし、まだ手はある。目の前の存在に囁いてやればいい。否定の一言でも囁いてやれば事足りるだろう。

 

 無名の司祭は、カヤツリに近づき、耳元に囁こうとして、違和感に眉をひそめた。

 

 

「何故、動かぬ……!」

 

 

 足が動かなかった。それどころか、指先一つ動かせない。困惑する無名の司祭は、自分の胸から何かが突き出ているのに気づいた。

 

 

「ぐ、が……ああ!?」

 

 

 棒が司祭の胸を突き破って生えていた。生えているというのも語弊がある。気づいた瞬間に全身を襲い始めた痛みから考えれば、自分の身がどんな状況なのか。容易に察することが出来た。

 

 

「汚い悲鳴だ。静かに死ぬこともできんのか?」

 

 

 司祭は背後から胸を一突きにされていた。棒に見えたのは杖で。肩越しに見れば、それを突き出した格好になっている獣頭の存在が居た。

 

 

「セト……! があ!?」

 

「……喧しい」

 

 

 杖がぐるりと捻られ、止めとばかりに杖ごと持ち上げられて、司祭は呻き声を上げる。両手で懸命に身体を支えるも、そんなものは焼け石に水だった。もう一つの手段も無駄で、司祭は叫ぶことしかできない。

 

 

「止めろ! 何故だ!? 何故!?」

 

 

 操れなかった。目の前に居るのは確かに神性のはずなのに。自分たち司祭は神秘を崇める事で保有できるはずなのに。どうして、自分の思うように進まないのか。

 

 

「見てくれに騙されるとは……本体はこの子だ。自身で言っていたろう。何故反転しないのかとな」

 

「まさか……半分だけ……!」

 

 

 よくよく見れば、神威が足りない。丁度想定の半分ほどで、これでは中途半端にしか支配が効かない。全力で命じてようやく、決まった結末への歩みが遅くなる程度でしかない。

 

 全力で足をばたつかせるも、地面から足が離れた今となっては、無駄な抵抗に過ぎなかった。

 

 

「理解できぬ! 何故だ、何故──!」

 

「我が答えると思っているのか? 疑問を抱いたまま、ここから去ね」

 

 

 言葉の通りに、なぜこうなったのか分からないまま、まばゆい光と熱を感じて、無名の司祭の意識はそこで終わった。

 

 

 □

 

 

「……中々に容赦のない」

 

 

 黒服の目の前で、無名の司祭が消えた(蒸発した)。セトの雷光で内から焼かれればどうしようもない。元々、無理をして活動していたのもあるし、彼らの強みである技術の産物もない。ともなれば、この結果は必然だっただろう。

 

 

「出てくるがいい」

 

 

 杖を一振りしたセトが此方を見ていた。絶対に見えないはずだが、いかなる理屈か。黒服を認識しているらしかった。杖の先が、黒服を向いている。

 

 

「どうしてわかったのですか? 自信があったのですが……」

 

「ここは特等席だ。先生とあの子の活躍を観戦するにはな。貴様が、そこに居ない筈もない」

 

「おやおや……私をよくご存じの様だ。そして、良いのですか?」

 

 

 とうにセトは杖を下ろしていた。無名の司祭の足を止めさせた神威もすでにない。敵意に関しての確認を取れば、小さくセトは頷いていた。

 

 

「貴様は探究者だ。探究者は事が起これば、傍観に徹するもの。その極薄のテクスチャも、そのために用意したものだろう? 上からオンボスが被さる前に、それを被ったという訳か。よく考える」

 

 

 本当に黒服の事を知っている。しかも、話に付き合ってくれるらしい。これは望外の幸運だった。

 

 

「そのまま貴方と呼んでも?」

 

「好きに呼ぶがいい。この場では意味もない。それに、我がどうするかを知りたいのだろう?」

 

 

 また言い当てられて、黒服は舌を巻いた。全てを見通すなんていう権能は無かったはずだが、随分と頭が回る上に、人というものを良く見ている。

 

 この様子であれば、黒服の懸念は杞憂かも知れなかった。

 

 

「我は、何もしない。キヴォトスを破壊しない。どうだ。安心したろう」

 

「ええ、とてもね。理由を聞かせて頂いても?」

 

「この子が、それを望まないからだ。我はホルスとは違って身軽なのでな。この子の性格に恵まれた」

 

 

 黒服は安堵のため息を漏らす。それを見て、愉快そうにセトは言う。

 

 

「貴様も、そう思っていたのだろう? だから、ここに来たのではないのか? 未だに契約も満了してはいないのだろう?」

 

「お見通しでしたか」

 

「あの契約は、両者の合意があって初めて満了できる。そういった契約だったはずだ」

 

 

 この子は気づいていないようだがな。そう言いながら、セトは蹲るカヤツリを心配そうに見ていた。

 

 セトの心配する気持ちは理解できた。普段のカヤツリなら、方舟襲来前のカヤツリなら、そんな事は織り込み済みだっただろう。そうさせないために、黒服は小細工を弄したのだが。

 

 

「ええ、あの娘たちを任せた甲斐がありました」

 

「やはりか。キャパシティオーバーを起こしたかったのか?」

 

「まさか、それでは契約違反です。彼が望み、必要とする物を提供する。それが契約なのですからね」

 

 

 あの三人の面倒を見させることで、カヤツリのキャパシティを削る。その目的があった事は嘘ではない。しかし、それはあくまでついでに過ぎない。

 

 

「私は、今を提供したのです。過去ではなく、今手に入るものを。もう手に入らないものではなく、今から作り上げていくものを。過去とは全く関係のない環境をね」

 

 

 あの三人はカヤツリに懐いた。それは、あの三人とカヤツリが作り上げた、黒服には作れないもの。

 

 

「クックックッ……命令ではなく、お願いとはね。子供と言いながら、自立した一個人として扱う。また手間のかかることを……」

 

 

 でも、それをするという事はきっとカヤツリも分かっている。でなければ、こんな手間のかかる事はしなかった。

 

 

「彼には、過去しかない。しっかりと過去を終わらせることが出来なかった」

 

 

 これが全ての原因。カヤツリは、梔子ユメの死。かつて幸せだった時が、もう無い事を受け入れられていない。だから、まだ終わらせたくないと、そう言う。

 

 

「責める気はないが……良くあのようなことを言えたものだ」

 

「クックック……ホシノさんですか。梔子ユメが死んだのは、彼の所為。ある意味では正解ですが、そこは運がありませんね。彼は、あそこで否定すれば良かった。それか、逆に怒るかすれば」

 

 

 そうすれば、小鳥遊ホシノは、出て行けなどとは言わなかっただろう。彼女はあの時混乱していたから。梔子ユメの死が、自分の所為ではないと責任転嫁をしたかっただけ。しかし今回は、その出まかせがクリティカルを叩きだした。

 

 カヤツリは、怒ればよかった。八つ当たりでもなんでも。そうすれば小鳥遊ホシノは正気に戻り、傷の舐め合いからの話し合いに持ち込めた。まぁ、それが出来ないからこそのカヤツリなのであるが。

 

 

「彼は、アビドス生徒会から追い出された。アビドスの為に活動する大義名分を失ってしまった。梔子ユメに対しての償いをする権利をね」

 

「あの子は、自分の所為だと思っている。そして貴様、ワザとあの先生とやらを焚きつけたろう? 最初から、失敗すると分かっていたな。対策委員会と先生の説得など、端から成功しないと」

 

「そんな殺気を向けないで下さい。貴方とて、それ以外の方法は思い浮かばなかったのでしょう? 彼をとことんまで追い詰めて、失敗させる方法以外は」

 

 

 セトの殺気は止まった。特徴的な頭のお陰で表情は分からないが、面白くなさそうな気持ちなのは察せられる。

 

 あの時に言った事は嘘ではない。あの時挙げた三人は、確かにカヤツリを止められる。ただまだその時ではない。そこまで持って行くのが難しい。

 

 そして恐らくは、セトと黒服の目的は一致している。それは、カヤツリを今の状況から引っ張り上げる事。

 

 

「彼は過去しか見えていません。かつてあった場所。梔子ユメが求めたアビドスを取り戻して償えると思っている。ですが、それは叶わないのです」

 

「上は見上げるだけキリがないが。悲しい事に、あの子は上まで登れてしまう」

 

 

 その通り、上は見れば見るほどキリがない。そして、カヤツリは上を見る事を止められない。過ぎ去った過去は、取り戻せない過去は、ずっとカヤツリの中で輝いているから。ずっと自分自身でハードルを上げ続ける。そして、それには永遠に追いつけない。血を吐きながら続ける、終わらないマラソン。

 

 アビドスを復興させたとする。普通はそこで満足する。しかし、カヤツリは普通ではない。次を目指し始めるだろう。同じようなペースで、まだ何も終わっていないと、上を目指し続ける。

 

 カヤツリは良いだろう。能力もやる気も、持続力もある。だが、他の人間は違う。いつか衝突するのが目に見えている。

 

 だから、初めから、話などは出来ない。見ている場所が違う上に、カヤツリは初めから話を聞くつもりが無い。

 

 

「今の話や、未来の話をしても無駄です。同じ目線で、共に努力する人間が居たホシノさんとは違って、彼には誰も居なかった」

 

 

 ホシノとて、前提条件は同じであるが、活動方法が違う。ホシノは場当たり的な改善方法であるから、誰しもが手伝える。結果だって目に見える。結果はどうあれ、成功体験や信頼関係を育むことが出来た。

 

 カヤツリはそうもいかない。対する相手は信頼できず、利益と正論で殴りつけてでしか動かない。結果も中々でないうえ、一人で戦わなければならない。

 

 

「クックックック……一度も苦しまなかったから、幸せになれたわけでは無い。幸せも苦しみも、その全てがあったから、今が幸せなのだ……あまりにも眩しすぎる理論ですね」

 

 

 勇者だけあって、眩しい言葉を吐くものだ。あの言葉は先生を救ったかもしれないが、カヤツリを救いはしない。アレは、今が幸せだからこそ吐ける台詞だ。

 

 

「会話の通貨が違うのです。利益という貨幣を提示して会話してきたカヤツリ君に、信頼という信用取引を強制してはね。上手くいくわけがありません。ですから、その前に前提を破壊しなければ」

 

「……失敗しないのも考え物か」

 

「そうですね。彼は成功こそしませんでしたが、ちゃんとした失敗も出来ませんでしたからね」

 

 

 黒服は言葉を吐き出す。運が無いと言ったが、この点でもカヤツリは運が無かった。

 

 

「梔子ユメの死、ゲヘナの依頼による事故、ホシノさんの八つ当たり、不知火カヤと羽沼マコトによる巡航ミサイル発射。全てが不可抗力で、彼の所為ではないものの所為で、彼は失敗し続けてきた」

 

「諦めきれるわけもあるまいよ。何せ、自分の所為ではなく、自身の力を振り絞ったわけでもないのだからな」

 

 

 蹲ったままのカヤツリを見るセトの声はどこか悲しげだった。今起こっている事を思えば、仕方がない。

 

 

「カヤツリ君の過去を否定する。過去は過去であり、もう終わってしまった事だと、もう取り返せないものであると、そう消化させる。彼のあらゆる努力を、しかるべき相手が妨害することで、それを為す。……全くスマートではない」

 

 

 黒服が自分で計画したものだが、あまりにも暴力的で知的でない。だが、これ以外の方法はない。

 

 カヤツリを止めるには、カヤツリ自身が諦める必要がある。全力を尽くして、あらゆることをやって、全ての手段を取って。それでもダメだった。そんな経験がカヤツリには必要だった。

 

 そうでなければ、カヤツリは諦められない。全ての後悔と、怒りと哀しみ。今までため込んだ全てを吐き出さなければならない。だから、黒服はテクスチャの活用法を教えた。

 

 だが、カヤツリはまだ蹲ったまま。立ち上がる気配すらない。

 

 前提として、これは荒療治だ。カヤツリに立ち上がる意思があって初めて成立する。そんな事は黒服だって分かっている。穏便な方法があるなら、もう既にやっているし、あの三人がそうなのだ。

 

 しかし、今では過去を塗りつぶせはしなかった。一番穏便に済むのは、梔子ユメの蘇生であるが、そんな事は不可能であるから、初めから考慮にも入りすらしないのだ。

 

 

「しかし、梔子ユメですか……」

 

 

 ふと、黒服は思い立つ。無名の司祭が言い、問うた。ある一つの事実についてだ。

 

 

「何故、沈黙したのでしょう。彼女は何かをするために幻影として出現したはずです。神名文字に込められた想いがあって初めて、アレは起こったのですから」

 

「……理解できぬか?」

 

「ええ、彼女はカヤツリ君に会いたいと言いました。きっと、ホシノさんにも会いたかったはず。であるのにです。彼女は消えてしまった。カヤツリ君に言葉を掛けず、ホシノさんには姿を見せないままで。何故? なぜ? なぜ? なぜ?」

 

 

 ぶつぶつと疑問が口を突いて出て、全く止められはしない。本当に理解が出来ないのだ。梔子ユメは、黒服たちの事情など知りもしないはずだから。

 

 

「きっと、死の間際に彼女は思ったはずです。もう一度会いたいと。会って謝りたいと。そうとしか考えられません」

 

「だからであろうよ」

 

 

 ポツリとセトが呟いた。

 

 

「そう思ったからこそ、あの梔子ユメは何も言わなかったのだろうさ。小鳥遊ホシノにも、会おうとしなかった」

 

「それは一体、どういった思考で?」

 

 

 食いつく勢いで、セトへと身体を寄せた。不敬だとかなんだとか、気にする余裕もなかった。今目の前にある謎の答えが知りたかった。あの時の、先生との問答に思った疑問に通じるものがある様に感じられた。

 

 

「恐らく、梔子ユメとして経験した記憶。あの手帳の中身以外は全て持っていただろう。そして、自分自身が、梔子ユメ本人ではないという自認も」

 

「ええ、そのはずです。だから、彼女はオンボスへとやって来た。カヤツリ君と話をするために。無名の司祭も、それを狙っていたはずです」

 

 

 そう、それは全員の共通認識のはず。だから、無名の司祭は梔子ユメの幻影を出現させた。カヤツリに対して、致命的な一言を言わせるために。

 

 

「だからこそ、不可解なのです。持って生まれた使命を、あの幻影は投げ捨てたのですよ? そのせいで、彼女は消えてしまった。消失するという結果は同じでも、使命を果たしたか果たさないかの有無は重要ではありませんか?」

 

「あの幻影は、梔子ユメだ。梔子ユメの経験を持った、梔子ユメに限りなく近い思考をする幻影。ならば、考える事は決まっている」

 

 

 セトは、少し宙を見上げて言う。

 

 

「梔子ユメは、兎馬カヤツリと小鳥遊ホシノの先輩。だから、先輩としてすべきことをしたのだ。先輩として、後輩を守り、尊重した」

 

「待って下さい。その為に、全てを投げ捨てたと言うのですか? 先輩だから? ただそれだけの理由で?」

 

 

 そこまで言われてしまえば、分かる。分かってしまう。

 

 

「あの状態のカヤツリ君へは、何も言ってはいけなかった。何かを言えば、それが感謝でも、謝罪でも、怒りでも。梔子ユメの言葉では何であれ、カヤツリ君は縋ったでしょう。縋って、止まらなくなった。あの時の、一番の答えは沈黙だった」

 

 

 カチカチと、黒服の頭の中でピースが嵌まっていく。

 

 

「ホシノさんへ姿を見せてはいけなかった。ようやく自分と後輩たちで立ち直ってきた場面です。そこへ幻影とはいえ梔子ユメが現れたら全てが台無しになる。これまでの、ホシノさんの覚悟を踏みにじる行為です」

 

「そうだ。梔子ユメとしての記憶と、これまでの状況を知れば、梔子ユメはそうするだろう。何せ自身の後輩だ。どうするかなど、手に取る様に分かっただろう。だから、そうしたのだ。自身の願いを捨てて、二人を取った。先輩は、後輩を守るもの。梔子ユメ自身が言った言葉。その自分で吐いた言葉の責任を取った」

 

 

 どこか、称賛するような響きだった。セトは、最後に短く呟く。

 

 

「そして、覚えておいて欲しかったのだろうよ」

 

「何をでしょう?」

 

「自身の姿だ。好意を寄せる相手には、綺麗な幸せそうな姿で覚えておいてほしい。それが人情というものだろう?」

 

 

 流れる空気が、少し湿っぽかった。そして、それを振り払うように、セトは黒服に背を向けて、歩き始める。

 

 

「良いのですか? 彼はまだ、蹲ったままですが」

 

「結果は分かっている」

 

「というと?」

 

 

 黒服とカヤツリに背を向けたまま、セトは肩越しに振り返った。

 

 

「今語ったことは、きっとあの子も気づいているだろう。詳細は分からなくとも、梔子ユメが、自身の為に何かをしたという事は」

 

「ええ、彼は最初から気づいている。自分が間違っていることには気づいています」

 

 

 だから、止まれない。止まる方が辛いから。梔子ユメの件は、寧ろ逆風のように思う。けれど、セトは歩みを止めない。

 

 

「それを無視できるほど、あの子は鈍くも愚かでもない。それなら我は、次の準備をするだけだ。これから祭りが始まるゆえな」

 

「なるほど、それもそうでしょうね」

 

 

 黒服も、カヤツリに背を向けた。祭りが始まると言うのなら、席は取って置かねばなるまい。

 

 そして、歩き出した黒服の耳に、誰かが立ち上がる音が聞こえて。黒服はクククと、何時ものように笑った。

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