「八一くん、遊ぼっか。わたしじゃなくて、わたしの中の『名人』とだけどね」
竜王戦に3連敗し、自宅に篭り、ソフトとの研究を繰り返して居た俺を獅子堂が訪ねて来たのは、姉弟子と喧嘩した2日後だった。
「何しに来たんですか?獅子堂四段」
「つれないね、八一くん。わたしと名人対策の研究会をしようって言ってるんだよ? 新進気鋭の名人を破った新四段獅子堂蘭がわざわざ名人に3連敗中の八一くんとわざわざ研究会をする。って言ってるんだけど」
「あんな飛び道具みたいな勝ち方で名人を破ったところで、何になるんですか」
奇襲戦法で名人に勝ったところで、執行の瞬間が伸びるだけじゃないか。
「……八一くんは飛び道具の一つも準備出来てなかったのに?」
「言いたい放題言いますけど、あんたが挑戦者決定戦で勝ってればこんな苦労はしてないんですよ、名人に負けて挑戦者持っていかれたのにそんなに偉そうに言っていいご身分なんですかね」
『あい』や『姉弟子』にぶつけてしまった負の感情をそのまま獅子堂にぶつけてしまう。
「面白い冗談だね、今の八一くんにわたしが負けると思ってるんだ。
あんな奇襲戦法、名人にしか通じないから八一くんにはとっておきを当てるつもりだったし、そのために名人を地力で1つ勝つつもりだったんだけど、負けちゃった。でも、多分八一くんと竜王戦を戦うだけが目標だったら……今わたしはここに居ないからね」
名人に地力で勝てないなら、まあ諦めはつくかなーって思ってたんだけど。ここまで言われるなら使える研究全部出せば良かったね。と嘯く獅子堂。
「まあ。御託はいいからVSしよっか」
あまりに甘美で、直球の誘いに行き詰まっていた俺は思わず乗ってしまった。
三日間、名人を模倣した獅子堂にひたすら伸されるとは思わずに。
晩御飯のラーメンを台所で作る獅子堂を見て、呆れながら声をかける。
「マジックすら模倣するって獅子堂、頭の中どうなってるんだよ」
VSの過程で明らかにマジックじみた形勢をひっくり返す手が何度も飛び出し、その度に歯を食いしばって立ち向かうことを十数度。
「名人の名前がついて出版された本は、大体100冊は超える、初心者向けや対談本を除いても80冊は下らない。毎年50局以上をこなして、棋書も出して。ここまで資料が多い棋士はほとんどないかな。そう言った資料を全部足し合わせるとその人の将棋の思考の癖とかが見えてくるんだよ」
その名人の本を全部読んでるとでも言わんばかりの異常な口振りで、獅子堂は続ける。
「そして実際にわたしは対面して戦った、ここまですれば棋風もそうだけど、まあ
そんなはずはない、としか言いようがない言葉が獅子堂の口から飛び出して来た。
そんな獅子堂は俺の複雑な内心を知らずか鍋の中のラーメンを湯掻きながら俺に問いかける。
「逆にこういう再現が効きにくい棋士ってどういうものかわかる?」
逆に考えれば、プロに入ってからの対局数が少なく、棋書も出しておらず、それでいて獅子堂との公式戦の実際の対戦もない棋士。
「もしかしなくても俺ですか」
「そうだよ、だからわたしが八一くんとVSするのは……わたしにもメリットがあるんだよね」
クッソ、やられた。まあ言われてみればそうだ。研究会というのはお互いにメリットがなければ成立しない。獅子堂だってプロ棋士だ、自身になんの利益もなくわざわざ関東から三日間も予定を開けてVSをやり続ける理由もない。
ラーメンのタイマーがなる。
「八一くん、出来たよ」
ラーメンを啜る俺を見ながら、獅子堂さんはこうこぼした。
「八一くんはライバルだからね、わたしが勝った相手が……弱かったら嫌だし、実力以上に舐められてるのもいやだよ」
ラーメンを啜り終わると獅子堂はラーメン鉢を洗い場に持って行くと。
「どうかな、八一くん。名人はまだ怖いかな?怖くないなら、ワクチンの効果はあったということだよ」
「蘭さんは……、俺に何を見てるんですか?」
名人は怖くはなくなった。でもそれ以上に目の前の獅子堂が怖い。
「わたしは八一くん相手に勝ち逃げしちゃったからね、同じ立場であの時と同じように、八一くんともう一度指したいね」
今の八一くんなら、今度もわたしが勝っちゃうかも。という聞き捨てならない言葉を残して、獅子堂蘭は帰って行った。
ところで……獅子堂と指していて気がついたんだが、獅子堂の棋風が全く見えてこなかった。名人の幻影を纏っていて、それをどれだけ崩そうと指しても獅子堂らしさみたいなものが全く見えてこない。
まるで……水を切っているような感覚になった。
「いいトレーニングにはなったけど、獅子堂の情報は得られず終いだな」