ホシノ同級生相棒概念 作:洞鼬
「出ませんね……カヤツリ……」
口の端をひん曲げて、王女は携帯を切った。作戦前に電話をしたかったのだが、全く繋がらない。
通算十回目の発信と留守番電話の往復を繰り返せば、こうもなるのは当然だった。モモトークでなら通じるかとアプリを開き、先生からの妙なトークに眼を見張る。
『王女』
トークを読み込んだ所で、王女の頭に、電子音とは別の音が響く。今いるミレニアムの屋上には王女以外の姿はない。
怪奇現象にしか思えない事態ではあるが、王女にとっては、もう慣れたものだ。
それは最近、矢鱈と呼びかけて来るようになった声だったから、落ち着いて返事を返す。
「ああ、来たんですか……ケイ。となれば今から作戦開始ですか。それで、先生とは連絡が取れないままですが大丈夫ですか?」
『はい。このまま先生抜きで作戦を開始すると』
頭に響く声。王女の内部にやって来たケイは真面目な声色で状況を教えてくれたが、あまり良い知らせではない。今のトークもあって、王女の口から溜め息が溢れる。
「はぁ……後から文句を言われそうで嫌になりますね……」
『外野など、放っておけばいいんですよ。言わせておきましょう』
ケイは本気でそう思っているのか。慰めの言葉を掛けてくるが、王女の気分は晴れない。
「……全て、上手くいく保証はありませんよ」
『……しかし、他に選択肢がありません。アトラ・ハシースの方舟を迎撃するには今の、このタイミングしかありません。これ以上待てば、恐らくはエネルギー反応から何かが出現する恐れがあります』
それはその通りだけれども。心の中でそう呟いて、王女は暗くなり始めた空を見上げた。
そこには暗い空しか見えないが、王女には分かる。この空の向こうに、アトラ・ハシースの方舟はもうすぐそこまでやって来ている。
アトラ・ハシースの方舟の襲来。これが、王女が数日前からミレニアムに詰めている理由だった。
方舟は、名もなき神々の遺産。つまりは王女の側のものだ。前提として、方舟は物理的に存在するものではない。幾ら地面を掘り返そうと出てくるものではない。あれは、王女が製作して初めて、この世界に現れるもの。
だから、その気配を感じた時に、王女は飛び上がらんばかりに驚いた。王女の自覚無しに現れるはずも無いものが突然現れたのだからそうもなる。
ケイが何か知らないかと思って、ミレニアムくんだりまでやって来た。ケイもケイで、同じことを考えていたのか。カヤツリと何かあったのかと失礼なことを言ってくる始末だ。
──王女! 喧嘩ですか!? 癇癪で方舟を呼び出さないでください! こっちは今、大変なんですよ!
あんまりにもあんまりな言い方なので、抗議代わりにケイ入りのゲームガールをシェイクしなければならかったくらいだ。そんな一悶着の後、調月リオと明星ヒマリを交えた話し合いで発覚したのは、あまり信じたくはない答えだった。
「別次元の私の可能性がある……ですか」
そう言われるのは、仕方がない。けれど何度思い返しても、いい気分ではない。理論的に考えて、方舟を創造できるのは王女だけ。鍵たるケイも行えるが、その場合は別次元に攻めこまない。そこまでは使命に入っていないからだ。
つまり、あの方舟は、別次元の王女が何かしらの考えの元に製作し、ここまで乗り付けているということになる。ただ、王女には確信があった。
「絶対にありえないと思いますけどね」
『……自覚がないのですか?』
「自覚? 何の自覚ですか?」
『はぁ……』
姿は無いケイが、やれやれと首を振っているような。そんな雰囲気を感じて、王女は舌打ちする。以前の鍵らしくないのは良いことだが、随分と俗っぽくなった。ゲーム開発部の影響を受け過ぎではないかと常々思う。
王女の心配を他所に、ケイは拳を握りしめるような勢いで言う。
『ですから、王女がご執心の彼を攫いに来たのではないか。ということです。シャーレの当番として、モモイやミドリ、ユズに同行した時の様子から見ても、そうとしか思えません』
「そうですか……?」
思い返してみるが、どうにも腑に落ちなかった。王女は普通にしているだけで、変なことはしていない。流石の王女も、カヤツリの心音ASMRを公衆の場で聞いたりはしていない。
『では……そうですね。昼食の時です。昼食を、王女はどうしていましたか?』
「? 自ら調理しましたが?」
『……誰とですか?』
「それは勿論カヤツリとです。二人で作った方が早いので。余った分は先生にもあげてます」
最初は上手くいかなかったが、回数をこなせば慣れてくるもの。日々の上達という変化は、王女の好むものだった。実際、先生にも好評である。
『おそろいのエプロンでしたよね。しかも、並んで作ってませんでしたか? 給湯室も、少し権能で拡張したでしょう』
「狭いと不便じゃないですか。それに、並んで作る以外にどうしろと?」
これは王女が好きでやっていて、カヤツリも了承していることだ。それをケイは異常なことのように言うのが不可解でしかない。けれどケイは王女の回答に溜息を吐くばかりだ。
『はぁ……だから、それは牽制……では、次です。夕方の、王女のシャーレでの入浴後の事ですよ』
「それは二人ともシャーレに住んでいるんですから仕方ないのでは……? ああ、入浴順の話ですか? 先生じゃないんですから、カヤツリは残り湯を呑んだりはしませんよ」
別に先生もそんなことをしたわけではない。ただ、どこかで生徒の脚を舐めたとか、水着やバニーガールの生徒を夜中に呼びつけたとか。そんな如何わしい噂がある。その中にプールの水を呑んでいると言うものがあるのだ。ケイは、その噂を聞いて、男はそういうものだと思っているのかもしれない。
王女は心配などしていない。カヤツリはそんなことをしないと思っているし、そうしたところで意味も無い。王女の洗浄液など無味無臭だからだ。それにしてくれたのなら、その方が良い。
そう言うと、ケイは初耳だったのか、どこか怯えたような声色になる。
『え? うわ……まぁ、先生の事は置いておいてですね。入浴後、あの男に、王女は何をやってもらいましたか?』
「……? 髪を拭いて、梳いて貰っているだけですが? 普通の事でしょう」
王女の髪は長いのだ。拭くだけでも相当な手間になる。以前は権能で身嗜みは全自動であったが、今は権能を使わないようにしていた。そうすると、やはり埃やゴミが髪や身体に付着するのは避けられない。そしてカヤツリに汚いと言われたら、王女はきっと立ち直れない。そうならない為にも、入浴や細々とした身嗜みは必須だった。
それを手伝ってもらうのは、普通の事であると思うのだが。しかも、王女よりカヤツリの方が上手いから、仕上げをやってもらっているに過ぎない。嫌なら断っても構わないとまで言っている。だが、ケイはそう思わないのか、声が険しい。
『あの男の膝に座って、ですか? 王女……それは普通ではありませんよ。女性が髪を男性に触らせるなんて。あまつさえ、手入れまで? それは特別な間柄にしか許されないことです』
「なら、問題ありませんね」
王女は微笑んでケイの懸念を両断する。ケイの言う、そういう間柄を目指しているのだ。文句を言われる筋合いはなかった。そして、ケイの言いたいことも分かって来た。
「ケイは、あれでしょう? 別次元の私が、羨ましくなって奪いに来たと思っている」
だから、王女のカヤツリに対する好意の大きさを自覚しろ。なんてことを言うのだ。王女は、そんなことは分かっているし、もう一つのケイの懸念も間違っている。
「それか、私がカヤツリに振られたか。カヤツリを亡くした。だから、なりふり構わない。ケイはそう思っているんですよね」
『……そうです。そうはしないと私も信じていますが。その時になってみないと分からないものです。私だって、今こうなるとは鍵の頃は思ってもみませんでしたから……』
それは、ケイのこれまでの経験から出た懸念だったのだろう。でも、それだけはあり得ないと、王女は胸を張って言えた。
「あり得ませんよ。別次元のカヤツリを奪ったところで虚しいだけですから。そのカヤツリは、私が好きで求めてやまないカヤツリではないんです」
その行為には意味がない。そうしたところで、王女の欲しいものは絶対に手に入らない。カヤツリは買って替えの聞く既製品ではないのだ。
「権能を使えば、別次元のカヤツリを求めるものに仕立てることはできますが、それでは意味がない。そうでなかったから、権能など関係なくああいってくれたカヤツリだから、価値があるんです。そうして手に入れて、満足してしまったら。それはカヤツリと私の間の思い出に対する冒涜ですよ」
もし、そんな腑抜けたことを言った王女自身が来たのなら、王女は容赦しない。手加減などするつもりも無かった。それに、王女たちはもっと別の事を心配した方が良い。
「そんなことよりも、問題は先生がいないことです。先生の責任下でないこの状況で、アトラ・ハシースの方舟を顕現させる。それが何を意味するのか、調月リオは分かっているんですか? 明星ヒマリもです」
『分かっている。二人とも、そう言っていますよ』
ケイは、そう言うが。言っているケイ自身も自信は無いように見えた。それを察しつつ、王女は、これから実行しようとしていることを淡々と諳んじる。
「いつか来る日のために調月リオが建設した要塞都市エリドゥ。その総データを使用し、私がアトラ・ハシースの方舟を顕現させ、方舟を迎撃する。些かデータ量が足りませんが、そこは相手方の方舟から奪い取ればいいでしょう。ケイのサポートがあれば相手方には競り勝てるはず。一人よりも二人の方が強いですから」
これが、今とれる最善の手段だった。本来であれば、今日の午前中に開催された会議で王女とケイの事を隠蔽しつつ、失踪した連邦生徒会長が残した最終兵器とでも銘打って、方舟を受け入れさせる算段だった。最後は相打ちにさせれば後腐れもない。その作戦を会議に現れた先生と相談し、カヤツリとも話し合う。その手はずだった。
だが、会議に先生は現れなかった。現れなければ、相談のしようもない。先生のいない影響か、会議は荒れに荒れていたと。リオの代わりに代理出席したユウカとノアがこぼしていたくらいだ。相当の荒れ具合だったのだろう。今頃は、カヤツリがシャーレビルで呻いているかもしれない。いや、また別の要件か。
そう思って、ついさっきのトークを王女はゆっくりと読み上げる。
「救援求む。それと場所のリンクが貼ってあります。恐らく調月リオと明星ヒマリの二人も確認したでしょう」
『……待ってください。先生は攫われて監禁されていると?』
王女が分かる様に見せた内容を確認したケイは呻いていた。
それは、先生が間に合わない事が確定したからなのと、そうした犯人に呆れているに違いなかった。
ただ、王女が懸念するのはそこではない。もっと別の、単純なことだった。
「ケイ。さっき私は上手くいく保証はないと言いました。それは、方舟の迎撃に成功した後の事です」
『王女? 一体何を……?』
「言ったじゃないですか。先生なしに方舟を出せばどうなるかと。キヴォトス各地に謎のエネルギー反応があり、先生が誘拐された状況で、ミレニアム上空に巨大な建造物が現れればどうなるか」
何を言っているか分からない。そんなケイに、王女はある想像を口に出す。
「先生は庇えない。誘拐されていたわけですからね。先生がいない間、何をしていたのか。あの建造物は何なのか。アレを使って何をしようとしたのか。先生を誘拐したのはミレニアムではないのか。ミレニアムに良からぬ視線が向くことでしょう。説明を求められても、説明なんてできません。それこそ事態が複雑化する。人は勝手に想像して、都合の良いように解釈して、利用しようとしてくるかも知れません」
『……この状況ですよ? 世界が滅ぶかもしれないのにですよ? そう説明してもですか?』
「だからこそです。ケイ。人という者は案外バカなんです。そういう目に遭えば信じるでしょうが、そうでないのなら、納得しやすい理由でないと納得しない。調月リオや明星ヒマリのように聡明な人間。見たままをそう信じられるゲーム開発部のような人間は珍しい」
『……王女よ。あなたはそれを知っていて、行くんですか? このまま行けば、被害なく終わるでしょう。その想像が現実のものになる』
ケイは怒っていた。王女にではなく、この状況、見知らぬ他人にだろう。ケイは潔癖なところがあるから、弱い他人の事が理解できないのだ。ケイを認めてくれた人の強さを普通の物だと思っている。でも、それは夢の見過ぎだ。
そうでない人間も居る事は知っている。でも、そういう人間の方が多い事も王女は知っている。カヤツリについていく中で、そういうものを見たから。今更ながら、着いてこられるのを嫌がったカヤツリの心遣いが沁みる。
「腹が立たないと言えば噓になります。でも、私はこの世界が好きですから。ケイが居て、カヤツリが居て、先生やデカグラマトン、小鳥遊ホシノやその他諸々。そして私が居る。ただ普通に明日が来る。何も分からない、未知の明日が来る。それなら被害が無い方がいいですから」
腹が立つこともある。この世界の全てが好きではない。でも、それは関係が無い。王女は守りたいもののため戦うのだ。
「だから、ケイ。彼女たちを大事にした方が良いです。あなたを鍵ではなく、唯のケイとして認めてくれた人達なんですから」
『……私にとってのリオやモモイたちが、王女にとってのあの男なんですか?』
少しだけ、王女は微笑む。あの時の啖呵を思い出した。
「そうです。私をただの王女だと。私は意味があって産まれてきたのだと。そう言い切ってくれた時。私はとても嬉しかった」
だから、戦う。この小さな、王女が素晴らしいと、あってほしいと願った世界の為に。
王女は力を込めて、権能を解放した。プロトコルなど必要ない。息をするように、教えられた座標から、データを変換していく。
初めは小さかった流れが、今では濁流と化して王女の背後で像を結んでいく。あっという間に、王女の背後にはアトラ・ハシースの方舟が顕現していた。
「それでは、ケイ。行きますよ」
『はい、王女』
方舟を後ろに引き連れて、王女とケイは空を飛ぶ。向かうは空の果て、もう一つのアトラ・ハシースの方舟だ。
成層圏にそれはあり、表面を黒い幕が覆っていた。
『王女よ。多次元防壁です』
「問題ないです」
文言も、気合も、何もかもが必要ない。指を鳴らせばそれだけで、防壁が砕け散る。予想外の柔らかさに、王女は少し驚いた。
「……驚くほどに無防備ですね。本当に別次元の私ですか?」
相手の方舟から、情報リソースを奪い取っているが、これも防壁と同じく抵抗が皆無に近い。このまま行けば、リソース量が逆転する。それなのに、それらしい抵抗が無い。いや、抵抗はあった。余りにも弱弱しいから、気づかなかっただけで。
構造を知り尽くしている方舟の入り口から中へと入る。通路から、見覚えのある機械群が湧きだすが、ケイがあっという間に沈黙させる。
『王女よ。これは……』
「そうです。これは、私ではない。この箱舟も本物ではありません。ただのコピー、複製ですね」
『であれば……』
「そうです。これほどの精度での複製となると、色彩によるものでしょう」
ケイの問いかけに答えつつ、方舟の奥へ奥へと進んでいく。勿論、妨害の為に敵が送り込まれているが、鎧袖一触で破壊されていく。
そして、最後の扉まで辿り着き、そこを開いた。
「ふむ。見知った顔ですね」
「嘘、何で……!」
扉を開けるなり、銃弾が王女に殺到する。弾丸はそのまま王女をすり抜けて、背後の壁を無残に破壊した。銃を構えた黒いドレスの少女が、絶望の叫びを上げる。その少女の顔を、王女はよく知っていた。
「何でも何も、そちらの真似ですよ。こちらが本家本元ですし……砂狼シロコに……死の権能ですか。通常なら、反転したと考えるのが普通ですが……それなら、この箱舟を使用する必要はありませんからね」
ちらりと暫定砂狼シロコと奥の仮面の人物に目を向けて、言う。
「ケイ。この船の生体反応を調べてください。私のリソースを使って良いですから」
「ッ!?」
何かマズい事でもあるのか、銃撃が勢いを増す。ドローンまで呼び出して、榴弾まで撃って来る。けれど、その全てが王女を通り抜ける。多次元防壁がある限り、王女に攻撃は当たらない。
仮面の人物の持つタブレットから、波長を合わせようとする気配もあるが、王女の方が早い。合わせる直前でずらし続ける。
『王女よ。生体反応は四つ、いや二つです。目の前の少女と、この真下の砂狼シロコです』
「ともなれば、あなたは別次元の砂狼シロコ。いえ、アヌビスですか。いかなる道程を辿ったかは分かりませんが、色彩によって反転し、方舟によってここへとやって来た。この世界の砂狼シロコを拉致して、この世界でも自由に動けるようにしたと……初手で方舟を破壊しないで正解でした。ん?」
王女は仮面の人物を見た。そこから何かが飛んできたからだ。ただくすぐったいだけで、王女は眉間にしわを寄せる。
『何故だ。理解できぬ。何故、我々の敵として立ちふさがる』
「見たくもない顔ですね……」
仮面の人物の背後に、ずらりと見覚えしかない人物たちが並ぶ。無名の司祭。それも別次元の無名の司祭だろう。怒りのままに、王女を罵り始める。
『お前は名もなき神々の王女だ。それ以上でも以下でもない。何故、使命に従いこのキヴォトスを破壊しない。何故、守ろうとする。鍵もだ。何故、我々の前に立ちふさがる。何故?』
「言う事を聞く義理が無いだけです。鍵を後から仕込んでおいて、親面をしないで下さい。不愉快です」
『……私は鍵では無くてケイです。その名で呼ばないで下さい』
王女とケイの、つれない返事に司祭は地団太を踏む。無垢だった王女とケイになら効いたデータ同期も、今となっては効く筈もない。鍵はケイになり、名もなき神々の王女は王女になった。もう、無垢で綺麗なものではない。
「しかし、耳障りです。そのほぼ死に体があなたたちの依り代ですか。この際、こちら側の砂狼シロコを回収した後、この方舟ごと破壊しましょうか」
「やらせない!」
決意を固めたのか、アヌビスが吠えるが、王女は無視する。多次元防壁が攻撃の全てを無価値にしている。彼女は、王女に何もできない。死の権能は脅威だが、当たらなければ意味がないからだ。
監禁され、ある意味人質の様になっているこの世界の砂狼シロコを地上へと転移させ、その後にこの色彩製の方舟を破壊する。炉心をオーバーロードさせる。それで片が付くだろう。
別次元の砂狼シロコと、シッテムの箱、無名の司祭と、その依り代と化している瀕死の先生。それらは考慮に値しない。王女にとって、大事なのはこの次元だけだからだ。そもそも、世界を滅ぼす気で攻めてきておいて、命だけは助けてください?
随分と虫のいい話だ。そもそも一人は殆ど死んでいるし、やられる覚悟をしてここに来たのだろう。永遠に宇宙空間を彷徨おうが、知ったことではない。王女は片手間で砂狼シロコを転移させようとして、眉をひそめた。
「邪魔臭いですね……!」
シッテムの箱からの妨害が鬱陶しい。転移はそれなりに繊細な作業を要する。失敗すれば大変なこと。ケイ風に言えば、いしのなかにいる状態になる。砂狼シロコはカヤツリの後輩であるため、王女は細心の注意を払っていたのだが、それの邪魔をしてきていた。アヌビスも必死に攻撃を繰り返している。そのせいで多次元防壁の維持もしなければならず、少々面倒だった。
「ケイ。どちらかの対処をお願いしても?」
『分かりました!』
やる気十分と言った様子で、ケイがシッテムの箱へと対処した。王女も、アヌビスへと対処する。
「ふん!」
「うあっ!?」
王女はその場で拳を振り抜くと、遠くのアヌビスが身体をくの字にして吹き飛ばされていく。
これは多次元防壁の応用である。多次元防壁が当たらない未来を引っ張って来るのなら、今のは当たった未来を引っ張ってきた。この場で王女が手足を振るうだけで、アヌビスは殴られ続ける事になる。
躱すことはできない。出来るのは身を固めて、打撃に耐える事だけだ。動けないように痛めつけてから転移に取り掛かればいい。
何十発だろうか、何か言っていたアヌビスが動かなくなってから王女は一息つく。ケイの方も上手くやったのか、シッテムの箱からの妨害は止んでいた。早速作業に取り掛かろうとしたところで、響く声があった。
「やらせない……」
「……あなたもいい加減しつこいですね」
ずるずるとアヌビスが這いずっていた。かなりのダメージだろうに、歯を食いしばって王女の所までやってきていた。
王女は何度目か分からない溜め息を吐いて、拳を振るう。ここはいっそ、気絶させた方が楽だろう。強く殴ったせいか、アヌビスはうつ伏せに転がっていく。
「……て」
「なんですか?」
伏せたアヌビスが何かを呟いて、王女は振り上げた腕を止めた。なにか、聞き覚えのある言葉が聞こえた気がしたのだ。
「たすけて……ぱい」
「はぁ……」
王女は首を振った。馬鹿馬鹿しい。誰かに助けを求めている。それも王女ではなく、他の誰かに。アヌビスがここに居ると言う事は、その相手を殺したからそこにいるのだ。どの面を下げて助けを求めるのか。
「たすけて、ほしのせんぱい。かやつりせんぱい」
「な……!?」
無視して振り降ろそうとした手が動かなかった。顔を上げた王女は、腕が動かない原因に愕然とした。
腕が掴まれていた。掴まれているから振り下ろせない。それは当然だが、それはあり得なかった。
多次元防壁を展開している王女の手を掴んでいるのだ。それは絶対にありえない。衝撃が来ない事にアヌビスがのろのろと顔を上げて、固まって呟く。
「……なんで、どうして……」
アヌビスの声に答えるように、片目を輝かせた黒い鳥が、そこへ立っていた。