「──ひどいな。穢れの量が多過ぎる」
冬の色が壁一面に広がる通路。そこに漂う穢れの量は尋常ではなかった。宿儺ですら、ここまでの量は初めてであると断言できるほどには多かった。
八意の話では、この穢れは外の世界から流れ込んできたものらしいが、一体何があったのか。よもや、渋谷の鏖殺や死滅回遊が原因ではあるまい。
「情報は拡散するからな。エントロピーだったか?」
迷路のように曲りくねってこそいるが、止まった穢れの拡散具合を見ればどこにどう繋がっているのかはわかる。
「まあひとまず、今の状態であれば神妖に影響が出ることはない。尤も磐永の力が解ければ、ここが自己を見失う地獄と化すのも時間の問題だろうがな」
妖怪や神は、穢れを多く注がれると死ぬ。精神を主軸に生きる者は、自らの情報が急激に変化することに耐えられないからだ。ただ逆に、肉体を主軸に生きる者は外部からの穢れの影響を受けづらい。外部から回収できる穢れの量に限界があるためである。まあそもそもの話、限界値に達する事自体が普通ではあり得ないのだが。
「今回の事態ならば、下手な連中よりもあの二人の方が余程上手くやれるだろう……っと、一本道か。ようやく終わりが見えたな」
四季の色がすべて集まったこの一本道は、宿儺の目ですら先が見えないほどに長い。だがここに来て、一気に穢れが薄くなったのを感じた。
──その要因が、この通路では目立つ黒色の服を着た少女のお陰だというのも、宿儺は一目で理解した。
骸のように動かない彼女は、声を掛けても揺すっても動かない。軽く頬を叩いたが、まぶたをピクリともさせることなく沈黙を保った。
「これがユイマン・浅間か。気を失っている……というより、自己を見失っているのか?」
再起動の最中と考えれば、下手なことはしない方がいいだろう。どれだけの期間洗脳されていたのかは知ったことではないとはいえ、今手を出せば、再起動した際に致命的なエラーが発生する可能性がある。この手合は、何も触れないのが正解だ。
「──と、普通ならなるところだろうな」
これから行うのは、下手ではない。寧ろここで手を出さないほうが余程致命だ。
空へと手を伸ばし、掴む。ゆっくりと引き出された刀は神宝『八握剣』。目当ては、そこに流れる正のエネルギー。少女の頭に触れた宿儺は、自身の肉体を通して剣の正のエネルギーを
「穢れを処理するのがお前の役割。気を失うまでその役目を全うしていたとすれば、原因は体内の急激な穢れの変化。再び起き上がるにも少々無理があったろうな」
仮に再起動が上手く行ったとしても、その後はどのみち悲惨なことになる。再び気を失うだけならまだマシだ。穢れに自我をのまれて心が死に、最終的に存在が消滅、なんてことも有り得る。勿論、そうなれば困るというものだ。暫く代わりを務めさせられるのが目に見えている。
「それに、お前の血族には世話になったからな」
体内の穢れが薄まっていき、彼女の自己だけが残っていく。やはりあのままでは自我、ひいては存在の消失は免れなかっただろう。池の水にさらされた氷のようなもの、溶ける前に回収できて良かった。
多少記憶の混同があるだろうが、再起動した時に致命的な事態が起こることはない。元々何か致命的な欠陥があるタイプだとしたら、それは流石に管轄外。まあ穢れを読んだ限りそんなことは無さそうなので、これ以上は考えるだけ無駄だ。
「この奥に進めば月の都だろう? ……と言っても聞こえんか」
穏やかな春の気を感じさせる壁に少女を寄せ、通路の奥を指差しながら尋ねた。返事が返ってこないのは分かりきっていたが、しかしなんの偶然か、もたれかかった壁とのバランスを崩した少女は重力に従って首を下げた。それが頷いているように見えたのだが、さてどう捉えるか。
「……延命の対価は、質問の返事を以て帳消しとしてやろう」
勿論そんなつもりは微塵もなかっただろうが、生憎と貸し借りを作るのはあまり好きではない。故に、偶然の頷きを質問への肯定と捉え、何事もなかったように少女の前から消える。
「機会があれば、久々に訪ねてみるか。あの国は鹿肉が美味いからな」
四季の色は、目まぐるしく安らぎを与えていた。
それは何事もない……と言うには、朝食に集う人の数が少ない朝だった。
普段であれば向かい側には顔の整った居候がいるのだが、今朝はその姿がない。起きたときには既に居なかったので、行き先も知らない。
「一体どこ行ったのかしら……」
物憂げに朝食を食べているのは、この神社の主である霊夢だ。
彼女に言わせれば、宿儺が一人で外出というのはそう珍しいことではない。初めの方は自身の監視が必要だったが、人に危害を加えることも、問題行動を起こすということもなく、早々に外れた。実際外出と言っても、気になった場所ににフラッと立ち寄ったり、釣りに行ったりなど痕跡や証拠が残る物が多い。それに大抵の場合は、行き先かちょっとした理由を言ってから出ていく。
だがいきなり居なくなるというのはこれが初めてだ。書き置きすらなく、どこに行ったのかはさっぱり分からない。今までこんなことはなかったので、起きた直後は軽く混乱したものだ。
「でも、宿儺がどこでどうしてようと勝手だし、強さに関しては問題ないし、心配しなくても大丈夫よね」
そう思えば落ち着ける。万が一異変でも起こしていたら、その時は退治してやるだけだ。
「……お茶でも飲もうかしら」
別に喉が渇いていたわけではない。これが日常だからだ。台所の戸棚から茶葉を取り出し、事前に沸かしておいたお湯を注ぐ。旨味が染み出すまで少し時間を置く必要があるが、その間に湯呑みを取り出す。帰ってくる頃にはいい感じのお茶が出来上がっているのだ。
「──ッツ! 痛っ!」
何が起きたのか、突然の痛みに少女は一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。湯呑みが欠けていて指先を切ってしまったのだ。なんてことはない、日常ではたまにあることだ。
──気になることといえば、自分の湯呑みが欠けてた覚えがないことだ。
「……違う、欠けてるのは宿儺のだわ」
嫌なことの前には、何かと良くないことが起こるものだ。不運は連鎖する、それが世界の摂理。運の波には逆らえない。今は、どうなのだろう。誰が、波にのまれるのだろう。
──不運にも指を切った自分自身だろうか。それとも、湯呑みが欠けていた宿儺の方だろうか。
「……心配ね」
心に抱いていた一抹の不安が大きくなっていくのを、博麗霊夢は確かに感じてしまった。
人生は何が起ころうと不思議ではない。大切なのは、その不思議を受け入れることだ。不思議を受け入れず、事実を否定するようでは、決して先に進むことはできない。あり得るか、あり得ないか、事実の前ではそんなことは些事だ。起きたことが全て、それだけだ。
だからこそ、目の前の珍妙な物体にも冷静に対処ができたのだと、宿儺はそう自負している。
「固まった穢れとは、永く穢神をやっている俺でも初見だな」
穢れとは、液体のようなモノだ。魂という器に注がれ、死ぬ際には気体のように霧散する。程度の差はあれど、意思を持つ全てのモノに穢れは宿る。それは地上人だろうと月の民であろうと同じことだ。
だが固体の穢れというのは見たことがない。というかそもそも存在し得ない。穢れが固まるということは、それ即ち変化の否定。意思も思考も、全てが止まる絶対零度。
目下、有力なのは今回の異変の原因たる磐永阿梨夜なわけだが……
「彼奴の不変は、穢れの『流れ』を止めることで生じる事象。穢れを『固める』のとは別物だ」
例えるのなら、磐永の力はため池、これの力は氷だ。
力を上手く使い分けている可能性もあるが、彼女にそこまで器用なことは出来なかったはずだ。会わない間に能力の制御を極めたとなれば話は別だが、そうすると今度は幻想郷が巻き込まれたことに説明がつかなくなる。能力の同時併用より、効果範囲を聖域に狭める方が余程簡単なはずだ。それに殆ど無関係である幻想郷を巻き込むなど、それこそ彼女の性格的には考えにくい。
となればやはり、この状況を引き起こした者が別にいると考えるべきだろう。
「月の都ため……と言うよりかは、磐長のためだな。あと俺の本体か」
波の音が静かに鳴る砂浜を、その景色に似合わぬ漆黒の結晶を切りながら歩む。
切られた結晶はサラサラと塵になり、目に見えないサイズにまで分解される。固まっているとはいえ、穢れは穢れ。正のエネルギーという熱を与えれば消えるというのは変わらない。全ての結晶を排除するのは苦労せず済みそうだ。
だがその一方で、体外での穢れのコントロールはかなり苦労する。以前は穢れというだけでほぼ無条件で操れたというのに、今は直接触れなければ動かせもしない。故に崩壊面に手を当てなければ、分解された穢れを回収できない。ここまで面倒なことをする必要はないのだが、いつ何が起こるかわからない以上、力は補充できるときに補充しておかなければならないだろうと思ったのだ。
──波打ち際に立つ一人の女を見た時に、その判断は正しかったことを実感した。
「────!」
心臓が跳ねるのを、確かに感じた。
宿儺ですら_否、宿儺だからこそ、その恐ろしさを、異常さを理解できたと言えるだろう。
それは、一言で言えば『完成』だった。
橙色の頭髪、横顔は妖しげな美しさをし、中華感溢れる衣を纏った女。だが宿儺からしてみれば、女を取り巻く数々の事象の全てが、『完成』に比べればどうでも良かった。目算、戦った場合下手をすれば死すら可能性の範疇に__
「ゴッ!」
思考は、そこで中断させられた。何者かが、死角から殴ったのだ。『完成』に気を取られ過ぎて、周囲への警戒が疎かになっていた。
「曲者め! 友人様には手出しさせないぞ!」
それを差し引いても、まさか顎を吹っ飛ばされるとは思ってもみなかったが。
「……ふいうちとは、礼儀のなっていないガキだな」
消された顎を治しながら、攻撃の主を見据える。背丈が一回り小さい、珍妙不可思議な格好の少女だ。アメリカ国旗デザインのとにかく独特で目立つ服は、見かければ否が応でも目で追ってしまうだろう。
──これに気づけなかったとは、やはり『完成』に目を奪われ過ぎていたようだ。
「あたいは地獄の妖精、クラウンピース! 友人様には指一本触れさせないぞ!」
「……妖精、だと? その割にはずいぶんと強いな」
「む、妖精だからってバカにするなよ! 友人様の力で、あたいはパワーアップしているのだ!」
顎を吹っ飛ばすパワーは、甘く見積もっても鬼に並ぶ程。幾ら”地獄の”妖精だとしても、この出力はおかしい。パワーアップというのは本当なのだろう。しかしそれもあの『完成』の能力と言うのなら、その概要が謎すぎる。強化と穢れの固形化、それらの繋がりが思いつかない。
……こういう時は探るのが一番だ。
「そこら中にある穢れの結晶、あれはお前らの仕業だろう?」
「あれも友人様の力だ。月の民は友人様の敵。友人様の敵はご主人様の敵。ご主人様の敵はあたいの敵だ! 容赦しないぞ、月の民め!」
成程、月の民と間違えられているのか……って違う、そうじゃない。聞きたいのはそれじゃない。
まあ流石に敵と認識されてしまった以上、今の所は何も吐いてはくれないだろう。戦いながら機会を探るしかあるまい。
だが、能力は未知数、控えには『完成』、オマケに
「──『容赦しない』、か」
──”分が悪い”。だからなんだという話だ。分が悪いことは、やらないことと同義ではない。ここで引いたところで、異変解決とはならない。それで困るのは己の方だ。
「それは俺の方の台詞だな。この結晶を始末しないことには帰るに帰れん」
何より、何の成果も無しに帰れば、八意になにか言われることは間違いない。それは癪に障る。
「──さて、命を懸けるのはいつ以来だったかな」
暫くはこれ以下の更新速度になってしまいます。
楽しみにされている方々には申し訳ありませんが、何卒ご容赦下さいませ。