蒼穹を泳ぎ行く不揃いの翼   作:嶺月

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橘ありす宅訪問、事情の説明と和解


4話

 インターホンを鳴らそうとして躊躇(ためら)ってしまう。ありすは聡明な娘だ。いっとき擦れ違ったとしても、落ち着いて事情を説明すれば納得してくれる筈。そんな風にさっきまでも何度も自分に言い聞かせてきたのに、まだ決心がつかないのか。臆病な自分を(たしな)めるようにギュッと瞳を閉じると、一気にボタンを押し込む。ややあって玄関の扉が開き、少し冷たそうな印象の女性が顔を出す。この女性(ひと)がありすの母親か。そんな益体も無い感想を抱きながら、文香は深く頭を下げた。

「夜分遅くに申し訳ありません。鷺沢文香と申します。先程プロデューサーから連絡した通り、本日は私の不徳の為にお時間をいただき…」

「丁寧にありがとう、鷺沢さん。今日の事はきっと娘にも問題が有ったのだと思うから気にしないで。さ、入って頂戴な」

「はい?あの、ありがとうございます…」

 最初の口上は前もって練習した通り流暢(りゅうちょう)に話せたのだが、思わぬ温かい返答に戸惑って、文香はいつもののんびりした口調が出てしまう。

「貴女の話は娘が良くしてくれるの。とても賢くて頼れるお姉さんだって。正直あの娘は私たちの育て方も有って、(かたく)な所が有るから、あんなに一生懸命に美点を挙げて()めるような先輩ができるとは思っていなかったの。親としては()けてしまうくらいね」

「恐縮です…それが、今日はこんな事になって…」

「大丈夫、大丈夫。どうせありすの思い込みなんでしょう?」

「はあ…どう説明したらよいか…」

「良いのよ、詳しい事は解決してからありすに聞くわ。あの娘も帰ってきて(しばら)くは荒れ放題だったみたいだけど、今は比較的落ち着いているの。しっかり話し合ってね」

 朗報(ろうほう)だ。ありすの側に完全に拒絶する姿勢が無いのならば、話し合いで充分解決できる問題の筈。そもそも今回の騒動の発端は文香がありすを子ども扱いしたと思われたことにある。ただ誠実に常に上昇志向を忘れないありすの姿勢を尊重している、という本心を素直に伝えるだけで良い。時に書物の中で見かけるようなテクニカルな言い回しで説得するような事を考えないこと、と念じると深呼吸を繰り返した文香はありすの糾弾(きゅうだん)に応じる覚悟を決める。

「それでは、失礼いたします…」

「はい、どうぞ」

 ありすの母に案内されてリビングに通される。以前のありすの話では両親は普段忙しくしていてあまり家にはいないという事だったが、中央に据えられたテーブルに掛けられたテーブルクロス、壁に掛けられた機械式の時計、部屋の一角を占めるテレビとその隣の多肉性の観葉植物など、美しく配置されたインテリアが落ち着いて過ごせる空間を演出している。だが今の文香はテーブルについて厳しい視線で見つめる、黒髪の少女だけしか目に入らなかった。

「その…ありすちゃん、こんばんは…」

「こんばんは、文香さん。座ってください」

「はい…その、お昼のこと…ちゃんと説明したくて…」

「判っています。事務所ではカッとなってしまいましたけど、文香さんが私を軽んじる訳が無いってこと。でも、どうしても納得できなくて…」

「当然だと、思います。あの時…そのつもりは無かったけど、確かに私は…ありすちゃんをまだ幼い少女として…扱っていました…」

 文香はあの時の自分の心情を改めて振り返る。性的な知識に不用意に触れて欲しくない。それは相手を傷付けたくないという気持ちから発しているのは事実だが、痛みから故意に遠ざけるのは対象が傷付くことに耐えられない弱さを抱えていると思っているからではないだろうか。文香はありすをいつも上を目指し、その過程での苦しみを真っ向から受け止められる強い少女だと思う一方で、精一杯背伸びする姿が愛らしいだけの(いとけな)い微笑ましい存在だと(とら)えていた部分は無かったか。

 打ち合わせの後、弁明の機会をありすに拒絶されてから橘宅に到着するまで、ずっと文香は自分のありすへの好意にありす本人には見せられない影の部分が無いか、分析していた。そしてやはり、ありすに年齢不相応に振舞おうとする幼さを感じて、それ故に好ましく感じている部分が、どちらにとっても不本意ながら存在することを認めた。だがそれを気の強い少女を不快にするからと糊塗(こと)する気は無かった。その年長者ゆえに感じてしまう一種の軽侮(けいぶ)も含めて自分たちの関係性なのだと、ずっと書物の世界に耽溺(たんでき)してきた女は思い、それを事前の決意通り隠すことなく打ち明けた。

 それは常に大人であろうとするありすにとっては不愉快な事実だろうが、聡明な少女はそれを披瀝(ひれき)する事が目の前の憧れの女性にとっての、精一杯の誠意だとしっかり受け止めた。

「文香さん、まず…話してくれてありがとうございました。私がもっと怒るかもしれないと思ったのに話してくれたのは、私がちゃんと文香さんの話を聞ける人間だと信じてくれたからだと判ります。それでも…正直、背伸びしているのが可愛いって思われていたのはショックでした。他の人もそうだと思いますか?」

「そうですね…CAERULAやプロデューサーに限らず…事務所の近しい人たちや…ひょっとしたらファンの中にもそういう風に…ありすちゃんを愛している人はいると思います。…同い年くらいの子たちからはそんなことは…無いとは思いますけれど」

「そうですか。でもそれは当然かもしれません。私も桃華さんがちょっと世間知らずな一面を見せた時なんかはそうですから」

「そうですね。相手を軽く見てしまう事…それは相手を好ましく思っている事実とは…また別に、実際に感じてしまうものなのでしょう」

「はい、文香さんの言うとおりだと思います。…文香さん、今日はその…ごめんな、さい…」

 順調に判りあえた、そんな風に安堵(あんど)していた文香は、突然話し合っていた少女が言葉を詰まらせたことに驚いてありすを見つめる。ありすの綺麗な瞳からは大粒の涙がポロポロと流れ出していた。

「ありす…ちゃん…⁉」

「ごめ…なさ、い…今日は、文香ざんと…ひざじぶりに会えると思って…楽じ…なの…喧嘩して…」

 涙を流してしまったことで感情が(せき)を切ってしまったのだろう、長髪の少女の言葉は次第に途切れがちになり、スンスンと(はな)をすすりながらそれでも必死に言葉を続ける。不器用で不完全な言の葉でも、文香にはきちんとその心が伝わり、席を立ってありすをその座った椅子ごと抱きしめる。ありすは文香の胸元に顔をうずめ、流す涙が文香のシャツを濡らしたが不快ではない。ありすが訴えているのはふとしたきっかけで二人の間に存在した見えない不和が爆発した寂しさだが、実際には対話を通じて新たな絆へと昇華された喜びの涙なのだから。




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