パエトーンのお兄ちゃんが、こんなにモテモテなわけがない! 作:雨あられ
-新エリー都 六分街・レンタルビデオ店「Random Play」-
「…きて……起きて。アキラ」
いつもなら布団を引っぺがして叩き起こされるはずが、何やら心地よい声で少しずつ目を覚ます……。
「リン?」
「クス、まだ寝ぼけてるのね、アキラ」
そう言って、少しひんやりとした手が優しく僕の頬を撫でる……。
「朝ご飯を作ったから、なるべく早く降りてきてね?」
普段ならば寒さから布団に出るのが億劫だったけれど、今日は不思議とすんなり起き上がることができた。
トイレを済ませ、簡単に顔を洗ってから下へと降りていくと……大きくてふわふわな尻尾が揺れ、栗色の長い髪を赤い飾り紐で結んだポニーテールが弾む。
「おはよう!アキラ!」
そう言って僕に微笑みかけた彼女は、いつもの服の上から淡いピンクのエプロンを羽織っていて、しっかりと見える白い太モモ……どう見ても「新妻」そのものだ。
僕がじっと見てしまっていたからか、瞬光は顔を赤くしながら不安そうに僕の顔を伺いみる。
「えっと、変、かな?」
「いや、逆だよ。瞬光にあまりに似合っているからつい見惚れてしまったよ」
「も、もう!アキラったらまた、そんな恥ずかしいこと言って……」
いつもと違った瞬光のこともあるが、それよりも……僕は先ほどから良い匂いの漂ってくる食卓に目が釘付けだった。
早速、二人で席に着くと用意してくれた朝食に手を付ける……。
「「いただきます」」
まずはワンタンスープだ。
立ち上る真っ白な湯気の向こうで、琥珀色に透き通った熱々のスープに身を委ねるワンタン。箸で持ち上げれば今にも破れそうなほど薄く、口に運んだ瞬間につるんと滑らかな皮が喉を通り抜け、閉じ込められていたジューシーな肉汁と海老のプリッとした旨味が口いっぱいに弾ける。
続いて、竹の編み籠から立ちのぼる熱い蒸気とともに現れた粢飯団(チーファントゥアン)は、炊きたてのもち米が放つ、甘くふっくらとした香りに包まれている。
手にしたときのずっしりとした重みと、掌に伝わる力強い熱。白い米粒の隙間から覗くのは、飴色に輝くカリカリの油条(揚げパン)と、琥珀色のザーサイ、そしてふんわりと解ける肉鬆(肉でんぶ)の層。
思い切って頬張れば、まずはモチっとした米の粘り気が歯を優しく包み込み、その直後、中心に隠された油条がカリッと小気味よい音を立てて弾ける。じゅわっと染み出す油のコクを、ザーサイの小気味よい塩気がキリリと引き締め、肉でんぶの淡い甘みがすべてをまろやかにまとめ上げる。
その濃厚な一口を、熱々のワンタンスープで追いかけ、喉の奥へと流し込む瞬間、もち米の熱とスープの温もりが混じり合い、お腹の中から熱が全身へ波紋のように広がっていく……。
「美味しい?」
「身体の奥から力が湧いてくるみたいだ……!すごく美味しいよ、瞬光!」
「よかった……おかわりもあるわよ?」
珍しく料理にがっつく僕を見て、彼女は幸せそうに頬を緩めた。
僕もその幸せを嚙み締めつつ……
……なぜ、姉弟子がここまでしてくれているのだろうかと、寝ぼけた頭で改めて記憶を掘り返してみることにした。
数日前……
-新エリー都 六分街・レンタルビデオ店「Random Play」-
「あ、あの~?ごめんください~。あ、アキラ~?」
それはみんなでパパゴホロウ・神の迷い路を攻略していた時のことだ。
パパゴホロウに通うに当たって便宜上、適当観に帰るよりも六分街の自宅から通った方が現場に近かったため、僕はしばらくぶりの我が家を満喫していたのだけれど……どうやら見知ったお客さんが来たらしい。
「やぁ、いらっしゃい瞬光」
「アキラ!……ふふ、来ちゃった!」
そう言って、白と赤を基調としたオフショルダー服に身を包んだウマのシリオン……青溟剣の担い手にして姉弟子である葉瞬光が手を後ろに回して笑顔を浮かべる。
彼女はつい最近の騒動でその実力と実績が評価され、虚狩りに認定された僕の自慢の姉弟子だ。今はその任務の一環として僕と同じく神の迷い路を攻略している最中なのだけれど……。
「ンナナ~」
「あ、久しぶり18ちゃん!元気にしてた?」
そう言って屈んでトワを撫でる瞬光。
僕の家に遊びに来るのは初めてというわけではないのだけれど、事前連絡もなしに遊びに来るだなんて随分と急だな……。
「今日はどうしたんだい。一緒に映画でも観るかい?」
「えっと。あのね……それも素敵なのだけれど」
瞬光はチョンチョンと指をくっつけ合わせながら視線が宙を泳いでいる。
「ワタシたちって……今は同じホロウを攻略中でしょ?」
「あぁ」
「実はワタシも……適当観まで毎回帰るのは大変で……」
「ん?」
確か……市長公認の虚狩りともなればバイキング付きの高級ホテルが顔パスでとれると雅さんから聞いたことがあったけれど……。
「それでねアキラさえよければ……わ、ワタシも……このビデオ屋から一緒に通いたいな~って……!!」
「それは……」
最後の方はスカートの裾を掴みながら顔を真っ赤にしてそういう瞬光。
通うというのはつまり……僕と一緒にこのビデオ屋に寝泊まりするということだろうか?
だとすれば……正直、気が引ける。
というのも、今の「Random Play」はかなり散らかっているからだ。
モチロン、お客さんの来る店の方は常に綺麗で清潔にしてあるが、裏のバックヤードはため込んでいたビデオ屋の仕事のファイルやビデオが散乱し、もし泊めるとなれば寝てもらうことになるであろうリンの部屋も散らかって……と、リンの部屋は元からそうだった。
とにかく、そんな状況でとても人様を、ましてや大事な姉弟子を泊められるような環境ではない……ここは正直に話して諦めてもらおう。
「えっと、実はとても姉弟子を迎えられるような部屋の状況じゃないんだ」
「そうなの?」
「あぁ、足の踏み場もないほど散らかっていてね。見せられたものじゃないよ」
「大変!……でも大丈夫、それくらいワタシがお掃除するわ!」
「そうなんだ。すまない、掃除を……え?」
「ワタシだって、アキラの姉弟子としてタダで置いてもらおうだなんて思ってないの!泊めてもらう代わりに……炊事掃除にお洗濯、なんでもやるわ!」
顔を近づけてきてフンスと鼻息を荒くする姉弟子を見て、僕は背中に冷や汗が流れた。
「なんでもって……」
「……だから、お願いアキラ!」
っく……キラキラした目でこちらを見る瞬光……かなりの妹力(イモウトパワー)だ!
「う…………それでもむずか」「ビデオ屋のお手伝いもするわ!」
「やはり、ホテルを取った方が……」「アキラぁ……!」
瞬光は一見礼儀正しく、素直で聞き分けがよさそうに見えるのだが……その実、自らの主張は必ず貫き通す頑固s……強かさがあった。
僕はぎりぎりまで踏みとどまっていたのだけれど……結局、彼女に押し切られ……最後には首を縦に振っていた。
ワタシの幼馴染が、こんなにモテモテなわけがない!
それは恋愛経験の少ない瞬光(ワタシ)にとって、劇薬に等しかった。
出会ってからずっと、どんなときにもワタシのそばで味方をしてくれて、喪失と忘却の狭間からワタシを救ってくれただけでなく、前に進む勇気を……受け止めてもらえる安心感を与えてくれる……。
アキラ。
彼は兄の釈淵のように優しくて、頼りになって……それなのに時折、姉弟子姉弟子と、人懐っこくワタシのことを頼りにしてくれて……そのギャップに、からきし弱いという自覚はとうの昔にあった。
しかも、彼はワタシにさらなる追い打ちをかけてくる。
ワ、ワタシの栗色の髪が綺麗だとか、シリオン特有のこの垂れた耳が可愛いだとか、そんな甘い言葉をさらっと、事も無げに言ってみせるのだ。
ワタシは……いつだって「姉弟子」として、なるべく平気な顔を取り繕って受け答えしているけれど……。本当は心臓が破裂しちゃうんじゃないかってくらいドキドキしてて……!
そんな今の関係は心地よいと思うけれど、ワタシとしては……もう一歩…………
-新エリー都 六分街・レンタルビデオ店「Random Play」 昼-
「さて、お掃除頑張らないと!」
アキラが街のご近所さんへ届け物に出かけてから、わずか数分。ワタシは鼻歌まじりにはたきを手に取った。
パタパタと棚のホコリを落としながらも、思考は今朝の食卓へと逆戻りしてしまい、思い出すだけで頬が緩んで止まらない。
アキラ、あんなに美味しそうに食べてくれて……。それに、こうして彼の帰りを待っていると、なんだか本当にお嫁さんになったみたいで……!
「ふ、ふふふふ!」
「ンナナー!?(棚!叩きすぎて壊れちゃいます!)」
「あ、ごごご、ごめんなさい!18ちゃん!」
慌てて手を止めたその時、入り口のドアベルがカランと涼やかな音を立てた。それに続いて、ただいま、という聞き慣れた声。ワタシはおかえりなさい、アキラ!と、とびきりの笑顔で迎えようとして……その光景に固まった。
「ああ、おかえりなさい」
と……手を引いているのは……虚狩りの先輩でもあるあの星見雅さんだった。
しかも、なぜか二人はしっかりと手を繋いでいる……!?
「アキラ?どうして雅さんの手を引いているの……?」
「えっとこれはその……彼女なりの修行の一環なんだ」
「ああ、修行の一環なんだ」
慌てて弁明するアキラにオウム返しするように答える雅さん。
……そんな修行だったらワタシだって……とそんな風に思っていると……
「さ、雅さん」
アキラはどこからか取り出したメロンのクッションをソファにおいて、その上にまるでお姫様を扱うように雅さんを座らせた。
雅さんの表情は変わらないけれど……心なしか耳がピコピコと揺れている、気がする。
「そうだわアキラ。ちょうど金木犀のケーキが焼きあがったところなの、雅さんにも食べてもらおうかな」
「それはいいね。姉弟子のケーキは絶品だからね」
「ああ、絶品だからね」
……雅さんにワタシのケーキ、食べてもらったことあったかな?
釈然としない思いを抱えつつティーセットを運んでくると、信じられない光景が目に飛び込んできた。なんと、アキラがフォークを手に取り、あーん、と雅さんの口元へケーキを運んでいるではないか!?
「あ、あ、あ、アキラ!?」
「え?あ、あぁ実は……」
雅さんに食べさせたり、お茶を飲ませたりしながらアキラが教えてくれたのは、雅さんの抱える秘密……。
それは彼女がときたま長時間、心ここにあらずという風に、反応がなくなってしまう時間があるのだということ。
「きっと、それが彼女の妖刀……骸断ち・無尾の代償なのね?周りに反応できず、妖刀と精神的な戦いを強いられる……」
「多分、違うような……」
「大丈夫!ワタシも大変さはよくわかるわ。それに……」
いつか、アキラと一緒にお婆ちゃんになった師匠を介護する生活が来るかもしれないし、これはそのいい予行練習になるかも……!
ワタシもアキラのようにケーキをフォークに刺して雅さんの口元へと近づける。
けれど……
「あ、あれ?雅さん?あーん!」
「…………」
「……えっと、はい、雅さん、口を開けて」
そうアキラが言うとひな鳥のように口を開いて黙々とケーキを食べる雅さん……。
な、なんで……!?
「おっと、誰か来たようだ。少し出てくるよ」
表のカウンターに呼ばれ、アキラが席を外す。
……その背中が見えなくなったのを確認し、ワタシは身を乗り出して小声で詰め寄った。
「……雅さん、実は……起きてる?」
「ああ、起きてる」
「こうしたら、アキラに食べさせてもらえるからって、狸……いえ、狐寝入りしてるわよね!?」
「……」
その瞬間。 鉄面皮だった雅さんの頬が、朱を差したようにわずかに染まった!?
雅さんが迎えに来た柳さんに(半ば引きずられるようにして)連れ帰られていったけれど……。アキラもやっぱり雅さんや師匠みたいなクールビューティが好きなのかな?
「……瞬光、すまない。そろそろ機嫌を直してもらえると……」
「……問題ないわ」
「えっと、僕が何か怒らせるようなことを」「ほ、本当に怒ってないの!?」
首元に手を当てて困り顔を浮かべるアキラ。
どうやらワタシのクールな演技が怒っているのだと勘違いをさせてしまったみたい……?
と、そこへ再び、入り口のドアベルが鳴った。
現れたのは……綺麗な体のラインが出た黒い縦のセーター姿をした、金色のポニーテールに光るバイザー、確か……オボルス小隊の……。
「こんにちは、プロキシさん、瞬光さん」
「やぁ、「トリガー」」「いらっしゃい!トリガーさん」
そう言ってビデオ屋を訪れたトリガーさんはバイザー越しでも分かるほど柔和に微笑んだ。
「……良いお花の香りがしますね。それに、お茶の香りも」
「わかるかい。瞬光が選んで飾ってくれたんだ」
「そうですか……ええ、とても落ち着く香りです、まるで澄輝坪の小さなご家庭のようですね」
……カウンターには、ワタシが活けたばかりの季節の花。そして、芳香剤代わりに焚いている微かな茶葉の香りが漂っている。トリガーさんは、それらすべてを確認するようにゆっくりと店内を見回した。まるでお店全体の隅々まで、彼女の領土であるかのように把握されている……そんな錯覚すら覚える……。
「少し、ビデオを選んでも?」
「もちろん。何だったら店長の解説もつけるよ」
「フフ、それは大変魅力的な提案ですね」
バイザーを黄色く明滅させ、静かに微笑むトリガーさん。
その様子を見ていると、胸の奥がチリチリと焼けるような不安に襲われた。いつも以上にアキラが、彼女と通じ合っているように見えて……。
「あ、アキラ?トリガーさんとは……一体どういうお知り合いなの?」
「ん?ああ、そうだね、僕と「トリガー」は昔馴染み…「プロキシさん」」
トリガーさんが、スッと人差し指を立てて唇に当てた。
アキラの言葉を制し、口角をわずかに上げる。
「すまない、ということらしいから僕が勝手に話すわけには……」
昔馴染み……アキラに?
ワタシ以外の?
「これが今回入った新作でおススメなのだけれど……「トリガー」?」
「……申し訳ございません。緊急の招集が……ですが、今おすすめしていただいた映画は借りていきます。任務終わりに「シード」たちにも見せたいですから」
「ああ、わかったよ……僕にも何か手伝えることはあるかな」
「簡単な任務ですから、あなたの手を煩わせる必要はありません。ですが……」
談笑をしながらアキラがビデオを紙袋に詰める。トリガーさんはそれを受け取ると、店を出る間際、アキラにだけ聞こえるような、けれど私にも届いてしまう静かな声で囁いた。
「……もし可能のであれば……。あなたがずっと私のことを、覚えてさえいてくれれば」
「何があっても、忘れないさ」
「……っ!?」
アキラの言葉に頬を赤く染めるトリガーさん……。
覚えてさえいればいい?忘れてほしくない過去が、二人の間にはあるっていうの?
遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、ワタシははたきを握りしめて、しばらく立ち尽くすことしかできなかった。
「……えっと、瞬光?」
「……」
「……参ったな、完全に固まってる」
アキラの困り果てた声が遠くに聞こえる。
アキラ、ワタシ以外に、幼馴染がいたってこと?
だとしたら、幼少期に一度だけ出会っただけのワタシなんかより、ずっと、ずっと深い絆で結ばれているんじゃ……
不安に飲み込まれそうになっていた、そんな時。バアン!と、静寂を切り裂くような勢いで店の扉が開け放たれた。
「ハアーイ! 一番の上得意様が来てあげたわよ〜。……って、あら? どうしたのよ二人して。お通夜みたいな辛気臭い顔しちゃって」
指先でジャラジャラと緑色のボンプのキーホルダーを回しながら、堂々と入ってきたのは、派手なチューブトップを着こなすピンク髪の女性……。
「ニコ!……ああ、今日ほど君が来てくれて良かったと思ったことはないよ」
「はぁ?な、何よ、気色悪いわね……。まぁ?美しいアタシに会えて喜ばしいのは当然だけど?何だったら、写真撮影1枚300ディニ」「ああ、ウチはそういうの断ってるんだ。じゃあ、用も済んだだろうし帰ってもらって……」「ちょっと!?待ちなさいよ!?」
!……あ、アキラって、こんな話し方もするんだ。
いつものアキラは、もっと人に対して紳士的だったと思うのに……すごく雑な感じで……けれどそれが、ぶっきらぼうで遠慮のない、とっても親密な感じに見える……。
ワタシの知らないアキラがいる。そんな気がしてすごく胸の当たりがチクチクとした。
「あ、アナタはアキラとどういう関係なの?」
「何よ?……って、あんた葉瞬光じゃない、虚狩りの。なに?またここの店長は有名人をビデオ屋で手伝いという名のタダ働きさせてるわけ?」
「いや、そういうわけじゃ」
「カ~!良いご身分ね!本当に!!」
ニコはカウンターに肘をつくと、勝手知ったる様子で飴玉の瓶に手を伸ばした。
「ニコ、それも商品なのだけれど……」
「ツケよツケ、細かいことはいいじゃない。それより、どういう関係、だっけ?」
ニコは手際よく飴の包みを剥き、口の中に放り込むと、ニヤリと不敵に笑った。
「見ての通りよ。アタシはここの店長の「命の恩人」兼、「最高のビジネスパートナー」。ま、アキラの情けないところも、ここだけの秘密も、大体ぜーんぶ知ってる仲ってとこかしらね」
「ニコ!姉弟子に嘘を刷り込むのはやめてくれ……!大体僕の秘密なんて……」
「あら、アンタが夜中にこっそりあっち系のビデオを整理してたこと、アタシは忘れてないわよ?」
「それは朱鳶さんの押収品を整理するために、って、どうしてそれを!?」
その後も、弾丸のように飛び交う、遠慮も容赦も少しもないやり取り。それは、幾多の死線を共に越え、長い年月をかけて積み上げられてきた絶対的な信頼の形だった。
ワタシの、知らない二人の時間の差を見せつけられているようで……。
あんなに言い合ってたのに、いつの間にか笑っている二人の声に、ワタシは一歩も踏み込めないような気がして……。
-新エリー都 六分街・レンタルビデオ店「Random Play」 2階 夜-
「アキラ……起きてる?」
ちょうど部屋を照らすのは、パソコンのモニターから漏れる淡い光だけ。電気代で右肩上がりの赤字を家計簿につけていた僕の背後に、衣擦れの音と共に控えめなノックが響いた。
「起きてるよ。何か、足りないものでもあったかな」
「その……あのね」
僕はパソコンを操作していた手を止めてソファに腰を下ろした。視線で彼女に隣を促すと、瞬光は控えめにチョコンとソファの端に腰かけた。
昼間の明るさはどこへやら、今の彼女は少し大きめのシャツを羽織り、落ち着かない様子で自分の裾をぎゅっと握りしめている。
「……どうしたんだい?眠れない?」
「……ワタシ、アキラのことを何も知らないって、思ったの」
「え?」
「忘れた、じゃなくて、知らないっていうのが、こんなにも……歯がゆいだなんて、知りもしなかった。アナタがどこか遠くへ行ってしまったような気がして……すごく、すごく怖くなって……まるで、ワタシを忘れてしまったアナタを、見ているような、そんな気持ちになって……」
そう話す瞬光の瞳からはポタポタと、涙が零れ落ちていた。
青溟剣の代償……記憶の欠落。
彼女が抱えるその諸刃の刃についてはいまだに根本的な解決には至っていない。
僕は、自分にしがみついて震える瞬光の肩を、包み込むように優しく抱き寄せた。
「……あ、アキラ?」
「……怖がらなくていいんだよ、瞬光。僕が君を忘れてしまうだなんてこと、ありえないからね」
僕は懐にしまってあった飴の袋を取り出した。
それは、昼間外に出たときにあらかじめ、買っておいた……。
「金木犀の飴……!」
包み紙を受け取って目を輝かせる瞬光に、僕も微笑みかける。
「もっと僕を頼ってくれていい……僕にとって、瞬光は代わりのいない、たった一人の特別な女の子なんだから」
「アキラ……っ」
ようやく瞬光の凍てついていた表情が、春の陽だまりのように溶かしていった。
彼女は顔を赤く染め、潤んだ瞳で僕を見上げた。
僕は指先でそっと彼女の涙を拭う。
けれど、瞬光はまだどこか不安そうだ。
「死ぬのなんて、ワタシは怖くなかったの。すべてを忘れてしまうのだって……けれど、今は、すごく怖いの……」
「それが普通だよ。僕だって死ぬのも記憶を失くすのも怖いさ。何だったら、B級のホラー映画ですら怖いよ」
「えへへ、うん……ねえ、アキラ。もう一度、ワタシの名前を呼んで? アナタの声で、ワタシを何度だってアタシにして……」
「ああ、瞬光。今夜は、君が安心して寝れるまで映画でも……」「アキラ」
僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、瞬光が顔を近づけてきた。
彼女の熱い吐息が触れるほどの間近で、潤んだ紅色の瞳がじっと僕を見つめる。
そして彼女は、意を決したように、そっと僕の唇を塞いだ!?
それは、壊れそうな自分を繋ぎ止めてほしいと願うような、切実で柔らかな口づけ。
触れるだけの、けれど確かな温もりを分かち合うような……しかし、彼女はその後、金木犀の飴の袋を破いて自分の口に入れると、まるで逃がさないようにと僕の背中に手を回した。
「アキラ……この飴……二人で……ね?」
赤いアイシャドウを引いた目元の奥で、ふとした拍子に、長い睫毛の隙間から鋭い光が零れた。一瞬、火花が散ったかのような「瞬光」。
射抜くようなその瞳の強さに吸い込まれるようにして僕たちは……。
後日……
-新エリー都・衛非地区 『適当観』-
神の迷い路の一件が解決してから、僕たちは雲嶽山へと帰ってきていた。
「ウ~……。うう~……っ!」
麻雀卓に座り、先ほどから自牌を睨みつけながら唸っているのは、虎のシリオンである姉弟子の橘福福先輩だ。椅子からはみ出した虎の尻尾が不安を表すようにチロリチロリと揺れている。捨てる牌の踏ん切りがつかないのか、右を見て、左を見て、また右を見て……と、視線が泳ぎっぱなしだ。
「……なあ福姐?身内だけでやっているのだから慌てることないぞとは言ったが……さすがにそろそろ決めてくれ!」
「そ、そうなんですけど……うぅ……お弟子さぁん……!」
藩さんに急かされ、対局を後ろから見ていただけの僕に助けを求める福福先輩。耳はぺたんと垂れ下がり、目を潤ませている姿はとても雲嶽山の猛き虎の姿とは思えない。
「ちょっとちょっと!お兄ちゃんに頼るのは反則だよ!姉弟子!」
「福福、己が信じた道を進め、独立独行、他人に判断を委ねるな」
それを制したのは、好調に勝ちを重ねるリン。そして、いつものように透き通った瞳で、最も情け容赦なく弟子たちから点棒を毟り取っている儀玄師匠だ。
「師匠……!もう迷いません、この橘福福……!勝負に出ます!」
そう言って福福先輩は牌を捨てた!
勇気の……「中」切り……っ!?
「「「ロン!!」」」
「ようし!大三元だ!」「ごめんね姉弟子~、四暗刻単騎!!」「フフ、国士無双だ」
「わ、ワアアァァ!!?」
が!ダメ……!通るわけない……!そんなもの……っ!!
グニャ~と視界を歪ませて椅子から転げ落ちた福福先輩を見ていたら、ちょいちょいと誰かが僕の袖を引く。
振り向くと、軽く髪を直して手元で小さく手を振る瞬光の姿があった。
栗色の長い髪を赤い飾り紐で結び、ふわふわの尻尾を揺らす僕の……大切な姉弟子だ。
「あ、アキラ。アナタは参加していないのね?」
「あぁ、けど福福先輩が消し飛んだから半荘が終わったら僕の番が……」
「そ、そう……」
シュンと、目に見えて耳を垂らす彼女に、僕は苦笑して言葉を繋ぐ。
「いや、きっと福福先輩のことだからここから大逆転してくれるだろう」
「そ、そうよね!なんていったって、福姐さんだもの!」
……ふと大姉弟子に目を向けると、宇宙を見ているかのような目をしながら口を半開きにして魂が抜けていたが僕は見なかったことにした。
「でね!あの、もし暇だったら、一緒におでかけでもしないかなって……」
「もちろん構わないよ」
「本当?よかった……!最近、麓にできた気になるお店があるの!」
弾んだ声と共に、彼女は服が伸びるほどに引き、雲嶽山の門へと歩き出す。
「そんなに服を引っ張らなくても……ほら、行こう」
僕が足を止め、改めて手を差し出すと、瞬光は一瞬だけ目を見開いた。
自分の掌と僕の手を見比べ、顔をぽっと赤らめてから……おずおずと、けれどもしっかりと、その温もりを重ねてくる。
「う、うん……!」
背後からは、 「え? ちょっとお弟子さん!? 交代の話は……」「む、アキラは出かけてしまったか。では福福、続行だな」「覚悟してよね、姉弟子~!」「わ、ワアアァァ!?」 という絶叫が聞こえてきたけれど、今の僕たちには心地よいBGMでしかなかった。
「えへへ、行きましょう!アキラ!」
アキラ、ワタシ、気が付いたの。
繋いだ手の温もりを感じながら、ワタシは隣を歩く彼の横顔を盗み見る。
今までのアナタと過ごした時間は、他の人たちには敵わないのかもしれない。けれど……
これからアナタと過ごす時間は、積み重なる記憶も……全部全部、アタシで埋め尽くしちゃえば良いのよね!
新エリー都の空へと続くオレンジ色の坂道を、二人の足音が軽やかに刻んでいった。