アレーヌ。なるほど、この都市の名がそうであったか。フランソワの優雅とライヒの頑迷とを、パン種のようにこね合わせて出来たような、奇妙な味わいのある都市だ。その歴史を紐解けば、頁をめくるごとに血の染みが濃くなるような、そんな都市である。今宵の炎も、その長い歴史の中では、ありふれた一行に過ぎぬのかもしれない。
見よ、大伽藍の尖塔が、まるで一本の黒い指のように、赤い煙の渦巻く空を指している。その薔薇色の砂岩の壁は、地上の劫火を映して、あたかも自らが燃え上がっているかのようだ。あのガーゴイルどもは、何百年もの間、あの場所から人間の営みを眺めてきた。戦争、疫病、革命、そして今夜の砲撃。彼らにしてみれば、これもまた、いつもの見慣れた光景に過ぎぬのであろう。彼らは石の唇で、こう嘲笑っているのかもしれぬ。「見ろ、またやっている」と。
群衆の中に、ひときわ背の高い、痩せた老人がいる。あの老人は、どうやら大学の教授か何かであろう。彼は、他の人々のようにただ前を見て走るのではなく、時折立ち止まっては、燃え盛る市街を、まるで惜しむかのように振り返るのである。彼が小脇に抱えているのは、赤子でもなければ、金貨の袋でもない。一冊の、分厚い革綴じの書物だ。おそらくは、彼が一生を捧げて研究してきた、このアレーヌの年代記か、あるいはどこかの哲学者の難解な論文であろう。
彼は、自分の家がどちらの方角かも忘れたように、ただ大伽藍が無事であることだけを確かめると、安堵のため息をついて、また歩き出す。彼にとって、この都市とは、石と木で出来た家々の集合体ではない。書物の中に、観念の中に、そしてあの伽藍の尖塔が象徴する精神の中にのみ存在する、永遠の都なのである。彼の妻や子供が今どこでどうしているか、彼は果たして思いを馳せているだろうか。人間は、物や、あるいは観念のためには命を惜しまぬことがある。しかし、同じ人間に対しては、驚くほど無慈悲になれるものらしい。
彼らの逃げてゆく先の一つに、ラインの河がある。あの河を渡れば、もう一つの国だ。しかし、その国に、果たしてこの炎と無縁の土地が残っているものか。それとも、河の向こう岸で、今度は別の役者たちが、同じ筋書きの芝居を演じているだけなのか。老教授の抱えた書物の頁は、まだいくらでも残っているようであった。
―バスチアン・ゲシャール、『アレーヌ』より
『アレーヌ』
統一暦一九二九年に帝国占領下の共和国で出版された小説